昭和世代にはお馴染みの『スクール☆ウォーズ』(大映テレビ・TBS系列)というドラマがある。
荒廃した不良高校に体育教師として赴任した元ラグビー日本代表・滝沢賢治の奮戦記というドラマだ。体罰が普通であった昭和当時としても暴力描写が多く、相模一高に109-0の大敗を喫した際には部員全員を殴り飛ばすという、現在ではコンプライアンス的観点から地上波での再放送が絶望的ともいえる、いかにもアレなドラマだ。
今では問題作扱いされるドラマだが、決して暴力肯定一辺倒というわけではない。作品中、賢治が生徒に対して手を上げた後は、必ず何らかの形で賢治にペナルティが課されている。作品後半には賢治が厳しいだけの指導に行き詰まりを感じるようになる。そこで元ウェールズ代表候補のマーク・ジョンソンを紹介され、その全く異なるラグビー観に戸惑いながらも、「楽しむ」「自分で考える」という新しい軸を指導に取り入れていく過程が描かれている。娘が友達とやっている交換日記からヒントを得て練習日誌をつける習慣を取り入れたり、勉学一辺倒に偏る岩佐邦靖校長を決して悪者として描いていないなど、その時代としては先見の明がある教育観だろう。そのため、前半と後半でまるで別のドラマのように見える作品だ。しかし前半部分の体罰描写があまりにもインパクトが強く、今でも『スクール☆ウォーズ』といえば体罰作品、という印象をもつ人が多い。
このドラマの昭和当時の放映人気は凄まじく、ドラマ放映最終回の翌週には早くも再放送が始まった。夕方4時代の時間にはこの再放送を見るために街から不良の姿が消え、ゲームセンターは閑散たる状況だったという。このドラマに薫陶を受けた世代には「お前らゼロか!ゼロなのか!悔しくないのか!」「悔しいです!」「俺は今からお前らを殴る!」などの台詞がすっかりお馴染みだ。全国の中学校・高校のラグビーポールには必ず「イソップ」と書き込まれていた。昭和世代のほとんどは「この物語は、ある学園の荒廃に闘いを挑んだ熱血教師たちの記録である。高校ラグビー界において全く無名の弱体チームが、荒廃の中から健全な精神を培い、わずか数年で全国優勝を成し遂げた奇跡を通じて、その原動力となった信頼と愛を、余す所なくドラマ化したものである」を諳んじることができる。
僕ものちにラグビーをするようになったので、このドラマの印象は深い。今とはラグビー的に隔世の間があることも多く、当時は「プレイスキッカーがフランカーなのか…」と変な感想をもったことを覚えている。また県大会の決勝で、川浜高校のチーム統制が乱れていることを見て取った相模一高の勝又欽吾監督は作戦としてハイパントを指示するが、これは実際のセオリーとは逆だ。ハイパントは相手チームの統制が取れ過ぎて隙がないときにアンストラクチャーを生み出すために使うもので、相手の統制がとれていない時は普通モール・ラックを中心とした縦突破を使い陣形を崩し、外を余らせる。おそらくハイパントの処理のため上を向いてあたふたする川浜高校の選手を描くための演出的な描写だろう。
今でも様々な媒体でネタとしてとり上げられる名シーンが多いこのドラマだが、一応、教師という職に就いている僕は、このドラマを思い出すときに、普通ではあまりとり上げられない妙なシーンを思い出す。
川浜高校がまだ荒れていた頃、番長だった水原亮は賢治を敵視し、激高させ暴力行為によって辞職に追い込もうとあの手この手で嫌がらせをしてくる。そのすべてが空振りし、卒業を危惧する取り巻きが離れていく中、いよいよ自身が追い込まれた水原は、凶器を持って賢治と差しの勝負を挑む。そこで賢治に返り討ちにされ完全に叩きのめされ、逆に家で介抱される。

その時、水原が「なぁ、ラグビーってどういうところが面白いんだ?」と賢治に尋ねる。
その時、賢治は「そうだなぁ、いろいろあるが…」と三つの理由を説明する。
ひとつめは、ラグビーは1チーム15人と団体競技で最も人数が多く、皆で力を合わせないと勝てないこと。
ふたつめは、臆病者にはできないスポーツであること。コンタクトプレーが多く、相手にタックルするためには並々ならぬ勇気がいる。
