学生が論文を書けない。

本当に書けない。絶望的に書けない。高校までにちゃんと文章の書き方を習ってきているのかと思うくらい書けない。
思うに、いまの若い子たちは日常生活のなかで「長い文を書く」という体験が欠落しているのだろう。自分の考えていることを表出する能力が著しく不足している。

まぁ、いつの世の中でもそう言われてきたのだろう。僕もそう言われる側から言う側に回ってしまったというだけのことかもしれない。
しかし、なんというか、一般に思われている「最近の若い子はろくに文章も書けない」というのと、僕が言う「学生が論文を書けない」というのは、ちょっと問題の焦点が違う。

まずもって学生が「論文とは何ぞや」ということを理解していない、というのは仕方がない。高校までの日常生活で生徒が書く長い文章といえば、読書感想文が関の山だろう。しかも夏休みの宿題で嫌々書く程度のものだろう。さらに最近の学校の先生は忙しいから、それらの読書感想文にしっかり赤を入れて添削してフィードバックする、などということもあるまい。書いたら書きっ放し。これで文章力が上がるわけがない。
僕もいままでこのBlogで「感想文と論文は何が違うのか」についてつらつらと駄文を書いたことがあるが、最近僕が感じている学生の能力不足はそれとはちょっと違ってきている。

なんというか、「間違えることを極度に恐れている」ような気がするのだ。いや「恐れている」というよりは「嫌っている」というほうが近い。膨大な手間をかけ、入念に調査をし、幾重にも分析を重ねた先が「空振りでした」というのは研究ではよくあることなのだが、最近の若い子たちはそういう「無駄」を非常に嫌っているような気がする。学生は「正しい論文」を書かなければならない、という強迫観念に汲々としているように見える。

そもそも論文には「正しい論文」「間違った論文」というものはない。あるのは「面白い論文」「つまらない論文」という区分だけだ。もちろんデータ収集の段階で不正をしたり資料を改竄したりするのは「間違った論文」だが、ここではそういう話をしているのではない。彼らは中等教育を通して、学業の成果を「正解」「不正解」という分け方で評価され続けてきた。だから大学に入ってからの研究にも「正解」「不正解」があると思い込んでいる。そして、彼らは「不正解」の論文を書いたら成績を落とされる、と恐れている。
まぁ、「大学一年生」というよりは「高校四年生」なのだろう。思考の過程が高校生レベルに留まっており、高校までの「おべんきょう」と大学以降の「研究」の違いが分かっていない。

大学で行う研究というのは、例えて言えば「狩り」だ。自分で野山を歩き、獲物を見つけ、銃で仕留める。どこを歩こうが、どこを猟場にしようが、どんな獲物を狙おうが、各自の自由。自分で好きな所を歩き、好きな獲物を仕留めればいい。

一方、高校までに習ってきた「おべんきょう」というのは、言ってみれば「狩りをするために必要な個々の道具を磨くこと」だ。銃にはどんな種類があるのか、どうやって撃てばいいのか。どの山にはどんな獲物がいるのか。どうやって獲物の居場所を察知すればいいのか。
高校までの「おべんきょう」で優秀だった生徒というのは、要するに「銃の種類と名前をたくさん覚えている」というだけのことに過ぎない。それを撃つ腕前が確かかどうかは分からない。そもそも獲物がどこにいるのか探す能力があるとは限らない。むしろ、「自分はどういう獲物を仕留めたいのか」すら決めていない手合も多い。

高校を出たての大学一年生が論文を書けない理由はいろいろあるが、その一番最初の大きな壁は「研究テーマを決められない」ということだ。
僕は大学一年生対象の、基礎的な文章訓練の授業を担当している。大学なので当然、期末課題として論文の執筆を課すのだが、なかなかテーマを決められない学生が多い。「どんなことに興味があるの?」と水を向けても、口ごもる学生が多い。その「口ごもる」という理由が、僕が想像していたのとちょっと違う気がするのだ。

論文のテーマを決めるというのは、狩りに例えると「どの獲物を仕留めたいのか」を決めることだ。狙う獲物によって、使う道具が違ってくる。だから仕留めたい獲物が決まらないと、使う道具が決まらない。勉強や調査の仕方が決まらない。
だが学生は延々と「先生、テーマが決まらないんです」といつまでもぐずぐずしている。

僕は最初、学生がテーマを決められないのは、学術的な研究価値の判断能力がないために適切な問いを提示する能力が欠けているためだと思っていた。これは大学院を出ても研究者になっても常につきまとう問題で、この部分の能力は固定した知識を暗記していても意味がない。その時その場でどのような「問い」を発するかというのは、常に思考と発想が要求される動的なものだ。創造的になにかを「創り出す」能力なので、知識さえ身につければ使い回しで楽ができるという類いのものではない。

