たくろふのつぶやき

春来たりなば夏遠からじ。

2024年02月

「古典は役に立たないから無駄」論。

koten1


2月25日、カンニング竹山が『ドーナツトーク』(TBS系)に出演。古典の授業は「役に立ったことが1回もない」と話したことが物議を醸している。

番組後半では、「無くしたムダな時間」というテーマでトークを展開。現役の女子高生がムダな時間として「古典の授業」をあげると、竹山は「めっちゃわかる。高校生のときから思ってた」と共感。

「今年で53歳のおじさんだけど、いまだ古典が役に立ったなと思ったことが1回もない」と述べ、スタジオの笑いを誘った。さらに竹山は「大学受験に古典が関係なかったら、0点でもいいんだよ」と発言。


まぁ、「そう思うんなら勉強しなければいいんじゃない」としか。


「学校でこんなこと勉強して何の役に立つんだ」という問い。学校教育から脱落した低能層からよく出てくる「疑問」だ。
むろん、当人たちの目的はその「疑問」について妥当な答えを得ることではない。その「疑問」を楯に、「勉強すること」から逃避するもっともらしい言い訳を手に入れることが本当の目的だ。その「疑問」を口にする時点で、既に「逃げの姿勢」と断定してよい。 自己弁護と自己正当化しか頭にない。

そもそもそんな疑問が出てくること自体、学校教育で要求される最低限の能力を身につけていないことの証左だ。
学校教育の目的は知識や思考能力を身につけることではない。そんなことは最低限以前の必要性に過ぎない。問題は「知識や思考能力を身につけることで一体何ができるようにならなければならないか」だ。

初等教育の目的は「自分の知らない世界を自分で切り拓く能力を養うこと」だ。
世の中には、ひとりの人間の直接体験ではカバーし切れないほどの広大な知的領域が広がっている。その全てがそのひと一人の人生にすべて関わってくるわけではない。しかし、本人の人生に直接関わってくる・こないに関わらず、「世の中にはこんな広い世界が広がっている」ということを見せてもらるかどうかだけで、その国の文化度は格段に違ってくる。

誰もが人生の中で、それまで自分が全く知らなかった世界に飛び込まざるを得なくなる。全く経験したことがないことに挑戦しなければならなくなる。それは学問研究のような勉学に関する分野だけでなく、新しいスポーツ、新しいゲーム、新しい友人関係のような卑近なものから、就職、結婚、新居購入のような人生の転機に関わるようなことも含まれる。そういう時に、「どうすれば『正解』の道を辿れるか」という絶対安全な道など無い。どんなときも、正解は自分で作らなければならないのだ。そのためにはまず、「自分の知らない分野に頭から突っ込んで行く勇気」が必要となる。

学校教育で、人生に全く必要のない知識体系を詰め込まれるのは、その「突っ込んで行く勇気」と「その方法」を先行体験しているだけなのだ。
三角関数という得体の知れないものに、なにか世の中の真実らしきものが含まれているらしい。何だろうかそれは。どうすればその真理を理解することができるのだろうか。
日本には1000年以上前に書かれた暇な女の日記が残されている。当時の日本人は一体何を考え、何のために生きていたのだろうか。

そういう「広大な知識領域」が眼前に広がっているときに、そこに踏み込む姿勢と能力を身につけることが、初等教育で最低限身につけるべき能力なのだ。誰だって、よく知っていることは出来る。知っている分野での振舞い方は分かる。しかし、全く新しい分野に踏み込む時に「知らないからできない」というのは、教育を受けた人間の姿勢ではない。知らない分野に踏み込むときは、いままで自分が経験してきた知的領域の征服方法を思い出し、自分なりの新しい方法論を自分の力で創り出さなければならないのだ。

だから「こんな分野、自分には一生関係ないから勉強する必要はない」という言い方は、要するに「私は今後一切、新しいことに取り組むことを拒否する」という姿勢に他ならない。学校教育の目的は「知の体系を身につける方法論を身につけ、今後それを自分で編み出せるようになること」であって、習う知識そのものではない。はっきり言ってしまえば、習う分野は何でも構わないのだ。その中で、特に汎用性が高く、日本という国で日本人という自己意識を確立するための助けになり、学校卒業後に新たな分野に挑む方法論を学ぶための参考になるような、よく練られた知識体系を選んで学んでいるに過ぎない。

「自分には必要ない」と思うのなら、学ばなければ良い。世の中には、人生に必要なものしか学ばせてもらえない国のほうが多い。そういう教育後進国のあり方をお望みなら、遠慮なくそうすればよい。自分の人生に必要なものだけに価値を認め、必要ないものはすべて切り捨てて価値を見下すような、そういう人間になりたければそれも良かろう。生きる世界を自分で狭めるのは、教育を軽視する人間の典型的な自業自得だ。日本という教育先進国に生まれた特権を自らドブに捨てて、自分の人生の役に立つものだけの世界を壁で囲って、その中で狭く生きていけばいい。馬鹿によくお似合いの生き方だ。


koten2


社会学者の古市憲寿氏(39)が28日、自身のSNSを更新し、「古典の授業が無駄」という議論に対して私見を述べた。

古市氏は「『古典の授業が無駄』といった議論に反射的に反論するひとって、授業時間が有限だということを忘れがちだよね」とつづり、「そりゃ時間が無限にあれば古典でも何でもすればいいけど、それはたとえば外国語よりも有益なのか。あと反論するひとたちが、どれだけの古典に関する教養を持っているかを知りたいところ」とした。

また、「みんな教育に期待しすぎだと思う」とし、「この国の高校卒業率は約95%だけど、大人を含めてみんなで大学入学共通テストを受けてみたら、平均何点くらいになるのか。たぶん悲惨な結果になると思う。結局、日常的に使ってる知識以外は忘れていくし、逆に必要となれば何歳からでも新しいことは学べる」と私見をつづった。


