たくろふのつぶやき

春来たりなば夏遠からじ。

2022年02月

ロシア、ウクライナ侵攻

「ウクライナ危機 秩序を壊す侵略行為だ」
(2022年2月23日 朝日新聞社説)
「『独立国家』承認 国際秩序を壊すロシアの暴挙」
(2022年2月23日 読売新聞社説)
「露のウクライナ派兵命令 世界秩序揺るがす暴挙だ」
(2022年2月23日 毎日新聞社説)
「ウクライナ危機 露の侵略は許されない 日本も強い制裁を発動せよ」
(2022年2月23日 産経新聞社説)
「独立承認は国際秩序を踏みにじる行為だ」
(2022年2月22日 日本経済新聞社説)


朝日社説:
「国連安全保障理事会の常任理事国が、自ら国連憲章を踏みにじってどうすんだ」

読売社説:
(特に読む価値なし)

毎日社説:
「『ミンスク合意』違反だろ」

産経社説:
「長期計画的。クリミヤ併合の時と使ってる手が同じ」

日経社説:
「世界がこれを認めたら、たぶん中国は台湾を武力併合する」



日経の勝ち。日付に注意。

運命をねじ伏せる力

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セルゲイ・ブブカ


ウクライナ(旧ソ連)の陸上競技選手。棒高跳の元世界記録保持者。
実に35回(屋外17回・室内18回)も世界記録を更新し続け、2020年9月に破られるまで27年もの間、世界記録保持者だった。人類で初めて6mの壁を破る。世界陸上は第1回から第6回までの大会(ヘルシンキ、ローマ、東京、シュトゥットガルト、イェーテボリ、アテネ)を6連覇。圧倒的な実力から「鳥人」の異名を取った。

ブブカの凄さには様々な逸話がある。棒高跳以外でも身体能力が桁外れで、走幅跳、走高跳では年代別国内記録を持っていた。空中姿勢を保つために体操競技を練習に取り入れ、体操選手並みの技を行うことができた。100m走は10秒3。棒高跳のポールを持って走っても11秒台で走れたと云われている。
世界記録を一気に更新するのではなく、1cm刻みで細かく更新し続けるので「ミスター・センチメートル」と揶揄されることもあった。これは世界記録更新に付与されるボーナス収入を得るためであったことを本人が認めている。ブブカは旧ソ連の中でも経済的に苦しいウクライナ地方の出身で、家族や親戚の生活を支える必要があったことが背景にあった。ブブカは細かく世界記録を更新し続けたことを「私は自分の実力だけで家族を幸せにできた」とむしろ誇っている。

陸上の世界大会が行われるたびにそれぞれの競技で優勝予想が行われるが、棒高跳については「どうせブブカだろう」という、勝って当たり前という感があった。僕はちょうど中高生のころがブブカの全盛期にあたり、自分も陸上競技をやってたから自然とブブカの記録をリアルタイムでよく見聞きした。実際の試技を見たこともある。

そんな「無双」ブブカだが、なぜかオリンピックとの相性は悪かった。
1984年ロサンゼルスオリンピックは、ソ連がボイコットしたため不参加。
1988年ソウルオリンピックでは5m90cmで優勝し金メダル。
1992年バルセロナオリンピックは途中で試技を止め、決勝記録なし。
1996年アトランタオリンピックは予選で棄権。記録なし。
2000年シドニーオリンピックでは1回めの試技5m70cmをクリアできず、記録なし。
ソウルオリンピック以外では、なぜかオリンピックで勝てない。陸上の7不思議のような扱いだった。

そんなブブカの競技を見て、僕が一番凄いと思ったのは、世界記録を樹立した時でもなく世界陸上で連覇を重ねた時でもなく、相性が悪かったオリンピックで唯一、金メダルを取った1988年のソウル大会の時だ。9月に入ってからの平日に行われたオリンピックだったので、先生に頼んで職員室のテレビで棒高跳決勝を見た。普段は陸上競技など見ない先生や生徒もわらわらと集まってきて、職員室が街頭テレビさながらになったことを覚えている。

