「医学部の入試状況調査 男子優位はやはり不自然」
(2018年9月6日 毎日新聞社説)
「医学部入試 明確な基準で良い医師を」
(2018年9月6日 産経新聞社説)
「医学部入試 公正かつ明確な選考基準を」
(2018年09月05日 読売新聞社説)
東京医科大が、入学試験の得点を操作し、女子学生に不利な採点をしていたことが摘発された。それに関する社説。
事実報道として見ると、産経新聞の社説が役に立つ。一方、提言としての社説を評価すると、読売新聞が頭一つ抜けている。
この件が問題なのは、件の事例が東京医科大だけに限らず、どの大学医学部でも起きていた問題らしい、ということだ。その側面を明らかにしただけでも産経新聞は一定の仕事をしている。ところが、この件を「だから医学部はしっかりしろ」というだけでは、ことの解決にはつながらないだろう。
読売新聞の社説の要点は、「これは大学医学部だけの問題ではなく、日本の医療システム全体の根幹に関わる問題だ」という視点をもっていることだ。医学部の入試採点操作は氷山の一角であり、入試採点の透明化を訴えるだけでは単なる対処療法に過ぎない。その点、提言を「入試」に絞っている毎日新聞は説得力に欠ける。
産経新聞の言う通り、医学部全体で「男子を採る」という傾向があるのは明らかだろう。問題は「なぜそうなっているのか」だ。
単純に考えると、「その方が都合がいいから」「女性が必要な事態になっていないから」というあたりが現場の医療関係者の言い分だろう。その言い分が妥当かどうかの問題ではなく、事実としてそういう感覚が根っこにあると思う。
「その方が都合がいいから」という背景には、女性医療従事者の離職率の高さがある。結婚、出産、育児などで一時的にせよ離職するということは、病院側にとっては「余計な人員補充」が必要になる、ということなのだろう。「女はどうせ辞める」という観念が、医療現場から女性を締め出そうとする機運の背景にあると思う。
いくら「そんなことは許されない」「今はそんな時代ではない」と力こぶをつくっても、現実として医療現場ではそういう状況に対処できる体制がつくられていないのだろう。専門技能が必要な特殊な職業でもあり、安易に「休職し、戻る」という人材システムが構築されていない。
「女性が必要な事態になっていないから」という考え方には、世の中の推移に人の感覚が追いついていない時代錯誤を感じる。日本は他国と比較にならないほどの高齢化社会であり、かつ医療福祉が充実している。病院の人材不足と医者のブラック勤務はもはや社会問題だ。「医者が足りない」というのは日本全国に共通した問題であり、そこから女性を排除するのは理にかなっていない。
そもそも、女性はどういう時に社会に進出してきたのか。
一橋大学の2010年、世界史の入試問題で、女性参政権の歴史を問う問題が出題されている。
「国民」なんていう普通名詞を指定語句にしているあたりが一橋らしいが、この語句から想像する限り、一橋大学の考えとしては女性参政権拡大の契機となったのは「クリミア戦争」「第一次世界大戦」「ロシア革命」の3つということだろう。
「クリミア戦争」といえばナイチンゲール。地獄のような泥沼の戦場で医療行為の従事し、戦場での致死率を劇的に下げることに貢献した。ヴィクトリア女王が彼女の医療行為を全面的に支援したこともあり、国民の間での認知度も高かった。「女性が戦場で活躍している」という事実は、女性の地位向上に大きく貢献しただろう。
「第一次世界大戦」については、日本と欧州各国では捉え方が異なる。日本にとって地獄の戦争とは第二次世界大戦下の太平洋戦争だったが、欧州各国では第一次世界大戦のほうが犠牲者が多い。国民を総動員する総力戦で、社会的な消耗もはるかに大きかった。国民総力戦 にはもちろん女性も動員され、工場や生産など「銃後の貢献」によって当時の戦況を支えていた。
「ロシア革命」が女性の地位向上に果たした役割は、わりと盲点だと思う。社会主義革命においては、対立構造は「ブルジョア」と「労働者」しかなく、性別間や民族間の差別意識は無い。1918年、ソヴィエト政権は世界で初めて女性参政権を実現させた。「労働者であれば男女の区別はない」という考え方だ。