「馬鹿の言うことに対して、馬鹿がコメントをしている」という図式。もはや笑い話だ。学校で習うことを「役に立つ・立たない」「有益・無益」「覚えているか・忘れているか」という尺度でしか測ることができない。この程度の知的許容量しかない輩が「社会学者」とは恐れ入る。

「習ったものをすべて忘れたら、その教育は無駄」という、歪んだ知識偏重主義だ。実際のところ、学校教育で身につけるべきものは知識ではない。学校教育の本当の価値は、「習ったものをすべて忘れた後、それでも残っているもの」にある。残った知識が大事なのではなく、「かつてここまで覚えたことがある」という思考経験の絶対最大量をともかくも一度作っておくことが大事なのだ。

古市憲寿は「必要となれば何歳からでも新しいことは学べる」などと嘯いているが、自分が経験した初等教育の恩恵に甘ったれている笑止千万な言い方だ。新しいことを学ぶことができるのは、かつて学校で「学ぶ」という過程を一度辿ったことがあるからだ。「学び方の違う様々な分野を広く学ぶ」という行為を一度も行ったことがない人は、新たなことを学ぶための方法論を自分で編み出すことなどできない。自分の力で自分の能力を上げていく自己教育能力がない。簡単に「何歳からでも新しいことは学べる」なととほざいているが、堅固な初等教育で役に立たない知識をたっぷり吸収した恩恵を軽視しており、知的活動の源泉となる生き方を舐めている態度だ。

受ける教育のレベルを選ぶのは自分の勝手だ。「こんなこと学んでも役に立たないなら無駄だ」というなら、とっとと学校を退学すればよい。義務教育すら拒否して「人生は冒険だ!」などとほざき全国を車で乞食行脚の旅に出るのも良かろう。どれも個人の勝手だ。
しかし、その個人の価値観を社会全体の強制力に転化し、「だから学校教育からこの科目を削るべきだ」と主張するのは絶対に許されない。「教育を受けない自由」を、「他人の教育機会を剥奪する権限」と勘違いしてはいけない。他人が学ぶ邪魔までする権利はない。学校教育を拒否して無能低能に堕するのは手前が勝手にやるべきことであって、他人にまでそれを強制する権限など誰にもない。

この類いの教育批判は、誰もが抱いている教育劣等感に刺さる。簡単にウケる安易な方法だ。しかし、ことの本質は「古典は有益なのか無駄なのか」ではない。「『知識』そのものの有益・無益は教育の本質には一切関係ない」ということを知らない愚か者が後を断たないということが問題なのだ。日本では初等教育を受けられることが当然のことだと思われている。その価値と恩恵に気付かず、自らその価値を貶める言動をする輩など、教育を受けた人間とは言えない。

香港の街中には本屋が無い。イギリスに50年支配され、中国に引き渡された香港には、自分たちの物語を語る言語がいまだに確定していない。だから香港市民はみんな本ではなく中国語で書かれた新聞ばかり読んでいる。重厚な「物語」を語ることができず、薄っぺらい「情報」にしか知的生活の拠り所がない。香港以外でも、いま世界には自国語で書かれた本が出版されていない国のほうが多い。
ましてや「古典」が存在する国など限られている。そのことに激しい劣等感を抱いているアメリカは、千年以上にわたる文化遺産を有している日本が妬ましくて仕方ない。だからやたらと「古典は無駄だ」「英語こそ正義」という価値観を日本に押し付けてくる。彼らは日本人自らの手で日本の古典を捨てさせたいのだ。日本のもつ本当の価値に気付かず、豊富な古典遺産に対して嫉妬の感情をぶつけてくるアメリカの英語絶対主義に簡単に踊らされる軽薄な日本人が多い。

中国という国はやたらと政治・経済分野において日本に圧力をかけてくるが、古典教育・文化に関しては一切何も言ってこない。日本以上に雄大な知的文化遺産を有する中国にとって、日本の古典ごとき屁のようなものだろう。その辺は長大な歴史を誇る中国の、根源的な自尊心の表れだ。
ただし中国は一度、自国の誇る歴史遺産や文化遺産を自らの手で破壊したことがある。共産党以外の教義はすべて害悪。毛沢東の言説だけが正義で他は悪。古典・歴史はすべて無意味。古典はすべて焼き尽くし、歴史的建造物や寺社仏閣はすべて破壊すべし。文化大革命という愚かな行為は、自分の国がもつ本当の価値を中国国民自身が破壊した出来事に他ならない。カンニング竹山は、このようなあり方を日本の理想として提唱するつもりなのだろうか。


実際のところ、カンニング竹山も古市憲寿も、古典を学ぶ必要性も意義も十分に分かっていると思う。彼らがこのような言説を流布する目的はただひとつ、「目立つため」だろう。番組を盛り上げるため、構成作家の台本通りに、世の中を騒がすようなことをわざと言って数字を取ろうとする。普通に古典の意義を擁護するような言説を公表しても誰も注目してくれないから、逆張りをして注目を浴びる。彼らの価値観の中心は「Yahoo!ニュースのトップに載ること」であって、正論を発して世間を啓蒙することではない。そんなことは彼らにとって「何の役にも立たない」ことだ。目立たなければ全ては「無駄」なのだ。物事の正道など一切無視し、曲学阿世に堕する生き方が、果たしてどれほど「有益」な生き方なのだろうか。彼らにとって本当に大切なものとは、一体どこにあるのだろうか。



軽薄極まる。

売れる「教養書」

春休みになったので本屋をぶらついて平積みになっている本のなかから、ちょっと面白そうな本を買ってみた。


kyoyosho


『世界のエリートが学んでいる教養書 必読100冊を1冊にまとめてみた』
(永井孝尚 (2023), KADOKAWA)


