たくろふのつぶやき

春来たりなば夏遠からじ。

Side Road

音を聴く

最近街中では誰も彼もがワイヤレスイヤホンをつけている。


電車の中でも、街中を歩きながらでも、みんな耳に異物を突っ込んで何かを聞いている。 あれはみなさん一体何を聞いているのだろう。一日の時間の隙間もなくびっちりと音に囲まれて生活して、疲れないのだろうか。

便利なのは間違いない。何を隠そうそういう僕もワイヤレスイヤホンを持っている。しかし、一日中のべつまくなし常に何かを聞いているかというと、そこまでのヘビーユーザーではない。だから電車の中で若い人は学生さんなどがいつもイヤホンを耳にしているのを見ると、一体何を聞いているのか気になる。 好きな音楽だろうか。でもいくら好きな音楽でも、一日数時間、それを毎日毎日となると、そんなに聞かなくてもいいような気がする。昨今、そこまで深い鑑賞に耐えられるほど質の高い音楽に溢れているとは思えない。ではニュースやPodcastや深夜ラジオの配信などの情報だろうか。いやそれとて、朝から晩まで情報に囲まれていれば情報疲れしてしまうだろう。

みなさん何を聞いているのか分からないが、ひとつ分かることは、最近の若い人たちは僕のような昭和世代のおじさんに比べると「情報の吸収スタミナが桁違いに高い」ということだと思う。昔は情報吸収は本・新聞・雑誌など「視覚」が主だった。しかし今は携帯機器の発達やワイヤレスイヤホンの普及によって耳から情報を吸収する機会が増えた。それに飽きず疲れず、ずっと情報を吸収し続けるというのは半端な体力ではない。僕などワイヤレスイヤホンをつけていられるのは通勤時間のいいとこ半分くらいまでだ。

いや、聴覚情報のみならず、今の若い人たちは視覚情報の吸収力も物凄い。なにせずーっとスマホを眺めてられる。電車に乗ってる間も、ラーメン屋さんで食事をしている間も、街中を歩いている間ですら、ずーっとスマホを眺めている。見ているものの選択肢も幅広い。Yahoo!ニュースを見ている人、SNSで友人知人とリアルタイムで繋がっている人、投稿動画を眺めている人、ドラマや映画を見ている人すらいる。昔も電車で何かを読んでいる人はいた。しかしせいぜい文庫本か新聞程度のものだっただろう。それに比べると今の人たちは気軽に物凄い情報量を吸収し続けている。

「今の若者は本を読まない」というのは、いつの時代も嘆かれ続けていた批判だ。しかし、僕の目から見て今の若者が情報摂取量において先の世代に劣るとは全然思わない。それどころか、老人世代と比べると今の若者が単位時間に摂取する情報量は比べものにならない量だと思う。老人世代が嘆き続けている愚痴は、所詮「今の若者は、自分の世代とは情報摂取の方法が違う」というだけのことに過ぎない。情報吸収の手段が格段に多くなったため、先の世代にとって唯一の手段だった「文庫本」「新聞」といった媒体に割く時間が相対的に減っただけだ。若者にとっては当たり前の現代的な情報吸収を遂行してみろ、と今の老人世代が強いられたら、おそらく夥しい情報の洪水に耐えられまい。老人世代はそんなに電子機器を眺め続けてはいられないだろう。

だから最近街中を歩いている若者を見るとほとんどの人が耳にワイヤレスイヤホンを入れて何かを聞いているのは、彼らの貪欲な情報摂取力を示しているのだろう。音楽だって日々移り行く情報の断片に変わりはない。そういう若者を見ると、なんというか「体力の衰え」を感じる。昭和のおじさん世代はそこまでの情報摂取のスタミナはないので、何も聞かずに頭を空っぽにする時間のほうが多い。そういうわけで僕は普段、街中を歩く時にはワイヤレスイヤホンを耳につけていないことが多い。


しかし最近は、それとは別の理由で、街を歩く時にイヤホンをつけないことが多くなった。
 なんというか、「街の音」そのものが面白くなってきたような気がする。


街の喧騒なんてどこも似たようなものだと思うだろうが、街にはそれぞれ固有の「声」がある。自分の住んでいる街と職場のある街でも、音が違う。車の騒音、人の話し声、公共アナウンス、そういった街に流れている生活音は、それぞれその街の歴史と現状を如実に反映している。同じ車の騒音でも、幹線道路沿いの街並みと住宅地では、音が違う。同じ女子高生の笑い声でも、渋谷のセンター街と神田神保町の古書店街では、声が違う。最近、そういう「街ごとの音の違い」に敏感になってきた。もともとはワイヤレスイヤホン疲れから始まった習慣だが、今となっては積極的に選択して行なっている行動になってきている。