この画期的な社会改革は当時の欧米諸国に衝撃を与え、「自分たちのほうが先進的」という対抗意識によって次々と女性参政権が実現する。1918年にはイギリス(30歳以上の女性限定)、1919年にはドイツ、1920年にはアメリカでウィルソン大統領が女性に参政権を与えている。
現代的な視点では「大失敗した社会実験」扱いされている社会主義革命が、現在につながる社会システムをいち早く実現させていたのは、歴史の皮肉だろう。
これらの歴史を顧みると、女性の社会的地位は「歴史が女性を必要としている時に、女性の地位は上がる」という経緯があることが分かる。クリミア戦争や第一次大戦はその範疇だろう。
ところがロシア革命に関してはそうではない。イデオロギーが先にあり、現実をそれに沿わせた「方策」によって女性参政権が実現している。
ロシア革命下で女性参政権が実現したのは、「選択」の問題であって「善悪」の問題ではない。女性が政治に参加できないのが「悪いこと」だから参政権が認められたのではなく、当時のソヴィエト政権は「女性も政治に参加する国づくりをする」という「選択」を行った。
現在の日本では、その「選択」という意識が希薄なのだと思う。これは日本の歴史教育において最も欠けている視点だろう。
たとえば、「男女平等の理念」を高らかに掲げて、イスラム諸国における女性の地位を非難する人がいる。女性を家庭に縛り付け、社会的な進出を阻むのはけしからん。そういう理想論者が後を絶たない。
しかしイスラム諸国の理念をよく調べてみると、砂漠気候の高温という過酷な自然環境において「女性を守り、女性に負担をかけない」という原則が出発点になっている。子供を生んで育てるという過酷な仕事に集中してもらうため、生活のための労働を「免除する」という感覚が大元にある。
誤解している人が多いが、イスラム諸国は共産主義が多い。誤解の根源は「社会主義」と「共産主義」の違いを理解していないことだ。
「共産主義」というのは、極論すると「働かなくても皆が食べていける」という理想状態のことだ。医療、教育はすべて無料。ベーシックインカムが保証され、国民の生活はすべて国が保証する。
イスラム諸国は、豊富な原油資産によって、共産主義を実現している国が多い。別にマルクス主義を信奉しているという意味ではなく、社会システムとして国民の生活が保証され「報酬は労働の対価」という概念が薄い。イスラム諸国だけでなく、リン鉱石の対外輸出によって「誰も働かない国」として有名だったナウルも「共産主義国」の一例だ。
そういう国々では、誰も好き好んで働こうとしない。だから政治は仕方なく王族が担うことになる。世界史で共産主義革命を勉強した頭では「共産主義国で王制が残存している」というのは矛盾に見えるが、それはマルクス主義が掲げる共産主義革命の部分しか見ていないだけに過ぎない。
一方、「社会主義国」というのは、共産主義をめざす過渡的な段階の国々を指す。本来的には共産主義体制を確立したいが、現実的な問題として国がそこまで豊かではない段階だ。だから国による強力な統制を必要とする。国民全体が福祉を享受するためには、国民全体が政治体制を支えなければならない。現実可能性はともかくとして、理屈は合っている。
実際には、理想と現実のギャップがありすぎ、社会主義国が自転車操業に陥り、次々と崩落したのは歴史が示す通りだ。
実際には出発時の理念と乖離している部分はあるだろうが、基本的にイスラム諸国が女性を社会に出さないのは「する必要がなかったから」なのだ。それはイスラム諸国が行った「選択」であって、歴史や社会的背景を超越した「善悪」の問題ではない。背負った歴史や社会背景が違う立場から「女性の社会進出を阻むのはけしからん」と口を出せる問題ではないのだ。
善悪の判断というのは、何をもって「善」とするのか、最終的には価値観の問題になる。自らの立場を絶対的なものと勘違いし、価値観の違う人達に「間違っている」と偉そうに指摘するのは、歴史的素養の不足を露呈しているに過ぎない。
その「歴史的素養の不足」の裏返しが、いまの日本で起きてはいないか。
日本は欧米的な価値観に追従し、女性が社会に進出し活躍する世の中を善しとする価値観を「選択」した。しかし、その「選択」に見合うほどの覚悟をもって社会システムを構築しようとする意識が低過ぎる。
日本にも、女性が活躍して国を支えた時期があった。
