たくろふのつぶやき

春来たりなば夏遠からじ。

2020年03月

東京オリンピック開催延期

「五輪1年延期 コロナ収束が大前提だ」
(2020年3月26日 朝日新聞社説)
「五輪1年延期 開催実現へ手立てを尽くそう 」
(2020年3月26日 読売新聞社説)
「東京五輪1年延期 乗り越えるべき課題多い」
(2020年3月26日 毎日新聞社説)
「東京五輪延期 日本は成功に責任を負う まず感染の収束に力を尽くせ」
(2020年3月26日 産経新聞社説)
「前例なき五輪延期に知恵と力を集めよ」
(2020年3月25日 日本経済新聞社説)


春休みなのに新型コロナのせいで外出できずにヒマなので、新聞を読むくらいしかすることがないんですわ。


そんなわけで東京オリンピック延期を論じた新聞社説。例によって全国五紙を読み比べてみた。
まぁ、なんというか、僕自身の「新聞を読む癖」を我ながら強く自覚する社説だった。

僕は新聞社説を読むとき、どうしても「論旨」「構成」「語彙・表現」を重視して読んでしまう。一般社会人が書く文章として妥当なものかどうか、広く世間に発信する文章として適切か、「審査」するような感覚で読んでしまう。
大学の授業では、教養科目や基礎科目で、学生に新聞の読み方や文章の書き方を教えるために社説を使うことがある。だから僕自身が社説を読むときに、「講義ではどうやってこの文章を教材として使うか」という眼で読んでしまう。

しかしまぁ、そんな新聞の読み方をする人のほうが稀だろうし、そもそも新聞は大学の授業の教材として作られているわけでもない。一般読者の人が読みたい内容と、僕が想定する「良い内容」が合致していることのほうが、むしろ珍しいのだろう。

今回の社説は、どの社説も本当に指摘すべきことを見逃している。しかし、それは別に各新聞社の落ち度というよりも、「一般の読者は、そんなこと気にしていない」というほうが実情に近いだろう。新聞はまず、買ってくれる読者の皆様が知りたいことをまず書く。商売の鉄則として、それは如何ともしがたいことだろう。僕の眼から見て「足りないなぁ」と思う社説でも、世の中からしてみれば「そんな話を読みたいわけじゃない」ということも、大いに有り得るのだ。

今回の東京オリンピック延期を受けて、一般読者が一番気になるのは何か。「選手選考はやり直すのか」「開催はいつになるのか」など、観客的な目線での興味関心ももちろんあるだろうが、それよりも日本国民が一番気になるのは「経済的な影響はどうなるのか」だろう。オリンピックの延期は、日本国民の懐事情を直撃する。遠くの国で起きてるスポーツ大会というだけでなく、開催国という現場で暮らしている日本人には「いま、ここにある問題」なのだ。

延期には新たな支出の発生が避けられず、追加分をどこが負担するのかが大きな問題になる。五輪とパラリンピックの開催経費について、都と組織委は昨年末時点で1兆3500億円にのぼると公表している。IOCなどの試算では延期に伴う競技施設やホテルの借り換え、職員の人件費増などで3000億円の経費が増えるという。都や国の新たな負担となる場合は、丁寧に理解を求めねばならない。
(日経社説)

財政問題も重要だ。ただでさえ総経費が当初言われていたものより大きく膨らんでいるなか、延期によってどれだけの額が上乗せされるのか。それを誰が、どうやって負担するのか。都民・国民の財布を直撃する話だ。見通しをできるだけ早く示すことが求められる。
(朝日社説)

まぁ、標準的な日本人が最も気になることは、ここのところだろう。勤め人にとっては、仕事の内容がオリンピックによって影響を受ける業種ということもあるだろう。見込まれていた利益と来年度予算を見直さなくてはならないこともあり得る。そういう「カネに関する影響」が最も気になるのが、おおかたの日本人の本音ではあるまいか。

この問題については、5紙すべてがそれぞれ触れている。最も読者が気になることを書くのは新聞としてあたりまえのことなので、これは自然なことだろう。主にこの経済問題を社説の主要テーマとして書いている新聞が多いのは十分にうなずける。それをきちんと問題提起していれば、世間的には合格点の社説と評価できる・・・のだろう。

ところが、大学の授業でこれらの社説を使って講義をするとなると、あまり良い評価はできない。大学で行う学問では、まず何よりも「疑問を発見し、問題点を指摘する」という段階が出発点となる。大学の勉強というのは「答えを出すためのもの」ではなく「疑問を見つけるためのもの」だ。だから出発点となる問題提起のピントがずれていたら、どんなに完璧な解答を出したとしても研究としての価値は無い。

今回のオリンピック延期は、いままで例がなかった事態だ。だから決まった手続きというものが存在しない。どの団体も、お互いに顔を見合わせながら、状況を読みつつ意思決定をしている迷いが見える。

各紙社説によると、オリンピック延期の決定に関与しているのは、主に「国際オリンピック委員会(IOC)」「日本政府」「各競技団体(国際陸連、国際水連など)」の3者だ。問題は「この3者のうち、どこが最も強力な決定権を持っているのか」だが、その関係がはっきりしない。それが今回の社説で最も大きく採り上げなければならなかった問題だろう。

