「東京五輪閉幕 混迷の祭典 再生めざす機に」
(2021年8月9日 朝日新聞社説)
「東京五輪閉幕 輝き放った選手を称えたい」
(2021年8月9日 読売新聞社説)
「東京五輪が閉幕 古い体質を改める契機に」
(2021年8月9日 毎日新聞社説)
「東京五輪閉幕 全ての選手が真の勝者だ 聖火守れたことを誇りたい」
(2021年8月9日 産経新聞社説)
「「コロナ禍の五輪」を改革につなげよ」
(2021年8月9日 日本経済新聞社説)


日本人にとっては総括が難しいオリンピックだったと思う。東京五輪招致が決定した時には、日本人の誰もがバラ色の2020年を夢見ていた。前回の東京大会の成功体験が大きい世代も存命している。コロナウィルスという全世界的な危機的状況でオリンピックを迎えることになるとは誰も思っていなかった。

今回の五輪開催には反対意見も多かった。災害復興を謳った五輪にもかかわらず、伝染病拡大という「災害」の最中に開催を強行する、という矛盾した図式が一番の理由だが、それだけではあるまい。開催直前になっての大会役員・企画参与者の不適切な言動が国民の神経を逆撫でした、という「人災」の面も多かろう。

開催をめぐる駆け引きの中で、IOCの態度も日本国民の感情を逆撫でした。かねてから指摘されていたことだが、今のオリンピックは金がかかりすぎている。余計なところに金をかけ過ぎ、開催のハードルは回を追うごとに膨らみ続けている。今回の開催強行に際してのIOCの独善的な姿勢、かつ責任は一切取らないという一方的な構造は、オリンピックのあり方がすでに限界に近づいていることを世界中に露呈した。少なくとも多くの日本人はIOCに対して良い感情を持たなかった。

こうした国民感情を受け、マスコミは五輪前、開催に否定的な意見が多かった。それがいざ実際に開幕してみると、日本勢のメダルラッシュを受けて手のひらを返したように五輪絶賛に論調を変えた。
これに対してマスコミの姿勢を非難する声が多いが、マスコミとて理念と現実の突き合わせに苦悩する毎日だっただろう。開催前であれば、中止を求めるのはやむを得ない面がある。コロナウィルスの感染状況とは別に、実際問題として各種イベントをはじめ、学校行事、集会、催し物はことごとく中止に追い込まれていたのだ。それなのに五輪だけ特別扱いして開催というのは筋が通らない。国民感情に合わない。

しかし、だからといって開催が強行されてからも「五輪断固反対」を叫び続けるのは、現実問題として何も生むまい。五輪開催前の日本のニュースは、不愉快なことばかりだった。その主な理由が五輪運営側の不手際や不祥事とあれば、なおさらだ。五輪開催前の日本は、すでに日本国内だけの力で、国民の意識を上向かせるだけの良いニュースを生み出す力を失っていた。誰もが誰かを非難し、他人の非を責めることにより鬱憤を晴らす、ぎすぎすした嫌な感情が国中に渦巻いている感じだった。

そこへ来ての日本選手の大活躍だ。開催前に「五輪反対を叫んでいた」という理由だけで、開催後も五輪に批判的な論調を繰り返すのでは、いま唯一日本に与えられている「明るいニュースで世の中を上向かせる」という機会を、自ら逸してしまうことになろう。マスコミの「手のひら返し」を批判する人達は、五輪開催前の「ぎすぎすした世の中」が延々と続くことがお望みだったのだろうか。

マスコミの側にも問題はある。マスコミが延々と五輪反対キャンペーンを打っていたのは、政権批判のためだ。五輪批判の論調は、必ず着地点として「都政」「国政」の失策をあげつらっていた。マスコミにとって五輪批判はいわば「目的ありきの手段」だったため、簡単に方向転換ができる代物ではなかった。マスコミが政治と関係なく、本当にコロナウィルス感染拡大と開催リスクだけを問題にしていれば、開催後の方針転換も容易だったはずだ。マスコミの報道姿勢が叩かれたのは、かねてから五輪の論じ方が歪んでいたため、そのツケを自ら払わされたという面がある。

今回の日本代表選手団は、過去最高のメダル数を獲得し、躍進した。これはいわば「不幸中の幸い」だ。確かに日本は連日メダルラッシュに沸いた。良いニュースで国民の精神的健康も上向いた。しかし、感染拡大に関する五輪前の「課題」は何ひとつ解決しておらず、却って悪化している。五輪という夢から醒めたら、日本はまた以前と同じ課題に向き合わなければならなくなる。