日本の産業革命は軽工業から始まったが、その担い手は主に女性だった。1872年に富岡製糸場が操業を開始し、そこから全国に軽工業の産業体制が広まった。そこから得られた外貨によって日本が軍国主義の基盤を整えたのは常識の範疇だろう。
しかし、日本の婦人参政権が実現したのは1945年、太平洋戦争の後だ。いくらなんでも時間がかかりすぎている。しかも自発的に制定したというより、GHQによって草案が作られた新憲法のもとでの実現だった。太平洋戦争レベルの外圧があって、アメリカの圧力があって、ようやく実現した観がある。
かように日本という国は「国のシステムを大きく変える」という必要性に、鈍いのだ。産業革命期から大戦期まで、女性の力が必要でなかったわけではない。女性が国に貢献していなかったわけでもない。しかし「今までそうだったから」という慣性にどっぷり嵌り、現実的には不備が生じていても、体制を変えようとはしない。
加えて、日本は「男女は平等に社会に貢献する」という価値観を、すでに選択している。イスラム諸国とは違うのだ。だから、仮に女性が社会に貢献できない側面があると思い込んでも、理念として男女の平等を実現する義務がある。
実際の病院現場でも、女性を排除して男だけで現場を回した方が手っ取り早いという側面があるのかもしれない。しかし、だからといって制度上それを固定化するような施策は許されない。
実際のところ、女性が出産や育児で職場から一時的に離脱することを「社会貢献できない」と見なすこと自体、病院という企業体の利益しか考えていない偏狭な考え方だ。子供を生み、育てることのどこが「社会貢献してない」のだろうか。
実際のところ病院は経営が苦しいのかもしれないが、目先の利益に捉われて、自らが選択した社会理念に反する施策を採り続けるのは、病院経営者の怠慢だろう。女性が出産・育児で離脱するのであれば、その離脱を計算に入れた上での人事シフトを構築しなければならない。
極論すれば、医学部の入試点数操作の一件は、医学部の問題ではなく、病院経営者の怠慢が日本の医療現場にもたらした現状が問題なのだろう。入試点数操作は、その病理が表にあらわれた現象のひとつに過ぎない。医療というのはひとつの社会システムであり、その根本的なシステムを、自らが選択した理念に沿って構築できないのであれば、その組織が社会的に認められる資格はない。
日本は社会システムの構築を後回しにし続け、戦争で大きなツケを支払う羽目になった。今の日本でも、女性の社会進出のシステムを適切に構築する努力を後回しにし続けるようだと、数年後にその大きなツケを支払う羽目になると思う。少数の労働力が大量の高齢者を支える時代はすぐ目前に来ている。女性の力なしにその事態を乗り切れると思っているのなら、小学校からの歴史の勉強を一からやり直す必要がある。
「医学部の入試状況調査 男子優位はやはり不自然」
(2018年9月6日 毎日新聞社説)
「医学部入試 明確な基準で良い医師を」
(2018年9月6日 産経新聞社説)
「医学部入試 公正かつ明確な選考基準を」
(2018年09月05日 読売新聞社説)
(2018年9月6日 毎日新聞社説)
「医学部入試 明確な基準で良い医師を」
(2018年9月6日 産経新聞社説)
「医学部入試 公正かつ明確な選考基準を」
(2018年09月05日 読売新聞社説)
東京医科大が、入学試験の得点を操作し、女子学生に不利な採点をしていたことが摘発された。それに関する社説。
事実報道として見ると、産経新聞の社説が役に立つ。一方、提言としての社説を評価すると、読売新聞が頭一つ抜けている。
この件が問題なのは、件の事例が東京医科大だけに限らず、どの大学医学部でも起きていた問題らしい、ということだ。その側面を明らかにしただけでも産経新聞は一定の仕事をしている。ところが、この件を「だから医学部はしっかりしろ」というだけでは、ことの解決にはつながらないだろう。
読売新聞の社説の要点は、「これは大学医学部だけの問題ではなく、日本の医療システム全体の根幹に関わる問題だ」という視点をもっていることだ。医学部の入試採点操作は氷山の一角であり、入試採点の透明化を訴えるだけでは単なる対処療法に過ぎない。その点、提言を「入試」に絞っている毎日新聞は説得力に欠ける。
産経新聞の言う通り、医学部全体で「男子を採る」という傾向があるのは明らかだろう。問題は「なぜそうなっているのか」だ。