ところが今の若い子たちは、研究テーマについて相談に来る時、なんか「正解」を求めて探りに来ているような感触があるのだ。「このテーマで大丈夫ですか?間違いありませんね?これでやって問題ありませんね?」のように、やたらと「確約」を求めてくる。
研究テーマというのは要するに「仕留めたい獲物」なので、どのようなテーマを選ぼうがその学生の自由だ。合っているも間違っているもない。好きなことをすりゃいい。自分が追いたいテーマがあればそれがその学生にとって最良のテーマである、というだけのことに過ぎない。

しかし学生は、高校までに根強く染み付いた「正解病」のせいか、「研究テーマにも『正解』と『不正解』がある」と思っているらしいのだ。「正しいテーマ」を選んだら合格論文、「間違ったテーマ」を選んだら不合格、というイメージらしい。
実際のところ、論文のテーマとして「スジの良いもの・悪いもの」というものはある。スジの良い論文というのは、その論文自体が正しいか間違っているかで決まるものではない。「その論文を出発点として、様々な方向に議論が発展していく」というのが「スジの良い論文」だ。その論文自身が出している答えは、むしろ間違っていても構わない。科学というのは人類全体のチームワークなので、自分で書いた論文で仮説が間違っていても誰か他の人がもっと妥当な答えを出してくれる。アインシュタインだって自分が提唱した一般相対性理論の証明には自身で失敗している。

かように深く染み付いた学生諸君の「間違ってはいけない」「正解を出さないといけない」という強迫観念は何なのだろうか。僕が大学生の時代にもそういう「高校四年生」はいた。大学というのは「高校よりももっと難しい試験問題が出る場所」と本気で信じている学生もいた。しかし、最近の学生は僕の時代よりもその傾向により拍車がかかっているような気がするのだ。なぜ今の学生たちはそんなに「間違える」ことを恐れるのだろうか、僕はつねづね気になっていた。


sanmagoten


つい先日、『踊る!さんま御殿!!』(日本テレビ系列、火曜午後8時)の放送を見た。
「受験戦争を勝ち抜いた有名人SP」(2024年2月6日放送)という企画で、「東大出身アイドル・慶応大出身お笑い芸人らが驚きの受験テクニックを紹介!」という触れ込みだ。受験期に入ってきたので、受験を勝ち抜いた芸能人たちに受験の思い出を語ってもらおう、という企画らしい。

その中で、芸人の水川かたまり(空気階段)が「地方の予備校で動画配信を見ていたので、いつも倍速で授業を聞いていた。上京後、その講師が普通に話しているのを聞いて『遅っ!』と思った」というエピソードを話していた。
MCの明石家さんまが驚いて「今の若い子は動画をぜんぶ倍速で見るんか〜っ!」と驚いていたら、東大出身の雲丹うに、河野玄斗らが頷いて
「ドラマもアニメも倍速で見る」
「音楽はイントロや間奏を飛ばす」
「新作は一旦ネットで調べて『◯話からが面白い』などの確証を得てからはじめて見る」
「小説はあらすじだけ最初に調べて、面白そうだったら読む」
「レビューや『いいね!』の数を見て読むかどうか決める」
「芸人さんの動画は再生回数を調べてから見るかどうか決める」
とコメントしていた。


uni

「だって12回見て面白くなかったら無駄じゃないですか」


tanaka

「お前らネット信じ過ぎなんだよ!」


どうも「時間をかけて自分で試してみて、結果が空振りだったら時間の無駄」という価値観らしい。最初から結論を知っていないと安心して入っていけない。「最後はこういう着地点になる」という確証がないと手をつけない。つまり、今の若い子たちは「試行錯誤」が嫌いなのだ。
それと同じようなことは日常生活の至るところに顕われているのだろう。食べにいく店を決めるときにはネットで評価を調べる。新作の映画を見るかどうかはネットの評判で決める。新しくできたアトラクションに行く前にまずネットの評価を調べる。

要するにどれも「他人の評価」「他人の仕事」に寄りかかっている態度だ。その根底にあるのは「失敗したら過程が全部ムダ」という考え方だろう。とにかく「ムダ」をしたくない。「空振り」をしたくない。効率よく、「正解」だけを掬い取って生きていきたい。
そして今の世の中は、ネットによって「正解」を掬い取れるような世の中になっている。再生回数、アクセス数、「いいね!」の数、レビューの星の数、など「世間の評判」が数値化して可視化されている。