今回の決定過程では安倍晋三首相が前面に出た。中止になれば、経済などへのダメージは大きい。最悪の事態を避けるために、国際オリンピック委員会(IOC)のバッハ会長との直談判に動き、延期の流れを作った。(中略)予定通りの開催にこだわっていたIOCには、各国の選手やオリンピック委員会から批判の声が相次いだ。ビジネスの契約や損失ばかりに気を取られ、他のスポーツ大会との日程調整が進まなかった。
(毎日社説)

延期の決定に、驚かされたことが2つある。1つは、安倍晋三首相が国際オリンピック委員会(IOC)のバッハ会長との電話会談で「大会の1年程度延期の検討」を提案し、バッハ会長がこれに「百パーセント同意する」と応じたことだ。これで事実上、大会の延期は既定の方針となり、その後のIOC臨時理事会で承認された。五輪マラソン・競歩コースの札幌変更に代表されるように、これまで五輪組織委員会や東京都は、いわばIOCの言いなりだった。異を唱えることは、はばかられる空気もあった。世界的な新型コロナウイルスの感染拡大を受けた五輪の大会日程についても、「決定権はIOCにある」との声ばかりが聞かれた。IOC会長が開催国首脳の提案を受け、理事会を経ずに重大な決定を示唆したこと自体、極めて異例である。
(中略)
2つ目の驚きは、IOCの決定に対して世界陸連や国際水泳連盟といった主要競技団体がいち早く賛同の意を示したことだ。来夏には米オレゴン州で世界陸上、福岡市で水泳の世界選手権といった大イベントが予定されており、これが五輪1年延期の最大の障壁となるとみられていた。だが両連盟は、柔軟に日程変更を検討することまで表明した。
(産経社説)

つまり、今回のオリンピック延期に最も強い意志を示したのは「日本政府」なのだ。これは産経社説が指摘している通り、異例といってよい。例えば、さきにマラソンと競歩を札幌開催に移転したのはIOCの独断だった。オリンピックに関する決定事項に関しては、まずIOCが理事会に諮るのが通常の手続きだろう。

保守系の産経新聞は、この日本政府の動きを評価する論調で書いている。しかし「異例」といえば聞こえはいいが、要するにいま起きていることは「異常」なのだ。競技団体も日本政府も、今回の延期決定に関して何らかの発言権はあるだろう。しかしここまで日本政府が前に出て強く延期を要望し、しかもそれがすんなり通るというのは普通ではない。伝染病拡大という緊急事態であることを差し引いても、意思決定の筋道が不透明に過ぎる。

この「異常事態」がなぜ問題かというと、次の問題、「では開催を具体的にいつにするのか」の決定方法に関わってくるからだ。延期はとりあえず日本政府の強い意向で決まった。すると次に具体的な開催日程を決定するのは、誰がどうやって、何に基づいて行うのか。なにせ前例がないことだから、競技場や宿泊施設などのインフラ面では「現場」の日本政府と東京都が大きな役割を担わざるを得ない。日程の決定にはその辺の調整が不可欠なので、IOCが上から一方的に決められる種類のものではない。

競技の種類によっては、開催時期がいつになるかによって、有利・不利になる国が出てくる。どの時期に決定されても、必ずどこかの国が反対してくる。そのへんの綱引きは各競技団体の内部で収めるべき問題だが、それをIOCに丸投げしてくる競技団体もあるだろう。そうすると、オリンピックの運営に関わるIOCの役割が、これまでと大きく変わってくることになる。

つまり、今回の「延期決定」のプロセスを見ていると、オリンピックに諸々に関する意思決定の力関係が、従来と比べて大きく歪んでいるのだ。事実上、オリンピックの準備はこれまで6年かけてきたものを全部白紙に戻し、1年足らずで新しい計画を立て直さなければならない。その時間との戦いで「誰がどのような決定権を持つのか」がはっきりしない。

新聞社説ではその手の問題を「綿密な意思疎通が必要だ」などと漠然と書いているが、そんなことは、あたりまえだ。必要なのは「綿密に意思疎通ができない状況で、どうやって意思疎通を行えばいいのか」の具体的な方法論だ。

今回のオリンピック延期が日本政府の要望通りに通ったのは、国際陸連のセバスチャン・コー会長が世界陸上の日程変更をいち早く決定したことが大きい。オリンピックが1年延期すると、世界陸上、世界水泳の開催とかぶってしまう。だからオリンピック延期には世界陸連と世界水連の強い反発が予想された。ところが世界陸連がオリンピック延期を優先したことで、3者のうち「競技団体」の意思共有が短時間のうちに進んだ。

セバスチャン・コーは西側諸国のボイコットが相次いだ1980年モスクワオリンピックで、アメリカの反対を押し切って強行出場したイギリス代表の選手だ。800mで銀、1500mで金メダルをとっている。両種目で同国選手のスティーブ・オベットとの一騎打ちは名勝負だった。自身の「オリンピックにおける例外的措置は、軋轢なく解消されるのが望ましい」という体験が、今回の国際陸連の決定につながったという側面はあろう。

陸連、IOC、日本政府という団体は、それ自体が意思をもつ実態ではない。どんなに大きな団体だろうと、最終的に意思を決定するのは特定の「人」なのだ。いま新型コロナウィルスの対応で世界中から叩かれている世界保健機関(WHO)も、テドロス・アダノム事務局長というひとりの言動が、あたかもWHOの全人格であるかのように報じられている。

