joan



ジャンヌ・ダルク(Joan of Arc、??〜1431)


フランスの国民的ヒロイン。百年戦争(1338〜1453)で危機的状況にあったフランスに颯爽と現れ、イギリス軍を駆逐した「伝説」をもつ。「フランスを救え」という「神の声」を聞いたとされており、数々の奇蹟的な軍事行動でフランスを勝利に導いた。
のちイギリス軍に捉えられ、異端審問ののち、19歳で火刑に処される。

その人生は後世の創作家に影響を与え、多くの作品の題材となっている。シェイクスピア、ヴォルテール、シラー、ヴェルディ、チャイコフスキー、マーク・トウェイン、バーナード・ショーなどが彼女を題材に作品を作っている。
1920年、ローマ教皇ベネディクトゥス15世がジャンヌを列聖した。それを以て、現在ではカトリック教会において最も有名な聖人のひとりとされている。


しかし、このジャンヌ・ダルク、実際にそこまでの歴史的役割を担っていた人物なのだろうか。
彼女が活躍した百年戦争の経緯を見ると、歴史における彼女の役割がはなはだ怪しい。


百年戦争の直接の原因は、イギリスがフランス王室の継承権を主張したことにある。しかしそれは単なる口実だろう。当時の王政はまだ盤石なものではなく、単に「地方の支配者」的な意味合いしかない代物だった。当時のフランス王室はヴァロア朝だが、経済的基盤に乏しく、絶えず継承問題で揺れており、おまけにペストまで蔓延していた。決して100年も頑張ってまで乗っ取りたい王朝ではない。

イギリスの本当の狙いは、羊毛産業の中心地であったフランドル地方にある。現在のベルギーだ。当時のヨーロッパ経済は、北ドイツ都市からライン川に沿って南ドイツ、さらに北イタリアに至る「南北のライン」が繁栄を謳歌していた。この南北ラインに沿ってヨーロッパの物流が成り立っており、都市経済が発達した。
イギリス、フランスはその南北ラインからはずれており、好景気の恩恵にあずかることができなかった。そこで、南北ラインに隣接するフランドルを奪い合うことで、その利益を簒奪しようと画策していた。もともとイギリスは大陸側にも領土をもっており、フランドルはちょうどイギリスとフランスの領土の境目にあたる。

フランドルの特筆すべき産業は、毛織物産業だ。イギリスは土地が貧弱で農業に適さないため、古くから羊毛産業が盛んだった。しかし当時のイギリスはまだ産業が未発達で、羊毛を加工する技術がない。そこで羊毛をフランドルに輸出し、フランドルが羊毛を加工し市場に売り出した。当時のイギリスは、単なる「貧しい資源輸出国」に過ぎない。

そこでイギリスは、フランドルを自国の領土にすることで、原材料から加工までを包括する一大産業圏を構築しようと企んだ。フランドル側も、特に何の産業もないフランスの一部になるより、羊毛を絶えず供給してくれるイギリスに支配されることを望んでいた。百年戦争の序盤でイギリスが優勢だったのは、いわば当然だったと言える。

ところが予想に反して戦争が長引いてしまい、その間に興味深い現象が起こる。戦乱の場となったフランドルを捨てて、毛織物産業の労働者たちがイギリスに移住してしまったのだ。そりゃ、自分たちの街が戦乱の場となったら、より経済活動に有利な場所に引っ越すに決まってる。イギリスは羊毛の産出地であり、そこに移民すれば、原材料の調達から加工までを同じ地域で行うことができる。フランドルの職人たちは、ドーバー海峡を挟んで戦乱から離れたイギリスで、効率よく産業に従事することができた。

歴史資料を見てみると、百年戦争の間にイギリスは原料輸出国から製品輸出国に変貌を遂げていることがわかる。フランドル職人が移住してきたことにより、羊毛を輸出する必要がなくなった。その代わり、国内で毛織物が作られるようになり、完成商品を輸出するようになる。百年戦争の間に、イギリスは先進的な工業国に変貌を遂げたといってよい。

つまりイギリスにとって、それ以上、百年戦争を継続する理由がなくなった。もともと産業の中心地であるフランドルが欲しかったのに、その都市機能がまるごと自国に転がり込んできたのだ。フランス王室の継承権など開戦の口実に過ぎず、もともと要らないものだ。そこでイギリスは、メリットのなくなった百年戦争からの撤退を決断する。

つまり百年戦争は、ジャンヌ・ダルクがいなかったとしても、どのみちイギリスが撤退して終わったことになっていただろう。百年戦争の間、フランス側は良いニュースが何もなかった。相次ぐ戦乱に重税が課され、疫病が流行り、厭戦気分が蔓延して、農民反乱が頻発している。当時、まだ盤石でなかった王政はなんとか支配力を強めようとして、貴族への軍事指導権を掌握しようと内部抗争に明け暮れた。国中が疲弊し、士気が下がる一方だった。

そこへ颯爽と現れたのがジャンヌ・ダルクだった。彼女の存在でフランス軍の士気が上がったのは本当だろう。彼女の活躍でイギリス軍を「蹴散らし」、長く続いた百年戦争に「勝利」した。
しかし、百年戦争のあとの歴史を見ると、負けたはずのイギリスは繁栄する一方で、勝ったはずのフランスは長い低迷期に入る。戦争の結果とその後の展開が、まったく逆だ。