この大会、結果としては金メダルだったが、この時のブブカは明らかに調子が悪かった。普通なら余裕で成功するはずの高さに何度も失敗する。優勝を決めた5m90cmも自己ベストの世界記録からは遥かに低い記録で、「なんでこんな高さで失敗するんだ」という感じだった。結局ブブカは5m90cmを3回めの試技でようやく成功し、優勝を決める。通常の試合では2〜3回の試技で軽く優勝を決めるブブカだが、この時ばかりは失敗を重ね何度も跳んだため体力と精神力を消耗し、自身が持つ6m06cmの世界記録への挑戦を棄権している。


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3度めの試技でようやく5m90cmに成功した時のブブカに、ちょっと驚いた記憶がある。
ガッツポーズで大声を出し、雄叫びを上げていたのだ。いつもブブカは世界記録を更新した時もちょっと微笑み片手を挙げて声援に応える程度で、感情を表に出すことの少ない選手だった。それが旧ソ連のイメージと相俟って、「常に冷静沈着な競技サイボーグ」のようなイメージだった。そうした威圧感と圧倒的な実力が「絶対王者」としての風格を醸し出していた感がある。そのブブカが、ガッツポーズをして大声を上げるなんて、初めて見た。しかもその時の記録は、自己ベストからは程遠い平凡なものだ。

当時まだ子供だった僕は、「へぇ、ソ連の選手も、普通の人間なんだ」と変な感想をもったことを覚えている。それと同時に、つまらない記録で優勝して驚喜しているブブカに、なんか説明できない「凄さ」を感じた覚えがある。
あの時のブブカに感じた、なんか説明できない凄さは、一体何だったのだろうか。


当時の僕は分からなかったが、今の僕にはあの時のブブカの凄さの理由がよく分かる。
あれは、「運命を実力でねじ伏せた凄さ」だったのではないか。


ブブカはオリンピックとの相性がよくなかった。なにせ世界記録保持者の絶対王者が、5回出て4回負けているのだ。なにか「オリンピックに呪われている」という感がある。
不思議なことだが、競技の世界にはそういうことがよくあるらしい。普段は優秀なアスリートだが、なぜか特定の大会でだけは力を出せない。「優勝確実」と言われていながら、説明できない不思議な理由で負ける。なにかに取り憑かれたかのように、実力を全然発揮できないまま終わる。

理由はいろいろとあるのだろう。大会のもつ雰囲気になじめないとか、季節がたまたま低調な時期に当たってるとか、競技の行われる時間帯とか、なにか「いつもの自分のパフォーマンスができない要因」というものがある。それはたとえ小さいものでも、様々な要素が蓄積すると大きな障害となり、本人のパフォーマンスを蝕んでいく。


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アレッサンドロ・ネスタ
「イタリア最高のDF」の呼び声の高いサッカー選手。ラツィオ、ACミランで長く活躍し、才能ひしめくイタリア代表で10年にも渡りレギュラーを穫り続けた。国際経験も豊富で、U21欧州選手権で優勝、EURO2000で準優勝、2006W杯では優勝してる。EURO2000では大会優秀選手に選出。歴代の名手を集めた「FIFA 100」にも選ばれている。

数々の栄光に輝いたネスタだが、なぜかワールドカップでは活躍できなかった。1998年フランス大会では予選リーグのオーストラリア戦で負傷し戦線離脱。2002年日韓大会では予選リーグのクロアチア戦で負傷し戦線離脱。2006年ドイツ大会では予選最終戦のチェコ戦で負傷しまたもや戦線離脱。代表歴78試合を誇りながら、なぜかワールドカップでは活躍できなかった。2006年大会で優勝したときも、大会前にカルチョ・スキャンダルによってACミラン所属選手がマスコミに袋叩きに遭っている状況で、しかも決勝戦ではジダンとマテラッツィがやらかしてしまい、自身も戦力として貢献できなかったこともあり、表彰式では無表情でメダルを授与されるネスタが世界中に放映された。