題名だけで内容の要旨が分かる。世界の名著100冊の内容を端的に説明し、それを現代社会の問題を考察するための武器として使うにはどう考えればよいか、という指針をまとめたものだ。
大著であり、労作であることは間違いない。古今東西の名著を100冊も読破するだけで大変な労力だろう。紹介する本のジャンルも「西洋哲学」「政治・経済・社会学」「東洋思想」「歴史・アート・文学」「サイエンス」「数学・エンジニアリング」と多岐に渡る。これだけ異なる読み方を要求されるジャンルの本を幅広くカバーするだけでも大変だろう。

100冊の本の選択もまぁまぁ知見に富んだチョイスとなっており、納得できる選択だ。現代書だけに留まらず、古典の名作も多く選択しており、なかなか僕の趣味に合う。僕はここで紹介されている100冊すべてを読んだことがあるわけではないが、自分の専門に絡む本も紹介されており、わりと本気で原著を読み通した本も多く紹介されている。この本で紹介されている内容理解の精度はなかなか高く、まずもって「よくこんなに多くの本を理解し通したな」という印象が強い。結構な本を出したものだ。

もちろん、煩いことを言えば批判などいくらでもできる。例えばジャンル分けにしても、厳密な学問領域の区分とはかなり異なる。たとえば「政治・経済・社会学」も「数学・エンジニアリング」も「歴史」も、どれも本当は「サイエンス」の一分野なのだが、この本ではそういう区分には沿っていない。この本が章として採用している「サイエンス」という括りは、一般読者の漠然としたイメージの「なんか理系っぽい分野」程度の雑な意味で使われている。

また、現在ではその価値に賛否両論ある危険な作品もとり上げられている。たとえば『沈黙の春』(レイチェル・カーソン)が「環境汚染を世界で初めて告発した『環境問題のバイブル』」として紹介されているが、現在の環境科学の検証では『沈黙の春』で引用されている例は勇み足が多く、事実認識の歪みが多数紛れていることが明らかになっている。現在の環境保護団体もこの本を大々的に喧伝するようなことはしていない。
『沈黙の春』はそういう欠点のある問題作ではあるが、紹介の名目となっている「環境汚染を世界で初めて告発した」という部分は間違いではない。当時、環境汚染という認識がまったく無かった時代にその危険性を啓発したという役割を果たしたのは本当だ。ただしその内容に誤謬があったために現在では無批判にとり上げるわけにはいかない、というやっかいな本だ。『沈黙の春』だけでなく、まぁ言ってみればどの本でも賛否両論は必ずあるものだ。毛沢東の『抗日遊撃戦争論』など現代の道義的な観点からみれば危険書以外の何物でもないが、この本を読まずして現在の中国共産党の基本理念は理解できない。そういう本でも、知らないよりは知っていたほうがいい。

僕がこの本を読んで最も強く感じたのは、「あぁ、ビジネス書ってこういう感じなんだなぁ」ということだ。
僕は普段、学術書や論文ばかり読んでいるので、自己啓発やらマーケティング論やらいわゆる「役に立つ」本をあまり読まない。この本は、徹頭徹尾ビジネスマンにとって「役に立つ」ように書かれている。

この本は「教養書」と銘打ってはいるが、その内容と編集の仕方は「教養」とは正反対だ。そもそも題名からして「世界のエリートが学んでいる…」。この部分だけを見ても「教養」とはかけ離れた姿勢と断じて良い。しかし、だから悪いと言っているのではなく、「ビジネスの世界と『教養』というものを折り合わせるのは、一般にうまく訴求する形でまとめるのは難しい」ということだと思う。そこには、「教養」というものに対する世間一般の大きな誤解があるような気がする。そして、その難点はこの本そのものの欠点というよりは、この本を読む読者の側に問われる問題だろう。


「教養」とは何だろうか。
世間一般によく使われる言葉であり、漠然とひとの知力を示すバロメーターとしてイメージされている概念だろう。だが、その本当の意味を理解している人はそれほど多くないような気がする。

たとえば、大学で身につける能力は「教養」だろうか。
世の中の知見を広く身に付けよう、世の中に出て役に立つ知識を身につけようとして意気揚々と大学に入学してみても、実際に専門のゼミで行うのは退屈な論文を延々と読まされる原典講読だったり、何の役に立つかも分からないような基礎実験だったり。それらのどこが「教養」なのだろうか。
こういう「いままで自分が持っていた『教養』のイメージ」と「大学で実際に行われる知的活動」のギャップに苦しみ、「大学教育なんて何の役にも立たない」と判断して授業に出てこなくなる学生は多い。なかには大学教育に一切の価値を見いだせなくなり、中退する学生もいる。

教養は一般的に「頭の中に蓄積されている知識量」というイメージで認識されていることが多いだろう。教養のある人というのは、いろいろなことをいっぱい知っている人。物知りな人。「歩く辞典」のような人。クイズや問題にたちどころに正解できる人。
この本でもそのような「教養」観が強く前提となっている。本の一番最初の「はじめに」の箇所でも、「脳内にある知識が教養なのだ」と断言している。

実際には、この本ではさらにそこから一歩進んで、教養を「単なる知識」に留まらず、「実際の問題を解決する武器として使えるかどうか」まで意識している。単なる「あらすじを覚えましょうね」的な紹介文ではなく、現代のビジネス界で生じているさまざまな困難に立ち向かうために、100冊の知見をどのように適用し応用するか。そういう知力の「使い方」まで指南してある。『マッキンダーの地政学』をウクライナ侵攻に絡めて「大国の思惑を読み解いて、したたかにビジネスの先手を打て」という指針につなげる。ヒュームの『人性論』で説かれている経験論における因果律から「帰納法の限界がわかれば『AIの限界』も理解できる」と謳う。
僕がこの本を「ビジネス書ってこういう感じなんだなぁ」と感じたのは、ここの部分だ。