この番組を見て、どうして最近の学生たちが研究テーマを決められないのか、なんとなく分かるような気がした。
彼らは「間違えるのが怖い」のではなく、「労力をかけた結果がムダになるのが嫌い」なのではなかろうか。

他人の評価、他人の意見によって「自分の見解」をつくる、ということは、どこまで行っても他人の影響から脱することはできない。他の人の価値観に縛られているうちは、自分だけの独自の見解をつくることは絶対にできない。

たとえば狩りにおいて「鹿は金になるからいい獲物らしいよ」という評判が流れたとする。その評判を鵜呑みにして、千人のハンター全員が鹿を仕留めてきたら、当然ながら鹿の価値は暴落する。
大学の研究において、最後にものを言うのは「オリジナリティー」だ。世の中の誰もが気付かなかった謎、誰もが見過していた穴を、最初に見つけた研究が最も「おもしろい研究」だ。誰も彼もが鹿を仕留めてくる中で「なんか変な動物がいたぞ」と誰もが見たことも聞いたこともない珍獣を仕留めてくるのが、狩りの醍醐味なのだ。

そしてそういう能力は、自分で試みるよりも「他人の評価」「世の中の評判」「ネタばらし」を先行させるという生き方からは、絶対に身に付かない。
テーマを選ぶときにはまず最初にデータを見るわけだが、そのときには独自の「嗅覚」が働く。研究を長く続けていると分かるが、「これは面白そうな獲物だぞ」という勘が働く。その勘は「他人の評判を横目に見ながら自分の身の振り方を決める」という生き方をしているうちは、絶対に身に付かない。自分で決め、自分で狙いを定め、自分で進む生き方をしない限り身に付かない。

当然、空振りはある。やってみたけどムダだった、という経験は枚挙に暇がない。しかしその「ムダ」な体験をただムダとして切り捨てるか、自分の能力を身につけるための段階と捉えるか、によってその人の能力の限界値は決まる。
高校までの「おべんきょう」と違って、大学から先の「研究」では、失敗もひとつの成果なのだ。科学というのは人類全体のチームワークなので、ある方策で研究した結果が無駄に終わったら、「この先は進んでも行き止まりですよ」と世の中の人に広く告知することができる。失敗を共有することも研究の意義のひとつなのだ。失敗を「無駄」「不正解」と切り捨てる硬直した態度では、大学以降の研究を志しても心が折れて終わるだろう。

学生がしつこく研究テーマの妥当性にこだわるのは、この「失敗」ということに対する異様なまでの嫌悪感が原因なのではあるまいか。失敗をしたくない。ムダをしたくない。失敗は単なるムダだ。他人の評価だけで自分の世界観をつくりあげているから、論文を書くときも他人(=先生)の評価しか気にすることができない。その研究が自分にとって楽しいものであるかどうかなど一切関係なく、「評価されるかどうか」しか考えていない。そんな姿勢で大学生活を続けても、楽しいことなどひとつもあるまい。

若者世代の「労力をかけた結果ムダをしたくない」という価値観を「タイパ(タイムパフォーマンス)」というのだそうだ。コストパフォーマンスからの類語だろう。いまの若い人は、誰もがこの「タイパ」の奴隷と化している。「かけた時間だけ見返りを得られる」という確証がない限り、手をつけようとしない。浅ましい価値観だと思う。そういう生き方をしている限り、決して自分の深淵までに達する「本物」を掴むことはできないだろう。どこまでいっても、どんなもの見ても、必ず「他人」が介在する程度のものにしか達しない。少なくとも、誰もが思いつかなかった仰天するような研究は彼らから出てくることはないだろう。


件の番組に出ていた河野玄斗という出演者は東大医学部卒業で、医師国家試験・司法試験・公認会計士試験に合格したという大変な秀才なのだそうだ。しかし、医師国家試験に合格して、いま何をしているのだろう。司法試験に合格したら何なのだろう。公認会計士試験に合格したのが今にどうつながっているのだろう。「他人の仕事」「他人の評判」に寄りかかって生きて、「自分の生き方」はどうやってつくっているのだろう。結婚相手を見つけるときはネットで相性を試すのだろうか。仕事相手の人物評価はネットで検索するのだろうか。
難関試験に次々に合格している、ということは「他人に出される問題」に答える能力は高いのだろう。しかし人生は、他人からの問いに答えるためのものではない。自分の中に自分だけの何かを造り、世の中に誰も気付いていない何かを新たに見いだし、自ら何かを発信する能力はあるのだろうか。そういう眼は開いているのだろうか。



高校14年生くらいの印象。