オリンピックが実際にいつ開催されるのか、決定される過程には、必ず誰か「特定の人間」の意思が強く働く。大事なのは、その「人間」を選ぶ方法を確立すること、その人間が暴走せず各条件を勘案して意思が決定できるようまわりの環境を整えること、だろう。「団体間の意思疎通」などというものはない。あるのは「そこに属する人間の意思疎通」だ。そのチャンネルをいかに確保するか、それが当面の具体的な問題だろう。

新聞に限らず、文章というものは読む側の立場によって如何ようにも読める。今回の各社説の出来が悪いとは言わない。それぞれ、読者が読みたい記事にはなっているだろう。「知りたい情報を提供する」ということと「まだ知られていない問題点を指摘する」というのは、両立しがたい部分がある。その辺の比重をどうするか、バランス感覚が試されるテーマだった。



2年続けて夏休みの計画が立てづらい。
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「グローバル化社会」の大嘘

「感染症と世界 「鎖国」は解にはならぬ」
(2020年3月19日 朝日新聞社説)
「G7首脳会議 感染拡大の阻止へ指導力示せ 」
(2020年3月18日 読売新聞社説)
「G7首脳がコロナ協議 個別対策と協調の両立を」
(2020年3月18日 毎日新聞社説)
「世界的感染拡大で問われる政治の指導力」
(2020年3月14日 日本経済新聞社説)


なんというか、世の中の正論が、事実よりも先走って幅を利かせるようになると、こういう支離滅裂なことを言って辻褄を合わせなければならなくなる、という典型的な例だろう。端的に言うと、「『グローバル化』なる高尚な理念は嘘っぱちだ」ということをまざまざと露呈している。

これらの社説を読むときの視点はただひとつ、「出入国封鎖は是か非か」だけだ。
事実としては、伝染病が発生したときは発生源を封鎖しなければならない。そんなことは疫学上の常識だ。人の行き来を凍結し、誰も立ち入れないようにする。ところが問題は、「封鎖」という行政的な手続きを実行するとき、どの単位でその施策を実行するのか、ということだ。
人の行動に対する強制権を行使できる必要かつ十分な行政単位は、「国」でしか有り得ないだろう。ある国の中で伝染病が発生したら、直ちに国の出入りを禁止し、世界中に伝播することを避ける。これが国際社会に対する責任であるはずだ。

しかし現在、「ボーダーレス社会」「グローバル化」という大義名分のもと、「国」という単位で他と区別する施策はすべて「悪」と見なされるようになっている。「自国民に限る」という施策は「国籍で差別するのか」となり、他国とは違う独自路線はすべて「国際社会から孤立するぞ」という脅迫がついてまわる。

今回の新型コロナウィルスは、そうした「『グローバル化』という正義」に対して、本当にそれは正しいのか、世界中の人々に問題点を突き付けているように見える。グローバル化というお題目を嘲笑うかのように「国境封鎖」を各国に迫っている。特にヨーロッパの国々でその傾向が顕著だ。フランスやイタリアは自国内で爆発的に感染者が増加したことを受けて、あわてて入国制限に走った。EUの理念などクズ同然に吹っ飛び、自国の安全しか考えていない。

それが悪いと言っているのではない。伝染病の時には、そもそもそうするべきなのだ。EUの理念がコロナウィルスの前にクズ同然に吹っ飛んだのは、EUの理念がクズ同然だったからだ。ボーダーレス、国境の廃止、人の自由な行き来、物流の流動性。すべて20世紀終わりごろから世の中に押し付けられてきた「正しい世界のあり方」だ。ところが、そんなことは人が頭の中だけで考えた「理想の正義」でしか無いことが明々白々となっている。

今回の騒ぎでどのマスコミも報じていないが、先にさっさとEUを離脱したイギリスは、真っ先に他国からの入国制限をかけている。島国という地理的な要因もあろうが、その封鎖体勢は徹底している。EUの理念など真っ向からガン無視だ。このイギリスの対応をどのメディアも報じていないのは、「『グローバル化』という『正義』に反するから」だ。イギリスの対応策を報じてその有効性が周知されると「うちも」「うちも」と入国制限をかける国が続出する。それはEUが高らかに奉じているところの「グローバル化」に対するアンチテーゼに他ならない。

ところが今の言論界では、そのような「グローバル化」に反することは、もはやタブーと化しているのだろう。上に挙げた4つの新聞でも、なんとかその虎の尾を踏まないように、慎重に慎重に記事を書いている。ぶっちゃけていうと、「グローバル化」に反しないようにビビってる社説と断じて良い。

おおむね、社説の方向性は3つに分かれる。

1. 「ある程度の出入国制限はやむを得ないが・・・」(読売、毎日)
2. 「伝染は止めろ。でも鎖国するな」(朝日)
3. まったくの意味不明(日経)

現実路線なのは読売と毎日。まぁ、新聞としてはこのような言い方をせざるを得ないのだろう。本当に世界規模での伝染拡大を防ぐためには「完全に出入国を封鎖しろ」と言うべきところなのだが、いまのご時世、そうは言えない。だから「ある程度はやむを得ない」という、腰が砕けた言い方になる。むろんそう言ってしまったら「『ある程度』というのは、何に基づいて誰が策定するのか」という問題が次に控えているわけだが、いまの段階でその「正解」が分かる者など誰もいない。読売と毎日の社説からは、現実に基づいた施策を提案したくても出来ない、という新聞社としての葛藤が読み取れる。気の毒な感じすら漂う社説だ。

