芥川龍之介に『舞踏会』という小説がある。
舞台は明治19年、名家の令嬢・明子は17歳。父親と一緒に初めて鹿鳴館の舞踏会に出かける。フランス語と踊りの教育を受けていた明子は十分に美しく、初の舞踏会に不安と期待をもって臨む。首尾よく、フランス人の海軍将校からダンスに誘われ、一緒に『青き美しきドナウ』のワルツを踊る。
踊り疲れたふたりは一緒にアイスクリームを食べ、バルコニーに出て夜の町並みを眺める。夜空には花火が上がり、樹々を照らしている。じっと夜景を眺めている海軍将校に、明子は「お国のこと思っていらっしゃるのでしょう」と訊く。すると将校は「いいえ」と否定し、「何を考えているのか当ててごらんなさい」と訊き返す。
「私は花火の事を考えていたのです。我々の生(ヴィ)のような花火の事を。」
それから数年のち、大正7年。老婦人となった明子は鎌倉の別荘へ向かう途上、汽車の中である青年小説家と乗り合わせる。明子は、青年が抱えていた菊の花束を見て、鹿鳴館の舞踏会のことを思い出し、青年にその話をする。すると青年は何気なく「奥様はその海軍将校の名をご存知ではありませんか」と訊く。
まぁ、今の若い人が読んでも、たいして面白い小説ではあるまい。
落ちに使われているピエール・ロティというのは、フランスの小説家。『アフリカ騎兵』などの作品が知られている。本職は海軍士官で、仕事で回った各地を題材にした小説や紀行文を書いている。フランス人らしく、行く先々で女に手を出していたことでも有名だ。
史実として、日本にも来たことがある。その時の見聞を『江戸の舞踏会』というエッセイや、『お菊さん』という小説に記している。当時の外国人に日本がどう映ったのかを知る貴重な資料であり、逆に当時の外国人にとっても日本を知るための情報源でもあった。当時、日本画に憧れをもっていた画家のゴッホは、日本についての情報をロティの『お菊さん』から得ていたとされている。
当時は有名人だったのかもしれないが、いまロティの名前を知っている人はそう多くはあるまい。フランス文学といえば、バルザック、スタンダール、デュマ、ユーゴー、ゾラ、モーパッサン、プルーストあたりが教科書の太字だろう。それらにしても、平均的な日本人であれば「名前は聞いたことはあるが、読んだことはないなぁ」くらいの距離感ではあるまいか。ましてや、ロティの名前を聞いたことがあるひと、ましてや実際の著作を読んだことがある人となると、日本に2〜3桁程度の人数くらいしかいるまい。
芥川は、作品の最後に「物語から数年経った後の主人公の後日譚」を入れる癖がある。いちばん分かりやすいのは『トロッコ』だろう。主人公自身が物語を、振り返ったり客観視したりして、物語そのものに別の意味をもたせる、という最後のひとひねりだ。これは初期から中期だけでなく、後期に至るまで芥川作品の大きな特徴になっている。
『舞踏会』という作品の後日譚を見ると、よくある「実はその人は、あの有名な○○○さんだったんですよ」という「有名人物登場オチ」に見える。ディクスン・カーの『パリから来た紳士』で使われた例のオチだ。
ただし、『舞踏会』のオチは、通常のそれとは少し異なる。主人公の明子は、「自分が一緒に踊った海軍将校は、実はピエール・ロティだった」という「衝撃の事実」を、否定している。少なくとも、それにびっくりして落ちがつく、というありきたりの物語にはなっていない。
実は、芥川はこの後日譚の部分を、初版以降で書き換えている。
初版では、最後の部分はこうなっている。
まるで結末が反対だ。明子は堂々とピエール・ロティの名を出し、「自分はその方と踊ったことがあるのだ」と誇らしげに話していることになっている。
これだと、本当によくある「実は○○○さんでしたー」という落ちになってしまうし、現在ではピエール・ロティはそもそも「知らんなぁ」という程度の知名度しかない。二重の意味でつまらない。なぜ、芥川は最後の結末を書き換えたのか。

閑話休題。
本屋さんを覗いてみたら、北村薫の『太宰治の辞書』が創元推理から文庫化されていた。