僕は寡聞にしてビジネスの世界の現状を知らないが、漠然と「成果を出せない努力は無意味」という価値観が席巻する世界なのだろう、という見当はつく。だから世界の名著100冊の内容を覚えているだけでは不十分で、「それを今のビジネス社会にどうやって活かせるのか」まで伸ばせなくては意味がない。知識は使ってなんぼ。古い革袋に新しい酒を入れるが如く、古今東西の名著を今この現代の問題を解くための知見として使えるようになってようやく「教養」。そんな「教養」観が見える。

情報の丸暗記を「教養」と勘違いしている軽薄な暗記主義よりは、実践に則した姿勢だろう。筆者は研究畑の人間ではなく、IBMの戦略マーケティングマネージャー、人材育成責任者などを歴任した、バリバリのビジネスマンだ。日々実務に携わっている身でありながら古今東西の名著を読み解し、内容を理解するのみならずそれを実践として活かす方法まで考える、というだけで相当に「教養」ある生き方だ。この筆者自身が「教養」の深い人物であることは間違いなかろう。
しかし、どうして著書で読者に訴求する「教養」は、それとは全く違ったものになってしまっているのだろうか。


僕の考え方だが、「教養」というのは、「自分の中にある静的な知的蓄積物」ではなく、「自分の外にある未知の世界に対する姿勢」のことだと思う。「既存のものを理解する」のが教養なのではなく、「新しいものを創造する礎になるもの」が教養だろう。

百科事典を全冊暗記したところで、そんなものは「教養」とは言わない。それは単なる「脳内の情報処理」であって、覚えること自体を目的とした行為からは何も新しいものは出てこない。そういう「歩く辞典」から、世の中を動かす新たなイノベーションは生まれてこない。
暗記すること、情報を覚えること、というのは「手段」であって「目的」ではないのだ。新たなものを創造しようとするとき、無からは絶対に何も生まれない。先人の努力を知り、先例を知り、そこから法則を仮定し現実に適用することで、新たな「知」は創造される。

教養ある態度というのは、未知のものに対する畏敬の念をもち、新たな世界を知ることを厭わない知的な姿勢のことだと思う。「それ知らないから興味ない」ではなく、「それ知らないから面白そう」という態度だ。自分の知らない世界を拒絶せず、自らを閉じてしまわず、未知のものを取込んで自分の生き方に変える能力のことだ。端的に「知的好奇心」と言っても良い。
一般的に「教養」というのは、「1の知識を10000まで伸ばすこと」というイメージで捉えられていると思う。しかし実際の「教養」とは、「0を1にする力」のことではあるまいか。

では、そういう能力はどうやったら身に付くのか。ビジネスの世界で、いままで誰も作り得なかった新たな価値を生み出すために求められる力は何なのか。
そういう「未知への挑戦」というと、やたらと「創造的活動」「イノベーション」「革新的な発想」のようなイメージに取り憑かれて、それまで自分の中になかった「新たな何か」にすがろうとする人が多い。しかし実際のところ、そういう発想力、目的到達能力、創造性といった能力は、過去の事例を丁寧に辿り、人間の知の総和から学んでいくしか方法がない。その点では、この本は王道を辿っていると言える。

しかし、この本で紹介されている100冊の本の内容を理解し、さらにその内容を現在のビジネスに活かす方策を「覚えた」ところで、それは本当の「教養」なのだろうか。それは百科事典を全冊暗記する行為と何が違うのだろうか。

どんなに本書の内容を理解したところで、その応用のしかたを知ったところで、それは所詮、著者の仕事の枠内から出たことにはならない。教養というのは「既存の知識の敷衍」ではなく、「それを基として枠の『外』に出ること」だ。創造的に本書を利用し自分の創造的知的活動につなげられない限り、教養など皆無な姿勢と断じて良い。
さきほど「難点はこの本そのものの欠点というよりは、この本を読む読者の側に問われる問題」と書いたのは、そういう意味だ。この本そのものの欠点なのではなく、これを読む読者の側は、それをちゃんと弁えて読めるのだろうか。

そして気になるのは、筆者自身が教養を「既存の知識を敷衍すること」という段階の認識に留まっているような気がすることだ。もちろん筆者もこの本を読んだだけでは理解に不十分であるということは十分に認識している。「はじめに」の中で「もしかしたら本書を読んで『原著が完璧に分かった』と思うかもしれない。残念だが、それは幻想だ」と警告している。この本はあくまでも「紹介本」であって、この本をガイドに原著にあたるのが正しい読書の仕方だろう。とかくビジネスマンは御用とお急ぎの方が多く、「細かいことはいいから簡単に内容だけ教えてくれ」のような軽薄な知的態度の人が多いのだろう。そういう態度を戒めることを忘れてはいない。

しかし、本書であらすじを知った後、原著を読んで自分で理解しようとする姿勢まで達すればそれが「教養」かというと、それでも足りない。そういう姿勢は、いってみれば学校で出してもらった宿題を家でやっているのと大差ない。「何を読むべきか」が他人から与えられており、自分の判断で「これは読む価値がある」と判断したわけではない。それまで自分の知らなかった世界を自分の中に取込む、という一番最初の段階を、本書に頼ってしまっている。

この本を読んで身につけるべき本当の「教養」は、「100冊の内容と使い方を覚えること」ではない。「100冊の原著に挑戦すること」でもない。
自分の力で101冊めを見つけること」ではあるまいか。

