伊集院光のラジオで昔、妙に心に引っかかる話を聞いたことがある。


伊集院光が子供の頃の思い出をしている内容だ。
昭和の昔、給食の牛乳はビンに入っていた。その紙蓋を専用の錐のような道具で開けるタイプだった。

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こーゆーの。


子供たちはいつの頃からか、その紙蓋を集めるようになった。少しでも珍しい紙蓋を集めようと、駅の牛乳スタンド近くのごみ箱を漁ったり、週末や連休で学校が休みのはずの日付が押してある紙蓋を収集したり、とにかく「珍しい紙蓋」を集めるのに熱中していたそうだ。珍品の紙蓋を持っている子供は「偉い」という位置づけになり、子供内での存在感が増した。

そのうち、その紙蓋がいつからか「通貨」のような役割を果たすようになった。珍しい紙蓋ひとつと普通の紙蓋10枚を交換したり、特殊な紙蓋ひとつを「支払って」掃除当番を替わってもらったり、紙蓋ブームが加熱した。伊集院光はその頃の熱中度合いを「インフレみたいなものだった」と説明している。

ある日、小学生時代の伊集院光は、手持ちの紙蓋を全部処分し、それ相応の利益を得た上で、「俺は今後一切、紙蓋なんか知らない!」と一方的に撤退を宣言した。それを見た他の子供たちは困惑し、次々に紙蓋集めをしなくなり、急に憑物が落ちたように紙蓋交換をしなくなった。伊集院光は当時のことについて「なんていうのかな、急にバブルがはじけたような感じ。凄い紙蓋をたくさん持っている奴が、その価値が急に暴落して呆然としてた」と語っていた。

なんとなく身につまされる話だ。具体的にはよく思い出せないが、僕も子供の頃、なんかそういう「仲間内だけで妙な価値観が流通し、交換の原則で取引をしていた」という記憶がある。メンコだったこともあるし、ポテトチップスのおまけについている野球カードだったこともある。実際の社会経済に参入していない子供でも、そういうモノを使って「商取引」をした経験は、わりと誰にでもあるものではないか。僕は世代的にはずれているが、僕よりも後の世代では、ポケモンカードとかトレーディングカードなど、その役割を担うことを想定した商品が意図的に作られている。

このような「通貨の替わりになるような取引媒体」に共通している特徴は、「取引の対象となるモノそれ自体には何の価値もない」ということだ。少なくとも、それが交換により取引されるときに負うことになる価値を越えるほどの重要性は、モノそのものには無い。牛乳の紙蓋は単なる紙蓋に過ぎず、普通の状況ではただのゴミだ。「それの取引が流行っている小学校」という文脈を外してしまえば、紙蓋にはなんの価値もない。普通の状況でいきなり牛乳の紙蓋を渡されて「これあげるから、掃除当番替わって」と頼んでも、「は?何言ってんだバカ」と断られるのが落ちだろう。

そのような「異様な価値をもつようになるモノ」というのは、それが通用する特殊な状況が構築されて、はじめて価値をもつ。小学校の子供の仲間うちだけで牛乳の紙蓋が価値をもつことがあるように、世の中には「それ自体には何の価値もないものが、閉鎖的な環境の内部においては異様な価値をもつようになる」ということがあり得る。その価値は、その環境の内部だけで通用する価値なので、少年時代の伊集院光のように「俺もう知ーらね」と離脱すれば、価値は一瞬で水泡と化す。ものの価値というものはどのように決まるものなのだろうか。なんか「相対的に決まる不安定な価値のあり方」を示唆しているようで面白い。


閑話休題。
ニュースを見ていたら、よく分からない事件が報じられていた。

歌舞伎町『トー横の王』、女子中学生への淫行容疑で逮捕
(1/28 金 朝日新聞)

女子中学生とわいせつな行為をしたとして、警視庁は、住居不定、無職水野泰宏容疑者(24)を東京都青少年育成条例違反の疑いで逮捕し、28日発表した。

水野容疑者は、東京・歌舞伎町の中心部の「トー横」と呼ばれる場所に集まる少女たちから人気があったといい、若者の間で「トー横の王」と呼ばれていたという。

少年育成課によると、逮捕容疑は昨年12月~今年1月、歌舞伎町のホテルで、18歳未満と知りながら都外の中学1年生の少女(13)とみだらな行為を繰り返したというもの。容疑を認めているという。

2018年ごろから歌舞伎町の複合施設「新宿東宝ビル」横の路上や広場に居場所をなくした若者たちが深夜に集まるようになり、周辺は次第に「トー横」と呼ばれるようになった。集った少女たちがわいせつ被害に遭うなどの事件が相次ぎ、警視庁は昨年6月から補導活動を強化している。

水野容疑者は18年ごろから「雨宮ただくに」と名乗って「トー横」で踊る様子などをSNSで投稿し、若者の人気を集めていたという。今回被害に遭った少女もSNSを通じて水野容疑者と知り合い、「有名人だったのでアイドルと同じ感覚であこがれを持った。優しくされて好きになり、断れなくなった」と話しているという。

