次の文章は、島崎藤村の「樹木の言葉」の一節である。これを読み、感じたこと、考えたことを、160字以上200字以内で記せ。句読点も1字として数える。
[シュロ(棕櫚)] 萩もどうしたろう。
[ツツジ(躑躅)] あの友達は去年の暑いさかりにこの庭から移されて行った。裏の石垣の上で、暑熱のために枯れた。
[シュロ] ここにはもう菊の芽も見えない。
[ツツジ] 菊も萩と一緒に捨てられた仲間だ。
[シュロ] みんな沈黙の中に死んで行ったのか。
[ツツジ] それほど私達は無抵抗だ。けれども私たちは人間のように焦らない。人の生涯はなんという驚くべき争闘の連続だろう。彼等が焦りに焦るのは、そうしてこの世を急ごうとするのだろう。それに比べると、私たちはもっと長い生命のために支度をせねばならない。私達の仲間には何百年もかかって静かにこの世を歩いて行くものすらもある。
[シュロ] そろそろ生温かい、底に嵐を持ったような風が吹いて来た。紅い芍薬の芽がもはや三四寸も延びた。あの芽の先に開きかけた若葉は焔のように見える。
[ツツジ] どんな嵐が先の方で私達を待ち受けていることか。それを通り越さないかぎり、私達の花咲く時も来ないのか。私はもう春を待つ心には耐えられないような気もする。私は嵐そのものよりも、それを待ち受ける不安に耐えられない。
[シュロ] 私達が春を待ち受ける心は、嵐を待ち受ける心だ。
樹木が喋る、という奇怪な世界観をもとに文章能力を問う問題。
別にどこかの妄想話コンテストの問題ではなく、東京大学1981年の現代文[二]の問題だ。
1999年まで、東大現代文には「死の第二問」と呼ばれる作文問題があった。何が正解なのか、どう答えればいいのか、受験生を悩ます難問とされていた。
この作文問題は、受験生にとって難問という意味で「死の第二問」だったが、それ以外にもその呼称の理由がある。出題のテーマにことごとく「死」の概念が含まれていたからだ。今回とりあげた1981年の問題でも、樹木が死について語り合い、ため息をついている。
僕はこの東大の「死の第二問」が大好きで、ことあるごとに趣味として解いている。なんというか、学問をする姿勢をためす問題として、非常に良問だと思うのだ。2000年を境にこの作文問題は廃止されたが、おそらく正答率が極端に低かったのだろう。いくら良問であろうとも、受験生が全滅であれば、選抜試験の役に立たない。惜しい問題を失くした感がある。
いままでも僕はこのBlogで「死の第二問」を取り上げたことがる。金子みすゞの詩の問題や、国木田独歩の手紙の問題は、それぞれに狙いがわかりやすくて解きやすい。
今回の島崎藤村も、東大の狙いははっきりしていて、書けばいいことは比較的わかりやすい。 「死の第二問」のなかでは、難易度は低い問題だろう。
東大の意図は単純だ。この問題を通して、学問を修めるために必須の能力を見ようとしている。決して、人生経験豊富な、人格高潔な人間を見極めようとしているのではない。いくら「いい人」であっても、学問的には資質のない者であれば、入学を許可しない。大学入試の本義に照らし合わせて考えてみると、当然だろう。
ところが、どうして受験参考書の類いは、この手の問題を解説するときに、「いい人争い」をさせようとするのだろうか。
教学社出版の過去問集(いわゆる「赤本」)は、この問題にこのような解説を載せている。
落とし穴は「嵐」を「通り過ぎないかぎり、私達の花咲く時も来ないのか」である。この部分を、努力してつらい時期を通り越さないと希望は実現しない、だからどんな苦しい試練にも立ち向かっていかねばならないというように理解してはならない。むしろ、シュロにせよツツジにせよ、受け身で「無抵抗」な形で嵐に翻弄され、それをなんとか乗り切れる力があれば翌年を迎えられるという話である。決して積極的な内容ではない。しかも、その「不安」にも「耐えられない」とツツジは言っている。ツツジはもう命を終わろうとしているのである。
東大受験生の少なくとも半分くらいは小学生の頃から「焦りに焦」ってひたすら東大に入るために頑張って来たにちがいない。しかし、人生という長いスパンでみれば小学生の頃思いっきり野原を駆け回ることもせずただひたすら勉強してきたことがよいことなのだろうか、ゆったりとした心で文学を楽しむということもせずに二等辺三角形の面積や因数分解や果ては微分・積分などに追い立てられた学校生活を送ったことが本当によかったことなのか。そのような問いを出題者は突きつけている。
