最近、ちょっと面白い本を買った。


loyho


『ロイヤルホストで夜まで語りたい』
(朝日新聞出版、1760円)


様々な人がロイヤルホストに関する想いを綴るだけのエッセイ集。ファミリーレストランの中でもわりと高価で特別感のあるロイヤルホストは、作家やタレントさんなど創造的な仕事をする人に好まれているらしい。売れてない頃の憧れだったり、普段使いにしている習慣の一片だったり、それぞれの筆者の人生の交差点を垣間見るようで面白い。

ほとんどの筆者が、一押しメニューとして「パラダイストロピカルアイスティー」を挙げている。僕も飲んだことがある。確かに美味しい。中にはドリンクバーはあれしか頼まない、という人もいるらしい。ドリンクバーなんてどこのファミレスでも同じだろ、と思っていたので、あれはロイヤルホストのオリジナルだったのか、と知ってなんか意外な気がした。


僕個人もロイヤルホストには思い出がある。僕がよく行ってたロイヤルホストは、仙台の繁華街である一番町。藤崎デパートからちょっと広瀬通りに向かったところのビル2階にあった。今はもうないらしい。

当時、僕はその同じビルの3階にある英会話教室に通っていた。アメリカに留学しようと決めてはいたものの、あまりにも会話力が貧弱だったので、貧しい学生生活の中から費用を工面して英会話を習いに行っていた。週に2回、2年くらい通っただろうか。

英会話の授業の前か後かのどっちかに、ロイヤルホストで予習や復習をした。ひとり暮らしをしてた身としては家に帰ってから料理をするのが面倒だったこともあり、英会話の授業の日はロイホでゆうごはん、という習慣になっていた。今考えてみるとかなり分不相応に贅沢な食生活だった。そんな日々の思い出があるから、僕はロイヤルホストに行くと今でも、まだ何者でもなかった時代、これから大きなことに挑むつもりで研鑽を積んでた時期のことを、よく思い出す。


ある日、自分の大切な人が死んだら、どうすればいいのだろうか。


去年、父が死んだ。思ったよりも悲しくはなかった。長く闘病生活気味だったこともあり、母が介護で大変だったので、その時が来た時は悲しみよりも安堵のほうが大きかったかもしれない。葬儀のときも、事後処理の時も、僕は一切泣かなかった。そのことが我ながら不思議で、なんでこんなに平然としてられるんだろうか、と自分でも分からなかった。僕自身が歳をとったからなのかな、と漠然と思ってた。

人が死んだ時に悲しむというのは、死んだという事実をすでに自分の中で受け入れているということだと思う。死んだということがわかった上で、悲しいのだ。もし突然、事故や災害で家族が死んだときには、悲しいというよりもまず死んだという事実が受け入れられなくて呆然とするのではあるまいか。幸か不幸か僕はまだそういう経験をしたことはないが、そうなるだろうということは想像がつく。昨日まで、今朝まで、普通に接していた家族が突然死ぬ。通り魔的な犯罪や高齢者の暴走車に轢かれるなど、理不尽極まりない理由で死ぬ。そういう時、ひとは「悲しくて泣く」という段階までに至らず、何が起きたのか心が消化できず、信じられない思いで呆然とするのではないだろうか。

父はゆっくり死んでいったので、家族は心の準備をする時間があった。父は普通のサラリーマンとして毎日をこつこつと生きていた人だったので、それほど大言壮語するほどの業績など無い。そんな父について思い出すのは、小さい頃から当たり前のように接していた習慣、小さな出来事ばかりだった。

残された人が後になって思い出すのは、なにか特別な出来事ではなく、普段あたりまえのように暮らしていた日常のほうなのだそうだ。「なんでもなく当たり前だと思っていたことが一番大事なことだった」というのは、様々な表現活動のモチーフとして用いられている。誰でも頭では分かってはいることだが、なかなかそれを実感として自分の心の中に落とし込むことはできないのだと思う。いざ自分が「当たり前の日常」を奪われた時に、後からその大切さに気づく、という後ろ向きな姿勢が、悲しさを増幅させるのだろう。