みっつめは、ラグビーボールの特殊な形。どこへ転がるか分からないから、最後まで追い求める執着心が必要。途中で諦めた奴のところには決してボールは転がってこない。
一般的には「不良・水原改心のシーン」として名場面に括られることが多いが、僕は最近、このとき賢治が言っていた3つの理由をよく思い出す。
話は全く変わるのだが。
大学で教えていると、男子学生と女子学生の違いが如実に顕われることがある。特に大学に入ったばかりの学部1, 2年の基礎教育の段階でそれが顕著だ。昨今の風潮では「男子」「女子」という性別のくくりで物事を論じるのは良くないことなのだろうが、厳然たる事実として性差は存在する。学生の問題に対処する必要上、その違いを理解していなくては話にならない。
大学に入ったばかりの1年生の語学授業などを担当していると、間違いなく女子学生のほうが優秀だ。課題はちゃんとやってくる、小テストは満点をとる、提出物はきっちり守る、試験勉強をちゃんとやって点数を取る。言ったことを全部きっちりやってくる良い子が多い。教えてる側からしても非常に気分が良い。覚えがよろしい。
一方、男子学生は、まぁ、勉強をしない。全く勉強しない。特に一般教養科目や語学授業などはまず勉強しない。宿題はやらない、小テストはすっとばす、レポートは雑に書く、試験勉強をしない。白紙答案なんてものもザラだ。先生の言うことを全く聞かない。大学に入って羽目を外しているのかと思いきや、そうでもないので不思議だ。授業にはちゃんと来るのだが、そこでコツコツと努力をするということをしない。学期によっては成績順に並べると上半分が全員女子、下半分が全員男子、ということもあって困ることがある。
ところが、大学2年から3年にかけての時期に、逆転現象が起きてくる。男子学生がぐんぐん伸びて、女子学生がごぼう抜きされる。特に専門科目やゼミなど学習範囲が先鋭化してくると、その傾向が顕著になる。授業のレポートを読むと、優秀なレポートを書くのはほとんどが男子学生ばかりになる。女子学生の書くレポートは、誰かの研究をまとめただけにすぎなかったり、ただ資料を切り貼りしてきただけの形式的なものばかりだったりすることが多くなる。
背景としては、その頃になると女子学生の興味の中心はすでに「就職活動」に傾いており、就活に必要のない科目や授業をことごとく切り捨てていく傾向がある、ということがある。非常に現実的だ。就活に執心するならまだマシなほうで、重症になると勉強がとてもつまらないものに感じられてしまい、学習意欲がゼロになり、大学に来なくなる。「自分は何をしに大学に入ったのだろうか」と煩悶するようになり、目を背けるように学業以外のことに熱中するようになる。
このように男女が逆転する理由は明らかだ。女子学生は、本質的に「大学3年生」なのではなく「高校6年生」であることが多いのだ。勉強する目的・手段・動機付け・意義・価値、すべてにわたって「高校生」の感覚なのだ。大学に入ってからも、高校の頃と同じような感覚で勉強をしている。新しいステージに合わせるように自分をアップデートできていない。それは一言でいうと「他人から評価されるための勉強」と言ってよい。
女子学生の多くは、優秀な成績を取ることが重要だと思っている。「一生懸命勉強して、試験でいい点を取って、優秀な成績を積み重ねて、いい企業に就職する」。女子学生の「理想の大学生像」は、おおむねそんなところだ。だから先生の言うことにはきっちり従う。やらなければいけないことを全部やる。「『優』ばかり並んでいる成績表」が、女子学生の目指すところと言ってよい。
一方の男子学生が勉強しないのは、「なぜそれをしなければいけないのかが分からない」からだ。彼らは先生に突っかかっているわけでも反抗しているわけでもなく、心の底から「なんでそれを勉強しなければならないんですか?」と思っている。大学入試が終わってからも英語を勉強しなければいけない理由が分からない。自分の専門と関係のない一般教養を学ばなければならない理由が分からない。だから勉強しない。男子学生は、理由もなくいい成績をとるためだけに努力をする、という不毛なことを丹念に続けられるようにはできていない。意味がないと思えば、やらないのだ。