まとめると、今回の五輪に関する良し悪しは、こんなところだろう。
よいところ
・日本人選手がめちゃくちゃ活躍した
・新競技おもしろかった
・日本で久々の大規模イベントに参加できた感

わるいところ
・オリンピック、金かかりすぎ
・IOCムカつく
・コロナの状況が依然として最悪
・性別、精神保全、SNS誹謗中傷など、オリンピックの新しい問題

各新聞の社説を見ると、これらを統括して全体をうまくまとめている社説は少ない。
まず読売新聞と産経新聞は論外だ。手放しの五輪讃歌。万々歳のハッピー論調。すごいぞ日本選手、すごいぞオリンピック。能天気にも程がある。一応ちょろっと「問題点」を書いてはいるが、単なる予防策に過ぎない程度の書き方であって、全体的な論調は「五輪大成功」だ。これでは今回の五輪を通して日本国民が学ぶべきことを啓発できまい。
これは純然たる「社の立場」だろう。例えば読売新聞は、「天皇」のナベツネをはじめ経営陣がすべて五輪利権を受ける側だから、五輪をゴリゴリ押すのは当たり前だ。今回の五輪の総括に関しては、読むに値しない社説と断じていい。

上に挙げた「よいところ」「わるいところ」をわりと万遍なく掬い取って総括しているのは朝日新聞と日本経済新聞だが、視点と文章力の両方の面で、朝日新聞のほうが上だろう。
朝日新聞は以前、五輪開催に反対していた。2021年5月26日の社説「夏の東京五輪 中止の決断を首相に求める」では五輪中止を強く訴える意見を掲載している。今回の社説では、朝日新聞は「社会情勢としては五輪開催に反対」と「いざ五輪が始まったら日本人選手が大活躍」の報じ方に葛藤があることを正直に書いている。

朝日新聞の社説は5月、今夏の開催中止を菅首相に求めた。努力してきた選手や関係者を思えば忍びない。万全の注意を払えば大会自体は大過なく運営できるかもしれない。だが国民の健康を「賭け」の対象にすることは許されない。コロナ禍は貧しい国により大きな打撃を与えた。スポーツの土台である公平公正が揺らいでおり、このまま開催することは理にかなわない。そう考えたからだ
(朝日社説)

一方で、本来のオリンピズムを体現したアスリートたちの健闘には、開催の是非を離れて心からの拍手を送りたい。極限に挑み、ライバルをたたえ、周囲に感謝する姿は、多くの共感を呼び、スポーツの力を改めて強く印象づけた。迫害・差別を乗り越えて参加した難民や性的少数者のプレーは、問題を可視化させ、一人ひとりの人権が守られる世界を築くことの大切さを、人々に訴えた
(同)


こういう書き方を「矛盾だ」と非難する向きもあろう。多くの国民が、開催前の「五輪に対する嫌悪感」と、開催後の「日本バンザイ」の感情を自分の中にうまく落し込むことに苦心していたのではないか。
今回のオリンピックは、どのみち伝染病という惨禍の中での強行開催なので、国民全員が何らかの葛藤を抱えたまま実施を受け入れなければならない大会だったのだ。その葛藤を自分の中で消化する能力の無い者が、やたらと他人を批判の矛先として口汚く罵り合って憂さ晴らしをする。今回のオリンピックを自分なりに統括することは、日本人にとっては難しいことだが、いまの日本にはこういう能力が全体的に欠けていることが明らかになったと思う。

まず「わるいこと」だが、朝日新聞は全体としては五輪反対の論調なので、その詳細を主として論じている。

懸念された感染爆発が起き、首都圏を中心に病床は逼迫(ひっぱく)し、緊急でない手術や一般診療の抑制が求められるなど、医療崩壊寸前というべき事態に至った。

これまでも大会日程から逆算して緊急事態宣言の期間を決めるなど、五輪優先・五輪ありきの姿勢が施策をゆがめてきた。コロナ下での開催意義を問われても、首相からは「子どもたちに希望や勇気を伝えたい」「世界が一つになれることを発信したい」といった、漠とした発言しか聞こえてこなかった

今回の大会は五輪そのものへの疑念もあぶり出した。五輪競技になることで裾野を広げようとする競技団体と、大会の価値を高めたいIOCや開催地の思惑が重なって、過去最多の33競技339種目が実施され、肥大化は極限に達した