ひとつには、僕の生活のリズムがゆっくりになってきたことがあるだろう。昔は街歩きをする時には、目的があってそれを果たすために目的地に真っ直ぐ向かう感じで歩いていた。今でも基本的にそれは変わらないが、それよりも歩くのがゆっくりになり、よそ見や道草が多くなった。せっかく街を歩くのだから、目的遂行のためだけではなく、ちょっと散歩を楽しもう、という感じで歩くようになった。要するに歳をとったのだと思う。

そうやって街を歩くと、街の「声」がよく聞こえるようになる。人間というのは不思議なもので、聞きたくない音、聞く必要のない音は、一切聞こえない。目的地に向かって一目散に歩いている人には、街の「声」は全く聞こえないだろう。そういう「声」が聞こえるのは、それを聴こうとしている人だけだ。


そういう「街の音」に関して、僕は不思議な経験をしたことがある。

アメリカに留学していたとき、最初の冬休みに僕は車を持っていなかった。僕が住んでいたところは大学街で、冬休みになったら閑散として誰もいなくなる。開いている店も少なく、開いているのは図書館とジムくらい。マイナス20℃くらいの極寒の中、白い雪に埋もれた街は、それこそ生活音が全くない真の静寂だった。夜になるとあまりに静かなので、自分以外の人たちはみんな死に絶えてしてしまったのではないかと疑うくらいの静けさだった。やることといえば筋トレと勉強くらいしかなく、日本から持っていった数冊の文庫本をそれこそ貪るように何度も何度も読んでいた。

その冬休みの辛さがかなり堪えたので、その次の夏休みに日本に帰国した時、僕は変なことをやった。街中を歩いて、日本の街の普通の騒音を録音したのだ。今となっては笑い話みたいだが、その時はかなり深刻だった。なにせ冬の静けさがつらすぎる。その時に僕が一番聞いていたかったのは、日本の流行りのJ-POPではなく、大好きな落語でもなく、「街の普通の騒音」だった。普通に何気なく暮らしている街の騒音というものに、まさかありがたみがあるとは夢にも思わなかった。地元の駅前、新宿駅のコンコース、空港、ショッピングモールなど、いろんなところで延々と「普通の音」を録り貯めた。

その次の冬休み、満を持して僕は日本で録った街の音を聞いてみた。すると不思議なことに、その音はとても不快だった。なんのことはない、ただの騒音だ。当たり前といえば当たり前だろう。想像していたような、街の喧騒を聞いて寂しさが紛らわせられる、ということは一切なかった。あれだけ聞きたかった街の「普通の音」が、録音してアメリカに持っていったら「ただの騒音」になり下がってしまったのは、なぜだったのだろうか。

たぶん、「生の音」と「録音した音」は違う、ということだと思う。両者は情報単位としては同じようなものなのだろうが、聞いているのは情報分析マシンではなく、人間なのだ。人間は音をただ単に情報手段として吸収するのではなく、それぞれの音に「意味」をもたせてそれに浸る。だから、実際にそれが発されている「文脈」から切り離されて、ただの「音」だけを聞いても、何の感慨も湧かない。

大事な講演や会議などを録音する人は多いだろう。しかし、その録音を後で実際に聴くかというと、聴かない人が多いのではないか。会議などで重要な情報を聞き逃さないのように記録する、というのはよく分かる行動だが、会議の最初から最後までを通して聴く人はあまりいないだろう。実際の会議や講演と違って、録音して聴く音声には実際の現場にあった「熱量」がない。人が喋っている姿勢も意欲も、何もかも削ぎ落とされた「情報」だけが残る。

ライブやコンサートに行く人というのは、何を求めて行っているのか。「その音楽が好き」「そのアーティストが好き」というだけの理由なら、別にCDでもダウンロード音源でも、動画配信でも別に構わないはずだ。それでも多くの人が「ライブ」に赴き、生の人間の歌を聴き、踊りを楽しむ。 これも会議の録音と似たようなもので、「情報だけ切り取られて配信された動画・音声」と、「実際にその人がそこにいて、生の動き、生の歌を聴く」というのは、格段にレベルの違う行為なのだと思う。