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竹石尚人
元陸上競技選手。近年、箱根駅伝で無双の強さを誇る青山学院大学の出身。青山学院は近年、箱根で強さを発揮しており、2015年の91回大会で初優勝を成し遂げてから破竹の4連覇。この春(2022年)の98回大会も大会記録の激走で他チームをぶっち切った。
そんな青山学院大学も、2019年の95回大会(優勝は東海大学)と2021年の97回大会(優勝は駒沢大学)では負けている。その負けた2大会で「ブレーキ」の戦犯扱いをされた5区走者が竹石だった。2年生時に臨んだ94回大会こそ区間5位でまとめたものの、翌年95回大会では区間13位に沈む。翌年は怪我の影響で出走できず、留年してまで臨んだ97回大会では区間17位に終わる。大会を経験するごとに区間順位が落ちている。

「竹石が登りに強い」というのは本当らしい。なにせ選手起用に慎重な原晋監督が太鼓判を公言するほどの信頼感を勝ち得ているのだ。夏合宿からすでに箱根の登りに備えた練習を繰り返しており、その登りの速さは猛者揃いの青山学院勢でも太刀打ちできない。5区の大学記録をもつ飯田貴之も雑誌のインタビューで「登りは竹石さんに敵わないから他区間に回った」と証言している。
なのに、なぜか箱根駅伝本番では結果を出せない。竹石は「遅い」のでもなく「登りに弱い」のでもなく、「箱根駅伝と相性が悪い」のだと思う。1月という季節がバイオリズム的に低調なのかもしれないし、寒さに弱いのかもしれないし、箱根という場所が合わないのかもしれない。最終年には過去の失敗による苦手意識も加わっただろう。それひとつひとつは小さな理由なのかもしれないが、そのような小さな「合わなさ」が積み重なって、低調なパフォーマンスに終止した不運な感がある。

ネスタがW杯で活躍できなかったように、竹石尚人が箱根駅伝で活躍できなかったように、ブブカもオリンピックで活躍できなかったはずの人だったのだと思う。なぜかは分からない。だけどなぜか勝てない。オリンピックというのは特にそういう「魔物」が棲んでいる大会ではあるまいか。
しかし、ブブカは1998年のソウル五輪で勝った。あれは「優勝候補の大本命、世界記録保持者が、当たり前に勝った」のではなく、「本来であれば勝てないはずの選手が、有無を言わさぬ実力で運命を強引にねじ伏せ、勝ちをもぎ取った」のだ。

そう考えると、ブブカが優勝を決めたときの、あのブブカらしからぬ嬉しがりようが、なんとなく分かる。あの普段とはまったく違う狂喜乱舞の仕方は、単に「オリンピックで優勝した喜び」ではない。なにかもっと大きなものに打ち勝ったときの人間の喜び方ではあるまいか。勝てない運命を自らこじ開けた感覚。ソ連の選手であるブブカが、あんなに表情を露わにして大声を出したのは、そういう感情だったのではないか。


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時は流れて2022年、北京オリンピック。スキーの混合ジャンプ競技で、日本チーム第1試技者の高梨沙羅がウェア規定違反で失格になった。高梨沙羅は女子スキージャンプ界では世界を牽引する存在で、ワールドカップは男女通じて歴代最多の61勝、表彰台に上がること110回、個人総合優勝は女子歴代最多の4回。女子スキー界のトップジャンパーだ。
ところが、高梨沙羅はなぜかオリンピックでは勝てない。2014年ソチ大会では4位。「金メダル大本命」として臨んだ2018年平昌大会ではまさかの3位。今回の2022年北京大会ではメダルに届かず4位。世界の舞台で何度も優勝を経験していながら、なぜかオリンピックでだけは勝てない。

今回の北京大会から新たに混合団体ノーマルヒルの競技が新設され、個人でメダルを逃した高梨にとっては「手ぶらで帰らない」ための最後のチャンスだった。その混合団体でまさかの失格。気丈に集中力を発揮し2回めの試技に挑んだが、良いジャンプを見せたにも関わらず直後に泣き崩れる様子が中継で写された。
この競技では日本以外にもオーストリア、ドイツ、ノルウェーなどの強豪国で失格者が続出し、「検査の方法がいつもと違う」と物議を醸した。失格対象となったのがすでに個人競技を終えた女子選手だけだったこともあり、「何か裏があるんじゃないか」という疑念をもたれている。当事者の高梨沙羅はひどいショックを受け、SNSには進退について考えている旨のコメントを出した。