朝日新聞はまったくの矛盾。「伝染拡大は止めろ」と言っておきながら、「人と物資の自由な行き来は止めるな」と主張している。これは伝染拡大を煽る方策に他ならない。
実際のところ、朝日新聞は日本ではなく中国・韓国の利益を優先している新聞社だ。だから日本に物流を封鎖されると困る中・韓の主張を代弁している。その本音は「伝染病がどれだけ広がろうと知ったこっちゃない。中国様・韓国様の機嫌を損ねる方策は許さん」というところだろう。「鎖国」などという負のイメージがつきまとう用語で印象操作をしようとしているあたりに、朝日新聞の意図がよく表れている。

朝日新聞は主張としては唾棄すべきものだが、それでも一応、主張としての体裁は成り立っている。「日本人は勝手に死ぬだけ死ね、出入国封鎖は許さん」という内容でも、主張として何を言いたいのかはよく分かる。
ところが日経の社説は、そもそも主張になっていない。この日経社説を読んで、何をどうしろと言っているのか理解できる人がいるだろうか。

「科学的知見と社会や経済への影響を見極め、的確に対応していく政治の指導力が問われている」
今後は医療や経済、社会活動の専門家らの意見を踏まえ、対策の効果と影響を分析した総合的な判断が求められる
日本は感染者の隔離や治療の経験を踏まえ、国際的な協力態勢の確立に主導的な役割を果たしていくべきだ。


よくもまぁ、ここまで意味のない軽佻浮薄な妄言が並べられたものだ。日経の言っていることを一言で要約すると「ちゃんとしなければいけないのである」ということに過ぎない。そんなこと、誰だって分かってる。その具体的な方策を提言するのが、新聞社の仕事ではないのか。

大筋で日経が言っていることは、「今回の伝染病みたいな大きい問題は一国だけでは対処不可能なので、各国が手を取り合って協力しましょうね」ということだ。これは伝染病の伝播防止の鉄則の真逆をいく主張だ。各国で手を取り合って、協力体制を敷いて、交流をしまくった結果が、いまのヨーロッパの惨状なのだ。つまるところ日経も、現在の世界の潮流「グローバル化」という宗教に洗脳され、「狭い範囲で封鎖しろ」という主張ができなくなっている。


医療が進歩し、世界はここ百数十年、人間が大量死するレベルの伝染病を経験してこなかった。その間に「ボーダーレス」「グローバル化」なる概念が拡大し、一人歩きを始め、今やそれは絶対的な教義になりつつある。イギリスのようにそれに異を唱える国もあるが、それについては誰も触れない。高い理想を掲げ過ぎ、現実的な方策をとれなくなった例というのは、世界史上、数え上げたらきりがない。今回の騒動も、その延長線上にある、人間の過ちの繰り返しのひとつに過ぎないだろう。



もうちょっとまともなことは書けんものかね。
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ルーン文字石碑の碑文

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日比谷公園のルーン文字石碑を見てきました。


こないだ、まぁ、不要不急の遠足などやってきたわけですが、本当の目的はこの石碑を見ることだったわけです。日比谷公園を入って、大噴水から右、日比谷通りに面した、心字池という日本庭園っぽい池のほとりにあります。
ルーン文字の石碑、というわけのわからないものが東京のど真ん中に鎮座ましましておるとは、ほとんどの人は知りますまい。

日比谷公園には、「なんか珍しいものだけど、博物館に入れるほどのものではない」というものが、わりと雑に置いてあります。あちこちに「なんだこれ」というものが陳列してあります。
このルーン文字石碑もそのうちのひとつでしょう。もともと北欧と日本の航路が北極経由で開拓されたことを記念して寄贈されたもののようです。碑文の単語からして、おそらく寄贈したのはスウェーデンでしょう。


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だそうです。


ルーン石碑というのは、北欧のヴァイキングが各地に遠征して征服行為をした時、その成果として記念に建立する石碑のこと。北欧各地に6千ほどの石碑が発見されている。700年から1100年ごろに建てられたものが多い。その性質上、内容としては「何年何月、誰々がここの地を征服した」のようなものが多い。

ルーン文字というのは言語学的にちょっと特殊な文字で、その文字資料がほとんど石碑にしか残っていない。文字の形を見れば分かるが、ほとんどが直線で形成されており、最初から石に刻むための文字として作られたことが分かる。

ルーン石碑の特徴は「書いてある内容よりも、『どこに残っているのか』のほうに価値がある」ということだ。なにせ残存している文字資料は征服記念の石碑しかないものだから、どの石碑も内容は似たり寄ったり。だからルーン石碑というのは言語学的にはたいした価値はない。

しかし、歴史学的には価値が高い。ルーン石碑が残っているということは「むかしヴァイキングがここまで勢力を伸ばしていた」という証拠に他ならず、彼らの行動範囲と交易圏を特定するための根拠になる。北欧言語の分布と変遷を研究すると、いろんなところにこのルーン文字というものが出てくる。


ルーン文字は死滅文字のひとつだが、わりと現在でもいろんなところで使われている。

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最も有名なルーン文字は「Bluetooth」のロゴだろう。
電子デバイスの無線通信規格として、現在最も流通しているものだ。しかし、どうして無線規格が「青い歯」という名称なのか知っている人は少ないだろう。