新しい創造の際に必要な能力のひとつに、価値判断がある。「これは挑戦するに値する」「これは新たな価値を生む」という、自分の挑戦することに対する価値の見分けが必要となる。端的に言うと、自分が全く知らなかったことに対して「これ、おもしろそうだぞ」という嗅覚だ。この能力がないと、つまらない瑣末なことに莫大な労力とかける無駄を生み出すことになる。

教養のある人は、「多くの人が名著として絶賛する本をすべて網羅している人」ではない。「誰もが見向きもしないものに『これ、おもしろいんじゃないか?』と価値を見いだせる人」だ。「すでに知っている世界、馴染みのある世界で、既存の価値観の枠内で甘んじて生きる人」ではない。「知らない世界・未知の世界の魅力、まだ存在しない価値に最初に気付ける人」が本当の「教養のある人」ではないか。
グラミー賞ヴァイオリニストのジョシュア・ベルの演奏会にチケットを買って聞きに行く人と、彼がストラディバリウスの名器を携えワシントン中心部の駅構内で路上ライブをやった時に誰もが目もくれず通り過ぎる中ただひとり足をとめてじっと聞き入った少年と、どちらが「教養」があるだろうか。
イギリスの無名のシングルマザーが書いた童話の翻訳出版の持ち込みを冷淡に断った大手出版社と、その価値を見いだし『ハリー・ポッター』シリーズの全版権を独占して買い取った静山社と、どちらのほうが「教養」があるだろうか。

そういう「教養」、なかんずく「未知の価値に気付ける能力」は、どうやって身に付くのだろうか。
未知の世界は広大だ。分野によってもアプローチの仕方が異なる。無限の世界が広がっている。そういう世界を相手にするときに、「こたえ」を求めるような姿勢では太刀打ちできない。未知の世界では、問題は同じでも答えのほうが日々変わる。静的で確立した「正解」を覚えていても意味がないのだ。だから「既存の知識に頼らず、その時その場で必要な『知』を自ら編み出していく能力」が必要となる。教養とは、「有限の情報の静的な蓄積」ではなく、「無から『知』を生み出す動的な態度」なのだ。

そういう動的な能力を身につけるためには、欲張ってはいけない。ひとつの分野だけでもいい。ひとつのテーマだけでもいい。誰にも頼らず、自分だけの力で、ともかくも一定に見解に至る経験を踏むことが必要だ。
登山に例えると、100名山の特徴と景観を全部暗記したところで、登山の能力などなにひとつ身に付かない。近所の裏山ひとつ登れるようにはならない。どんな山にもどんな状況でも頂上を極められる「万能の登山能力」を身につけるためには、まずひとつの山をちゃんと定め、自力で頂上まで登り切る経験から入らなくてはならない。ひとつの山にもいろいろと登山のルートがあるが、ここでも欲張ってはいけない。ひとつのルートだけに特化してよい。そのルートを選択する段階からすでに勝負は始まっている。

そうやって、細いルートを辿って、ともかくも自力で頂上まで達する経験を積むと、山に取り組むアプローチの仕方が分かってくる。10の山に自力で登れば、11個めの山にも自力で登れるようになる。いつまでもガイドブック頼り、ネットの情報頼り、情報の暗記ばかりに拘泥していると、いつまでも未知の山を克服する能力は身に付かない。

それを「教養」という知的活動に置き換えると、どういう努力が必要なのかは明らかだ。
漠然と「教養」という広い知的世界を想像するから努力の仕方が分からない。まずひとつの山を目標として定めるべきなのだ。火星の運行現象でもいい。古代バビロニアの政治形態でもいい。絶滅言語の修復でもいい。有毒物質を中和する物質の開発でもいい。なにかひとつ絞ったテーマを定め、過去の研究事例をじっくりと辿り、それに自分の発想を上乗せしていくしかない。

だから大学では、まず基礎文献をみっちりと読み込むことが必要なのだ。基礎実験を繰り返してデータを丹念に積み上げていかなければならないのだ。ひとつの分野の、ひとつのテーマについて、細い道を地道に、自らの力で一歩一歩進んでいかなければならない。
そうして長い年月をかけ、小さくてもいいからひとつの山の頂上に自力で辿り着いた人は、「未知の山への挑み方」を会得できる。違う山であっても、その山の特徴を調べ、過去の経験から必要なところは再利用し、未知の部分は新たに創造し、頂上に挑むことができるようになる。

こうした大学の基礎演習を「退屈だ」「何の役に立つんだ」と切り捨てる人が多い。そういう人たちは、そこで学んでいる「内容」自体にしか興味がない。その地道な演習の積み重ねによって身につけられる能力にまで思いが至らない。登山に例えると、「こんなルートを地道に登ったところで、こんな道はこれからの人生で二度と登ることはないんだから、歩くだけ無駄だ」という態度だ。決して未開の世界を切り拓く能力など身に付かないだろう。

つまり「教養」というのは、ちっとも華やかではない代物なのだ。少なくとも世の中の多くの人が無邪気に憧れているような煌びやかなものではない。毎日地道に少しずつ、地を這うようなスピードで、ゆっくり着実に一歩ずつ前へ進むような、地味な作業の繰返し。毎日毎日、そういう繰返しを膨大な数だけ積み重ねていく。その果てに「真理」という分厚い岩盤にわずかながら小さな穴を開ける。それが「教養」というものの実態だ。世の中の人は、そういう「教養」を本当に欲しているのだろうか。そういう知的な積み重ねの毎日を、本当に「何かの役に立つ」とでも思っているのだろうか。

