最近街中では誰も彼もがワイヤレスイヤホンをつけている。


電車の中でも、街中を歩きながらでも、みんな耳に異物を突っ込んで何かを聞いている。 あれはみなさん一体何を聞いているのだろう。一日の時間の隙間もなくびっちりと音に囲まれて生活して、疲れないのだろうか。

便利なのは間違いない。何を隠そうそういう僕もワイヤレスイヤホンを持っている。しかし、一日中のべつまくなし常に何かを聞いているかというと、そこまでのヘビーユーザーではない。だから電車の中で若い人は学生さんなどがいつもイヤホンを耳にしているのを見ると、一体何を聞いているのか気になる。 好きな音楽だろうか。でもいくら好きな音楽でも、一日数時間、それを毎日毎日となると、そんなに聞かなくてもいいような気がする。昨今、そこまで深い鑑賞に耐えられるほど質の高い音楽に溢れているとは思えない。ではニュースやPodcastや深夜ラジオの配信などの情報だろうか。いやそれとて、朝から晩まで情報に囲まれていれば情報疲れしてしまうだろう。

みなさん何を聞いているのか分からないが、ひとつ分かることは、最近の若い人たちは僕のような昭和世代のおじさんに比べると「情報の吸収スタミナが桁違いに高い」ということだと思う。昔は情報吸収は本・新聞・雑誌など「視覚」が主だった。しかし今は携帯機器の発達やワイヤレスイヤホンの普及によって耳から情報を吸収する機会が増えた。それに飽きず疲れず、ずっと情報を吸収し続けるというのは半端な体力ではない。僕などワイヤレスイヤホンをつけていられるのは通勤時間のいいとこ半分くらいまでだ。

いや、聴覚情報のみならず、今の若い人たちは視覚情報の吸収力も物凄い。なにせずーっとスマホを眺めてられる。電車に乗ってる間も、ラーメン屋さんで食事をしている間も、街中を歩いている間ですら、ずーっとスマホを眺めている。見ているものの選択肢も幅広い。Yahoo!ニュースを見ている人、SNSで友人知人とリアルタイムで繋がっている人、投稿動画を眺めている人、ドラマや映画を見ている人すらいる。昔も電車で何かを読んでいる人はいた。しかしせいぜい文庫本か新聞程度のものだっただろう。それに比べると今の人たちは気軽に物凄い情報量を吸収し続けている。

「今の若者は本を読まない」というのは、いつの時代も嘆かれ続けていた批判だ。しかし、僕の目から見て今の若者が情報摂取量において先の世代に劣るとは全然思わない。それどころか、老人世代と比べると今の若者が単位時間に摂取する情報量は比べものにならない量だと思う。老人世代が嘆き続けている愚痴は、所詮「今の若者は、自分の世代とは情報摂取の方法が違う」というだけのことに過ぎない。情報吸収の手段が格段に多くなったため、先の世代にとって唯一の手段だった「文庫本」「新聞」といった媒体に割く時間が相対的に減っただけだ。若者にとっては当たり前の現代的な情報吸収を遂行してみろ、と今の老人世代が強いられたら、おそらく夥しい情報の洪水に耐えられまい。老人世代はそんなに電子機器を眺め続けてはいられないだろう。

だから最近街中を歩いている若者を見るとほとんどの人が耳にワイヤレスイヤホンを入れて何かを聞いているのは、彼らの貪欲な情報摂取力を示しているのだろう。音楽だって日々移り行く情報の断片に変わりはない。そういう若者を見ると、なんというか「体力の衰え」を感じる。昭和のおじさん世代はそこまでの情報摂取のスタミナはないので、何も聞かずに頭を空っぽにする時間のほうが多い。そういうわけで僕は普段、街中を歩く時にはワイヤレスイヤホンを耳につけていないことが多い。


しかし最近は、それとは別の理由で、街を歩く時にイヤホンをつけないことが多くなった。
 なんというか、「街の音」そのものが面白くなってきたような気がする。


街の喧騒なんてどこも似たようなものだと思うだろうが、街にはそれぞれ固有の「声」がある。自分の住んでいる街と職場のある街でも、音が違う。車の騒音、人の話し声、公共アナウンス、そういった街に流れている生活音は、それぞれその街の歴史と現状を如実に反映している。同じ車の騒音でも、幹線道路沿いの街並みと住宅地では、音が違う。同じ女子高生の笑い声でも、渋谷のセンター街と神田神保町の古書店街では、声が違う。最近、そういう「街ごとの音の違い」に敏感になってきた。もともとはワイヤレスイヤホン疲れから始まった習慣だが、今となっては積極的に選択して行なっている行動になってきている。

ひとつには、僕の生活のリズムがゆっくりになってきたことがあるだろう。昔は街歩きをする時には、目的があってそれを果たすために目的地に真っ直ぐ向かう感じで歩いていた。今でも基本的にそれは変わらないが、それよりも歩くのがゆっくりになり、よそ見や道草が多くなった。せっかく街を歩くのだから、目的遂行のためだけではなく、ちょっと散歩を楽しもう、という感じで歩くようになった。要するに歳をとったのだと思う。

そうやって街を歩くと、街の「声」がよく聞こえるようになる。人間というのは不思議なもので、聞きたくない音、聞く必要のない音は、一切聞こえない。目的地に向かって一目散に歩いている人には、街の「声」は全く聞こえないだろう。そういう「声」が聞こえるのは、それを聴こうとしている人だけだ。