もともとは「円紫さんシリーズ」と呼ばれている一連の作品で、大学の文学部に通う女子大生「私」が 主人公で、日常のふとした謎がテーマの作品だ。その謎を、知り合いの落語家・春桜亭円紫に話すと、円紫は話を聞いただけで真相を言い当てる。一種の安楽椅子探偵譚だ。血なまぐさい犯罪ではなく、日常で感じる違和感、不思議な出来事などの「小さい事件」を扱っている。巻が進むごとに、文学で卒論を書く「私」が、自分なりに知的領域を広げることに意義を見いだしていく成長小説にもなっている。
今回の『太宰治の辞書』は、前作から実に20年弱ぶりに出版された、シリーズの新作だ。たしか出版されたのは2年ほど前だったと思う。僕は北村薫の作品は折に触れ読むことにしているが、新書が出た瞬間に買って読むほどの熱心な読者ではない。まぁ、文庫で出たなら読んでみようか、程度の読者だ。
僕が北村薫を読むのは、その作風と文体が好きなこともあるが、なによりも北村薫は僕が高校時代の古文の先生だったからだ。デビュー当時、正体不明の覆面作家として突如文壇に登場し、文体の繊細さから男なのか女なのかも謎だった作家だ。その正体が埼玉の片田舎で国語を教えている高校教師とは誰も思わなかっただろう。僕が高校生の当時から、実は○○先生は北村薫らしい、という噂があり、北村薫作品の書評が文芸誌に載るたびに、「あのおじさん先生が凄い褒められようだな」と思っていたものだ。
今回、『太宰治の辞書』を読む気になったのは、この作品の中で「なぜ芥川は『舞踏会』の後日譚を書き換えたのか」という謎が扱われているからだ。
この謎は、『太宰治の辞書』に収録されている短編のひとつ『花火』で展開されている。
主人公の「私」は、大学卒業後、編集者として出版社に勤めている。結婚して、息子は中学2年生で野球部に属している。東京近郊にマイホームを構え、主婦と編集者として毎日を送っている。
「私」は、江藤敦や三島由紀夫など、過去に『舞踏会』を評論した人たちの文献から、芥川が何を考えていたのかに迫る。
たとえば江藤敦は、当該の箇所についてこう評している。
北村薫は、主人公の「私」に、「それを芥川の意図として解釈するのは受け入れられない」と言わせている。
「明治の文明開化期の豊かさ」というのは、実はホンモノに接していながら、それがホンモノと分からないような恵まれた環境で過ごしている、ということだ。「よくキャッチボールしてくれた隣の家のおっさんが実はプロ野球の選手だった」とか、「高校時代の古文教師のおっさんが実は凄い作家だった」のようなものだろう。
一方、「いっさいを名として理解しようとする大正の教養主義」というのは、知識だけ覚えていて生活実感が伴わない頭でっかちのことを指す。相対性理論がどういうものかを評価できないくせに「アインシュタインはスゴい人」と思い込んでいるような姿勢を指す。
江藤敦は、芥川の意図を「その両者が紡ぎだす滑稽さを皮肉な目で眺める」としているわけだが、半分くらいは当たっていると思う。今となってはピエール・ロティの名がそこまでの知識主義的な権威だとは思わないが、大正当時の時勢の、知識のための知識を標榜し、他人よりも知識があることを競うような無駄な知識主義の風潮下では、そういう傾向を茶化したくもなるだろう。北村薫は、そういう風潮を背景とするため、内田百閒と芥川龍之介の雑談が「才気爆発の競争のようであり、ひとつも当たり前のことは言うまいとする競争」だったというエピソードを効果的に挟んでいる。
しかし、そういう見方が芥川の本意だったかと言われると、そうではなかったのではないかと僕も思う。この点では北村薫の意見に賛成だ。どちらかと言えば、明子にとっては一緒に踊った海軍将校が、実は作家だろうと農夫だろうと、関係なかったのではないか。
この作品での「花火」の位置づけについて僕は修辞的な評論はできないが、舞踏会の一夜の出来事を刹那的な出来事として内面世界に封殺し、時間軸を延ばした「事実の検証」に意味をなくさせる具象であることくらいは見当がつく。花火は、その時その瞬間に見ているから花火なのであって、後から「10年前にあそこで花火が上がった」というのは、花火の本質に感動している姿勢ではない。明子にとっても、その人は「舞踏会の晩に一緒に踊った人」であることがすべてなのであって、後から「実はあの人はこういう作家でして」という情報を付け加えられても、何も意味がないことだったのではないか。