延期に伴う支出増を抑えるため式典の見直しなどが模索されたが実を結ばず、酷暑の季節を避ける案も早々に退けられた。背景に、放映権料でIOCを支える米テレビ局やスポンサーである巨大資本の意向があることを、多くの国民は知った。財政負担をはじめとする様々なリスクを開催地に押しつけ、IOCは損失をかぶらない一方的な開催契約や、自分たちの営利や都合を全てに優先させる独善ぶりも、日本にとどまらず世界周知のものとなった


どれも「そのとおり」と頷くしかない指摘だ。日本選手の活躍に喜ぶ感情とは別に、これらの問題は厳然として存在することは認めなくてはならない。これは五輪に限った問題ではなく、今後も日本におけるイベント開催、コロナとの付き合い方に直結する、普遍的な問題だ。

一方で朝日新聞は「よいところ」について、「新種目」と「選手の精神的衛生面」に関しておもしろいことを言っている。

選手の心の健康の維持にもかつてない注目が集まった。過度な重圧から解放するために、国を背負って戦うという旧態依然とした五輪観と決別する必要がある。10代の選手が躍動したスケートボードなどの都市型スポーツは、その観点からも示唆を与えてくれたように思う。

正直なところ、今回の各紙の社説で僕が朝日新聞が一番良いと思った根拠は、ここの部分だ。
五輪開催前、日本のテニス選手、大坂なおみが精神的状況を理由に全仏オープンの記者会見を拒否したことが問題になっていた。テニスの4大大会では選手のメディア対応はルール化された義務であり、これを拒否することはできない。大坂なおみはこれを拒絶し、批判されるや後出しの形で「鬱病」というカードで世論の非難をかわそうとする姿勢をとった。

それを受ける形で、五輪では女子体操の「絶対女王」シモーン・バイルスが「心の健康を何より優先するため」という理由で競技を棄権した。これは要するに、従来の言い方をすれば「プレッシャーに負けた」というだけのことだろう。しかし、こういう競技に対する姿勢は個人だけの問題ではなく、その国、その競技に関わる構造的な問題という面もあろう。競技の歴史が長い伝統的なものであればあるほど、そうした柵は大きいものとなる。

だから、10代の選手が朗らかに技を競う新競技がオリンピックに向かう選手のあり方そのものを変える契機になるかもしれない、という指摘は優れた視点だと思う。スケートボード、サーフィン、スポーツクライミングなどの新競技は、日本人が躍進したこともあり、注目を集めた。それらの競技で、試技が終わった選手に対して、国籍・チーム関係なく健闘を称え合う様子は、他の競技で見られないものだった。そこには「オリンピック新競技採用までの道のりをともに戦ってきた『仲間』」という意識もあったと思う。しかしそれ以前に、そういう競技ではそもそもお互いを「競技仲間」と考え、凄い技には無条件に敬意を払う、という文化が根ざしているように見える。

前回の東京オリンピックは露骨に国威発揚の場だった。選手は「お国のために」戦い、戦後でありながら戦時中であるような重苦しい悲壮感が漂っていた。男子マラソンで競技場のゴール直前に抜かれて3位になった円谷幸吉は、家族・国民・マスコミの集中砲火を受けて自殺に追い込まれている。
そういう「国威発揚型」の動機付けでは、もはや優れた成績を残すことはできない、ということだろう。国威発揚型の典型は、オリンピックの成績が生涯の保証につながった旧東欧諸国だが、そのような社会システムはすでに存在しない。スポーツで良い成績をあげ、長く競技を続けるために必要なものは何か、今回のオリンピックでは顕在化した感がある。

どの新聞もとりたてて指摘していないが、今回からオリンピックの新しい面として、視聴者にとって「ただ観るだけのもの」ではなく、「観る側の姿勢が問われるもの」という、双方向のものになったということが挙げられる。
つまり、SNSによる選手個人への誹謗中傷の攻撃。国によっては組織的と思われる大量の中傷コメントで、対戦国の相手を貶める行為が続発した。多くの選手がそうした個人的な中傷攻撃に対する抗議の声をあげている。

これは、今回の五輪開催に際して「開催するべきではないという社会情勢」と「開催後の興奮と喜び」をうまく自分の中で消化できない幼稚な精神性と、根が同じ問題だ。誰だって、応援している自国の選手が敗れれば面白くない。しかし、それを自分の中で消化できず、負の感情をそのまま相手にぶつける。幼稚というよりも粗野だ。人間社会で生活し、他人と共存する根本的な姿勢を根底から放棄している。
現在は情報技術が発達し、自分の思っていることを広く世に知らしめ、特定の個人に思いを届けることが簡単になっている。その情報技術を誤った方向に振りかざし、「自分がイヤだった」というだけの理由で他人を安易に傷つける行為は、罰則に値する愚行だろう。世の中には法整備によって実刑が課されないと行為の善悪が判断できない低俗な人間が多い。それらの行為を厳禁するルール作りは今後の課題だろう。