そういう「街の音」に関して、僕は不思議な経験をしたことがある。

アメリカに留学していたとき、最初の冬休みに僕は車を持っていなかった。僕が住んでいたところは大学街で、冬休みになったら閑散として誰もいなくなる。開いている店も少なく、開いているのは図書館とジムくらい。マイナス20℃くらいの極寒の中、白い雪に埋もれた街は、それこそ生活音が全くない真の静寂だった。夜になるとあまりに静かなので、自分以外の人たちはみんな死に絶えてしてしまったのではないかと疑うくらいの静けさだった。やることといえば筋トレと勉強くらいしかなく、日本から持っていった数冊の文庫本をそれこそ貪るように何度も何度も読んでいた。

その冬休みの辛さがかなり堪えたので、その次の夏休みに日本に帰国した時、僕は変なことをやった。街中を歩いて、日本の街の普通の騒音を録音したのだ。今となっては笑い話みたいだが、その時はかなり深刻だった。なにせ冬の静けさがつらすぎる。その時に僕が一番聞いていたかったのは、日本の流行りのJ-POPではなく、大好きな落語でもなく、「街の普通の騒音」だった。普通に何気なく暮らしている街の騒音というものに、まさかありがたみがあるとは夢にも思わなかった。地元の駅前、新宿駅のコンコース、空港、ショッピングモールなど、いろんなところで延々と「普通の音」を録り貯めた。

その次の冬休み、満を持して僕は日本で録った街の音を聞いてみた。すると不思議なことに、その音はとても不快だった。なんのことはない、ただの騒音だ。当たり前といえば当たり前だろう。想像していたような、街の喧騒を聞いて寂しさが紛らわせられる、ということは一切なかった。あれだけ聞きたかった街の「普通の音」が、録音してアメリカに持っていったら「ただの騒音」になり下がってしまったのは、なぜだったのだろうか。

たぶん、「生の音」と「録音した音」は違う、ということだと思う。両者は情報単位としては同じようなものなのだろうが、聞いているのは情報分析マシンではなく、人間なのだ。人間は音をただ単に情報手段として吸収するのではなく、それぞれの音に「意味」をもたせてそれに浸る。だから、実際にそれが発されている「文脈」から切り離されて、ただの「音」だけを聞いても、何の感慨も湧かない。

大事な講演や会議などを録音する人は多いだろう。しかし、その録音を後で実際に聴くかというと、聴かない人が多いのではないか。会議などで重要な情報を聞き逃さないのように記録する、というのはよく分かる行動だが、会議の最初から最後までを通して聴く人はあまりいないだろう。実際の会議や講演と違って、録音して聴く音声には実際の現場にあった「熱量」がない。人が喋っている姿勢も意欲も、何もかも削ぎ落とされた「情報」だけが残る。

ライブやコンサートに行く人というのは、何を求めて行っているのか。「その音楽が好き」「そのアーティストが好き」というだけの理由なら、別にCDでもダウンロード音源でも、動画配信でも別に構わないはずだ。それでも多くの人が「ライブ」に赴き、生の人間の歌を聴き、踊りを楽しむ。 これも会議の録音と似たようなもので、「情報だけ切り取られて配信された動画・音声」と、「実際にその人がそこにいて、生の動き、生の歌を聴く」というのは、格段にレベルの違う行為なのだと思う。

僕が「録音した日本の街の音」を単なる雑音にしか聞こえなかったのと反対に、ライブやコンサートで実際に耳にするアーティストの生声は「魂をもった生きている声」なのだ。生きている人が、そこにいる人が、生の音を出す、ということの特殊性を認識していない人はわりと多いのではないだろうか。情報媒体が発達し、誰もがスマホを持ち、推しの歌声や踊りをいつでも鑑賞できる世情が、当たり前になってきている。

かように「生の声」と「切り取っただけの情報音声」には違いがある。そして昨今の若者は、後者に対する吸収力が先の世代とは桁外れに増強されているのだと思う。なにせ、一日中配信動画を見ていられる。一日中ワイヤレスイヤホンを耳に入れていられる。僕のようなおじさん世代だと「情報疲れ」してしまうのに、若者は平気でスマホを眺め続けていられる。その情報受容力の物凄さよ。

僕は去年、一年中の講義の中で1日だけ動画配信にしたことがある。12月、年末暮れの押し迫った時期に授業日が設定されており、その授業日程は学生からも不評だった。だから折衷案として「授業は休講にしないかわりに、その日だけ授業を動画配信にしようか」と学生に提案してみた。すると学生は喜んで同意してくれた。特に遠方から上京し一人暮らしをしている学生は、帰省の日程を早めることができて嬉しかったそうだ。 普段教室で行っている講義を動画配信にしたため、伝えたい情報がうまく伝えられていないという不備はあっただろう。しかし動画配信授業はおおむね好評で、中には「いつもより分かりやすかった」という感想まであった。

それとて、昨今の学生が「動画配信のように切り取られた情報単位を吸収する能力が高い」ということの証左だと思う。彼らは、教室の対面授業よりも動画配信のほうに吸収慣れしている。 「昨今の学生は本を読まない」というのは、古今東西常に言われてきた苦言だろう。しかし今の若い学生さんたちは、昔の学生に比べて、本を読む以外の情報吸収能力が格段に上がっている。インターネットを使った検索能力も高い。昔の学生が紙媒体で1週間かかった調べ物を、今の学生はスマホを操作して10分で見つけてしまう。

電車に乗ってる高校生が、耳にワイヤレスイヤホンを入れているのを見るたびに、「何を聞いているのかな」という当世事情に関する興味と同時に、「よく疲れないね」という感嘆とが入り混じった気分になる。僕は電車の中ではどちらかというと文庫本派だが、最近は文庫本さえ読まなくなってきた。その日、その時、その瞬間の、その場の音を聞くことで、場の空気を感じることが楽しくなってきた。流れる時間が昔よりもゆったりとしてきたからだろうか。



それともただ単に文庫読む体力もなくなってきたのかな