この本を読む限り、「与えられた既存の知識体系」「100冊の本の内容と実践への活かし方」を覚えることを「教養」と銘打っているような気がしてならない。しかし、そんなものは単なる「情報の記憶」であって、そこから何か新しいものが生まれてくるとは思えない。
この本を読んで原著をすべて理解した気になるのは論外だ。そんなのは、他人の登山経験談を聞いただけで自分も登った気になってる勘違い野郎と同じだ。しかし、この本で紹介されている100冊の本の原著を読んでみる、というだけの姿勢も五十歩百歩だ。「100名山で紹介されている山を、紹介されている装備で、紹介されているルート通りに辿ってみた」という程度のものでしかない。その人は101個めの山を自力で登頂できるのだろうか。そもそも、挑むべき101個めの山を自分で定めることができるのだろうか。

そういう動的・創造的な「教養」にフォーカスを当てず、既存の知識の敷衍とその応用だけに留まっている点は、筆者の落ち度ではないと思う。なにせこれだけの知的領域を克服した筆者だ。実際のところ、本当の教養とはどういうものかを十分に分かった上で、(本当の語義は違うが)確信犯的に敢えてこのような編集形態の本にしたのではないか、と個人的には疑っている。

本当の「教養」というのは、売れないのだ。本当の教養は「ひとつの分野を、じっくりと腰を据えて細い道を辿る」という地道な積み重ねしか生まれない。そしてそういう地道な努力は、嫌われる。それは、大学の授業を「退屈」「意味がない」「世の中に出ても使えない」と低く見下げている人の多さからも容易に分かる。本にしたところで、ろくに売れないだろう。かように、「ビジネスの世界と『教養』というものを折り合わせるのは、一般にうまく訴求する形でまとめるのは難しい」のだ

だから時間がなく忙しいビジネスマンには、このような「100冊全部分かりますよ!」「知識の使い方まで載っていますよ!」という、安直な「こたえ」が書いてある本のほうが重宝される。「こたえ」が与えられるのだから、自分の力で解答に達しようとする本当の「教養」とは正反対だ。僕が「この本は『教養書』と銘打ってはいるが、その内容と編集の仕方は『教養』とは正反対だ」と書いたのは、そういう事情に拠る。

本は、書けばいいというものではない。売れなければ意味がない。この本の筆者は相当なキャリアを積んだビジネスマンだから、その辺の事情はよく分かっているのだろう。馬鹿正直に「教養とは何ぞや」という正論を大上段に構えたところで、誰も見向きもしない。世の中は、「正しいこと」が「良いこと」とは限らないのだ。「正しいが売れない本」と「間違っているが売れる本」とでは、後者のほうがビジネスの世界では絶対正義だ。ましてやこの本は学術書ではなくビジネス書だ。売れないビジネス書など、矛盾以外の何物でもない。だからこの本は根本的に難点を抱えているが、「難点はこの本そのものの欠点というよりは、この本を読む読者の側に問われる問題」なのだろう。


ビジネスの常套手段として、この本でもあちこちに「権威による箔付け」が利用されている。例えばレイチェル・カーソンが「1999年、『TIME』誌の『20世紀の最も重要な人物100人』では、その一人に選ばれている」という箔付けが紹介されている。
しかし本当の「教養」ある態度というのは、TIME誌ごときの権威を盲信せず、「だから何だ?」「『TIME』誌の『20世紀の最も重要な人物100人』って、本当に妥当なの?」「選者は誰なの?」「目的ありきで偏向していない?」と疑いの眼をもち、自分の考えで価値を判断できる人のことだろう。



役に立てよう立てようとして必死な印象。

タイパ重視の生き方

学生が論文を書けない。

本当に書けない。絶望的に書けない。高校までにちゃんと文章の書き方を習ってきているのかと思うくらい書けない。
思うに、いまの若い子たちは日常生活のなかで「長い文を書く」という体験が欠落しているのだろう。自分の考えていることを表出する能力が著しく不足している。

まぁ、いつの世の中でもそう言われてきたのだろう。僕もそう言われる側から言う側に回ってしまったというだけのことかもしれない。
しかし、なんというか、一般に思われている「最近の若い子はろくに文章も書けない」というのと、僕が言う「学生が論文を書けない」というのは、ちょっと問題の焦点が違う。

まずもって学生が「論文とは何ぞや」ということを理解していない、というのは仕方がない。高校までの日常生活で生徒が書く長い文章といえば、読書感想文が関の山だろう。しかも夏休みの宿題で嫌々書く程度のものだろう。さらに最近の学校の先生は忙しいから、それらの読書感想文にしっかり赤を入れて添削してフィードバックする、などということもあるまい。書いたら書きっ放し。これで文章力が上がるわけがない。
僕もいままでこのBlogで「感想文と論文は何が違うのか」についてつらつらと駄文を書いたことがあるが、最近僕が感じている学生の能力不足はそれとはちょっと違ってきている。

なんというか、「間違えることを極度に恐れている」ような気がするのだ。いや「恐れている」というよりは「嫌っている」というほうが近い。膨大な手間をかけ、入念に調査をし、幾重にも分析を重ねた先が「空振りでした」というのは研究ではよくあることなのだが、最近の若い子たちはそういう「無駄」を非常に嫌っているような気がする。学生は「正しい論文」を書かなければならない、という強迫観念に汲々としているように見える。

そもそも論文には「正しい論文」「間違った論文」というものはない。あるのは「面白い論文」「つまらない論文」という区分だけだ。もちろんデータ収集の段階で不正をしたり資料を改竄したりするのは「間違った論文」だが、ここではそういう話をしているのではない。彼らは中等教育を通して、学業の成果を「正解」「不正解」という分け方で評価され続けてきた。だから大学に入ってからの研究にも「正解」「不正解」があると思い込んでいる。そして、彼らは「不正解」の論文を書いたら成績を落とされる、と恐れている。
まぁ、「大学一年生」というよりは「高校四年生」なのだろう。思考の過程が高校生レベルに留まっており、高校までの「おべんきょう」と大学以降の「研究」の違いが分かっていない。