僕が「録音した日本の街の音」を単なる雑音にしか聞こえなかったのと反対に、ライブやコンサートで実際に耳にするアーティストの生声は「魂をもった生きている声」なのだ。生きている人が、そこにいる人が、生の音を出す、ということの特殊性を認識していない人はわりと多いのではないだろうか。情報媒体が発達し、誰もがスマホを持ち、推しの歌声や踊りをいつでも鑑賞できる世情が、当たり前になってきている。

かように「生の声」と「切り取っただけの情報音声」には違いがある。そして昨今の若者は、後者に対する吸収力が先の世代とは桁外れに増強されているのだと思う。なにせ、一日中配信動画を見ていられる。一日中ワイヤレスイヤホンを耳に入れていられる。僕のようなおじさん世代だと「情報疲れ」してしまうのに、若者は平気でスマホを眺め続けていられる。その情報受容力の物凄さよ。

僕は去年、一年中の講義の中で1日だけ動画配信にしたことがある。12月、年末暮れの押し迫った時期に授業日が設定されており、その授業日程は学生からも不評だった。だから折衷案として「授業は休講にしないかわりに、その日だけ授業を動画配信にしようか」と学生に提案してみた。すると学生は喜んで同意してくれた。特に遠方から上京し一人暮らしをしている学生は、帰省の日程を早めることができて嬉しかったそうだ。 普段教室で行っている講義を動画配信にしたため、伝えたい情報がうまく伝えられていないという不備はあっただろう。しかし動画配信授業はおおむね好評で、中には「いつもより分かりやすかった」という感想まであった。

それとて、昨今の学生が「動画配信のように切り取られた情報単位を吸収する能力が高い」ということの証左だと思う。彼らは、教室の対面授業よりも動画配信のほうに吸収慣れしている。 「昨今の学生は本を読まない」というのは、古今東西常に言われてきた苦言だろう。しかし今の若い学生さんたちは、昔の学生に比べて、本を読む以外の情報吸収能力が格段に上がっている。インターネットを使った検索能力も高い。昔の学生が紙媒体で1週間かかった調べ物を、今の学生はスマホを操作して10分で見つけてしまう。

電車に乗ってる高校生が、耳にワイヤレスイヤホンを入れているのを見るたびに、「何を聞いているのかな」という当世事情に関する興味と同時に、「よく疲れないね」という感嘆とが入り混じった気分になる。僕は電車の中ではどちらかというと文庫本派だが、最近は文庫本さえ読まなくなってきた。その日、その時、その瞬間の、その場の音を聞くことで、場の空気を感じることが楽しくなってきた。流れる時間が昔よりもゆったりとしてきたからだろうか。



それともただ単に文庫読む体力もなくなってきたのかな

何でもないようなことが幸せだったと思う

最近、ちょっと面白い本を買った。


loyho


『ロイヤルホストで夜まで語りたい』
(朝日新聞出版、1760円)


様々な人がロイヤルホストに関する想いを綴るだけのエッセイ集。ファミリーレストランの中でもわりと高価で特別感のあるロイヤルホストは、作家やタレントさんなど創造的な仕事をする人に好まれているらしい。売れてない頃の憧れだったり、普段使いにしている習慣の一片だったり、それぞれの筆者の人生の交差点を垣間見るようで面白い。

ほとんどの筆者が、一押しメニューとして「パラダイストロピカルアイスティー」を挙げている。僕も飲んだことがある。確かに美味しい。中にはドリンクバーはあれしか頼まない、という人もいるらしい。ドリンクバーなんてどこのファミレスでも同じだろ、と思っていたので、あれはロイヤルホストのオリジナルだったのか、と知ってなんか意外な気がした。


僕個人もロイヤルホストには思い出がある。僕がよく行ってたロイヤルホストは、仙台の繁華街である一番町。藤崎デパートからちょっと広瀬通りに向かったところのビル2階にあった。今はもうないらしい。

当時、僕はその同じビルの3階にある英会話教室に通っていた。アメリカに留学しようと決めてはいたものの、あまりにも会話力が貧弱だったので、貧しい学生生活の中から費用を工面して英会話を習いに行っていた。週に2回、2年くらい通っただろうか。

英会話の授業の前か後かのどっちかに、ロイヤルホストで予習や復習をした。ひとり暮らしをしてた身としては家に帰ってから料理をするのが面倒だったこともあり、英会話の授業の日はロイホでゆうごはん、という習慣になっていた。今考えてみるとかなり分不相応に贅沢な食生活だった。そんな日々の思い出があるから、僕はロイヤルホストに行くと今でも、まだ何者でもなかった時代、これから大きなことに挑むつもりで研鑽を積んでた時期のことを、よく思い出す。