オリンピックは終わった。普段の日常に戻った日本に残された現実は、悪化した感染拡大だ。日本と世界は根本的な問題を解決すること無しに、犠牲を承知の上で五輪を開催するという道を選んだ。選んだ以上は、その後に残されたものに適切に対処する義務がある。それを対処せずに放り出すような真似は許されない。そこまで含めて「五輪開催」の範疇だろう。どれほどの具体策を打てるのか、今後も注視する必要がある。



文句言いながら競技を観ても全然面白くなかろう。
「東京五輪閉幕 混迷の祭典 再生めざす機に」
(2021年8月9日 朝日新聞社説)
東京五輪が終わった。  新型コロナが世界で猛威をふるい、人々の生命が危機に瀕(ひん)するなかで強行され、観客の声援も、選手・関係者と市民との交流も封じられるという、過去に例を見ない大会だった。この「平和の祭典」が社会に突きつけたものは何か。明らかになった多くのごまかしや飾りをはぎ取った後に何が残り、そこにどんな意義と未来を見いだすことができるのか。異形な五輪の閉幕は、それを考える旅の始まりでもある。

 ■「賭け」の果ての危機
 朝日新聞の社説は5月、今夏の開催中止を菅首相に求めた。努力してきた選手や関係者を思えば忍びない。万全の注意を払えば大会自体は大過なく運営できるかもしれない。だが国民の健康を「賭け」の対象にすることは許されない。コロナ禍は貧しい国により大きな打撃を与えた。スポーツの土台である公平公正が揺らいでおり、このまま開催することは理にかなわない。そう考えたからだ。しかし「賭け」は行われ、状況はより深刻になっている。懸念された感染爆発が起き、首都圏を中心に病床は逼迫(ひっぱく)し、緊急でない手術や一般診療の抑制が求められるなど、医療崩壊寸前というべき事態に至った。五輪参加者から感染が広がったわけではないなどとして、首相や小池百合子都知事、そして国際オリンピック委員会(IOC)のバッハ会長らは判断の誤りを認めない。しかし、市民に行動抑制や営業の自粛を求める一方で、世界から人を招いて巨大イベントを開くという矛盾した行いが、現下の危機と無縁であるはずがない。政府分科会の尾身茂会長は4日の衆院厚生労働委員会で「五輪が人々の意識に与えた影響はあるというのが我々専門家の考えだ」「政治のリーダーのメッセージが一体感のある強い明確なものでなかった」と述べた。至極当然の見解である。

■失われた信頼と権威
これまでも大会日程から逆算して緊急事態宣言の期間を決めるなど、五輪優先・五輪ありきの姿勢が施策をゆがめてきた。コロナ下での開催意義を問われても、首相からは「子どもたちに希望や勇気を伝えたい」「世界が一つになれることを発信したい」といった、漠とした発言しか聞こえてこなかった。不都合な事実にも向き合い、過ちを率直に反省し、ともに正しい解を探ろうという姿勢を欠く為政者の声を、国民は受け入れなくなり、感染対策は手詰まり状態に陥っている。安倍前政権から続く数々のコロナ失政、そして今回の五輪の強行開催によって、社会には深い不信と分断が刻まれた。その修復は政治が取り組むべき最大の課題である。

今回の大会は五輪そのものへの疑念もあぶり出した。五輪競技になることで裾野を広げようとする競技団体と、大会の価値を高めたいIOCや開催地の思惑が重なって、過去最多の33競技339種目が実施され、肥大化は極限に達した。延期に伴う支出増を抑えるため式典の見直しなどが模索されたが実を結ばず、酷暑の季節を避ける案も早々に退けられた。背景に、放映権料でIOCを支える米テレビ局やスポンサーである巨大資本の意向があることを、多くの国民は知った。財政負担をはじめとする様々なリスクを開催地に押しつけ、IOCは損失をかぶらない一方的な開催契約や、自分たちの営利や都合を全てに優先させる独善ぶりも、日本にとどまらず世界周知のものとなった。この構造・体質に切り込まなければ、五輪を招致する都市は早晩なくなるだろう。IOCもそれを察知し、早手回しに32年の開催地を決めたが、持続可能性への疑義は深まるばかりだ。五輪憲章はIOCを「国際的な非政府の非営利団体」と定義する。実態はどうか、その足元から見つめ直すべきだ。