水野容疑者は少女について「交際相手ではない」と話しているという。同課はほかにも多数の少女とわいせつな行為をしていた疑いがあるとみて調べている。


繁華街にたむろってる不良共がお互いに喰い合いをした、というだけのつまらない事件だ。「被害者」とされている中学1年生の少女なるものも、制御する能力もないくせにSNSなどを振り回し、挙句は本人の実態も知らないくせに「有名人だったのでアイドルと同じ感覚であこがれを持った」など軽薄な価値観で衝動的に動いている。喰い物にされて当たり前だ。加害者、被害者ともにレベルが低く、同情の余地など無い。「中学生だから」という理由で一方的に被害者扱いされているが、SNSというのは「ソーシャル」、つまり社会的な媒体だ。使用するには権利だけではなく義務も伴う。それを使用した以上は、それに伴う結果についての責任も負わなくてはならない。

僕がこの事件について興味をもったのは、容疑者の「雨宮ただくに」こと水野泰宏が、近隣に屯す少年たちに「トー横の王」と呼ばれていた、というくだりだ。住所不定・無職の輩が「王」とは大したもんだ。その「王」という称号は、何を元手として得られた称号なのだろうか。

単純に考えれば「金」だろうが、住所不定無職の輩にそれだけの資金力があったとは思えない。被害少女は容疑者のことをSNSで知ったそうだ。記事にも「『トー横』で踊る様子などをSNSで投稿し、若者の人気を集めていたという」とある。だからおそらくSNSに動画を配信して、それが人気を博していた、という程度のことではあるまいか。

すると「王」という称号の根拠となるものは、「SNSのフォロワー数」「動画のアクセス数」ということになるだろう。どれだけフォロワーがいるか、どれだけアクセスを稼いでいるか、という「数字」が、トー横なる界隈では「力」に直結する尺度として通用しているのだろう。その「数字」が一人歩きをした価値をもち、その界隈の「存在感」に昇華し、「トー横の王」なる珍妙な存在をつくり出したのだろう。

しかしその力の根源は、トー横からちょっと外れて世の中を客観的に見れば、一切価値のない単なる数字に過ぎない。フォロワーが多かったら、何だというのだろうか。SNSのフォロワー数も動画のアクセス数も、その世界とは関係ない者にとっては「牛乳の紙蓋」と大差ない。フォロワー数の数字を競っているのも牛乳の紙蓋を見せびらかすのも、本質的には対して変わりはあるまい。「トー横の王」というのは、そのような虚構の上に作られた「まやかしの価値」に過ぎない。トー横あたりに群がってる頭の悪い若者にふさわしい価値尺度と言えるだろう。

結局、そういう若者達というのは、実力主義の世界に生きていないのだと思う。そのような若者は、競技の勝ち負け、試験の点数、売り上げの金額、勝ち取った契約数といった「客観的に価値が保証される絶対的尺度」を嫌う。それに直面することを極度に嫌がる。己の無価値を突きつけられるのが怖いのだ。だから「試験の点数で人の価値が決まるのか」などと喚き、試験の点数そのものを忌避する。

しかしそれは単に、直面すべき絶対価値から逃げているに過ぎない。そういう主張をする輩は例外なく、試験の点数が取れない手合なのだ。課される絶対的尺度をクリアした上で価値に疑問を呈するなら良い。しかしそれができないくせに「そんなものに価値など無い」というのは、負け犬の遠吠えに過ぎない。

「トー横の王」という呼称からは、そのような卑俗で軽薄な価値観でコミュニティを形成する愚かさが、にじみ出ている。集まってる人間がそもそも、誰もが「絶対的な価値尺度」から逃げてきた輩ばかりなので、「絶対的な価値尺度」も無しにひとりの人間を「王」などと軽薄に崇め奉る。自分の生き方が自分の世界の見方を歪めている典型的な事例だ。 自業自得と吐き捨てて良い。

だから、そういう輩は突然「絶対的な価値尺度」を突きつけられると世界があっさり崩壊する。どんなにSNSでフォロワーがいようとも、根拠のない存在感で一目置かれていようとも、「法律に違反した」という圧倒的な判断尺度の前では意味がない。逮捕されたことで「王」の権威は失墜したことだろう。根拠のない価値観は、ある日いきなり崩れ去る。小学生の紙蓋のように「俺、もうやーめた」と宣言できる若者であれば、自らを閉鎖的な価値観から解放できるだろうが、まぁそこまで理性と知性のある輩がトー横界隈に群がってるとは思えない。それができないからこそ、いつまでもあの辺で構築される閉鎖的な価値観の中で生きているのだろう。トー横では今日も、牛乳の紙蓋を必死に集めている若者が屯っているのだろう。


京極夏彦の小説に『絡新婦の理』という作品がある。本というよりもキューブ型の直方体をしているので本屋ですぐに分かる。
その中に、聖ベルナール女学院という学校の経営者一族である「織作家」という名家が出てくる。

織作家には紫、茜、葵、碧という4人の娘がいる。話が進むうちに、同時期に起きた連続殺人犯「目潰し魔」の事件、聖ベルナール女学院内の悪魔崇拝、売春などの事件のいくつかに、織作家が深く関わっているらしいということが分かる。折しも学園理事長の織作是亮が絞殺される。