ある日、自分の大切な人が死んだら、どうすればいいのだろうか。


去年、父が死んだ。思ったよりも悲しくはなかった。長く闘病生活気味だったこともあり、母が介護で大変だったので、その時が来た時は悲しみよりも安堵のほうが大きかったかもしれない。葬儀のときも、事後処理の時も、僕は一切泣かなかった。そのことが我ながら不思議で、なんでこんなに平然としてられるんだろうか、と自分でも分からなかった。僕自身が歳をとったからなのかな、と漠然と思ってた。

人が死んだ時に悲しむというのは、死んだという事実をすでに自分の中で受け入れているということだと思う。死んだということがわかった上で、悲しいのだ。もし突然、事故や災害で家族が死んだときには、悲しいというよりもまず死んだという事実が受け入れられなくて呆然とするのではあるまいか。幸か不幸か僕はまだそういう経験をしたことはないが、そうなるだろうということは想像がつく。昨日まで、今朝まで、普通に接していた家族が突然死ぬ。通り魔的な犯罪や高齢者の暴走車に轢かれるなど、理不尽極まりない理由で死ぬ。そういう時、ひとは「悲しくて泣く」という段階までに至らず、何が起きたのか心が消化できず、信じられない思いで呆然とするのではないだろうか。

父はゆっくり死んでいったので、家族は心の準備をする時間があった。父は普通のサラリーマンとして毎日をこつこつと生きていた人だったので、それほど大言壮語するほどの業績など無い。そんな父について思い出すのは、小さい頃から当たり前のように接していた習慣、小さな出来事ばかりだった。

残された人が後になって思い出すのは、なにか特別な出来事ではなく、普段あたりまえのように暮らしていた日常のほうなのだそうだ。「なんでもなく当たり前だと思っていたことが一番大事なことだった」というのは、様々な表現活動のモチーフとして用いられている。誰でも頭では分かってはいることだが、なかなかそれを実感として自分の心の中に落とし込むことはできないのだと思う。いざ自分が「当たり前の日常」を奪われた時に、後からその大切さに気づく、という後ろ向きな姿勢が、悲しさを増幅させるのだろう。

だれも日常、特別な出来事を欲する。なにかいつもとは違うおいしいものを食べたい。いつもとは違うどこか変わった所に行きたい。変化は、単調な日常によって摩滅した生きる力を蘇らせてくれる。しかし、それと「当たり前の日常」がもつ価値は矛盾しない。普段の土台があってはじめて、変化は変化として価値をもつ。旅行好きな人が、家が火事で燃えていいかというとそういうわけではない。グルメや食べ歩きが趣味の人が、家に炊飯器はいらないかというとそういうわけではない。

あたりまえの日常に感謝の念をもつのは、思ったよりも難しいことなのではないだろうか。それができることが、「丁寧に生きる」ということだと思う。それをしないで当たり前の日常を軽視すると、いずれ巡って自分に返ってくる。不意に当たり前の日常が理不尽に奪われた時に、心構えが全くできていない。
大震災や凶悪犯罪など、人が命を奪われるニュースは連日報道されている。しかし、そこから自分の日常と向き合う姿勢に落とし込むのは難しいことだろう。急に家族の命が奪われたら、自分はどうなるだろうか。


ロイヤルホストのエッセイ集について、はじめに「ちょっと面白い本」と書いたが、その面白さは世間的に言われている数値評価とはちょっと違うと思う。「いいね」が何万個も押されているわけではない。何百万部も売られているわけでもない。僕のおすすめを真に受けて「なんだ、ちっとも面白くないじゃないか」などと文句を言われても困る。お笑い番組や落語や漫才のようにゲラゲラ笑うものだけを「面白い」と断じる人には、ちょっと分からなかろう。

僕は日頃から論文や研究書などの硬い文章ばっかり読んでいるので、どうしても何かを読むときには「価値」を探し求めながら読む習慣がある。論文というのは、なにかしら「まだ世の中に知られていない未知の情報」が含まれていなければ無価値だ。だから文章を読むときには「その文章しか持っていない唯一無二の価値」を探しながら読んでしまう。