大学で行う研究というのは、例えて言えば「狩り」だ。自分で野山を歩き、獲物を見つけ、銃で仕留める。どこを歩こうが、どこを猟場にしようが、どんな獲物を狙おうが、各自の自由。自分で好きな所を歩き、好きな獲物を仕留めればいい。

一方、高校までに習ってきた「おべんきょう」というのは、言ってみれば「狩りをするために必要な個々の道具を磨くこと」だ。銃にはどんな種類があるのか、どうやって撃てばいいのか。どの山にはどんな獲物がいるのか。どうやって獲物の居場所を察知すればいいのか。
高校までの「おべんきょう」で優秀だった生徒というのは、要するに「銃の種類と名前をたくさん覚えている」というだけのことに過ぎない。それを撃つ腕前が確かかどうかは分からない。そもそも獲物がどこにいるのか探す能力があるとは限らない。むしろ、「自分はどういう獲物を仕留めたいのか」すら決めていない手合も多い。

高校を出たての大学一年生が論文を書けない理由はいろいろあるが、その一番最初の大きな壁は「研究テーマを決められない」ということだ。
僕は大学一年生対象の、基礎的な文章訓練の授業を担当している。大学なので当然、期末課題として論文の執筆を課すのだが、なかなかテーマを決められない学生が多い。「どんなことに興味があるの?」と水を向けても、口ごもる学生が多い。その「口ごもる」という理由が、僕が想像していたのとちょっと違う気がするのだ。

論文のテーマを決めるというのは、狩りに例えると「どの獲物を仕留めたいのか」を決めることだ。狙う獲物によって、使う道具が違ってくる。だから仕留めたい獲物が決まらないと、使う道具が決まらない。勉強や調査の仕方が決まらない。
だが学生は延々と「先生、テーマが決まらないんです」といつまでもぐずぐずしている。

僕は最初、学生がテーマを決められないのは、学術的な研究価値の判断能力がないために適切な問いを提示する能力が欠けているためだと思っていた。これは大学院を出ても研究者になっても常につきまとう問題で、この部分の能力は固定した知識を暗記していても意味がない。その時その場でどのような「問い」を発するかというのは、常に思考と発想が要求される動的なものだ。創造的になにかを「創り出す」能力なので、知識さえ身につければ使い回しで楽ができるという類いのものではない。

ところが今の若い子たちは、研究テーマについて相談に来る時、なんか「正解」を求めて探りに来ているような感触があるのだ。「このテーマで大丈夫ですか?間違いありませんね?これでやって問題ありませんね?」のように、やたらと「確約」を求めてくる。
研究テーマというのは要するに「仕留めたい獲物」なので、どのようなテーマを選ぼうがその学生の自由だ。合っているも間違っているもない。好きなことをすりゃいい。自分が追いたいテーマがあればそれがその学生にとって最良のテーマである、というだけのことに過ぎない。

しかし学生は、高校までに根強く染み付いた「正解病」のせいか、「研究テーマにも『正解』と『不正解』がある」と思っているらしいのだ。「正しいテーマ」を選んだら合格論文、「間違ったテーマ」を選んだら不合格、というイメージらしい。
実際のところ、論文のテーマとして「スジの良いもの・悪いもの」というものはある。スジの良い論文というのは、その論文自体が正しいか間違っているかで決まるものではない。「その論文を出発点として、様々な方向に議論が発展していく」というのが「スジの良い論文」だ。その論文自身が出している答えは、むしろ間違っていても構わない。科学というのは人類全体のチームワークなので、自分で書いた論文で仮説が間違っていても誰か他の人がもっと妥当な答えを出してくれる。アインシュタインだって自分が提唱した一般相対性理論の証明には自身で失敗している。

かように深く染み付いた学生諸君の「間違ってはいけない」「正解を出さないといけない」という強迫観念は何なのだろうか。僕が大学生の時代にもそういう「高校四年生」はいた。大学というのは「高校よりももっと難しい試験問題が出る場所」と本気で信じている学生もいた。しかし、最近の学生は僕の時代よりもその傾向により拍車がかかっているような気がするのだ。なぜ今の学生たちはそんなに「間違える」ことを恐れるのだろうか、僕はつねづね気になっていた。


sanmagoten


つい先日、『踊る!さんま御殿!!』(日本テレビ系列、火曜午後8時)の放送を見た。
「受験戦争を勝ち抜いた有名人SP」(2024年2月6日放送)という企画で、「東大出身アイドル・慶応大出身お笑い芸人らが驚きの受験テクニックを紹介!」という触れ込みだ。受験期に入ってきたので、受験を勝ち抜いた芸能人たちに受験の思い出を語ってもらおう、という企画らしい。

その中で、芸人の水川かたまり(空気階段)が「地方の予備校で動画配信を見ていたので、いつも倍速で授業を聞いていた。上京後、その講師が普通に話しているのを聞いて『遅っ!』と思った」というエピソードを話していた。
MCの明石家さんまが驚いて「今の若い子は動画をぜんぶ倍速で見るんか〜っ!」と驚いていたら、東大出身の雲丹うに、河野玄斗らが頷いて
「ドラマもアニメも倍速で見る」
「音楽はイントロや間奏を飛ばす」
「新作は一旦ネットで調べて『◯話からが面白い』などの確証を得てからはじめて見る」
「小説はあらすじだけ最初に調べて、面白そうだったら読む」
「レビューや『いいね!』の数を見て読むかどうか決める」
「芸人さんの動画は再生回数を調べてから見るかどうか決める」
とコメントしていた。


uni

「だって12回見て面白くなかったら無駄じゃないですか」


tanaka

「お前らネット信じ過ぎなんだよ!」


どうも「時間をかけて自分で試してみて、結果が空振りだったら時間の無駄」という価値観らしい。最初から結論を知っていないと安心して入っていけない。「最後はこういう着地点になる」という確証がないと手をつけない。つまり、今の若い子たちは「試行錯誤」が嫌いなのだ。
それと同じようなことは日常生活の至るところに顕われているのだろう。食べにいく店を決めるときにはネットで評価を調べる。新作の映画を見るかどうかはネットの評判で決める。新しくできたアトラクションに行く前にまずネットの評価を調べる。

