2月25日、カンニング竹山が『ドーナツトーク』(TBS系)に出演。古典の授業は「役に立ったことが1回もない」と話したことが物議を醸している。
番組後半では、「無くしたムダな時間」というテーマでトークを展開。現役の女子高生がムダな時間として「古典の授業」をあげると、竹山は「めっちゃわかる。高校生のときから思ってた」と共感。
「今年で53歳のおじさんだけど、いまだ古典が役に立ったなと思ったことが1回もない」と述べ、スタジオの笑いを誘った。さらに竹山は「大学受験に古典が関係なかったら、0点でもいいんだよ」と発言。
まぁ、「そう思うんなら勉強しなければいいんじゃない」としか。
「学校でこんなこと勉強して何の役に立つんだ」という問い。学校教育から脱落した低能層からよく出てくる「疑問」だ。
むろん、当人たちの目的はその「疑問」について妥当な答えを得ることではない。その「疑問」を楯に、「勉強すること」から逃避するもっともらしい言い訳を手に入れることが本当の目的だ。その「疑問」を口にする時点で、既に「逃げの姿勢」と断定してよい。 自己弁護と自己正当化しか頭にない。
そもそもそんな疑問が出てくること自体、学校教育で要求される最低限の能力を身につけていないことの証左だ。
学校教育の目的は知識や思考能力を身につけることではない。そんなことは最低限以前の必要性に過ぎない。問題は「知識や思考能力を身につけることで一体何ができるようにならなければならないか」だ。
初等教育の目的は「自分の知らない世界を自分で切り拓く能力を養うこと」だ。
世の中には、ひとりの人間の直接体験ではカバーし切れないほどの広大な知的領域が広がっている。その全てがそのひと一人の人生にすべて関わってくるわけではない。しかし、本人の人生に直接関わってくる・こないに関わらず、「世の中にはこんな広い世界が広がっている」ということを見せてもらるかどうかだけで、その国の文化度は格段に違ってくる。
誰もが人生の中で、それまで自分が全く知らなかった世界に飛び込まざるを得なくなる。全く経験したことがないことに挑戦しなければならなくなる。それは学問研究のような勉学に関する分野だけでなく、新しいスポーツ、新しいゲーム、新しい友人関係のような卑近なものから、就職、結婚、新居購入のような人生の転機に関わるようなことも含まれる。そういう時に、「どうすれば『正解』の道を辿れるか」という絶対安全な道など無い。どんなときも、正解は自分で作らなければならないのだ。そのためにはまず、「自分の知らない分野に頭から突っ込んで行く勇気」が必要となる。
学校教育で、人生に全く必要のない知識体系を詰め込まれるのは、その「突っ込んで行く勇気」と「その方法」を先行体験しているだけなのだ。
三角関数という得体の知れないものに、なにか世の中の真実らしきものが含まれているらしい。何だろうかそれは。どうすればその真理を理解することができるのだろうか。
日本には1000年以上前に書かれた暇な女の日記が残されている。当時の日本人は一体何を考え、何のために生きていたのだろうか。
そういう「広大な知識領域」が眼前に広がっているときに、そこに踏み込む姿勢と能力を身につけることが、初等教育で最低限身につけるべき能力なのだ。誰だって、よく知っていることは出来る。知っている分野での振舞い方は分かる。しかし、全く新しい分野に踏み込む時に「知らないからできない」というのは、教育を受けた人間の姿勢ではない。知らない分野に踏み込むときは、いままで自分が経験してきた知的領域の征服方法を思い出し、自分なりの新しい方法論を自分の力で創り出さなければならないのだ。
だから「こんな分野、自分には一生関係ないから勉強する必要はない」という言い方は、要するに「私は今後一切、新しいことに取り組むことを拒否する」という姿勢に他ならない。学校教育の目的は「知の体系を身につける方法論を身につけ、今後それを自分で編み出せるようになること」であって、習う知識そのものではない。はっきり言ってしまえば、習う分野は何でも構わないのだ。その中で、特に汎用性が高く、日本という国で日本人という自己意識を確立するための助けになり、学校卒業後に新たな分野に挑む方法論を学ぶための参考になるような、よく練られた知識体系を選んで学んでいるに過ぎない。
「自分には必要ない」と思うのなら、学ばなければ良い。世の中には、人生に必要なものしか学ばせてもらえない国のほうが多い。そういう教育後進国のあり方をお望みなら、遠慮なくそうすればよい。自分の人生に必要なものだけに価値を認め、必要ないものはすべて切り捨てて価値を見下すような、そういう人間になりたければそれも良かろう。生きる世界を自分で狭めるのは、教育を軽視する人間の典型的な自業自得だ。日本という教育先進国に生まれた特権を自らドブに捨てて、自分の人生の役に立つものだけの世界を壁で囲って、その中で狭く生きていけばいい。馬鹿によくお似合いの生き方だ。
社会学者の古市憲寿氏(39)が28日、自身のSNSを更新し、「古典の授業が無駄」という議論に対して私見を述べた。
古市氏は「『古典の授業が無駄』といった議論に反射的に反論するひとって、授業時間が有限だということを忘れがちだよね」とつづり、「そりゃ時間が無限にあれば古典でも何でもすればいいけど、それはたとえば外国語よりも有益なのか。あと反論するひとたちが、どれだけの古典に関する教養を持っているかを知りたいところ」とした。