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そんなことないよ。よくがんばったよ。


中継では、男子エースで同世代の小林陵侑が、憔悴して落ち込む高梨沙羅を抱きしめて慰め、その対応が賞賛された。今の高梨に必要なのは何よりも、そのような励ましと精神的な休息だろう。
しかし競技者として高梨沙羅が今後の道を進むためには、何が必要なのか。いまの高梨沙羅は何をよすがに前を見ればいいのか。

そんなことをぼんやり考えていたら、ソウル五輪で優勝したときのブブカの姿を思い出した。なぜかオリンピックで勝てない。なぜか自分だけ悪条件に苦しめられる。なぜか自分だけ条件が厳しい。なぜか自分だけツイていない。そういう「何かに取り憑かれているような感覚」に囚われたときは、他に方法などない。強くなるしかない。自分にまとわりつく不運を、ツイていない運命を、すべてなぎ倒すような圧倒的な実力を身につけるしかない。 明日もまた練習する以外に、運命に勝てる方法など無い。

僕がブブカを凄いと思うのは、世界選手権で優勝したことでも、オリンピックで優勝したことでも、世界記録を打ち立てたことでもない。陸上競技、その中でも棒高跳という、競技年齢がかなり短い特殊な競技で、実に15年にもわたって競技をし続けたことだ。数々の栄光にも包まれたが、オリンピックではいつも挫折を味わった。その度ごとに立ち上がり、記録の向上を目指し、次の大会に向かった。連勝記録が途切れても、カウンターをゼロに戻し、また1から新たに連勝記録をつくり始める。本当に強い人というのは、他人に勝つのではなく、「己が負けた」という事実に打ち勝つことができる人だろう。長く競技を続けていれば、失敗もあるだろうし、負けることもあるだろう。そういう苦難を乗り越えられる人だけが、長く競技を続けることができる。

日本ジャンプ陣にとって、今回の混合団体4位は残念な結果だろう。まだそのショックから立ち直れていない関係者も多かろう。しかし日本ジャンプ界には何よりも、そのような挫折を経験し続け、戦い続け、世界の誰も達し得ない高みに到達したレジェンドがいる。


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葛西紀明
W杯、オリンピックの両方で輝かしい経歴を誇るが、地元開催で日本団体チームが優勝した1998年長野大会ではメンバー落ちしている。個人でもノーマルヒル7位に終わっている。男子団体戦のとき猛吹雪で競技が中止になりそうになり、1回めの試技の結果で最終順位が決定しそうになった時、仲間の逆転優勝のためにテストジャンパーとして飛び、1回め試技の誰よりも最長不倒の記録で飛び、他国の関係者を仰天させた。「葛西のベストジャンプは長野五輪の団体戦」というジョークを、ライバル他国はにこりともしない真剣な顔で語り継いでいる。 日本ジャンプ陣の今後を立て直すために、葛西紀明の果たす役割は大きいと思う。

選手は誰もが4年に1度のオリンピックのために競技生活を送っている。その大舞台で負けるのは、自分の世界をすべて根底から覆すほどのショックだろう。自分を責め、今後の競技生活に迷うのも無理はない。簡単に言葉で慰めることなど誰にもできないだろう。
だからそこから先は、自分で何かを悟るしかない。自分で立ち上がるしかない。何度負けても、何度不運に見舞われても、戦う意志はそれまでの結果とは関係ない。人間、負けても次を戦うことはできる。そういう強さを持つ人だけが、競技を続けられる。

今回、日本団体混合チームのアクシデントを見て、なぜか陸上棒高跳という何の関係もない競技を思い出した。ブブカのソウル五輪のときの、あの気迫に辿りつける競技者はそう多くはないだろう。だけどなぜか、負けた後の日本チームを見ていると、この中から運命の扉をこじ開け、ねじ伏せてくれる若者が出てきてくれそうな気がした。