■虚飾はいだ先の光
一方で、本来のオリンピズムを体現したアスリートたちの健闘には、開催の是非を離れて心からの拍手を送りたい。極限に挑み、ライバルをたたえ、周囲に感謝する姿は、多くの共感を呼び、スポーツの力を改めて強く印象づけた。迫害・差別を乗り越えて参加した難民や性的少数者のプレーは、問題を可視化させ、一人ひとりの人権が守られる世界を築くことの大切さを、人々に訴えた。選手の心の健康の維持にもかつてない注目が集まった。過度な重圧から解放するために、国を背負って戦うという旧態依然とした五輪観と決別する必要がある。10代の選手が躍動したスケートボードなどの都市型スポーツは、その観点からも示唆を与えてくれたように思う。強行開催を通じて浮かび上がった課題に真摯(しんし)に向き合い、制御不能になりつつある五輪というシステムの抜本改革につなげる。難しい道のりだが、それを実現させることが東京大会の真のレガシー(遺産)となる。


東京五輪閉幕 輝き放った選手を称えたい
(2021年8月9日 読売新聞社説)
57年ぶりの東京五輪が幕を閉じた。新型コロナウイルスの世界的な流行という困難を乗り越えて開催された異例の大会として、長く語り継がれることだろう。今大会は、史上初めて開幕が1年延期され、大部分の会場が無観客になるなど、新型コロナの影響によって、当初計画から度重なる変更を余儀なくされてきた。

◆強化策が実を結んだ
17日間の会期中、感染力の強いデルタ株の広がりで東京都内の新規感染者数が急増し、一部に中止を求める声も上がった。しかし、世界各国から集まった一流の選手たちが見せた力と技は多くの感動を与えてくれた。厳しい状況の中でも大会を開催した意義は大きかったと言える。選手たちは、五輪の開催が危ぶまれる不安定な状態で練習を続けた。大会中も感染対策のために、行動制限を課せられた。選手たちがひたむきに競技と向き合う姿に励まされた人は多かっただろう。全力を尽くして戦った選手たちを称えたい。
日本選手団は、金27、銀14、銅17の計58個に上るメダルを獲得した。金メダルは、過去最多だった1964年の東京大会と2004年のアテネ大会の16個を大きく上回った。メダルの総数も、最も多かった。特に個人戦男女14階級のうち9階級を制した柔道や、2冠を達成した体操の橋本大輝選手、競泳の大橋悠依選手らの活躍は見事というほかない。新競技のスケートボードで10代選手が躍動するなど、話題も豊富だった。悲願の金メダルに輝いた野球やソフトボール、卓球の混合ダブルスなど、日本ならではの「チーム力」も光った。政府は、東京五輪の招致が決まった13年以降、選手の強化費を増やし、柔道などメダル獲得が有望視される競技に重点的に配分してきた。今回の好成績は、こうした対策が実を結んだと言えよう。

◆女子の活躍が目立った
一方、競泳はメダル獲得数が2000年のシドニー五輪以降で最も少ない3個にとどまった。若い世代の育成が課題だろう。東京五輪は、「多様性と調和」を大きな理念の一つに掲げた。開会式で日本選手団の旗手を務めたバスケットボールの八村塁選手や聖火リレーの最終ランナーだったテニスの大坂なおみ選手など、日本以外の国にルーツを持つ選手の存在もその象徴だ。様々な事情で母国を逃れた選手による「難民選手団」や、性的少数者(LGBT)であることを明かした選手も参加している。女性の活躍も目立った。583人の日本選手のうち、女子は史上最多の277人に上り、日本勢の金メダルの約半数を獲得した。男女平等を進めるため、混合種目も増えた。多様性を認め合う社会へと変わる契機にしたい。

◆浮き彫りになった問題
今大会は、東日本大震災から10年という節目にあたり、「復興五輪」とも位置づけられてきた。コロナ禍で海外の人たちに復興の様子を見てもらうことはかなわなかったが、表彰式ではメダリストに被災地の花束が贈られ、選手村の食事には現地の食材が使われた。来日した選手や関係者は数万人に上った。選手村などで大きな集団感染が起きなかったことが、成功の証しと言えるのではないか。多くのボランティアに支えられたことも忘れてはならない。
 一方、現代の五輪が抱える課題も浮き彫りになった。暑さが厳しい真夏に大会を開き、夜間に予選を行うなど、選手にとって厳しい競技日程になったのは、国際オリンピック委員会(IOC)に巨額の放映権料を支払う米テレビ局の意向が優先された結果だとされている。大会の延期に伴う追加経費や無観客で失われたチケット収入の 補填 は、ほとんど東京都や国が負うことになる。放映権料を確保しているIOCに比べ、開催都市のリスクが大きいとの指摘もある。開会式の直前には、演出担当者らが過去の人権軽視の言動などを指摘され、次々と辞任や解任に追い込まれた。大会組織委員会は、今回直面した課題を記録に残し、今後の五輪改革につなげるよう、IOCに提案することが必要だ。