Bluetoothは最初、エリクソン、インテル、IBM、ノキア、東芝の5社がプロモーターとなって策定された。この中で北欧企業(スウェーデン)のエリクソン社の技術者が、伝説のデンマーク王、ハーラル・ブロタンの名前を冠した「H・B」を名称として使用した。Bluetoothのロゴは、長枝ルーン文字の「H」と「B」を併せた合字だ。

このハーラル・ブロタンという王は、当時抗争に明け暮れていたノルウェーとデンマークを、はじめて交渉によって無血統合した「平和の王」として名高い。この王は、歯が青かったという伝説があり、「青歯王」という別名でも呼ばれている。これにちなみ、「いろいろと規格が入り乱れている通信無線規格を、平和のうちに統合したい」という願いをこめ、ハーラル・ブロタンの青い歯(Bluetooth)を名称として使用することにした。


ルーン文字は、小説「ハリー・ポッター」シリーズにも出てくる。
ホグワーツ魔法学校には3年時から「古代ルーン文字学」(Ancient Runes)という選択授業があり、ハーマイオニーがこの授業を履修している。リドルの日記を盗まれたハリーが慌ててグリフィンドール寮の談話室に駆け込んでくると、ハーマイオニーは『古代ルーン語のやさしい学び方』(Ancient Runes Made Easy)という本を読んでいた。

また、ふくろう試験(Ordinary Wizarding Levels Test, OWL試験)を受験したハーマイオニーが、食堂でのんびりチェスをしていたハリーとロンのところに来ると、不機嫌そうに「古代ルーン文字の試験がめちゃめちゃだった。ひとつ訳し間違えた」と言い、ロンが驚いて「たった1カ所!?」と驚くシーンがある。

物語の終盤、ダンブルドア校長はハリー、ロン、ハーマイオニーの3人に形見を贈る。ハーマイオニーに贈られたのは『吟遊詩人ビードルの物語』(The Tales of Beedle the Bard)。魔法界ではよく知られた伝説や童話を編纂した書物で、3つの「死の秘宝」の正体を3人に知らせるためのものだ。この物語、表紙の題名が古代ルーン文字で書かれている。また、物語中の吟唱詩のいくつかはルーン文字で書かれている。ハリーとロンはルーン文字の授業を履修していないため、この本はハーマイオニーしか読むことができない。


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マグル育ちはそんな童話を知らず、ロンだけが知っていた。


「ハリー・ポッター」シリーズの魔法学校の授業として使われているように、ルーン文字というのは欧州文化圏の人々にとって「なんか古代っぽい、ミステリアスな文字」という印象のあるものらしい。言語的にはルーン文字はアルファベットと同じ表音文字だが、それぞれの文字に意味がこめられている。ルーン文字のアルファベットを、最初の6文字をとって「フサルク」というが、それぞれのフサルクには発音の他に、名称と意味が設定されている。 その神秘的なイメージから、神託や占いにもよく使われていたらしい。ルーン文字の「ルーン」の語源は、ルーナ(runa)。「秘密」という意味だ。


まぁ、ハーマイオニーほど勉学に勤勉ではない僕も、一応、言語学者の端くれ。ルーン文字の解読くらいはできるかな、と思って日比谷公園の石碑を解析してみた。
まず石碑に書かれているルーン文字を単語ごとに区切って転写してみると、次のようなものになる。


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なんかシャーロック・ホームズの「踊る人形」みたいな作業。


この文字列をラテン文字(アルファベット)に変換すると、次のようになる。どうやらスウェーデン語らしい。ちなみに角カッコ [  ] の表記は現代スウェーデン語の正書法。


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これでOWL試験もばっちり。


なかにローマ数字(XXIV「24」、MCMLVII「1957」)が使われており、これはそのまま読める。また、skandinaverは「スカンジナビア」、japanは「日本」、europaは「欧州」、nordpolenは「北極」、februariは「2月」だろう。このくらいの見当はつく。

でも僕はスウェーデン語が読めないので、辞書と参考文献を借りようと思って国立国会図書館に行ってみた。日比谷公園から外務省横の坂を上って、国会議事堂を過ぎたところに国立国会図書館がある。便利な場所だ。

ところが国会図書館がまさかの新型コロナウィルス流行に際し臨時休館


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そ、そりゃそうですよね・・・。


仕方ないので、近くにある某大学図書館に足を運び、参考図書を借りた。
そこでスウェーデン語を調べながら訳してみると、石碑に書いてあったのは

スカンジナビアの人々が、1957年2月24日、日本とヨーロッパ間に北極経由の航路を開き、その10年後に記念としてこの石碑を建てた

という内容。



特に新しい情報はありませんでしたね。
(な、泣いてないっす・・・)



でも、内容と石碑の存在意義が噛み合ってない気がする。
もともとルーン石碑というのは、北欧のヴァイキングの方々が「征服の証」として残していたものだ。これを日本に置いたというのは、日本は北欧諸国の軍門に下った、という意味になりはしないか。文面に書いてあるような、友好の証としてルーン石碑を使うというのはいかがなものか。