『舞踏会』における「花火」の位置づけをそう捉えると、初版の後日譚はいかにも矛盾している。芥川はそれに気づいて、「刹那的な、生の本質」を描くべく、後日譚を書き換えたのではないか。海軍将校の「私は花火の事を考えていたのです。我々の生(ヴィ)のような花火の事を」という言葉から逆算すると、そういう辻褄の合わせ方だったのかな、という気がする。
今回の北村薫の『太宰治の辞書』を読んで、作風の上達を感じた。師匠に向かって「上手くなりましたね」とは不遜の謗りを免れないが、事実そう感じたのだから仕方がない。
僕は、作家のアマチュアとプロを分ける決定的な要因は、「題材を得る方法論」だと思う。
アマチュアであれば、その時書いている一本に集中して傑作を書こうと努力すればいい。しかし、プロの作家というのは、書き続けなければいけないのだ。ネタが尽きても、書くことがなくても、食べるためには書くしかない。そういう「ネタの拠りどころ」をどれだけ強固につくりあげているかが、プロとしての作家の完成度を決めると思う。
自分のよく知っている世界であればだれでも書ける。お笑い芸人だってちょっと訓練すれば芥川賞くらい取れる。しかし、プロの作家として、10冊目、20冊目、はては100冊目まで、それと同じような書き方をしていれば、いつか泉は枯れる。その時、どうやったら新たに題材を仕入れられるのか。
ざっくり言ってしまえば、「教養」だと思う。教養というのは一般的に「頭に貯めた知識の量」と思われているが、僕は逆だと思う。教養というのは、「まだ頭に入っていない知識に対する敬意」のことだと思う。簡単に言えば、知的好奇心のことだ。
人は、自分の知らないことに対しては拒否感を抱く。慣れてる世界のほうが住みやすいのと同様に、よく知っている知識領域のほうが頭に負担がかからない。だから、自分の知らない世界に対しては、なかなか踏み込んでいく気力が湧かない。
それを後押しして、知らない世界にどんどん進み込み、自分の知らなかった新たな領域を知っていく姿勢が「教養」だと思う。教養とは、決して固定化された静的な「知識」ではなく、常に知識を更新し続けていく動的な「姿勢」のことだ。教養の深い人というのは、自分の知らない分野の話でも興味深く熱心に聞く。
北村薫の作品からは、そういった「教養」に裏打ちされた堅固な知的領域の拡大を感じる。なんというか、読んでいて「これを書いてるとき楽しかっただろうな」という印象を受けるのだ。僕が高校時代、今や北村薫となった先生の古文の授業を受けているときに、とても楽しそうに授業をしていたのを思い出す。自分なりに謎を見つけて、それを解くために知的生活を送るというのは、とても素晴らしい生活ではあるまいか。
この『太宰治の辞書』の主人公「私」は、まさにそういう生活を送っている。出版社に勤める一介の主婦が、毎日の生活のなかで知的な刺激を自らに与え続け、知的領域を拡げ続ける。北村薫という作家本人のノウハウと、作品世界の主人公の生き方が、軌を一にしているようで面白い。
論文とは違って、真実の探求一辺倒ではないところが読みやすい。作品内で主人公の「私」は、真実の探求の合間に、週末に息子の部活を見に行ったり、図書館で調べ物をしてからスーパーに買い物に行ったり、日常のすぐ隣で知的生活を送っている様子がリアルに描かれている。世の中の「教養」ある人たちも、真実に肉薄する知的興奮のすぐ隣で、平凡で普通の家庭生活を送っているものだろう。そういう世界観は、実際にそういう生活を送っている人にしか描けない。
舞台は明治19年、名家の令嬢・明子は17歳。父親と一緒に初めて鹿鳴館の舞踏会に出かける。フランス語と踊りの教育を受けていた明子は十分に美しく、初の舞踏会に不安と期待をもって臨む。首尾よく、フランス人の海軍将校からダンスに誘われ、一緒に『青き美しきドナウ』のワルツを踊る。