セルゲイ・ブブカは引退後、故郷のウクライナに「ブブカ・スポーツクラブ」を設立し、貧困家庭や孤児を援助する事業を展開している。ウクライナ・オリンピック委員会会長を務め、IOCの理事にも選出された。国際陸上競技連盟の副会長も務めている。
北京オリンピックと並行して、いまロシアがウクライナに武力侵攻しようとしているニュースが報じられている。歴史上ウクライナは常に、不凍港を求めて黒海への南下政策をとるロシアに蹂躙されてきた。今のロシアは国内的にも対外的にも行き詰まり、破れかぶれになったロシアがウクライナに侵攻する危険性は高い。オリンピックという場を政治利用するのは好ましいことではないが、ロシアとその友好国である中国はともに五輪開催を利用してお互いに政治利用している節がある。ウクライナは何度ソ連に蹂躙されても、何度武力攻撃を受けても、その度ごとに立ち上がって独立を勝ち取った。ウクライナ五輪選手団を統括する立場として、敵の友好国の首都で、いまブブカは「オリンピックで負けること」よりも大きな敵と戦っていると思う。



綺麗に化粧して帰っておいで。

客観性を失う呪い

伊集院光のラジオで昔、妙に心に引っかかる話を聞いたことがある。


伊集院光が子供の頃の思い出をしている内容だ。
昭和の昔、給食の牛乳はビンに入っていた。その紙蓋を専用の錐のような道具で開けるタイプだった。

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こーゆーの。


子供たちはいつの頃からか、その紙蓋を集めるようになった。少しでも珍しい紙蓋を集めようと、駅の牛乳スタンド近くのごみ箱を漁ったり、週末や連休で学校が休みのはずの日付が押してある紙蓋を収集したり、とにかく「珍しい紙蓋」を集めるのに熱中していたそうだ。珍品の紙蓋を持っている子供は「偉い」という位置づけになり、子供内での存在感が増した。

そのうち、その紙蓋がいつからか「通貨」のような役割を果たすようになった。珍しい紙蓋ひとつと普通の紙蓋10枚を交換したり、特殊な紙蓋ひとつを「支払って」掃除当番を替わってもらったり、紙蓋ブームが加熱した。伊集院光はその頃の熱中度合いを「インフレみたいなものだった」と説明している。

ある日、小学生時代の伊集院光は、手持ちの紙蓋を全部処分し、それ相応の利益を得た上で、「俺は今後一切、紙蓋なんか知らない!」と一方的に撤退を宣言した。それを見た他の子供たちは困惑し、次々に紙蓋集めをしなくなり、急に憑物が落ちたように紙蓋交換をしなくなった。伊集院光は当時のことについて「なんていうのかな、急にバブルがはじけたような感じ。凄い紙蓋をたくさん持っている奴が、その価値が急に暴落して呆然としてた」と語っていた。

なんとなく身につまされる話だ。具体的にはよく思い出せないが、僕も子供の頃、なんかそういう「仲間内だけで妙な価値観が流通し、交換の原則で取引をしていた」という記憶がある。メンコだったこともあるし、ポテトチップスのおまけについている野球カードだったこともある。実際の社会経済に参入していない子供でも、そういうモノを使って「商取引」をした経験は、わりと誰にでもあるものではないか。僕は世代的にはずれているが、僕よりも後の世代では、ポケモンカードとかトレーディングカードなど、その役割を担うことを想定した商品が意図的に作られている。

このような「通貨の替わりになるような取引媒体」に共通している特徴は、「取引の対象となるモノそれ自体には何の価値もない」ということだ。少なくとも、それが交換により取引されるときに負うことになる価値を越えるほどの重要性は、モノそのものには無い。牛乳の紙蓋は単なる紙蓋に過ぎず、普通の状況ではただのゴミだ。「それの取引が流行っている小学校」という文脈を外してしまえば、紙蓋にはなんの価値もない。普通の状況でいきなり牛乳の紙蓋を渡されて「これあげるから、掃除当番替わって」と頼んでも、「は?何言ってんだバカ」と断られるのが落ちだろう。