単純に考えると、「その方が都合がいいから」「女性が必要な事態になっていないから」というあたりが現場の医療関係者の言い分だろう。その言い分が妥当かどうかの問題ではなく、事実としてそういう感覚が根っこにあると思う。
「その方が都合がいいから」という背景には、女性医療従事者の離職率の高さがある。結婚、出産、育児などで一時的にせよ離職するということは、病院側にとっては「余計な人員補充」が必要になる、ということなのだろう。「女はどうせ辞める」という観念が、医療現場から女性を締め出そうとする機運の背景にあると思う。
いくら「そんなことは許されない」「今はそんな時代ではない」と力こぶをつくっても、現実として医療現場ではそういう状況に対処できる体制がつくられていないのだろう。専門技能が必要な特殊な職業でもあり、安易に「休職し、戻る」という人材システムが構築されていない。
「女性が必要な事態になっていないから」という考え方には、世の中の推移に人の感覚が追いついていない時代錯誤を感じる。日本は他国と比較にならないほどの高齢化社会であり、かつ医療福祉が充実している。病院の人材不足と医者のブラック勤務はもはや社会問題だ。「医者が足りない」というのは日本全国に共通した問題であり、そこから女性を排除するのは理にかなっていない。
そもそも、女性はどういう時に社会に進出してきたのか。
一橋大学の2010年、世界史の入試問題で、女性参政権の歴史を問う問題が出題されている。
(2) アメリカ合衆国以外の各国においても、この1920年前後に、女性参政権が実現した国々が多い。なぜこの時期に多くの国々で女性参政権が実現したのか、その歴史的背景を説明しなさい。その際、下記の語句を必ず使用し、その語句に下線を引きなさい(350字)。クリミア戦争 総力戦 ウィルソン ロシア革命 国民(一橋大学 2010年 [2] )
「国民」なんていう普通名詞を指定語句にしているあたりが一橋らしいが、この語句から想像する限り、一橋大学の考えとしては女性参政権拡大の契機となったのは「クリミア戦争」「第一次世界大戦」「ロシア革命」の3つということだろう。
「クリミア戦争」といえばナイチンゲール。地獄のような泥沼の戦場で医療行為の従事し、戦場での致死率を劇的に下げることに貢献した。ヴィクトリア女王が彼女の医療行為を全面的に支援したこともあり、国民の間での認知度も高かった。「女性が戦場で活躍している」という事実は、女性の地位向上に大きく貢献しただろう。
「第一次世界大戦」については、日本と欧州各国では捉え方が異なる。日本にとって地獄の戦争とは第二次世界大戦下の太平洋戦争だったが、欧州各国では第一次世界大戦のほうが犠牲者が多い。国民を総動員する総力戦で、社会的な消耗もはるかに大きかった。国民総力戦 にはもちろん女性も動員され、工場や生産など「銃後の貢献」によって当時の戦況を支えていた。
「ロシア革命」が女性の地位向上に果たした役割は、わりと盲点だと思う。社会主義革命においては、対立構造は「ブルジョア」と「労働者」しかなく、性別間や民族間の差別意識は無い。1918年、ソヴィエト政権は世界で初めて女性参政権を実現させた。「労働者であれば男女の区別はない」という考え方だ。
この画期的な社会改革は当時の欧米諸国に衝撃を与え、「自分たちのほうが先進的」という対抗意識によって次々と女性参政権が実現する。1918年にはイギリス(30歳以上の女性限定)、1919年にはドイツ、1920年にはアメリカでウィルソン大統領が女性に参政権を与えている。
現代的な視点では「大失敗した社会実験」扱いされている社会主義革命が、現在につながる社会システムをいち早く実現させていたのは、歴史の皮肉だろう。
これらの歴史を顧みると、女性の社会的地位は「歴史が女性を必要としている時に、女性の地位は上がる」という経緯があることが分かる。クリミア戦争や第一次大戦はその範疇だろう。
ところがロシア革命に関してはそうではない。イデオロギーが先にあり、現実をそれに沿わせた「方策」によって女性参政権が実現している。
ロシア革命下で女性参政権が実現したのは、「選択」の問題であって「善悪」の問題ではない。女性が政治に参加できないのが「悪いこと」だから参政権が認められたのではなく、当時のソヴィエト政権は「女性も政治に参加する国づくりをする」という「選択」を行った。