大学の勉強というのは、例えて言うと「刀を研ぐ作業」と「剣術を鍛える修行」のふたつがある。「刀を研ぐ」というのは、いわゆる「おべんきょう」のことだ。知識を身につける。語学能力を上げる。ひたすら努力する。高校までの中等教育が目的としているのは「既存の知識体系を敷衍して身につけること」だ。これは己の知的作業の武器を磨き上げることに他ならない。
一方、「剣術を鍛える修行」というのは、敵を倒すための動的作業だ。大学でいうと、これは自分の研究テーマとして狙い定めた謎を解くことに相当する。どんなに研ぎ澄まされた刀を身につけていても、それを使って敵を倒せなければ意味がない。高校まではひたすら刀を磨いていればよかったが、大学では刀を磨くのは「手段」であって、それ自体が「目的」ではない。
女子学生の多くは、刀を研ぐ作業に秀でている。そして、大学に入ってからも相変わらず延々と刀を研ぎ続けているだけなのだ。実際にその刀を使って何か謎に取り組み、斬りかかり、倒そうという気は全くない。そして大学3年くらいになってもひたすら刀を研ぎ続け、「私は大学で一体何をやっているのだろうか」と煩悶するようになる。つまり、やっていることが高校の頃と全く変わらない。
つまり女子学生は、刀を研ぐのは上手いが、その刀を実際に使うのが下手なのだ。自分が倒すべき敵さえ定められない女子学生も多い。女子学生はどんなに優秀な成績をとっていても「で、大学では何を研究しているんですか?」と訊かれると、答えに窮することが多い。それは「知識を身につけること」が教育の目的であると盲信し、そこから一歩も外に出られていないからだ。高校までは、ひたすら上手に刀を研げれば褒められた。いい成績がもらえた。だからいつのまにかそれを「至上の目的」としてしまい、「成績のために勉強する」、つまり「他人の評価のために勉強する」という姿勢が習い性になってしまう。
女子学生が「一生懸命勉強して、試験でいい点を取って、優秀な成績を積み重ねる」のは、別にそれが楽しいからではない。それが「いい企業に就職する」、つまり「他人に評価される」ために一番手っ取り早い方法だと思っているからだ。基本原理が「自分」ではなく「他人の評価」なので、自分のやっていることが他人からの評価につながらないと悟った瞬間、自己が崩壊する。
企業は、どんなに良い刀を研げても、それを使って問題を解決する能力が無い者は採用しない。剣術の腕前がなければ話にならない。女子学生が「優秀な成績」をとっていても就職活動に苦戦する理由はそこにある。就職活動の面接では必ず「で、大学では何を研究しているんですか?」と訊かれるが、女子学生はそれに対して自ら発する熱量をもって専門分野の魅力を熱く語ることができない。女子学生にとって大学の研究とは「成績のために仕方なくすること」でしかなく、良い成績さえ取ってしまえば研究内容などどうでもいいからだ。企業に研究内容について訊かれても、ただ就活のために用意した陳腐な文言しか並べることができず、それは企業の面接官に露骨に伝わる。
それは何も就活だけに限ったことではなく、大学の本分たる研究活動にも反映されている。女子学生は、男子学生と比べて圧倒的に大学院の進学率が低い。それは「女子には研究能力がない」からではなく、大学院に入ってまで「勉強」を続けようという意欲が湧かないからだ。大学院で行うのは「勉強」ではなく「研究」である、ということを根底から勘違いしている。女子学生が大学院に進学しないのは、要するに「これ以上、刀を研ぎ続けるのは嫌だ」というだけの理由に過ぎない。倒す敵もなく、使うつもりもなく、ひたすら刀を研ぎ続けるのはそりゃ苦痛だろう。学部で「よい成績」を取った女子学生が大学院に入って論文一本書けない、というのはよくある話だ。僕がアメリカの大学院にいた時も、飛び級で入学してきた20歳そこそこの「優秀」な女子学生が、タームペーパーの論文一本まともに書けず、1年で退学していった。彼女らは「知識を暗記する」「訊かれたことに答える」「試験で点をとる」ことを「知的活動の全て」と思い込んでおり、「自分から謎を発見する」「仮説を立てる」「持論の正しさを立証する」という「剣術の腕前」を疎かにしている。