そのような「異様な価値をもつようになるモノ」というのは、それが通用する特殊な状況が構築されて、はじめて価値をもつ。小学校の子供の仲間うちだけで牛乳の紙蓋が価値をもつことがあるように、世の中には「それ自体には何の価値もないものが、閉鎖的な環境の内部においては異様な価値をもつようになる」ということがあり得る。その価値は、その環境の内部だけで通用する価値なので、少年時代の伊集院光のように「俺もう知ーらね」と離脱すれば、価値は一瞬で水泡と化す。ものの価値というものはどのように決まるものなのだろうか。なんか「相対的に決まる不安定な価値のあり方」を示唆しているようで面白い。


閑話休題。
ニュースを見ていたら、よく分からない事件が報じられていた。

歌舞伎町『トー横の王』、女子中学生への淫行容疑で逮捕
(1/28 金 朝日新聞)

女子中学生とわいせつな行為をしたとして、警視庁は、住居不定、無職水野泰宏容疑者(24)を東京都青少年育成条例違反の疑いで逮捕し、28日発表した。

水野容疑者は、東京・歌舞伎町の中心部の「トー横」と呼ばれる場所に集まる少女たちから人気があったといい、若者の間で「トー横の王」と呼ばれていたという。

少年育成課によると、逮捕容疑は昨年12月~今年1月、歌舞伎町のホテルで、18歳未満と知りながら都外の中学1年生の少女(13)とみだらな行為を繰り返したというもの。容疑を認めているという。

2018年ごろから歌舞伎町の複合施設「新宿東宝ビル」横の路上や広場に居場所をなくした若者たちが深夜に集まるようになり、周辺は次第に「トー横」と呼ばれるようになった。集った少女たちがわいせつ被害に遭うなどの事件が相次ぎ、警視庁は昨年6月から補導活動を強化している。

水野容疑者は18年ごろから「雨宮ただくに」と名乗って「トー横」で踊る様子などをSNSで投稿し、若者の人気を集めていたという。今回被害に遭った少女もSNSを通じて水野容疑者と知り合い、「有名人だったのでアイドルと同じ感覚であこがれを持った。優しくされて好きになり、断れなくなった」と話しているという。

水野容疑者は少女について「交際相手ではない」と話しているという。同課はほかにも多数の少女とわいせつな行為をしていた疑いがあるとみて調べている。


繁華街にたむろってる不良共がお互いに喰い合いをした、というだけのつまらない事件だ。「被害者」とされている中学1年生の少女なるものも、制御する能力もないくせにSNSなどを振り回し、挙句は本人の実態も知らないくせに「有名人だったのでアイドルと同じ感覚であこがれを持った」など軽薄な価値観で衝動的に動いている。喰い物にされて当たり前だ。加害者、被害者ともにレベルが低く、同情の余地など無い。「中学生だから」という理由で一方的に被害者扱いされているが、SNSというのは「ソーシャル」、つまり社会的な媒体だ。使用するには権利だけではなく義務も伴う。それを使用した以上は、それに伴う結果についての責任も負わなくてはならない。

僕がこの事件について興味をもったのは、容疑者の「雨宮ただくに」こと水野泰宏が、近隣に屯す少年たちに「トー横の王」と呼ばれていた、というくだりだ。住所不定・無職の輩が「王」とは大したもんだ。その「王」という称号は、何を元手として得られた称号なのだろうか。

単純に考えれば「金」だろうが、住所不定無職の輩にそれだけの資金力があったとは思えない。被害少女は容疑者のことをSNSで知ったそうだ。記事にも「『トー横』で踊る様子などをSNSで投稿し、若者の人気を集めていたという」とある。だからおそらくSNSに動画を配信して、それが人気を博していた、という程度のことではあるまいか。

すると「王」という称号の根拠となるものは、「SNSのフォロワー数」「動画のアクセス数」ということになるだろう。どれだけフォロワーがいるか、どれだけアクセスを稼いでいるか、という「数字」が、トー横なる界隈では「力」に直結する尺度として通用しているのだろう。その「数字」が一人歩きをした価値をもち、その界隈の「存在感」に昇華し、「トー横の王」なる珍妙な存在をつくり出したのだろう。