まぁ、そこまで固く考えることもあるまい。現在、北欧諸国ではルーン文字は一種の文化遺産扱いをされており、占いでも使われている。日本とスカンジナビアの友好の証として、なにか置物か記念物を、と考えて「いかにもスカンジナビアっぽいもの」と考えた時、ルーン石碑はどうだろうか、という感じだったのだと思う。まぁ、一種のジョークと考えればよいものだろう。


そんなことよりも、「ハリー・ポッター」シリーズの、『吟遊詩人ビードルの物語』(The Tales of Beedle the Bard)のほうが気になった。
この本は作中書物だが、スピンオフとして2008年に実際に出版されている。日本でも翻訳が出版されており、マニアには必須の本らしい。作中世界では、原著はルーン文字で書かれており、2008年にハーマイオニーが現代英語に翻訳した、ということになっている。

この物語は、イギリス魔法界に古くから伝わる寓話・童話を集めた作品集ということになっている。原題の「Bard」というのは吟遊詩人のことだが、一般的にはケルトの吟遊詩人のことを指す。おそらく、収録されている童話や寓話も、主にケルト民族の物語を下地にしているのだろう。


bard
OEDの記述。「ancient Celtic」と明記してある。


ところが、そう考えると時代が合わない。
ケルト文化というのは、現在のイギリス、フランス、ドイツ、東欧圏に広がっていたケルト人の活動領域に包括される文化を指す。古代ローマで「ガリア人」と称されていた民族ではないか、という説もある。現在のアイルランド、スコットランド、ウェールズ、コーンウォールあたりにケルトの文化遺産が残されている。

現在ではイギリス系の印象が強いが、ケルト語はインド・ヨーロッパ語族なので、ケルト人もおそらくは大陸由来だろう。ケルト文化がヨーロッパで発展したのは青銅器時代、およそ紀元前1200年くらいだ。かなり歴史の古い民族といえる。
それが、ローマ帝国、ゲルマン民族の侵攻を受け、衰退に向かったのが紀元前1世紀ごろ。紀元後になってからは、その文化は当時でもすでに歴史遺産と化していたと思われる。

一方、ルーン文字というのはゲルマン民族であるヴァイキングが使用した文字だ。ヴァイキングの活動時期は約800年から1000年ほどの間だ。航海技術や戦闘武器の発達を背景としているため、その時代はほぼ中世に近い。ルーン石碑も、その多くはその時代に建立されている。

つまり、『吟遊詩人ビードルの物語』の物語は、紀元前のケルト物語が、1000年ほど後に発達したルーン文字で書かれた物語ということになる。「ハリー・ポッター」シリーズで登場する「古代ルーン文字」というものは実際には存在しないが、相当に初期のルーン文字だって紀元200年よりも昔ということはない。なぜ古代ケルトの物語が、当時存在しなかったルーン文字で書かれているのだろうか。

また、ケルト民族にとってゲルマン民族は侵略民族にあたる。ケルト民族とヴァイキングは時代が合わないが、一応民族上、被征服者と征服者の関係にある。歴史の古いケルト文化の童話や物語を、征服者の言語であるルーン文字で書き残す、というのはどう考えても不自然だ。
日比谷公園の石碑だって、アルファベットに書き下したらスウェーデン語だった。『吟遊詩人ビードルの物語』は、記述文字としてはルーン文字で書いてあるとして、その文字はいったい何語を表記したものだったのだろうか。

この謎を解く鍵のひとつは、題名に使われている「Bard」(吟遊詩人)という単語だ。
ひとつの考え方だが、『吟遊詩人ビードルの物語』は古代ケルト文化を題材としていながら、本として編纂されたのはそれほど昔ではない、ということだろう。先に挙げたOEDの記載によると、現存している資料のなかで「Bard」という言葉の初出例は15世紀だ。しかも引用例を見てみると、17世紀中盤までは「Baird」「Barth」「Bardh」など、綴りが一定ではない。ようやく「Bard」に綴りが定まったらしい最初の例は、1627年の資料だ。もし『吟遊詩人ビードルの物語』の英語表記がThe Tales of Beedle the Bardだったとしたら、この物語は少なくとも17世紀以降に書かれたことになる。そうだとしたら、当時すでに死滅語となっていたルーン文字で記されていても、いちおう時代的な辻褄は合う。


まぁ、いずれにしてもひとつ分かるのは、かようにヨーロッパ文化圏ではルーン文字は「神秘的な文字」という印象が強い、ということだ。ルーン文字の独特の雰囲気は、ハリー・ポッターシリーズの魔法界の印象を形づくるアイテムとして、重要な役割を果たしている。
ところが、謎の石碑、神秘的な古文書を、苦労して解読してみても、その内容は「そんなことは知ってるぞ」という程度のもの、ということは多い。まぁ、神秘というものは、暴いてみれば、そんなものなのだろう。


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外務省横の桜がきれいでした。



春休みの自由研究としては中級くらいの難易度だろうか。

春の遠足2020

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春休みであったかくなってきたので、ぶらっと日比谷公園から霞ヶ関界隈に出かけてきました。
別になにか用があるわけでもなく、不要不急の外出です。
いま一番やっちゃいけないやつです。



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卒業式が中止になっちゃったのかな。



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伊達政宗ってこの辺で死んだのか。



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東京の公園のど真ん中に、なぜはにわ。



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凄いイチョウがありました。人呼んで「首賭け銀杏」。
伐採されそうになったところを、担当者が「首を賭けて」移植したそうです。