一方、男子学生のほうは、ろくに刀を研ぎもしないでやたらに振り回そうとする。研究テーマを定め、取り組む問題を見つけ、解明のための筋道をつける能力はあるが、いかんせん知識がない。英語が読めない。敵を倒すためにいつまでも棒っきれを振り回して挑むような粗忽さがある。
だから、敵を倒すために必要な武器を調達する必要がある、と悟った時点から猛烈に刀を研ぐようになる。男子学生が「宿題はやらない、小テストはすっとばす、レポートは雑に書く、試験勉強をしない」のは、それをする必要性を感じないからだ。男子学生は、自分でしたくもないことを「他人に評価されるため」というだけの理由ですることを嫌う。だが一旦、倒すべき敵が明確になり、そのために勉強が必要だと悟ったら、猛烈に勉強をするようになる。大学入試のために英語を勉強する必要がなくなっても、「自分の論文は英語で書かないと世界中の人が読んでくれない」と分かると、途端に英語を猛勉強しはじめる。「世界の企業を相手に英語でスピーチをして自社製品の優秀さをアピールできないと仕事を取ってこれない」という将来像が明確になると、途端に英会話が上達しはじめる。男子学生は、先生の言うことを全く聞かない。だから先生の書いた論文にも臆することなく反論する。
大学における学習態度の男女差が最も顕著に表れるのは、授業中に挙手をさせて意見を述べさせる時だろう。
そういう時、女子学生はまず発言しない。女子学生の多くは理想の勉強の仕方を「家でひとり机に向かって、こつこつと努力すること」だと思っている。だから教室ではひたすら気配を殺して、他人の背後に隠れ、自分が目立つことを嫌う。当然、「議論」などという行為は最も女子学生が忌み嫌うところだ。女子学生は、議論を「他人の意見にケチをつけること」「意見の正しさの勝ち負けを競うこと」「自分の意見にダメ出しをされること」だと思っている人が多い。そのため議論をするたびに「自分は他人にどう思われているのだろうか」ばかりが気になり、無駄にメンタルが削られる。だから議論では絶対に発言したがらない。
こうした幼稚な態度は、高校までは通用しただろうが、大学よりも上の世界では単なる「無能」に過ぎない。その「無能」の正体は、意見の表出能力でも思考能力ではなく、そもそも「議論」というものは何のために行うのか、という一番根本の部分を誤解しているだけなのだ。そこが、女子学生が大学以降で伸び悩み、大学で学ぶ意義がわからなくなってしまう一番の原因だろう。高校生の感覚のまま大学生になり、議論の意義も目的も知らないまま「他の人に攻撃的になるのは嫌だ」という理由で意見を言いたがらない。
大学で扱う「もんだい」というのは、大きく”problem”と”issue”に大別される。
Problemというのは、「確たる正解はないが、場の必要上、参画する人で一応の同意に達する必要がある問題」のことだ。環境問題、年金問題、税金問題、コロナ禍でのマスク可否問題、などがそれにあたる。「こうすればいい」という絶対的な正解などない。しかし、切羽詰まった現実に対処するために、その場にいる人で協力してとりあえずの合意をつくり、「最適解」をつくりだす営みだ。
一方、issueというのは「解くべき謎を見つけて、最も妥当と思われる仮説を提唱し、その妥当性を立証するべき問題」のことだ。人間はこのissueに対処する方法論として「科学」を創り出した。数学や論理学などの公理系をもつ形式科学はちょっと別だが、「自然とは何か」を模索する自然科学、「人間とは何か」を模索する人文科学、「社会はどうあるべきか」を模索する社会科学は、すべて共通した方法論をもつ。
人類は有史以来、「もんだい」を解決するために3つの方法論を編み出してきた。すなわち「宗教」「哲学」「科学」の3つだ。
宗教の方法論は単純で、「信じること」。今でも学生の中には先生の言った「こたえ」を盲信する者がいるが、それは科学でも何でもない、「先生教」という宗教に帰依しているだけの思考停止だ。