だれも日常、特別な出来事を欲する。なにかいつもとは違うおいしいものを食べたい。いつもとは違うどこか変わった所に行きたい。変化は、単調な日常によって摩滅した生きる力を蘇らせてくれる。しかし、それと「当たり前の日常」がもつ価値は矛盾しない。普段の土台があってはじめて、変化は変化として価値をもつ。旅行好きな人が、家が火事で燃えていいかというとそういうわけではない。グルメや食べ歩きが趣味の人が、家に炊飯器はいらないかというとそういうわけではない。

あたりまえの日常に感謝の念をもつのは、思ったよりも難しいことなのではないだろうか。それができることが、「丁寧に生きる」ということだと思う。それをしないで当たり前の日常を軽視すると、いずれ巡って自分に返ってくる。不意に当たり前の日常が理不尽に奪われた時に、心構えが全くできていない。
大震災や凶悪犯罪など、人が命を奪われるニュースは連日報道されている。しかし、そこから自分の日常と向き合う姿勢に落とし込むのは難しいことだろう。急に家族の命が奪われたら、自分はどうなるだろうか。


ロイヤルホストのエッセイ集について、はじめに「ちょっと面白い本」と書いたが、その面白さは世間的に言われている数値評価とはちょっと違うと思う。「いいね」が何万個も押されているわけではない。何百万部も売られているわけでもない。僕のおすすめを真に受けて「なんだ、ちっとも面白くないじゃないか」などと文句を言われても困る。お笑い番組や落語や漫才のようにゲラゲラ笑うものだけを「面白い」と断じる人には、ちょっと分からなかろう。

僕は日頃から論文や研究書などの硬い文章ばっかり読んでいるので、どうしても何かを読むときには「価値」を探し求めながら読む習慣がある。論文というのは、なにかしら「まだ世の中に知られていない未知の情報」が含まれていなければ無価値だ。だから文章を読むときには「その文章しか持っていない唯一無二の価値」を探しながら読んでしまう。

このロイヤルホストのエッセイに、そんな「価値」は無い。どの筆者も、自分がロイヤルホストについて持っている思い出とつらつらと書き連ねているだけだ。その人にとっては特別の思い入れなのだろうが、他人にとっては「だから何だ」というだけの話だ。それを面白いか面白くないかと問われたら、面白くないと思う人のほうが多いのではあるまいか。
だからこそ、その人ひとりにとっては「かけがえのない日常」なのだと思う。他の人にわかってもらう必要など無い。特別感も一切ない。当たり前の日常を、当たり前に過ごすことが、どれほど大切なことなのか。その大切なものは人それぞれ違う。それぞれに違う、それぞれの「あたりまえ」を大切に過ごすことが、「幸せに生きる」ということなのではないか。

自分の人生に不満を持っている人や、自分の境遇を不幸だと思っている人は、必ず誰か他の人と自分を比べている。「自分は不幸だ」ではなく、「自分は誰々と比べると下だ」という精神構造になっている。それは不幸感に限らず、人生で感じる否定的な感情はすべて同じ構造になっているのだと思う。意識せず比べる対象を前提にしているから、その格差によって自分自身を貶めてしまう。家族が急に死んだときに呆然としてしまうのも、それまでの当たり前の日常と、急に訪れた理不尽な現実の、間を埋めることができないからだろう。呆然とするのは、前提となっている「当たり前の日常」の価値をそれまで自覚したことがないからだ。失って呆然としているのではなく、自分がそもそも何を失ったのかが分かっていない。

「後悔しないように全力で生きる」という文言はよく自己啓発書の類で耳にする。しかし、その意味するところはアグレッシブに未知のものに挑戦するような動的なものばかりではあるまい。普段気にもとめないような、自分が置かれた自然な環境に気付き、その価値に感謝し享受する静かな気付きも、「後悔しないように生きる」ということの一端だと思う。

ロイヤルホストをめぐる「その人にとっては当たり前で、大切な日常」という文章を読み続けて、そんなことを考えた。
だから、「ちょっと面白い本」ではないのかもしれない。僕が勝手にこの本を読んで、本文の内容とは関係ないところを「ちょっと面白い」と感じただけなのだろう。



あと食後のパフェを推してる人も多かった。