また、「みんな教育に期待しすぎだと思う」とし、「この国の高校卒業率は約95%だけど、大人を含めてみんなで大学入学共通テストを受けてみたら、平均何点くらいになるのか。たぶん悲惨な結果になると思う。結局、日常的に使ってる知識以外は忘れていくし、逆に必要となれば何歳からでも新しいことは学べる」と私見をつづった。
「馬鹿の言うことに対して、馬鹿がコメントをしている」という図式。もはや笑い話だ。学校で習うことを「役に立つ・立たない」「有益・無益」「覚えているか・忘れているか」という尺度でしか測ることができない。この程度の知的許容量しかない輩が「社会学者」とは恐れ入る。
「習ったものをすべて忘れたら、その教育は無駄」という、歪んだ知識偏重主義だ。実際のところ、学校教育で身につけるべきものは知識ではない。学校教育の本当の価値は、「習ったものをすべて忘れた後、それでも残っているもの」にある。残った知識が大事なのではなく、「かつてここまで覚えたことがある」という思考経験の絶対最大量をともかくも一度作っておくことが大事なのだ。
古市憲寿は「必要となれば何歳からでも新しいことは学べる」などと嘯いているが、自分が経験した初等教育の恩恵に甘ったれている笑止千万な言い方だ。新しいことを学ぶことができるのは、かつて学校で「学ぶ」という過程を一度辿ったことがあるからだ。「学び方の違う様々な分野を広く学ぶ」という行為を一度も行ったことがない人は、新たなことを学ぶための方法論を自分で編み出すことなどできない。自分の力で自分の能力を上げていく自己教育能力がない。簡単に「何歳からでも新しいことは学べる」なととほざいているが、堅固な初等教育で役に立たない知識をたっぷり吸収した恩恵を軽視しており、知的活動の源泉となる生き方を舐めている態度だ。
受ける教育のレベルを選ぶのは自分の勝手だ。「こんなこと学んでも役に立たないなら無駄だ」というなら、とっとと学校を退学すればよい。義務教育すら拒否して「人生は冒険だ!」などとほざき全国を車で乞食行脚の旅に出るのも良かろう。どれも個人の勝手だ。
しかし、その個人の価値観を社会全体の強制力に転化し、「だから学校教育からこの科目を削るべきだ」と主張するのは絶対に許されない。「教育を受けない自由」を、「他人の教育機会を剥奪する権限」と勘違いしてはいけない。他人が学ぶ邪魔までする権利はない。学校教育を拒否して無能低能に堕するのは手前が勝手にやるべきことであって、他人にまでそれを強制する権限など誰にもない。
この類いの教育批判は、誰もが抱いている教育劣等感に刺さる。簡単にウケる安易な方法だ。しかし、ことの本質は「古典は有益なのか無駄なのか」ではない。「『知識』そのものの有益・無益は教育の本質には一切関係ない」ということを知らない愚か者が後を断たないということが問題なのだ。日本では初等教育を受けられることが当然のことだと思われている。その価値と恩恵に気付かず、自らその価値を貶める言動をする輩など、教育を受けた人間とは言えない。
香港の街中には本屋が無い。イギリスに50年支配され、中国に引き渡された香港には、自分たちの物語を語る言語がいまだに確定していない。だから香港市民はみんな本ではなく中国語で書かれた新聞ばかり読んでいる。重厚な「物語」を語ることができず、薄っぺらい「情報」にしか知的生活の拠り所がない。香港以外でも、いま世界には自国語で書かれた本が出版されていない国のほうが多い。
ましてや「古典」が存在する国など限られている。そのことに激しい劣等感を抱いているアメリカは、千年以上にわたる文化遺産を有している日本が妬ましくて仕方ない。だからやたらと「古典は無駄だ」「英語こそ正義」という価値観を日本に押し付けてくる。彼らは日本人自らの手で日本の古典を捨てさせたいのだ。日本のもつ本当の価値に気付かず、豊富な古典遺産に対して嫉妬の感情をぶつけてくるアメリカの英語絶対主義に簡単に踊らされる軽薄な日本人が多い。
中国という国はやたらと政治・経済分野において日本に圧力をかけてくるが、古典教育・文化に関しては一切何も言ってこない。日本以上に雄大な知的文化遺産を有する中国にとって、日本の古典ごとき屁のようなものだろう。その辺は長大な歴史を誇る中国の、根源的な自尊心の表れだ。
ただし中国は一度、自国の誇る歴史遺産や文化遺産を自らの手で破壊したことがある。共産党以外の教義はすべて害悪。毛沢東の言説だけが正義で他は悪。古典・歴史はすべて無意味。古典はすべて焼き尽くし、歴史的建造物や寺社仏閣はすべて破壊すべし。文化大革命という愚かな行為は、自分の国がもつ本当の価値を中国国民自身が破壊した出来事に他ならない。カンニング竹山は、このようなあり方を日本の理想として提唱するつもりなのだろうか。
実際のところ、カンニング竹山も古市憲寿も、古典を学ぶ必要性も意義も十分に分かっていると思う。彼らがこのような言説を流布する目的はただひとつ、「目立つため」だろう。番組を盛り上げるため、構成作家の台本通りに、世の中を騒がすようなことをわざと言って数字を取ろうとする。普通に古典の意義を擁護するような言説を公表しても誰も注目してくれないから、逆張りをして注目を浴びる。彼らの価値観の中心は「Yahoo!ニュースのトップに載ること」であって、正論を発して世間を啓蒙することではない。そんなことは彼らにとって「何の役にも立たない」ことだ。目立たなければ全ては「無駄」なのだ。物事の正道など一切無視し、曲学阿世に堕する生き方が、果たしてどれほど「有益」な生き方なのだろうか。彼らにとって本当に大切なものとは、一体どこにあるのだろうか。
軽薄極まる。