また、齋藤孝は『齋藤孝の読むチカラ』でこの問題を取り上げ、次のように解説している。
問題文中に「人の生涯はなんという驚くべき争闘の連続だろう。彼等が焦りに焦るのは、そうしてこの世を急ごうとするのだろう」とあります。これは、出題者から受験生への問いかけでしょう。「受験勉強を一生懸命やってきたと思いますが、焦りに焦った人生は、それで良かったのですか」と問いかけているように思います。

赤本も齋藤孝も、どちらもとてもいいことを言っている。
いいことを言ってはいるが、答案としては無価値だ。おそらく0点だろう。
繰り返すが、東大は「いいことを言え」という問題を出しているのではない。受験生の人生を評価しようとしているのでもない。東大にとっては、受験生が勉強ばかりの必死な受験生活を送っていようが、そのために生き生きとした子供時代を犠牲にしようが、そんなことはどうでもいいのだ。東大が見ているのはただ一点、「いま現在、どれだけ学問を修めるに足りる能力があるのか」だけだ。それまでの人生などは一切関係ない。
ちなみに東大の先生や学生というのは、世間で思われているような「勉強ばっかりしてきた、社会不適応の頭でっかち」はほとんどいない。その程度のキャパシティーしかない人は、どうせ学問をしてもいずれ潰れる。僕が個人的に知っている東大の先生の中にも、子供の頃からずっとガキ大将だったり、高校の時にインターハイに出場していたり、学会をさぼって飲みに出かけてばっかりだったり、フルマラソンで3時間を切って完走したり、いろんな人がいる。
現代文という、あまり科学に関係のなさそうな科目であっても、そこで問われているのは学問に必須の科学的思考能力だ。学問に必須の能力の基本は、なんといっても客観的な現状把握にある。目の前にある事象に対して、「自分がどう感じるか」を一切封じ、客観的に事実の把握に務める。その段階がいいかげんだと、その先の段階すべてが水泡に帰す。
東大の「死の第二問」が難問とされていたのは、そこで問われている能力が、学校で習う「作文」の授業とまったく正反対だからだ。まぁ、学校で書かされる作文の最たるものは読書感想文だろう。本を読んで、自分がどう感じたか、を書かなければならない例のやつだ。
「自分でどう感じたか」というのは要するに主観なので、学問に必須な科学的思考法とは対極にある。「自分がどう感じたか」は、学問の世界では絶対に表に出してはいけないものなのだ。要するに学校で書かされる読書感想文というのは、「大学に入ったら絶対にやってはいけないこと」を延々とやらせていることになる。
学問に客観性が必要なのは、それがなければ「観察」ができないからだ。科学的方法論はすべて、事実の観察が出発点となる。その観察の段階で「もう少し朝顔の芽が伸びてほしい」「ひまわりの花はこっち側を向いてほしい」「STAP細胞が実在してほしい」などという主観が混じっていると、純粋な事実を記述できなくなる。「観察者の存在が対象に影響を与える」という量子力学が科学にとっての大問題なのは、そのためだ。
科学では、観察によって得られた「事実」をもとに、その体系のしくみを構築していく。しかし、神の視点のように「世界の全体像」がいきなり手に入るわけではない。そこで方法論として、個別事象に対する「疑問点」をつくりあげ、それに対する「仮説」をたてていく。こうした「疑問」→「仮説」という細かいドットで世界を埋め尽くしていくことによって、全体像に迫る。それが科学という営みだ。
このような営みを人類全体で遂行していくためには、それに参加する者全員に方法論が共有されている必要がある。細かく埋め尽くされたドットのどこかに、「ルール違反」のドットが混じっていれば、そこが世界の全体像の穴になってしまうのだ。東大をはじめとする諸大学が、入試で「ルール違反」を犯しかねない受験生を排除するのは、そのためだ。小学校から高校まで、12年も科学の方法論を習っておいて尚、科学的な思考法を身につけていないのであれば、それは学問を修める者として失格だろう。ましてや「理科なんて世の中で必要ないじゃん」などと嘯く者は、最初から論外だ。
なんかあれですな、たくつぶでは「科学的方法論とは何か」のようなことを言い出すと、話が長くなりますな。
はいはい、わかったわかった。
さて問題の東大現代文ですが。