イギリスではフランドル職人の流入によって一気に産業が活性化し、資本家たちはそれを支える道路や港湾などのインフラ整備、行政機構、商取引のルールを取り決める法律の整備を求めた。それらの事業には強力に権限を付与された国家権力が必要だ。かくしてイギリスでは、資本家たちの要請によって、各地に割拠していた中世的な分権諸侯が軒並み刷新され、国王の権力が強まった。イギリスの王政は上からの押しつけによって成り立ったのではなく、下からの要請によって作られたものだ。経済的な基盤の上に成り立った王政は強力なものとなり、経済と政治が一体となった近代的な国家モデルが形成された。この流れが、近代におけるイギリス絶対王政の端緒となる。

一方のフランスは、百年戦争に「勝った」ものだから、何も変化が起こらなかった。イギリスのような近代化への改革から取り残され、資本や技術の集積もなく、相変わらず中世のままの封建的な農業経済、分権的領土主義が続いた。百年戦争を境に、フランスはイギリスから約100年の遅れをとることになる。百年戦争に「勝った」という勘違いは、フランスに重大なツケを残した。

当時のフランスのような世情において、世間が求めるものは何か。
「自分たちは凄いんだ」という自信を取り戻してくれる「英雄」だろう。本当かどうかは問題ではない。自分たちが誇り、士気を高めてくれるような存在に縋るようになる。「俺たちは戦争に勝った」「勝ったんだ」と自信をつけてくれる存在を求める。

ジャンヌ・ダルクは、そうした状況のフランスに現れた。彼女が英雄的存在だったというよりは、当時のフランスは、誰でもいいから、「国家的なプライド」を保ってくれる存在を必要としていた。ジャンヌ・ダルクの英雄譚は、そうした必要性によって祭り上げられた虚像ではないか。 
そのように、世界史上の「英雄」というのは、その人が本当に英雄だったというよりも、世の中が英雄を必要としていたために作られた虚像のほうが多いのではあるまいか。 

沢村栄治
日本の野球界で「伝説の投手」とされているが、残された数字を見る限り、大した投手ではない。戦争時という不幸はあったとはいえ、沢村程度の投手であれば現在でもたくさんいるだろう。しかし日本球界では沢村を批判することは許されず、誰もが口を揃えて「史上最高の投手」の大合唱だ。
それも原理はジャンヌ・ダルクと同じだろう。「英雄だった」のではなく、「人々が英雄を必要としていたため、英雄にでっち上げられた」のだと思う。戦争に負け、国中が自信を喪失している世相で、日米野球でアメリカチーム相手に堂々と立ち向かった。その日米野球でも実際にはめった打ちにされているのだが、そんなことは誰も気にしない。比較的ましな程度の投手を、盛りに盛って、英雄ということにしてしまう。「沢村は大投手」なのではなく、時代の要請によって「沢村は大投手でなければならない」というのが実情だっただろう。

ジャンヌ・ダルクを裁いた裁判は、イギリスの軍事裁判ではなく、キリスト教に基づく異端審問だ。建前上、キリスト教に基づく教義裁判であれば、イギリスもフランスも関係ない。戦争の捕虜を宗教で裁くこと自体、裁判の本来的な機能からすれば有り得ない。ジャンヌ・ダルクの裁判は、そのあり方からして大きく道理から外れている。

カトリック教会が問題視したのは、ジャンヌが「直接、神の声を聞いた」と主張したことだ。カトリックの教義では、人は直接、神と接することはできない。教会の存在が無意味になってしまうからだ。教会は神と人をとりもつ「権威」でなければならないので、教会をすっ飛ばして神と直接コンタクトを取ったと主張するジャンヌは異端だった。

カトリック教会は手を替え品を替え、ジャンヌに「私が間違っていました」と自白させようとしたが、ことごとく失敗した。有名なのは「神の恩寵を受けていたことを認識していたか」という審問だ。イエスと答えてもノーと答えても異端となる、「悪魔の問答」の一種だ。カトリックでは人と神は直接コンタクトをとってはならないので、イエスと答えれば自身に異端宣告をしたことになり、ノーと答えれば「私が勝手にやりました」という罪の告白をしたことになる
ジャンヌはその審問に「恩寵を受けていないのであれば神が私を無視しておられるのでしょう。恩寵を受けているのであれば神が私を守ってくださっているのでしょう」と答えた。その場にいた異端審問官たちは唖然としたそうだ。機転が効く少女であったことは確からしい。劇作家のバーナード・ショーはこの問答記録に深い感銘を受け、戯曲の題材にしている。

裁判を請け負った異端審問官は、イギリスの教会から「ジャンヌを有罪にしろ」とかなり強い圧力を受けていた。つまり、最初から有罪であることは決まっており、その根拠をこじつけるための裁判だったのだ。ところがこととごく失敗したものだから、最後は牢内のジャンヌの服を剥ぎ取り、無理やり男ものの服を着せて、「男装したから有罪」という無茶苦茶な理由で火刑に処している。

そうした「何が何でも無理やり処刑」という教会内の意向とは別に、ジャンヌの神聖性は民間伝承として語り伝えられた。つまり、ジャンヌ・ダルクという存在は「キリスト教会としては封じ込めたい存在だが、世間では人気があり人々が必要としている」というものだったのだろう。そうでなければ、長い年月を経て語り伝えられ、最後はカトリック教会に名誉復活を認めさせ、聖女に列せられるようなことにはならない。

「歴史上、重要な役割を果たした人」なのではなく、「人々によって求められ、歴史が必要とした人」だったのだと思う。歴史のなかには、たまにそういう人が出るのだろう。
人間は、決して起こったことを客観的に後世に残すのではない。世の中の透明な事実を見るのではなく、世界を自分の見たいように見る。英雄が必要であれば、英雄をつくりだす。そうした虚像は、歴史の事実から乖離した「嘘」というよりも、「人間とはそういうものだ」という一面の真理を写しているような気がしてならない。



スポーツ新聞で常に一面に載るタイプの選手もそれと同種。