現在の日本では、その「選択」という意識が希薄なのだと思う。これは日本の歴史教育において最も欠けている視点だろう。
たとえば、「男女平等の理念」を高らかに掲げて、イスラム諸国における女性の地位を非難する人がいる。女性を家庭に縛り付け、社会的な進出を阻むのはけしからん。そういう理想論者が後を絶たない。
しかしイスラム諸国の理念をよく調べてみると、砂漠気候の高温という過酷な自然環境において「女性を守り、女性に負担をかけない」という原則が出発点になっている。子供を生んで育てるという過酷な仕事に集中してもらうため、生活のための労働を「免除する」という感覚が大元にある。
誤解している人が多いが、イスラム諸国は共産主義が多い。誤解の根源は「社会主義」と「共産主義」の違いを理解していないことだ。
「共産主義」というのは、極論すると「働かなくても皆が食べていける」という理想状態のことだ。医療、教育はすべて無料。ベーシックインカムが保証され、国民の生活はすべて国が保証する。
イスラム諸国は、豊富な原油資産によって、共産主義を実現している国が多い。別にマルクス主義を信奉しているという意味ではなく、社会システムとして国民の生活が保証され「報酬は労働の対価」という概念が薄い。イスラム諸国だけでなく、リン鉱石の対外輸出によって「誰も働かない国」として有名だったナウルも「共産主義国」の一例だ。
そういう国々では、誰も好き好んで働こうとしない。だから政治は仕方なく王族が担うことになる。世界史で共産主義革命を勉強した頭では「共産主義国で王制が残存している」というのは矛盾に見えるが、それはマルクス主義が掲げる共産主義革命の部分しか見ていないだけに過ぎない。
一方、「社会主義国」というのは、共産主義をめざす過渡的な段階の国々を指す。本来的には共産主義体制を確立したいが、現実的な問題として国がそこまで豊かではない段階だ。だから国による強力な統制を必要とする。国民全体が福祉を享受するためには、国民全体が政治体制を支えなければならない。現実可能性はともかくとして、理屈は合っている。
実際には、理想と現実のギャップがありすぎ、社会主義国が自転車操業に陥り、次々と崩落したのは歴史が示す通りだ。
実際には出発時の理念と乖離している部分はあるだろうが、基本的にイスラム諸国が女性を社会に出さないのは「する必要がなかったから」なのだ。それはイスラム諸国が行った「選択」であって、歴史や社会的背景を超越した「善悪」の問題ではない。背負った歴史や社会背景が違う立場から「女性の社会進出を阻むのはけしからん」と口を出せる問題ではないのだ。
善悪の判断というのは、何をもって「善」とするのか、最終的には価値観の問題になる。自らの立場を絶対的なものと勘違いし、価値観の違う人達に「間違っている」と偉そうに指摘するのは、歴史的素養の不足を露呈しているに過ぎない。
その「歴史的素養の不足」の裏返しが、いまの日本で起きてはいないか。
日本は欧米的な価値観に追従し、女性が社会に進出し活躍する世の中を善しとする価値観を「選択」した。しかし、その「選択」に見合うほどの覚悟をもって社会システムを構築しようとする意識が低過ぎる。
日本にも、女性が活躍して国を支えた時期があった。
日本の産業革命は軽工業から始まったが、その担い手は主に女性だった。1872年に富岡製糸場が操業を開始し、そこから全国に軽工業の産業体制が広まった。そこから得られた外貨によって日本が軍国主義の基盤を整えたのは常識の範疇だろう。
しかし、日本の婦人参政権が実現したのは1945年、太平洋戦争の後だ。いくらなんでも時間がかかりすぎている。しかも自発的に制定したというより、GHQによって草案が作られた新憲法のもとでの実現だった。太平洋戦争レベルの外圧があって、アメリカの圧力があって、ようやく実現した観がある。
かように日本という国は「国のシステムを大きく変える」という必要性に、鈍いのだ。産業革命期から大戦期まで、女性の力が必要でなかったわけではない。女性が国に貢献していなかったわけでもない。しかし「今までそうだったから」という慣性にどっぷり嵌り、現実的には不備が生じていても、体制を変えようとはしない。