織作家は旧家独特の謹厳実直な雰囲気があり、家族内でも緊張感が絶えない。特に三女の葵は女性の権利向上の為の活動をしており、発言は常に論理的で厳しく、男尊女卑を匂わせる発言をした人間には高圧的な態度をとる。事件の関係者のひとり今川は、諸事件の根本には織作家の旧態依然とした家風があると考え、主人公の中禅寺秋彦に織作家の憑物落しを依頼する。中禅寺秋彦は単なる古本屋だが、憑物落しを本業とする陰陽師でもある。
その憑物落しの場面が面白い。

憑物落しをするにあたり、中禅寺秋彦は三女の葵にこのように話す。

「葵さん、あなたがどうお考えになっているのか僕には解りませんが、いずれ平野は吐く。そううればあなたは確実に失脚します。あなたは事実上の織作家当主となり、柴田グループの重職にも就いたのでしょう。自首するならまだ救いはある」


ここで憑物落しが「失脚」という言葉を使っているのが僕にはどうにも気になった。「失脚」というのは一般的に、社会的に保証されている地位を追われることを意味する。しかし葵は物語中、一族が経営している会社や企業で何らかの役職についているわけではない。一族内での発言力はあるし影響力もあるが、なにか形式的に保証された「地位」についているわけではない。

物語では、中禅寺秋彦の憑物落しによって葵の誤謬と隠された真実が暴かれ、葵の権威は失墜する。それ以後は織作家内での立場が低下してしまう。社会的にはともかく、織作家内で確かに葵は「失脚」する。別に何らかの役職から追われるわけでもなく、減給や謹慎などの制度的な懲罰がなくても、「失脚」という概念は思いのほか世の中にあふれているものなのだろう。

似たようなことは、人が集まるコミュニティー内であれば、程度の差こそ有れどこにでもあるものだと思う。人が数名集まれば、その場を統括する「オピニオンリーダー」が必ず台頭する。場で「いちばん偉い人」が何となく決まる。他の人に対する影響力を公使するようになる。しかし、何をもって誰が「偉い人」になるのか、という客観的な基準は存在しない。「存在感」「影響力」という無形のものは、その場の人たちだけの中でしか通用しない限定的なものに過ぎない。状況と環境が替わってしまえば、その「偉い人」はただの人かもしれないのだ。 僕は「鯛の尾より鰯の頭」という慣用句はそういう意味だと思っている。

だから、ある日突然その地位から「失脚」してしまうこともあり得る。場にいる人の憑物が落ち、「…別にあの人、なにか根拠があって偉いわけじゃないよね」と全員が同時に気付いてしまうことがある。誰かが意図的に「俺、今日からやーめた」と宣言して場の価値観から離脱するという荒技を使うこともあるだろう。

『絡新婦の理』で行われている「憑物落し」というのは、実際には何をやっているのか。具体的には「価値観の解体」のことだ。葵の行動原理になっている主義主張、世界観、価値尺度をことごとく反駁し、その背後にあるのが単なる主観に過ぎないことを暴く。客観的に保証されない価値尺度を指摘し、それ自体には本質的には価値がないことを諭す。小学生の子供に「ただの牛乳の紙蓋だろ?」と言い放つに等しい。憑物落しの対象となる「呪い」の正体は、「閉鎖的な環境で流通している、根拠のない価値感」のことだ。

トー横あたりに群がる若者も、腕のいい憑物落しにかかれば「何をそんなに毎日、必死になっているのか」の馬鹿さ加減に気付いて、安定した価値尺度で世の中を計る世界に戻れるのかもしれない。しかし、今のところは彼ら自身がそんなことを望んでもいないだろうし、望んでいたとしてもそれを認めないだろう。よくスポーツの世界では「実力がすべての世界」という言葉が使われるが、世の中では逆に「実力とは関係ないものがすべての世界」ということのほうが多いのではないか。何の実力も価値もない人間が「トー横の王」などと祀られる界隈では、有無を言わさぬ「実力」など逆に歓迎されないだろう。

世の中の人々がどのような価値観で動いているのか。人と人の間の「序列」というのはどのように決まるものなのか。社会生活を営んでいる限り、誰もがどこかで漠然と感じることだろう。自分にとっては絶対的なものだと思っているものでも、ある日突然「俺、今日からやーめた」と宣言することで離脱でいる程度の呪いかもしれない。一言で言うと「客観性」というだけの能力なのだが、それを身につけて閉鎖的な価値観の縛りから自由でいられている人は割と少ないと思う。

いじめは、閉鎖的な学級でこそ起こる。そこには世の中の多くの人にとって理解不能な「その場限定の価値・原理」が同調圧力として働いているのだろう。自分を律している価値観は、本当に絶対的で不動のものなのだろうか。おそらく僕は一生関わることもないであろう「トー横」という界隈で起きた奇妙奇天烈な事件報道から、そんなことを考えた。



紙蓋集めに熱中してる輩の多いこと多いこと。