このロイヤルホストのエッセイに、そんな「価値」は無い。どの筆者も、自分がロイヤルホストについて持っている思い出とつらつらと書き連ねているだけだ。その人にとっては特別の思い入れなのだろうが、他人にとっては「だから何だ」というだけの話だ。それを面白いか面白くないかと問われたら、面白くないと思う人のほうが多いのではあるまいか。
だからこそ、その人ひとりにとっては「かけがえのない日常」なのだと思う。他の人にわかってもらう必要など無い。特別感も一切ない。当たり前の日常を、当たり前に過ごすことが、どれほど大切なことなのか。その大切なものは人それぞれ違う。それぞれに違う、それぞれの「あたりまえ」を大切に過ごすことが、「幸せに生きる」ということなのではないか。

自分の人生に不満を持っている人や、自分の境遇を不幸だと思っている人は、必ず誰か他の人と自分を比べている。「自分は不幸だ」ではなく、「自分は誰々と比べると下だ」という精神構造になっている。それは不幸感に限らず、人生で感じる否定的な感情はすべて同じ構造になっているのだと思う。意識せず比べる対象を前提にしているから、その格差によって自分自身を貶めてしまう。家族が急に死んだときに呆然としてしまうのも、それまでの当たり前の日常と、急に訪れた理不尽な現実の、間を埋めることができないからだろう。呆然とするのは、前提となっている「当たり前の日常」の価値をそれまで自覚したことがないからだ。失って呆然としているのではなく、自分がそもそも何を失ったのかが分かっていない。

「後悔しないように全力で生きる」という文言はよく自己啓発書の類で耳にする。しかし、その意味するところはアグレッシブに未知のものに挑戦するような動的なものばかりではあるまい。普段気にもとめないような、自分が置かれた自然な環境に気付き、その価値に感謝し享受する静かな気付きも、「後悔しないように生きる」ということの一端だと思う。

ロイヤルホストをめぐる「その人にとっては当たり前で、大切な日常」という文章を読み続けて、そんなことを考えた。
だから、「ちょっと面白い本」ではないのかもしれない。僕が勝手にこの本を読んで、本文の内容とは関係ないところを「ちょっと面白い」と感じただけなのだろう。