加えて、日本は「男女は平等に社会に貢献する」という価値観を、すでに選択している。イスラム諸国とは違うのだ。だから、仮に女性が社会に貢献できない側面があると思い込んでも、理念として男女の平等を実現する義務がある。
実際の病院現場でも、女性を排除して男だけで現場を回した方が手っ取り早いという側面があるのかもしれない。しかし、だからといって制度上それを固定化するような施策は許されない。
実際のところ、女性が出産や育児で職場から一時的に離脱することを「社会貢献できない」と見なすこと自体、病院という企業体の利益しか考えていない偏狭な考え方だ。子供を生み、育てることのどこが「社会貢献してない」のだろうか。
実際のところ病院は経営が苦しいのかもしれないが、目先の利益に捉われて、自らが選択した社会理念に反する施策を採り続けるのは、病院経営者の怠慢だろう。女性が出産・育児で離脱するのであれば、その離脱を計算に入れた上での人事シフトを構築しなければならない。
極論すれば、医学部の入試点数操作の一件は、医学部の問題ではなく、病院経営者の怠慢が日本の医療現場にもたらした現状が問題なのだろう。入試点数操作は、その病理が表にあらわれた現象のひとつに過ぎない。医療というのはひとつの社会システムであり、その根本的なシステムを、自らが選択した理念に沿って構築できないのであれば、その組織が社会的に認められる資格はない。
日本は社会システムの構築を後回しにし続け、戦争で大きなツケを支払う羽目になった。今の日本でも、女性の社会進出のシステムを適切に構築する努力を後回しにし続けるようだと、数年後にその大きなツケを支払う羽目になると思う。少数の労働力が大量の高齢者を支える時代はすぐ目前に来ている。女性の力なしにその事態を乗り切れると思っているのなら、小学校からの歴史の勉強を一からやり直す必要がある。
歴史の時間に何を勉強してたんだ。
「医学部の入試状況調査 男子優位はやはり不自然」
(2018年9月6日 毎日新聞社説)
東京医科大の入試不正問題を受け、文部科学省が全国にある国公私立81大学の医学部医学科の入試状況を調べた中間まとめを公表した。同大が女子受験生らを不利にする採点をしていたことから、過去6年分の入試で、男女別や年齢別の志願者数、合格率などを聞いた結果だ。
毎年6、7割の大学で男子が女子よりも合格率が高かった。全大学の6年間の平均も男子11・3%に対し女子は9・5%と差が付いている。男女比の偏りが最も大きかったのは順天堂大で、男子の合格率は女子の1・7倍にもなる。その偏りの大きさは私立大で目につく。逆に国立の弘前大は、女子が男子よりも1・3倍高かった。国立大では女子の合格率の高さが目立った。男子の合格率が女子をはるかに上回っているのは、やはり不自然だ。
これまでは男女別の合格率を公表していない大学が多かった。関係者の間で「医学部は女子が合格しにくい」とされていた入試の合格率を明らかにしたことは意味がある。だが、疑問が解消したわけではない。
問題は、この数字が女子受験生らに、故意に不利な扱いや採点をした結果なのかどうかだ。さらに言えば、大学入試では文系理系を問わず、合格率は男女ほぼ同じか女子のほうが高い。文科省も「医学部だけが傾向が異なる」と認めるが、明確な理由は分からない。
今回は、推薦や一般入試をすべて含めた合格率の調査結果だ。一般に医学部の入試は、2次試験に小論文や面接があり、東京医大でも小論文で女子らが不利になる採点をしていたことが分かっている。医学部の卒業生は、系列の病院で勤務するケースも多い。結婚や妊娠で離職しやすいとされる女性医師を敬遠し、男子を多く合格させる背景が東京医大ではあった。他の大学も同じような事情が働いていないか。
調査では、東京医大以外に「特定の受験生に加点する」などという不正を認める回答はなかったという。だが、こうした不自然な入試結果が判明したことを受け、文科省はさらに2次試験など個別試験の合格率など詳細な追加調査をすべきだ。大学は合否基準を明確にし、不合格者への成績開示などで不利な扱いがないことを証明する必要がある。
「医学部入試 明確な基準で良い医師を」
(2018年9月6日 産経新聞社説)