24日からはパラリンピックが始まる。開会式は、再び緊急事態宣言が発令されている中での開催となる見通しだ。政府や組織委は、五輪で得た教訓をパラリンピックにも生かさなければならない。


「東京五輪が閉幕 古い体質を改める契機に」
(2021年8月9日 毎日新聞社説)
新型コロナウイルス下で行われた東京オリンピックが閉幕した。史上初の延期に加え、大半の会場に観客を入れず、選手を外部から遮断する「バブル方式」などの措置が取られた。祝祭感なき異例の大会となった。原則無観客で開催されたことによって、人の流れはある程度、抑制された。だが、マラソンなど公道での競技には、五輪の雰囲気を味わおうと人が詰めかけた。選手村では行動が制限され、ウイルス検査が連日行われた。ストレスの多い生活に選手から不満が漏れ、無断外出で大会参加資格証を剥奪される例もあった。選手にとっては「おもてなし」とは程遠い不自由な環境だっただろう。だが、感染を抑えるためには、やむを得ない対応だった。ただ、1年延期によるこの時期の開催が適切だったのかは、閉幕後も問われ続ける。酷暑の問題も含め、主催者と日本政府はきちんと検証しなければならない。

多様性求める選手たち
期間中、多様な価値観を受け入れる社会を求めて行動を起こす選手たちの姿が目立った。サッカー女子では人種差別に反対の意思を示すため、試合前に片膝をつくポーズをするチームが相次いだ。英国が呼び掛け、日本をはじめ対戦相手も同調した。国際オリンピック委員会(IOC)は、大会中の「政治的、宗教的、人種的」な宣伝活動を禁じている。だが、今大会では規則を緩和し、競技前などは認めた。禁止されている表彰式でも、陸上女子砲丸投げで銀メダルを獲得した米国の黒人選手が両腕を交差させ「X」のポーズを作った。「抑圧された人々が出会う交差点」という意味だという。
性差別を許さないという意思表示もあった。ドイツの体操女子チームは、肌の露出が多いレオタードではなく、足首までの「ユニタード」を着て試合に臨んだ。重量挙げでは、男性から女性へ性別を変更し、トランスジェンダーであることを公表したニュージーランドの選手が出場した。競技の公平性を疑問視する声もあったが、「自認の性」が尊重された。
国家の不当な圧力に抵抗した選手もいる。陸上女子短距離のベラルーシの選手は、予定外の種目に出場するようコーチから強要され、不満をネット交流サービス(SNS)に投稿した。その結果、帰国を命じられたが拒否し、隣国ポーランドへ亡命した。独裁下のベラルーシでは、大統領が成績の振るわない選手団に高圧的な態度を見せていた。
 「スポーツをすることは人権の一つである」。根本原則にそう記す五輪憲章は「すべての個人はいかなる種類の差別も受けることなく、オリンピック精神に基づき、スポーツをする機会を与えられなければならない」と定めている。選手たちは「五輪の精神」を身をもって示した。何事にも縛られず、自由にスポーツをしたいという純粋な思いの表れだ。

コロナ下でひずみ露呈
一方で、五輪を運営する側はひずみを露呈させた。IOCはコロナ下での五輪に対する国民の不安をよそに開催へと突き進んだ。IOCの財政は、米放送局の巨額放映権料と世界的スポンサーの協賛金に依存している。ビジネスを優先して、選手の健康や国民の安全が軽視された点は否めない。五輪をめぐる権限が、IOCに握られているといういびつな構図も浮き彫りになった。開催都市契約は「不平等条約」とも呼ばれ、その条項には中止の決定権はIOCが持ち、賠償責任は一切負わないとのくだりがある。
 IOCだけでなく、政府や東京都も開催ありきの姿勢を貫いた。「安全・安心」を繰り返すだけで開催の意義を語らず、政権浮揚に五輪を利用しようとするかのような姿勢が国民の反発を招いた。大会組織委員会の森喜朗前会長の女性蔑視発言や開会式演出担当者の過去の言動など、関係者の差別的な体質が次々と表面化した。「多様性と調和」という大会ビジョンは見せかけに過ぎないと多くの人の目には映ったはずだ。五輪の暗部が白日の下にさらされ、「開催する意義は何なのか」という根源的な問いが人々に投げ掛けられた。古い体質を改めなければ、五輪は新たな時代に踏み出せない。憲章の理念を実現しようとした選手たちの声に耳を傾けることが、その一歩となるはずだ。