あと食後のパフェを推してる人も多かった。

ノウハウ

「あいさつには名前をつけろ」(接客)
「アフターフォローは上客を呼ぶ」(保険業界)
「オーナーがこだわりを捨てると店ははやる」(空間プロデュース)
「オレンジ色は食欲を刺激する」(食品業界)
「お客は靴と時計で見抜け」(ソムリエ)
「お久しぶりですね、は三流」(バーテンダー)
「お座敷では毎日の行いが出る」(花柳界)
「きれいなトイレは汚せない」(スーパーマーケット)
「クレームは最後まで聞く」(キャビンアテンダント)
「ゲームの発売日は木曜日」(ゲーム)
「コンビニおでんは秋に売れる」(コンビニ業界)
「スタッフには、指示ではなく相談する」(外食産業)
「ストーリーは三幕構成で山場を作れ」(映画業界)
「たらい回しにヒットあり」(出版業界)
「トップの椅子は3つある」(芸能界)
「ネタはお客の顔を見て決める」(落語家)
「ネットの1行広告は13文字」(ネット通販業界)
「ヒット商品は多数決から生まれない」(飲食業界)
「ファーストクラスは態度がぶれない」(キャピンアテンダント)
「プリンターはインクで儲けろ」(プリンター業界)
「プレイング・マネージャーに名上司なし」(人材業界)
「プレスリリースは1枚にまとめろ」(広報マン)
「プレゼンの前日はホステスを口説け」(広告業界)
「プロジェクトが行き詰まっても、増員するな」(ソフトウエア業界)
「ホラー映画は不況に強い」(映画業界)
「メモのうまい美容師はカットもうまい」(美容師)
「ヤクルトおばさんが『これ、何?』と聞く映画はヒットする」(映画業界)
「飲食店の開業は1~2月が最適」(外食業界)
「汚い工場から、名品は生まれない」(製造業)
「家を売るなら奥さんを口説け」(不動産)
「家具店は外車ディーラーの近くがいい」(家具)
「会社の業績はトイレでわかる」(コンサル)
「怪我と弁当は自分持ち」(とび職)
「皆が嫌がる仕事ができて一人前」(町工場)
「階段は駆け上がるな」(アナウンサー)
「企画はコンプレックスをつけ」(出版業界)
「休日の飛行機でくつろげないなら一人前」(航空)
「泣き別れは商品価値を下げる」(家電量販店)
「給料日前は生活必需品、給料日後は嗜好品を値引け」(小売業界)
「金持ちは貧乏人から物は買わない」(宝石商)
「見積書は2つ持て」(商社)
「交差点は左折」(タクシー業界)
「困ったときは動物と子ども」(広告業界)
「混んできたら、BGMのテンポをあげろ」(外食業界)
「作業記録を開示せよ」(航空)
「子ども番組の改編は4月じゃなくて1月」(テレビ業界)
「私も使っています」で信頼を得よ (販売)
「実車とすれ違う道は、吉」(タクシー業界)
「社員は優良顧客」(自動車メーカー)
「酒が飲めないほうがバーテンダーは成功する」(バーテンダー)
「寿司は客を見てから握れ」(寿司職人)
「出店は、競合店の近くがいい」(居酒屋業界)
「準備のないところにチャンスは来ない」(舞台俳優)
「商品の色は3色に絞れ」(商業デザイン)
「上手い人より早い人が生き残る」(放送作家)
「人気商品は付属品で稼げ」(小売)
「声かけが盛んなスーパーは売れる」 (流通)
「全国ヒットを狙うなら、北海道を制せ」(食品業界)
「素材だけを使っても、フランス料理にはならない」(料理人)
「送料無料はネットで刺さるキーワード」(ネット通販業界)
「他業界からミスを学べ」(パイロット)
「大道芸は、美術館の近くが穴場」(大道芸人)
「棚には赤と緑の商品を交互に置け」(スーパーマーケット)
 「段取り八分、仕事二分」(大工)
「値引きは二個目の商品から」(スーパーマーケット)
「通販番組では、値段を最後に言え」(通販業界)
「提案は3つ出せ」(ソフトウェア)
「適職は自分ではわからない」(人材業界)
「電話営業は月曜の朝に攻めろ」(テレマーケティング業界)
「『東大』は読者に刺さるキーワード」(出版)
「2時間ドラマは、10時またぎに濡れ場を入れろ」(テレビ業界)
「日本人はラス1に弱い」(キャビンアテンダント)
「売れる商品には適量がある」(食品業界)
「売上が落ちたら値段を上げろ」(おむつメーカー)
「発想はポジティブに、詰めはネガティブに」(広告)
「発売延期をくり返すソフトに名作なし」(ゲーム業界)
「披露宴は洋食で儲けろ」(ホテル業界)
「評論家は深く掘り下げると広くなる」(マスコミ業界)
「不器用な職人ほど大成する」(大工)
「不況になると鉄道本が売れる」(出版業界)
「福袋は松竹梅で売れ」(百貨店業界)
「名器は真似して学べ」(設計士)
「要約できない脚本にヒットなし」(映画業界)
「欲しい車はよく街で見かける」(放送作家)
「緑と紫のオモチャは売れない」(玩具メーカー)
「練習は本番のように。本番は練習のように」(サッカー選手)




他者に対するものと己に対するものに分けられる。

原子力は儲かる。

独立行政法人  原子力安全基盤機構
独立行政法人  日本原子力研究開発機構
独立行政法人  原子力環境整備促進資金管理センター
財団法人    原子力安全研究協会
財団法人    原子力安全技術センター
財団法人    原子力国際技術センター
財団法人    日本原子文化振興財団
原子力委員会(JAEC)(内閣府)
原子力安全委員会(NSC)(内閣府)
原子力安全 保安院(NISA)(経済産業省)
原子力発電環境整備機構(NUMO)
(社)日本原子力産業協会(JAIF)
(社)日本原子力学会(AESJ)
(財)原子力安全技術センター(NUSTEC)
(独)原子力安全基盤機構(JNES)
(社)日本原子力技術協会(JANTI)
(財)原子力安全研究協会(NSRA)
(独)日本原子力研究開発機構(JAEA)
(財)原子力研究バックエンド推進センター(RANDEC)
(財)日本原子力文化振興財団(JAERO)
(財)原子力発電技術機構(NUPEC)
(社)火力原子力発電技術協会(TENPES)
(財)原子力国際協力センター(JICC)
(社)原子燃料政策研究会(CNFC)
(財)原子力環境整備促進・資金管理センター(RWMC)



民主党政権時代、どれひとつとして事業仕分けの対象になっていない。



現代の錬金術。

来た道を戻る

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誰か一人は来た道を戻るはず。



いじめなのか?
ペンギン命

takutsubu

ここでもつぶやき
バックナンバー長いよ。
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