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今年の初桜は外務省の外壁周り。



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いまいろいろと大変な所。
お巡りさんがあちこちに立ち番してました。



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これは「桜田門」。
このあたりで井伊直弼が暗殺されたんですね。



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こちらは「通称・桜田門」。
いわゆる警視庁ですな。



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嫁がいないので一緒に登城ごっこができなかった。



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そりゃ、こんなビル群ばっかり見て暮らしてたら、
ゴジラに全部壊させる映画くらい作りたくなるってものでしょうな。



よく晴れていて暖かかったのですが、春風がけっこう吹いていたので、サングラスをかけて歩きました。
もちろんコロナウィルス対策としてマスクもばっちりです。
サングラスかけて、マスクして、カメラを構えながら霞ヶ関の官庁街を練り歩きました。


3回職務質問されました。




「もう職務質問済みですカード」みたいなのくれないんですかね。

全国で学校一斉休校

「休校の決断 重みに見合う説明を」
(2020年2月29日 朝日新聞社説)
「全国臨時休校へ 混乱抑え感染防止に全力を」
(2020年2月28日 読売新聞社説)
「「全国休校」を通知 説明不足が混乱を広げる」
(2020年2月29日 毎日新聞社説)
「首相の休校要請 説得力ある呼びかけを 「緊急事態宣言」へ法整備急げ」
(2020年2月29日 産経新聞社説)
「新型肺炎厳戒で政府がすべきこと」
(2020年2月28日 日本経済新聞社説)



新型コロナウィルスの流行を鑑みて、政府が突然、全国の学校に休校の要請を出した。それを受けての社説。
まあ予想通りというか、ほぼ揃いも揃って異口同音。特に読むに値する社説は無い。

おおむね批判的な論調が多い。その原因は、出した要請の内容ではなく、要請の出し方にある。今回の首相要請は、会議で諮られることもなく、専門家の検討もなく、ほぼ独断で出されたものだ。それに噛み付いている社説が多い。

首相が方針を表明した時点で文部科学省内で知らされていたのは、一部の幹部だけだった。全国の教育委員会への連絡はその後に始まった。学童保育を受け持つ厚生労働省との調整など、具体策は詰めきれないままの見切り発車だった。政府の専門家会議は24日に出した見解の中で「1~2週間が急速な感染拡大が進むかの瀬戸際」との見方を示したが、休校には触れていない。翌日に政府が発表した基本方針でも、臨時休校の適切な実施に関して都道府県から要請するとの内容が入っていただけだ。専門家会議のメンバーからは「(一斉休校は)諮問もされず、提言もしていない。効果的であるとする科学的根拠は乏しい」との声が漏れる。
(朝日社説)

政府が設けた専門家会議は、全国での一斉休校が感染防止に現時点でどれだけ効果があるかを検討していない。政府は専門家会議の助言を得て、クラスターと呼ばれる小規模な感染者の集団が発生した地域に支援要員を派遣し、感染をおさえこむ計画だった。

全国一律の休校要請は、クラスターごとの対応では追いつかない特別な状況が生じたとの判断なのか。高齢者は重症化するリスクが高いが、子どもにそうした傾向は出ていない。根拠に基づく行動基準を示さないと、自治体が判断に迷うケースも出るだろう。

トップダウンによる臨時休校は、教育現場を混乱させている。感染症にかかった児童・生徒を出席停止とし、臨時休校とする法律はある。だが患者ゼロの学校も休校とする法的根拠は曖昧だ。3月は入試や合否発表があり、結果を踏まえて進路指導を予定する学校も多い。文部科学省は休校期間について「地域や学校の実情を踏まえ設置者の判断を妨げない」とややトーンダウンした通知を出したが、当然だろう。
(日経社説)


今回の措置を批判しているのは、朝日、毎日、日経などの左派系新聞だ。読売、産経などの保守的新聞は今回の対策に一定の理解を示している。

学校は大勢の子供が集まり、ひとたび生徒が発症すると、感染が一気に広がりやすい。家庭に戻って家族にうつす恐れもある。新型肺炎では、感染経路のわからない患者集団が各地で見つかっている。ここ1~2週間は本格的な流行を抑止するための極めて重要な時期である。

全国一斉休校という異例の措置は、危機感の表れと言える。北海道では27日から、小中学校の臨時休校が始まっていた。東京都は都立高校など約200校で、期末試験の終了後、前倒しで春休みに入ることを決めていた。各自治体で独自に休校の動きが広がる中、政府として、統一的な考え方を示す必要に迫られた面もあったとみられる。
(読売社説)

休校要請の対象となる児童、生徒らは約1300万人いる。日本の歴史にこれまでなかった規模だ。新型ウイルスとの戦いが容易ならざるもので、日本が緊急事態の渦中にあることを意味する。休校を決める権限は政府ではなく、全国の教育委員会や学校法人にある。首相の表明を受けて文部科学省や各教委からは驚きの声があがった。首相が打ち出さなければ全国一斉休校は到底実現できない。各地の教委などは要請を重く受け止めて対応すべきである。