哲学と科学の方法論は共通して「疑うこと」。しかしそのふたつは取り組み方が異なる。「哲学」というのはいわば個人技の名人芸だが、「科学」というのは人類全体のチームワークだ。有史以来、数限りない哲学者が「この世の真実」に到達してきたのだろう。しかしその世界観は、他人が理解できない再現不可能なものだ。ある哲学者にとっての真実は、あくまでもその哲学者の中だけの真実であって、他人に共有できる種類のものではない。「それはあなたの感想ですよね?」というのは、哲学的手法を揶揄するためのものだ。
現在の大学教育は、「科学」の方法論に基づいて行われている。現在、世界中で広く行われている研究活動は科学の方法論に立脚しているので、それに基づくのは当然のことだろう。「科学」はひとりよがりの世界観ではなく、人類全体のチームワークで世界の謎を埋めていく作業なので、当然ながらルールがある。科学の作法を知らなければ、科学研究に参与することはできない。
「議論」というのは、要するにissueに対する仮説に対して、problemに対する提言に対して、その場にいる人間全員で最適解を導くための共同作業だ。そこではおかしいと思うことはおかしいと指摘し、より良い案があれば提案し、その場の「集合知」を少しでも上に押し上げる協力体制が必要となる。

東京の湾岸地域に得体の知れない生物が出現し暴れている。そこで「あれは何だ?」というissueが発生し、皆で知恵を絞って妥当な仮説を出し合う。試行錯誤の議論を経た後、「あれはどうやらゴジラというものらしい」という仮説に達する。
そうしたら次は「どうすれば倒せる?」というproblemに取り組む必要がある。自衛隊を動員して一斉射撃をするべきだ。いやいやそれだと地域住民が犠牲になる。では東京近郊で住宅が密集していない場所に生物を誘導すればいい。そんな場所あるか?ある。多摩川流域の河川敷なら一斉放射しても犠牲は少ない…
皆で「議論」した末、とりあえず辿り着いた「最適解」。
ところが女子学生のほとんどは、「どうすればゴジラを倒せるか?」という問題であっても、議論であれば何でも「意見の優劣・勝ち負けを決めるための勝負」という観点しかない。誰かの意見に反論することを「その人に対する敵意」と思い込んでいる。だから意見を出したがらない。すぐ外でゴジラが暴れていようと多くの人が犠牲になっていようと、一切関係ない。女子学生にとっては、「家でひとり机に向かって、こつこつと努力すること」こそが勉強の理想形であり、人類全体で力を合わせて「集合知」をくみ上げていく共同作業など、知ったこっちゃない。要するに「自分さえ点数を取れればそれで良い」のだ。
だからその場にいる人の間で「集合知」をつくる作業には一切協力しない。ひたすら気配を殺して、他人の背後に隠れ、目立たないように振舞う。「意見を言う」という、目立つようなことは絶対にしない。教室という小さな場で「集合知」をつくるのに協力しない人間が、人類全体の「集合知」をつくるために貢献できるわけがない。普段から「目立たないように」を基本原理として行動している人間が、就職活動の面接という場で人の印象に残るわけがない。
実際のところ女子学生が教室で意見を言わないのは、そこまで悪意に満ちたものではなく、単純に「人前で話すのが怖い」という理由であることが多い。しかしその理由だって、大元を探ってみれば「失敗するのが怖い」、正確には「他人から『失敗した』と評価されるのが恥ずかしい」、要するに「他人の評価」によって自意識をつくりあげていることに起因している。
人前に立って自分の意見を話すことは、そりゃ誰にとっても怖いものなのだ。しかし、人類の「集合知」をつくることに協力し、より良い最適解を皆で作り上げるためには、ひとりひとりの協力が不可欠なのだ。皆で知恵を寄せ集めなければ、ゴジラの倒し方など誰にも分からない。「自分の意見は間違っているかもしれないが、全体の集合知を作り上げるために貢献できればそれでいい」という客観的なものの考え方をしなければ、意見など出せない。そして女子学生にはそれができない。