しかしその力の根源は、トー横からちょっと外れて世の中を客観的に見れば、一切価値のない単なる数字に過ぎない。フォロワーが多かったら、何だというのだろうか。SNSのフォロワー数も動画のアクセス数も、その世界とは関係ない者にとっては「牛乳の紙蓋」と大差ない。フォロワー数の数字を競っているのも牛乳の紙蓋を見せびらかすのも、本質的には対して変わりはあるまい。「トー横の王」というのは、そのような虚構の上に作られた「まやかしの価値」に過ぎない。トー横あたりに群がってる頭の悪い若者にふさわしい価値尺度と言えるだろう。

結局、そういう若者達というのは、実力主義の世界に生きていないのだと思う。そのような若者は、競技の勝ち負け、試験の点数、売り上げの金額、勝ち取った契約数といった「客観的に価値が保証される絶対的尺度」を嫌う。それに直面することを極度に嫌がる。己の無価値を突きつけられるのが怖いのだ。だから「試験の点数で人の価値が決まるのか」などと喚き、試験の点数そのものを忌避する。

しかしそれは単に、直面すべき絶対価値から逃げているに過ぎない。そういう主張をする輩は例外なく、試験の点数が取れない手合なのだ。課される絶対的尺度をクリアした上で価値に疑問を呈するなら良い。しかしそれができないくせに「そんなものに価値など無い」というのは、負け犬の遠吠えに過ぎない。

「トー横の王」という呼称からは、そのような卑俗で軽薄な価値観でコミュニティを形成する愚かさが、にじみ出ている。集まってる人間がそもそも、誰もが「絶対的な価値尺度」から逃げてきた輩ばかりなので、「絶対的な価値尺度」も無しにひとりの人間を「王」などと軽薄に崇め奉る。自分の生き方が自分の世界の見方を歪めている典型的な事例だ。 自業自得と吐き捨てて良い。

だから、そういう輩は突然「絶対的な価値尺度」を突きつけられると世界があっさり崩壊する。どんなにSNSでフォロワーがいようとも、根拠のない存在感で一目置かれていようとも、「法律に違反した」という圧倒的な判断尺度の前では意味がない。逮捕されたことで「王」の権威は失墜したことだろう。根拠のない価値観は、ある日いきなり崩れ去る。小学生の紙蓋のように「俺、もうやーめた」と宣言できる若者であれば、自らを閉鎖的な価値観から解放できるだろうが、まぁそこまで理性と知性のある輩がトー横界隈に群がってるとは思えない。それができないからこそ、いつまでもあの辺で構築される閉鎖的な価値観の中で生きているのだろう。トー横では今日も、牛乳の紙蓋を必死に集めている若者が屯っているのだろう。


京極夏彦の小説に『絡新婦の理』という作品がある。本というよりもキューブ型の直方体をしているので本屋ですぐに分かる。
その中に、聖ベルナール女学院という学校の経営者一族である「織作家」という名家が出てくる。

織作家には紫、茜、葵、碧という4人の娘がいる。話が進むうちに、同時期に起きた連続殺人犯「目潰し魔」の事件、聖ベルナール女学院内の悪魔崇拝、売春などの事件のいくつかに、織作家が深く関わっているらしいということが分かる。折しも学園理事長の織作是亮が絞殺される。

織作家は旧家独特の謹厳実直な雰囲気があり、家族内でも緊張感が絶えない。特に三女の葵は女性の権利向上の為の活動をしており、発言は常に論理的で厳しく、男尊女卑を匂わせる発言をした人間には高圧的な態度をとる。事件の関係者のひとり今川は、諸事件の根本には織作家の旧態依然とした家風があると考え、主人公の中禅寺秋彦に織作家の憑物落しを依頼する。中禅寺秋彦は単なる古本屋だが、憑物落しを本業とする陰陽師でもある。
その憑物落しの場面が面白い。

憑物落しをするにあたり、中禅寺秋彦は三女の葵にこのように話す。

「葵さん、あなたがどうお考えになっているのか僕には解りませんが、いずれ平野は吐く。そううればあなたは確実に失脚します。あなたは事実上の織作家当主となり、柴田グループの重職にも就いたのでしょう。自首するならまだ救いはある」