「東京五輪閉幕 全ての選手が真の勝者だ 聖火守れたことを誇りたい」
(2021年8月9日 産経新聞社説)
これほど心を動かされる夏を、誰が想像できただろう。日本勢の活躍が世の中に希望の火をともしていく光景を、どれだけの人が予見できただろう。確かなことは、東京五輪を開催したからこそ、感動や興奮を分かち合えたという事実だ。新型コロナウイルス禍により無観客を強いられたが、日本は最後まで聖火を守り抜き、大きな足跡を歴史に刻んだ。その事実を、いまは誇りとしたい。
57年ぶり2度目の東京五輪が幕を閉じた。日本勢の金メダルは世界3位の27個で、1964(昭和39)年東京五輪と2004年アテネ五輪の16個を超えた。銀14個、銅17個を合わせた計58個も史上最多だ。

日本勢躍進に拍手送る
バドミントンや競泳が期待されたほど振るわず、コロナ禍による大会の1年延期が多くの選手に影響したことは否めない。代表選手の置かれた厳しい環境について、陸上男子400メートル障害で長く活躍した為末大氏は「マラソンでいえば、30キロまで来ながらスタート地点に戻されるようなもの」と語ったことがある。開催の可否をめぐり世論が割れた中で、精神面でも不安定な立場に置かれたはずだ。それでも開催を信じ、鍛錬を続けた選手たちの道のりには、メダルの色や有無を超えた価値がある。
世界も強かった。競泳では、海外勢による6個の世界記録と20個の五輪記録が生まれた。陸上男子100メートル準決勝では、中国の蘇炳添(そ・へいてん)が9秒83のアジア新記録を出し、決勝の舞台に進んだ。9秒台のスプリンターが4人いる日本にも、進化の余白があることを示している。

今大会から採用された、若者に人気の「都市型スポーツ」は新しい景色を見せてくれた。スケートボード女子パークの決勝が忘れ難い。金メダル最有力といわれた岡本碧優(みすぐ)が逆転を懸けた大技に失敗して競技を終えた直後、ライバルたちが駆け寄り、抱擁の輪と肩車で敗者をたたえた。その多くは10代の若者だった。彼女たちが表現したものは、他者の痛みへの共感、挑戦する勇気への賛美、心の深い部分で結ばれた戦友との連帯だろう。コロナ禍の1年半で、他者を疑いの目で見ることに慣れた大人たちへの警鐘が、そこからは読み取れる。無観客が、日本にとって大きな損失となったことは間違いない。だが、選手たちは連日の熱戦で観客席の空白を埋めた。誠意に満ちた「おもてなし」で、海外選手団から好評を得たボランティアも後世に残る財産だ。国際オリンピック委員会(IOC)のバッハ会長は6日の会見で「無観客で魂のない大会になるのではないかと思ったが、そうはならなかった」と述べた。魂を吹き込んだのは選手たちであり、運営に携わった全ての大会関係者だ。招致決定から8年に及んだ開催準備の労に、心から感謝したい。

魂を吹き込んでくれた
開幕前は「観客のいない五輪に意味があるのか」との懸念もあった。それでも、大会を通して国内の歓喜は途切れず、世界からは賛辞が寄せられた。世界で何十億人もの人々が、テレビやインターネットで観戦したことも忘れてはならない。開催準備の過程は多くの反省点も残した。今年に入り、大会理念の「多様性」に反する言動で関係者が相次ぎ辞任するなど世界に混乱をさらし続けた。今後の検証は避けて通れない。心ない選手批判もあった。スポーツを軽んじる人々が存在することを反映している。だが、スポーツは、人がどんな挫折からもはい上がれることを教えてくれた。その象徴が白血病を乗り越えて代表入りした競泳の池江璃花子(りかこ)だ。「人生のどん底に突き落とされて、ここまで戻ってくるのは大変だった。だけど、この舞台に立てた自分に誇りを持てる」こう語った池江だけではない。コロナ禍に屈することなく、五輪の舞台に集った全ての選手たちが、この夏の真の勝者だろう。私たちもまた、東京五輪を開催した事実を大切にしたい。熱戦に心を動かされた経験を、余すことなく後世に語り継がなければならない。24日からはパラリンピックが始まる。五輪の熱気を冷ますことなく、選手たちの戦いを最後まで見守り、支え続けたい。