踊り疲れたふたりは一緒にアイスクリームを食べ、バルコニーに出て夜の町並みを眺める。夜空には花火が上がり、樹々を照らしている。じっと夜景を眺めている海軍将校に、明子は「お国のこと思っていらっしゃるのでしょう」と訊く。すると将校は「いいえ」と否定し、「何を考えているのか当ててごらんなさい」と訊き返す。
「私は花火の事を考えていたのです。我々の生(ヴィ)のような花火の事を。」
それから数年のち、大正7年。老婦人となった明子は鎌倉の別荘へ向かう途上、汽車の中である青年小説家と乗り合わせる。明子は、青年が抱えていた菊の花束を見て、鹿鳴館の舞踏会のことを思い出し、青年にその話をする。すると青年は何気なく「奥様はその海軍将校の名をご存知ではありませんか」と訊く。
するとH老婦人は思ひがけない返事をした。
「存じて居りますとも。Julien Viaudと仰有る方でございました。」
「ではLotiだったのでございますね。あの『お菊夫人』を書いたピエル・ロティだったのでございますね。」
青年は愉快な興奮を感じた。が、H老婦人は不思議さうに青年の顔を見ながら何度もかう呟くばかりであった。
「いえ、ロティと仰有る方ではございませんよ。ジュリアン・ヴィオと仰有る方でございますよ。」
まぁ、今の若い人が読んでも、たいして面白い小説ではあるまい。
落ちに使われているピエール・ロティというのは、フランスの小説家。『アフリカ騎兵』などの作品が知られている。本職は海軍士官で、仕事で回った各地を題材にした小説や紀行文を書いている。フランス人らしく、行く先々で女に手を出していたことでも有名だ。
史実として、日本にも来たことがある。その時の見聞を『江戸の舞踏会』というエッセイや、『お菊さん』という小説に記している。当時の外国人に日本がどう映ったのかを知る貴重な資料であり、逆に当時の外国人にとっても日本を知るための情報源でもあった。当時、日本画に憧れをもっていた画家のゴッホは、日本についての情報をロティの『お菊さん』から得ていたとされている。
当時は有名人だったのかもしれないが、いまロティの名前を知っている人はそう多くはあるまい。フランス文学といえば、バルザック、スタンダール、デュマ、ユーゴー、ゾラ、モーパッサン、プルーストあたりが教科書の太字だろう。それらにしても、平均的な日本人であれば「名前は聞いたことはあるが、読んだことはないなぁ」くらいの距離感ではあるまいか。ましてや、ロティの名前を聞いたことがあるひと、ましてや実際の著作を読んだことがある人となると、日本に2〜3桁程度の人数くらいしかいるまい。
芥川は、作品の最後に「物語から数年経った後の主人公の後日譚」を入れる癖がある。いちばん分かりやすいのは『トロッコ』だろう。主人公自身が物語を、振り返ったり客観視したりして、物語そのものに別の意味をもたせる、という最後のひとひねりだ。これは初期から中期だけでなく、後期に至るまで芥川作品の大きな特徴になっている。
『舞踏会』という作品の後日譚を見ると、よくある「実はその人は、あの有名な○○○さんだったんですよ」という「有名人物登場オチ」に見える。ディクスン・カーの『パリから来た紳士』で使われた例のオチだ。
ただし、『舞踏会』のオチは、通常のそれとは少し異なる。主人公の明子は、「自分が一緒に踊った海軍将校は、実はピエール・ロティだった」という「衝撃の事実」を、否定している。少なくとも、それにびっくりして落ちがつく、というありきたりの物語にはなっていない。
実は、芥川はこの後日譚の部分を、初版以降で書き換えている。
初版では、最後の部分はこうなっている。
「存じておりますとも。Julien Viaudと仰有る方でございました。あなたもご承知でいらっしゃいませう。これはあの『御菊夫人』を御書きになった、ピエル・ロティと仰有る方の御本名でございますから。」
まるで結末が反対だ。明子は堂々とピエール・ロティの名を出し、「自分はその方と踊ったことがあるのだ」と誇らしげに話していることになっている。
これだと、本当によくある「実は○○○さんでしたー」という落ちになってしまうし、現在ではピエール・ロティはそもそも「知らんなぁ」という程度の知名度しかない。二重の意味でつまらない。なぜ、芥川は最後の結末を書き換えたのか。

閑話休題。