要するにどれも「他人の評価」「他人の仕事」に寄りかかっている態度だ。その根底にあるのは「失敗したら過程が全部ムダ」という考え方だろう。とにかく「ムダ」をしたくない。「空振り」をしたくない。効率よく、「正解」だけを掬い取って生きていきたい。
そして今の世の中は、ネットによって「正解」を掬い取れるような世の中になっている。再生回数、アクセス数、「いいね!」の数、レビューの星の数、など「世間の評判」が数値化して可視化されている。


この番組を見て、どうして最近の学生たちが研究テーマを決められないのか、なんとなく分かるような気がした。
彼らは「間違えるのが怖い」のではなく、「労力をかけた結果がムダになるのが嫌い」なのではなかろうか。

他人の評価、他人の意見によって「自分の見解」をつくる、ということは、どこまで行っても他人の影響から脱することはできない。他の人の価値観に縛られているうちは、自分だけの独自の見解をつくることは絶対にできない。

たとえば狩りにおいて「鹿は金になるからいい獲物らしいよ」という評判が流れたとする。その評判を鵜呑みにして、千人のハンター全員が鹿を仕留めてきたら、当然ながら鹿の価値は暴落する。
大学の研究において、最後にものを言うのは「オリジナリティー」だ。世の中の誰もが気付かなかった謎、誰もが見過していた穴を、最初に見つけた研究が最も「おもしろい研究」だ。誰も彼もが鹿を仕留めてくる中で「なんか変な動物がいたぞ」と誰もが見たことも聞いたこともない珍獣を仕留めてくるのが、狩りの醍醐味なのだ。

そしてそういう能力は、自分で試みるよりも「他人の評価」「世の中の評判」「ネタばらし」を先行させるという生き方からは、絶対に身に付かない。
テーマを選ぶときにはまず最初にデータを見るわけだが、そのときには独自の「嗅覚」が働く。研究を長く続けていると分かるが、「これは面白そうな獲物だぞ」という勘が働く。その勘は「他人の評判を横目に見ながら自分の身の振り方を決める」という生き方をしているうちは、絶対に身に付かない。自分で決め、自分で狙いを定め、自分で進む生き方をしない限り身に付かない。

当然、空振りはある。やってみたけどムダだった、という経験は枚挙に暇がない。しかしその「ムダ」な体験をただムダとして切り捨てるか、自分の能力を身につけるための段階と捉えるか、によってその人の能力の限界値は決まる。
高校までの「おべんきょう」と違って、大学から先の「研究」では、失敗もひとつの成果なのだ。科学というのは人類全体のチームワークなので、ある方策で研究した結果が無駄に終わったら、「この先は進んでも行き止まりですよ」と世の中の人に広く告知することができる。失敗を共有することも研究の意義のひとつなのだ。失敗を「無駄」「不正解」と切り捨てる硬直した態度では、大学以降の研究を志しても心が折れて終わるだろう。

学生がしつこく研究テーマの妥当性にこだわるのは、この「失敗」ということに対する異様なまでの嫌悪感が原因なのではあるまいか。失敗をしたくない。ムダをしたくない。失敗は単なるムダだ。他人の評価だけで自分の世界観をつくりあげているから、論文を書くときも他人(=先生)の評価しか気にすることができない。その研究が自分にとって楽しいものであるかどうかなど一切関係なく、「評価されるかどうか」しか考えていない。そんな姿勢で大学生活を続けても、楽しいことなどひとつもあるまい。

若者世代の「労力をかけた結果ムダをしたくない」という価値観を「タイパ(タイムパフォーマンス)」というのだそうだ。コストパフォーマンスからの類語だろう。いまの若い人は、誰もがこの「タイパ」の奴隷と化している。「かけた時間だけ見返りを得られる」という確証がない限り、手をつけようとしない。浅ましい価値観だと思う。そういう生き方をしている限り、決して自分の深淵までに達する「本物」を掴むことはできないだろう。どこまでいっても、どんなもの見ても、必ず「他人」が介在する程度のものにしか達しない。少なくとも、誰もが思いつかなかった仰天するような研究は彼らから出てくることはないだろう。


件の番組に出ていた河野玄斗という出演者は東大医学部卒業で、医師国家試験・司法試験・公認会計士試験に合格したという大変な秀才なのだそうだ。しかし、医師国家試験に合格して、いま何をしているのだろう。司法試験に合格したら何なのだろう。公認会計士試験に合格したのが今にどうつながっているのだろう。「他人の仕事」「他人の評判」に寄りかかって生きて、「自分の生き方」はどうやってつくっているのだろう。結婚相手を見つけるときはネットで相性を試すのだろうか。仕事相手の人物評価はネットで検索するのだろうか。
難関試験に次々に合格している、ということは「他人に出される問題」に答える能力は高いのだろう。しかし人生は、他人からの問いに答えるためのものではない。自分の中に自分だけの何かを造り、世の中に誰も気付いていない何かを新たに見いだし、自ら何かを発信する能力はあるのだろうか。そういう眼は開いているのだろうか。



高校14年生くらいの印象。
ペンギン命

takutsubu

ここでもつぶやき
バックナンバー長いよ。
リンク用
かんたんアクセス
QRコード
記事検索
  • ライブドアブログ