女性に不利な選考をしていないというが、数字が物語っている。医学部の入試で女性の合格率が男性より低い大学が8割近くあった。他の学部にはない傾向である。なぜなのか、明確な説明が必要だ。東京医科大の不正入試をきっかけに、文部科学省が緊急調査した。同大を除き、特定の受験者へ不正加点や、女性を不利にするなど得点操作を行っていたとする回答はなかった。
ところが、医学部医学科のある81の大学の過去6年の入試で、合格率の男女差が顕著に出た。平均合格率は男11・3%、女9・5%で男が1・18倍高かった。順天堂大(1・67倍)▽東北医科薬科大(1・54倍)▽昭和大(同)▽日本大(1・49倍)▽九州大(1・43倍)など、東京医科大(1・29倍)よりも男女差が大きかった大学が10以上あった。
女性の方が合格率の高かった大学もある。定員の少ない医学部は数人の差で合格率が変わりやすく、年により男女比が逆転する大学もあった。大学ごとに違いはあるが文科省の学校基本調査によると、出願者に対する入学者は他学部・学科では女性の割合が高いか男女同程度だという。文科省は追加調査を行い、10月に最終結果をまとめるが、とくに男女差が大きかった大学を中心に要因を分析してもらいたい。
東京医科大の不正入試では、女性と多浪生が得点操作で不利にされていた。女性医師は出産や育児などで休むことが多く、長時間勤務が難しいなどとして、入学者を減らしたかったようだ。医療現場では外科、救急や産婦人科医など、なり手が少ない診療科や地方の医師偏在が問題となっている。
2次試験の面接などを通し、そうした分野で活躍できる人材など意欲ある学生を採り、育てる明確な理念を公にし、医師養成を進めるならいい。だが、大学病院で若い男性医師の方が使いやすいといった女性への偏見が合格率の差につながっているなら、医師は疲弊するだけで、優秀な人材も離れるだけだろう。
女性医師に診てもらった方が治癒率が高いといった研究報告もある。患者の気持ちに寄り添って治療を進められるからだという。患者に真に向き合える医師を育てる大学であってほしい。
「医学部入試 公正かつ明確な選考基準を」
(2018年09月05日 読売新聞社説)
男子の合格率が女子より明らかに高いことが、医学部入試の特徴であることは否めない。受験生の不信を招かないよう、各大学は公正な入試の実施に万全を期す必要がある。文部科学省が、国公私立計81大学の医学部入試に関する緊急調査の結果を公表した。東京医科大が女子の合格者数を抑制しようと、不正な得点操作を行っていた問題を受けて実施した。
過去6年間の入試で男女の平均合格率を比較したところ、約8割の63大学で男子が女子を上回った。男子の平均合格率は女子の1・18倍だった。最も差が大きいのは順天堂大の1・67倍で、東北医科薬科大の1・54倍が続く。受験生らが合格率のデータを把握できる意義は小さくない。
文系や理工系の学部では、女子の合格率が概して男子より高い。定員が少なく、数人の合否で変動しやすい面があるとはいえ、医学部では「男子優位」が鮮明だ。東京医科大を除き、「得点操作をしていた」と答えた大学はなかった。男女別の募集枠を設定しているケースもなかった。大学側からは「物理、数学で男子の得点が高かった」などの回答があったが、説明が十分とは言えまい。首をひねる受験生は少なくないのではないか。文科省は訪問調査などを行い、入試の実態をさらに詳細に分析する方針だ。
大半の医学部では、医師としての適性をみるために、2次試験に小論文や面接を導入している。求める学生像に基づいて、独自の基準で総合的に評価することは各大学の裁量だろう。 大切なのは、大学として、どのような基準で合否を判断しているかを明確にすることだ。社会の幅広い理解を得られる公正な評価方法が求められる。能力と意欲のある医師志望の女子受験生が、不当に排除されることがあってはならない。
医学部入試には、大学病院や地域で働く医師の採用に直結する特殊性がある。皮膚科など特定の診療科に進む割合や離職率の高さから、女子学生が増えることへの抵抗感が関係者には根強い。合格率の男女差には、医療現場の課題が浮き彫りになっているといえよう。入試改革だけで容易に解決できる問題ではない。
大学病院などの過酷な勤務状況を改善し、外科系など男性医師が多い分野でも女性が活躍できる環境をどう整備するか。大学や医療関係者に限らず、幅広い論議を進める契機にしたい。