本屋さんを覗いてみたら、北村薫の『太宰治の辞書』が創元推理から文庫化されていた。
もともとは「円紫さんシリーズ」と呼ばれている一連の作品で、大学の文学部に通う女子大生「私」が 主人公で、日常のふとした謎がテーマの作品だ。その謎を、知り合いの落語家・春桜亭円紫に話すと、円紫は話を聞いただけで真相を言い当てる。一種の安楽椅子探偵譚だ。血なまぐさい犯罪ではなく、日常で感じる違和感、不思議な出来事などの「小さい事件」を扱っている。巻が進むごとに、文学で卒論を書く「私」が、自分なりに知的領域を広げることに意義を見いだしていく成長小説にもなっている。
今回の『太宰治の辞書』は、前作から実に20年弱ぶりに出版された、シリーズの新作だ。たしか出版されたのは2年ほど前だったと思う。僕は北村薫の作品は折に触れ読むことにしているが、新書が出た瞬間に買って読むほどの熱心な読者ではない。まぁ、文庫で出たなら読んでみようか、程度の読者だ。
僕が北村薫を読むのは、その作風と文体が好きなこともあるが、なによりも北村薫は僕が高校時代の古文の先生だったからだ。デビュー当時、正体不明の覆面作家として突如文壇に登場し、文体の繊細さから男なのか女なのかも謎だった作家だ。その正体が埼玉の片田舎で国語を教えている高校教師とは誰も思わなかっただろう。僕が高校生の当時から、実は○○先生は北村薫らしい、という噂があり、北村薫作品の書評が文芸誌に載るたびに、「あのおじさん先生が凄い褒められようだな」と思っていたものだ。
今回、『太宰治の辞書』を読む気になったのは、この作品の中で「なぜ芥川は『舞踏会』の後日譚を書き換えたのか」という謎が扱われているからだ。
この謎は、『太宰治の辞書』に収録されている短編のひとつ『花火』で展開されている。
主人公の「私」は、大学卒業後、編集者として出版社に勤めている。結婚して、息子は中学2年生で野球部に属している。東京近郊にマイホームを構え、主婦と編集者として毎日を送っている。
「私」は、江藤敦や三島由紀夫など、過去に『舞踏会』を評論した人たちの文献から、芥川が何を考えていたのかに迫る。
たとえば江藤敦は、当該の箇所についてこう評している。
「ロティの身体にふれながらその名を知らぬ明治の文明開化期の豊かさと、いっさいを名として理解しようとする大正の教養主義の空虚さとの距離を、数行のうちに皮肉にえぐった鮮やかな技法であるが、読んでいてその鮮やかさに簡単するわりには、心に残らない」
北村薫は、主人公の「私」に、「それを芥川の意図として解釈するのは受け入れられない」と言わせている。
「明治の文明開化期の豊かさ」というのは、実はホンモノに接していながら、それがホンモノと分からないような恵まれた環境で過ごしている、ということだ。「よくキャッチボールしてくれた隣の家のおっさんが実はプロ野球の選手だった」とか、「高校時代の古文教師のおっさんが実は凄い作家だった」のようなものだろう。
一方、「いっさいを名として理解しようとする大正の教養主義」というのは、知識だけ覚えていて生活実感が伴わない頭でっかちのことを指す。相対性理論がどういうものかを評価できないくせに「アインシュタインはスゴい人」と思い込んでいるような姿勢を指す。
江藤敦は、芥川の意図を「その両者が紡ぎだす滑稽さを皮肉な目で眺める」としているわけだが、半分くらいは当たっていると思う。今となってはピエール・ロティの名がそこまでの知識主義的な権威だとは思わないが、大正当時の時勢の、知識のための知識を標榜し、他人よりも知識があることを競うような無駄な知識主義の風潮下では、そういう傾向を茶化したくもなるだろう。北村薫は、そういう風潮を背景とするため、内田百閒と芥川龍之介の雑談が「才気爆発の競争のようであり、ひとつも当たり前のことは言うまいとする競争」だったというエピソードを効果的に挟んでいる。
しかし、そういう見方が芥川の本意だったかと言われると、そうではなかったのではないかと僕も思う。この点では北村薫の意見に賛成だ。どちらかと言えば、明子にとっては一緒に踊った海軍将校が、実は作家だろうと農夫だろうと、関係なかったのではないか。