この世には絶対的な「真実」などなく、決まった方法論をとればいつも「正解」に辿り着ける、というものではない。問題ごとに最適解は異なるし、この世の中では問題そのものが常に変化する。決まったやり方を暗記しているだけでは何の役にも立たないのだ。「こう訊かれたら、こう考えて、こう答えればいい」という絶対正解が存在していた高校までの「おべんきょう」ではそれで何とかなったかもしれないが、世の中に出てから成果のないissueやproblemに取り組む時には、その時その時で頭を振り絞って、その場にいる全員で協力して、知恵を集めて最適解をつくる必要がある。
そう考えると、大学で学ぶべき知のあり方というのは、非常にラグビーに似ているような気がするのだ。
ラグビーは15人で行う競技で、団体競技で最も人数が多い。だから「個の力」だけでは勝てない。チーム全員が力を合わせて、「チームの総力」を組み上げるやり方を、各自が分かっていなければならない。それと同じで、「科学」という営みも、人類全体のチームワークなのだ。そのためには自分勝手なやり方では何の貢献もできない。科学のルールを守り、科学の方法論に従わなければ、人類の集合知を構築するための戦力にはなれない。ましてや「ひたすら目立たないように黙ってる」「家でひとり机に向かって、こつこつと勉強することこそ至上」「『議論』は他人に対する攻撃だから嫌だ」などという姿勢は、その共同作業に参加することを最初から放棄している。人類という「チーム」がどうなろうと知ったこっちゃない、という態度に他ならない。
もちろん、人前で意見を言うのは勇気がいる。僕は大学の英語の授業で1年生にも英語でのスピーチを課しているが、大学1, 2年生くらいの学生にとっては、人前に立って英語で発表をするというのはかなりハードルが高かろう。1年生対象の授業では、壇上に立った途端に目に見えて分かるほど足が震える女子学生もいる。ちょうどラグビーのタックルが怖いのと同じことだ。全力で突っ込んでくる相手FWにタックルに行くときの心境は、ちょうどそんなものだ。人前で自分の意見を発表するのも、突進してくる相手にタックルするのも、ともに勇気がいる。ラグビーも、科学研究への参与も、決して臆病者にはできない。
女子学生は試験の点数だけが気になるので、やたらと「それで先生、答えは何ですか?」と訊いてくる。要するに「こう答えればどんな時でもちゃんと評価されますよ」という絶対的な安心感を欲しがるのだ。しかし、大学より先の世界には、正解などない。issueにしてもproblemにしても、決まったやり方で答えれば常に正解が出せる、という甘いものではないのだ。ちょうどラグビーのボールのように、どちらに転ぶか全く分からない。時にはセービングのために身を投げ出し、体を張ってボールを確保しなければならない。途中で諦めた奴のところには決してボールは転がってこない。ラグビーのボールにしろ科学的探求にしろ、必要なのは「最後まで諦めずに追い求める執着心」なのだ。
他人に評価されるために勉強する女子学生と、他人の評価なんか知ったこっちゃなく自分の興味と関心を満たすためにしか勉強しない男子学生の違いは、早いと大学1年生の秋頃にはすでに出てくる。真面目に勉強するに越したことはないが、学生の多くは「真面目」のあり方を勘違いしている。高校までに良しとされてきた勉強の仕方をそのままずっと続ける、成績という他人の評価のためだけにひたすら頑張る、努力と勉強は「よりよい次の進路のため」と思い込み本質を見失う、というのは大学2年生までに学生が各自、自分の力で乗り越えなければいけない壁だ。
単なる高校4, 5, 6年生なのか、それとも晴れて「大学生」へと自らをアップロードできるのか。仕事柄、そのへんの事情を学生に説明することが多い。
そんなときは水原に「なぁ、ラグビーってどういうところが面白いんだ?」と尋ねられたときの滝沢賢治の返事を、最近よく思い出す。


余談だが、土建屋のオヤジ・内田玄治が夜遊びしているキャバレー「大東洋」、いつも「大泉洋」に見える。
勉強の仕方を知らない学生など、しょせん雪で止まった新幹線。