「「コロナ禍の五輪」を改革につなげよ」
(2021年8月9日 日本経済新聞社説)
東京五輪が幕を閉じた。新型コロナウイルスの影響で1年延期され、さらには大半の競技が無観客の異例の大会となった。 感染は収まらず、東京都に緊急事態宣言が発令される中で競技が続いた。都の1日の感染者数は5千人を超える日もあり、まさに非常時の開催となった。携わったスタッフらに敬意を表したい。開会直前まで混乱が続き、批判が渦巻く中、選手らは外部と接触を断つバブル方式を徹底、実力を発揮した。スポーツの力を存分に証明した大会といえる。日本も過去最多の58のメダルを得た。

簡素化へさらに努力を
五輪は理念として、スポーツを通じた人間の尊厳の保持や平和な社会の実現への貢献をあげる。今後も、国際社会において担う役割はきわめて重い。持続可能な運営のためには何が必要なのか。今大会を振り返り、考えてみたい。東京五輪では33の競技で339もの種目が行われた。前回のリオデジャネイロ五輪では、28競技、306種目だった。ジェンダー平等の観点から、競泳、陸上、柔道などで男女混合リレーや団体戦が加わったことも影響している。幅広く取り入れることで、普段はなじみのないマイナーな競技に光が当たるメリットはあろう。今回、新たに採用されたスケートボード、サーフィン、スポーツクライミングなどは、日本勢がメダルに輝いたこともあり、若い世代を中心に五輪への関心が高まり、愛好者の裾野も広がるだろう。

一方で、一部の競技は、すでにプロスポーツとして洗練され、歴史と伝統を誇る別の舞台で、選手らが頂点を争っている。五輪の場で競うことに特別な意義がある、との主張もうなずけるが、期間は限られ、会場にも制約がある。開催都市の負担を軽減し、肥大化を止める観点から競技の削減を検討しなければならない。

関連のイベントについても見直しが必要だ。東京五輪では、聖火リレーが全都道府県を4カ月間かけてまわり、全国で1万人のランナーが参加した。コロナの感染拡大により、トーチキス形式で受け継がれたところも多かったが、沿道で聖火をつないだ自治体では、スポンサーの車両が先導し、派手なイベントと化していたとの声もある。五輪の意義を伝え、大会への機運を高めるという原点に立ち返るべきだ。

式典についても指摘しておきたい。先月23日の開会式は、感染予防のため入場する200を超えるチームの間隔を空けるといった理由で、3時間半以上を要した。夜空を彩る花火や、開催国や都市の文化を紹介するパフォーマンスは開会式の恒例となったが、あまりに長過ぎはしまいか。進行や演出に工夫が求められる。

次回2024年のパリ五輪は7月26日から、次の28年のロサンゼルス五輪は同21日から、それぞれ17日間の日程で行われる予定だ。北半球の諸都市は年間で最も暑い時期と重なる。高温多湿の東京を避け、きのう札幌で行われた男子マラソンでは、それでも106人中30人が途中で棄権した。夏季五輪の開催時期については、以前から多額の放映権料を国際オリンピック委員会(IOC)側に支払っている米国のテレビ局の意向があるとされてきた。真夏にはスポーツイベントが少ない一方、9月に入ると人気のアメリカンフットボールの公式戦が始まる。視聴率やスポンサーとの関係で選手や観客の健康を犠牲にするのは本末転倒で、改めるべき時期に来ている。

多様性を未来へ
今大会は参加する選手の女性の割合が48.8%と五輪史上最も高くなったという。開会式の旗手も9割の国・地域で男女ペアがつとめた。トランスジェンダーを公表した選手が初めて出場し、競技の公平性と人権のバランスをめぐって種々の議論を巻き起こした。「多様性と調和」は東京大会の理念の柱である。「違いを認めあい、受け入れること」。実現への道は平たんではなかろう。だが、国籍や人種を超え、同じルールの下で競うスポーツを通じ、その理念へ近づくことで、必ずや社会のありようも変わるはずだ。

24日からは東京パラリンピックが始まる。心身の障害を抱えつつ限界に挑む選手の姿は、誰もが個性と持てる能力を発揮できる公正な社会のモデルとなる。選手の中には基礎疾患を抱え、コロナに感染すると重症化する人もいる。補助器具の消毒や介助者の感染予防も必要だ。「東京」の心を伝えるため、万全の対策で大会を成功に導いてほしい。