ここで憑物落しが「失脚」という言葉を使っているのが僕にはどうにも気になった。「失脚」というのは一般的に、社会的に保証されている地位を追われることを意味する。しかし葵は物語中、一族が経営している会社や企業で何らかの役職についているわけではない。一族内での発言力はあるし影響力もあるが、なにか形式的に保証された「地位」についているわけではない。

物語では、中禅寺秋彦の憑物落しによって葵の誤謬と隠された真実が暴かれ、葵の権威は失墜する。それ以後は織作家内での立場が低下してしまう。社会的にはともかく、織作家内で確かに葵は「失脚」する。別に何らかの役職から追われるわけでもなく、減給や謹慎などの制度的な懲罰がなくても、「失脚」という概念は思いのほか世の中にあふれているものなのだろう。

似たようなことは、人が集まるコミュニティー内であれば、程度の差こそ有れどこにでもあるものだと思う。人が数名集まれば、その場を統括する「オピニオンリーダー」が必ず台頭する。場で「いちばん偉い人」が何となく決まる。他の人に対する影響力を公使するようになる。しかし、何をもって誰が「偉い人」になるのか、という客観的な基準は存在しない。「存在感」「影響力」という無形のものは、その場の人たちだけの中でしか通用しない限定的なものに過ぎない。状況と環境が替わってしまえば、その「偉い人」はただの人かもしれないのだ。 僕は「鯛の尾より鰯の頭」という慣用句はそういう意味だと思っている。

だから、ある日突然その地位から「失脚」してしまうこともあり得る。場にいる人の憑物が落ち、「…別にあの人、なにか根拠があって偉いわけじゃないよね」と全員が同時に気付いてしまうことがある。誰かが意図的に「俺、今日からやーめた」と宣言して場の価値観から離脱するという荒技を使うこともあるだろう。

『絡新婦の理』で行われている「憑物落し」というのは、実際には何をやっているのか。具体的には「価値観の解体」のことだ。葵の行動原理になっている主義主張、世界観、価値尺度をことごとく反駁し、その背後にあるのが単なる主観に過ぎないことを暴く。客観的に保証されない価値尺度を指摘し、それ自体には本質的には価値がないことを諭す。小学生の子供に「ただの牛乳の紙蓋だろ?」と言い放つに等しい。憑物落しの対象となる「呪い」の正体は、「閉鎖的な環境で流通している、根拠のない価値感」のことだ。

トー横あたりに群がる若者も、腕のいい憑物落しにかかれば「何をそんなに毎日、必死になっているのか」の馬鹿さ加減に気付いて、安定した価値尺度で世の中を計る世界に戻れるのかもしれない。しかし、今のところは彼ら自身がそんなことを望んでもいないだろうし、望んでいたとしてもそれを認めないだろう。よくスポーツの世界では「実力がすべての世界」という言葉が使われるが、世の中では逆に「実力とは関係ないものがすべての世界」ということのほうが多いのではないか。何の実力も価値もない人間が「トー横の王」などと祀られる界隈では、有無を言わさぬ「実力」など逆に歓迎されないだろう。

世の中の人々がどのような価値観で動いているのか。人と人の間の「序列」というのはどのように決まるものなのか。社会生活を営んでいる限り、誰もがどこかで漠然と感じることだろう。自分にとっては絶対的なものだと思っているものでも、ある日突然「俺、今日からやーめた」と宣言することで離脱でいる程度の呪いかもしれない。一言で言うと「客観性」というだけの能力なのだが、それを身につけて閉鎖的な価値観の縛りから自由でいられている人は割と少ないと思う。

いじめは、閉鎖的な学級でこそ起こる。そこには世の中の多くの人にとって理解不能な「その場限定の価値・原理」が同調圧力として働いているのだろう。自分を律している価値観は、本当に絶対的で不動のものなのだろうか。おそらく僕は一生関わることもないであろう「トー横」という界隈で起きた奇妙奇天烈な事件報道から、そんなことを考えた。



紙蓋集めに熱中してる輩の多いこと多いこと。
ペンギン命

takutsubu

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