まぁ、テーマは「死」だろう。樹木の話のなかに直接出てきているので分かりやすい。東大が問うているのは、「『死』という重いテーマでも、主観を交えずに、客観的に考えることができるか」という問題だ。
ワレワレ人間にとっての「死」とは、すべての終わりを指す。死んでしまえばすべてが終わり。その後の世界はない。少なくとも、その後の世界を説得力のある形で示せる者はいない。
いわばワレワレの死生観においては、「生」とは直線的なものであり、その末端には終わりとしての「死」がある。
しかしそれはワレワレ人間にとっての話であって、植物にとってもそうであるのか、というと話が違う。問題文中で、シュロとツツジは「死」を決して「すべての終わり」とは捉えていない。
「けれども私たちは人間のように焦らない。… それに比べると、私たちはもっと長い生命のために支度をせねばならない。私達の仲間には何百年もかかって静かにこの世を歩いて行くものすらもある。」
「あの芽の先に開きかけた若葉は焔のように見える。」
「どんな嵐が先の方で私達を待ち受けていることか。それを通り越さないかぎり、私達の花咲く時も来ないのか。」
「私達が春を待ち受ける心は、嵐を待ち受ける心だ。」
これらの樹木の言葉から分かるのは、植物は冬という「死の時期」をやり過ごしたら、春という「再生の時期」を迎える、という死生観をもっていることだ。冬にいったん葉を落として丸坊主になってしまっても、春になったらまた芽が吹いて再生する。「春を待ち受ける心」と「嵐を待ち受ける心」が同じ、ということは、「死」ですべてがおしまいなのではなく、「死」がそのまま「生」につながって、死と生が循環している、ということだ。人間と違って、植物の死生観は円のような循環構造をしている。
書かなければならないのは、それだけだ。
人間と植物では、死生観が違う。人間は直線的な死生観、植物は循環的な死生観。その対比をわかりやすく書けばいい。
ここで大切なことは、「植物が自身の死生観についてどのような感情をもっているか」を答案に書いてはならない、という点だ。問題文の前半部分を見ると、シュロもツツジも、死について暗鬱たる感情を持っているように読める。しかしこの文から読み取らなければならないのは「事実がどうであるか」であって、「それをどう感じているか」ではない。
人間と植物の死生観の対比は、「人間にとっての死」を絶対的な観念として思い込むような、主観的な姿勢からは出てこない。人間にとって死はすべての終わりだが、はたしてそれは世界のすべてにわたって普遍的な事実なのか。人間は死を恐れるが、人間以外の視点ではどうなのか。そういう「人間という主観的な立場」をいったん離れて、「死」を広く客観的に俯瞰する姿勢がないと、このような比較はできない。科学的方法論の大前提、「客観的なものの見方」を問う問題としては、良問と言えるだろう。
「死の第二問」として通してみて見ると、東大の好みがはっきり表れている。いままで僕がBlogで載っけてきた金子みすゞや国木田独歩の問題と同じく、「死」をテーマとしており、鍵となる発想法は「循環」という構造に気づくかどうか、だ。いわば東大はこの「死の第二問」で、同じ内容を違った形で何度も何度も問うているのであり、そこで必要な能力は変わらない。
間違っても、「植物が死をどのように恐れているのか」とか、「不安に耐えられないツツジの気持ちは」などと、同情的な「感想」を書き散らしてはいけない。科学的な視点には、決して主観的な感情を混ぜてはならない。いくら「STAP細胞があってほしい」と願っても、無いものは無いのだ。
ましてや、どこぞの本で解説しているように、「行き急いで何になる」とか「受験生としてそれでいいのか」などのような、有り難い人生訓など全く必要ない。べつに東大は受験生に、ひとの生き様を説教しようとしているわけではない。
(解答例)
植物も人間と同じく生と死という概念をもつと思われるが、両者の死生観は性質が異なる。人間の死生観では生から死までが直線的であり、終末に死がありそこですべてが終わるが、それとは異なり、植物は死と生が隣接している円環的な死生観をもっている。植物にとっては「死」はすべての終わりではなく、それが「生」につながり、死と生が同一の時点として捉えられている。そのため「死」に対する捉え方が、人間と植物では異なる。(199字)
僕はよく鉢植えを枯らします。