この作品での「花火」の位置づけについて僕は修辞的な評論はできないが、舞踏会の一夜の出来事を刹那的な出来事として内面世界に封殺し、時間軸を延ばした「事実の検証」に意味をなくさせる具象であることくらいは見当がつく。花火は、その時その瞬間に見ているから花火なのであって、後から「10年前にあそこで花火が上がった」というのは、花火の本質に感動している姿勢ではない。明子にとっても、その人は「舞踏会の晩に一緒に踊った人」であることがすべてなのであって、後から「実はあの人はこういう作家でして」という情報を付け加えられても、何も意味がないことだったのではないか。
『舞踏会』における「花火」の位置づけをそう捉えると、初版の後日譚はいかにも矛盾している。芥川はそれに気づいて、「刹那的な、生の本質」を描くべく、後日譚を書き換えたのではないか。海軍将校の「私は花火の事を考えていたのです。我々の生(ヴィ)のような花火の事を」という言葉から逆算すると、そういう辻褄の合わせ方だったのかな、という気がする。
今回の北村薫の『太宰治の辞書』を読んで、作風の上達を感じた。師匠に向かって「上手くなりましたね」とは不遜の謗りを免れないが、事実そう感じたのだから仕方がない。
僕は、作家のアマチュアとプロを分ける決定的な要因は、「題材を得る方法論」だと思う。
アマチュアであれば、その時書いている一本に集中して傑作を書こうと努力すればいい。しかし、プロの作家というのは、書き続けなければいけないのだ。ネタが尽きても、書くことがなくても、食べるためには書くしかない。そういう「ネタの拠りどころ」をどれだけ強固につくりあげているかが、プロとしての作家の完成度を決めると思う。
自分のよく知っている世界であればだれでも書ける。お笑い芸人だってちょっと訓練すれば芥川賞くらい取れる。しかし、プロの作家として、10冊目、20冊目、はては100冊目まで、それと同じような書き方をしていれば、いつか泉は枯れる。その時、どうやったら新たに題材を仕入れられるのか。
ざっくり言ってしまえば、「教養」だと思う。教養というのは一般的に「頭に貯めた知識の量」と思われているが、僕は逆だと思う。教養というのは、「まだ頭に入っていない知識に対する敬意」のことだと思う。簡単に言えば、知的好奇心のことだ。
人は、自分の知らないことに対しては拒否感を抱く。慣れてる世界のほうが住みやすいのと同様に、よく知っている知識領域のほうが頭に負担がかからない。だから、自分の知らない世界に対しては、なかなか踏み込んでいく気力が湧かない。
それを後押しして、知らない世界にどんどん進み込み、自分の知らなかった新たな領域を知っていく姿勢が「教養」だと思う。教養とは、決して固定化された静的な「知識」ではなく、常に知識を更新し続けていく動的な「姿勢」のことだ。教養の深い人というのは、自分の知らない分野の話でも興味深く熱心に聞く。
北村薫の作品からは、そういった「教養」に裏打ちされた堅固な知的領域の拡大を感じる。なんというか、読んでいて「これを書いてるとき楽しかっただろうな」という印象を受けるのだ。僕が高校時代、今や北村薫となった先生の古文の授業を受けているときに、とても楽しそうに授業をしていたのを思い出す。自分なりに謎を見つけて、それを解くために知的生活を送るというのは、とても素晴らしい生活ではあるまいか。
この『太宰治の辞書』の主人公「私」は、まさにそういう生活を送っている。出版社に勤める一介の主婦が、毎日の生活のなかで知的な刺激を自らに与え続け、知的領域を拡げ続ける。北村薫という作家本人のノウハウと、作品世界の主人公の生き方が、軌を一にしているようで面白い。
論文とは違って、真実の探求一辺倒ではないところが読みやすい。作品内で主人公の「私」は、真実の探求の合間に、週末に息子の部活を見に行ったり、図書館で調べ物をしてからスーパーに買い物に行ったり、日常のすぐ隣で知的生活を送っている様子がリアルに描かれている。世の中の「教養」ある人たちも、真実に肉薄する知的興奮のすぐ隣で、平凡で普通の家庭生活を送っているものだろう。そういう世界観は、実際にそういう生活を送っている人にしか描けない。
読書の秋ですねぇ。