学校は、大勢の子供が日々、同じ教室で学び、食事もとる集団生活の場だ。ウイルスにとって格好の温床となる。子供たちがウイルスを持ち帰り、高齢者を含む家族に感染を広げる図式はインフルエンザと共通する。一斉休校の意義は大きく、感染者や犠牲者を減らすことに寄与するだろう。およそ百年前にスペイン風邪が日本で大流行した際は、学校や軍隊から全国へ感染が広がった。その教訓を忘れてはならない。
(産経社説)


今回の措置を、妥当とするかそうでないとするかは、今するべき議論ではないと思う。少なくとも、新聞の社説として今書くべきことは他にあるのではないか。

まず、今回の騒動の原因は、伝染病であって政府ではないということだ。今回の首相要請を非難している新聞は、暗黙のうちに「政府は『いままでの生活水準を1ミリも落とすことのないように』対策を講じろ」という無茶な要求をしているように見える。

しかし今回の新型コロナウィルスの大発生というのは、いわば降って湧いた国難だ。それに対処する過程では、どのみち何らかの不便は生じる。各紙の社説では「いずれにせよ何らかの犠牲は避けられない事態だ」ということが認識できていない。各新聞とも、「学校を一斉休校にするのはけしからん」と言うのであれば、その前提としては「生徒が何人死んでも構わないから」という文言が入ることになるのを忘れてはならない。

政府に求められているのは、いわば「新型肺炎で多数が死ぬか」「死なない替わりに多少の不便を我慢するか」という種類の二者択一なのだ。ところが新聞社説は「両方ダメ。何ひとつ不自由ない完璧な状態を保て」と言っているに等しい。

つまり、各新聞は今回のコロナウィルス流行を舐めているのだ。各新聞は、ペストや天然痘レベルの、致死性の高い伝染病の流行でも「各家庭の事情が」「両親への負担が」などと並べて休校措置に反対するだろうか。新聞各紙は、暗黙のうちに「『この程度の伝染病』でこの措置はおかしい」と言っているように見える。ところが「この程度」がどの程度なのか、という事実はどの新聞も触れていない。

マスコミの常として、連日ショッキングな事例ばかりを強調し、繰り返し報道する。「◯◯県で感染者が発生」「◯◯県では感染者が◯人に到達」など、視聴率のためにインパクトのあるニュースばかりをこれでもかこれでもかと報道する。マスコミの基本姿勢として「こんなにひどい事態なんですよ」と過度に強調して報道している。なのに政府が「じゃあ学校を休みに」という指示をした途端、「それはやりすぎだ」と来る。報道姿勢と政府批判の内容が矛盾している。

朝日、毎日などの左派系の新聞の目的は「対策の是非を問わず、常に政府を批判すること」だ。だから政府が対策を講じて不便な状況を招いても非難するし、対策をなにも講じずに死者が多数出ても非難する。どのみち非難するのだ。だから、何ひとつ建設的な提言になっていない。


今回の社説で最も提言するべきことは、「政策の評価軸を定めること」ではないか。
今回の政府の休校措置は、いま現在、その妥当性を評価することは誰にもできない。問題は、数ヶ月、数年経って問題が収束した後で、「あの時の措置は妥当だった」「あの措置はまずかった」と、評価するための軸を用意して、そのためのデータをしっかり蓄積することではないか。

もし今回の新型肺炎が世界中で予想を上回る死者数を出し、日本はその傾向に巻き込まれず死者が少なかったら、今回の休校措置は「妥当だった」と判断できる。一方、大山鳴動鼠一匹、大した疾病ではなかったことが後日明らかになったら「施策は過剰だった」という評価を下さなければならない。

後日そのような客観的な評価をするためには、「何をもって政策を是とするのか」という、明確な評価軸がなくてはならない。しかし、どの新聞もそんな評価軸を明らかにしていない。暗黙のうちに「今回の施策は過剰だ」という前提のうちに話をすすめている。これが各社説の大きな問題点だろう。

新聞は一旦、政策の非難記事を書いてしまうと、後に施策が妥当であったことが明らかになっても、それを頑として認めない。マスコミのそういう「印象と感覚だけで評価を下す」という傾向は、のちに同じ問題が発生したときに同じ過ちを繰り返す原因となる。いま現在は、緊急事態なのだ。政策の非難は後からでもできる。大切なことは、妥当な非難を行えるための用意をしておくことではないか。


個人的には、今回の政府からの要請は、一種の「ショック政策」だと思う。
伝染病という緊急事態で、感染拡大を防ぐためには人の移動を差し控え、多人数が集まるイベントは控えてほしい。しかし、最初から「できるだけ控えてください。個々の判断は当事者に任せます」では、政府の指示として意味がない。そんなふんわりとした指示は、指示とは言わない。いままでの日本の事例から言っても、そんな指示など誰も聞かないだろう。誰もが無視して「いままで通りの普通の生活」をし続ける。

だから、政府が「この危機は本物だぞ」と国民に知らしめ、活動自粛を本域に高めるために、政府の指示として「全国の学校を休校にする」という形をとったのではないか。学校が休みになるというのは、相当の緊急事態だ。会社を休みにしづらい管理職も休みの指示を出しやすくなるし、イベントを中止にしづらい企画者も中止にしやすい。台風のときに「JRがまず電車を止める」という措置を取ることによって、各企業が自宅待機命令を出しやすくなったのと同じ効果を期待しているのではないか。

もちろん政府も、地域によっては休校措置が実情に合わないこともあることくらい、百も承知だろう。しかし、これとて最初から「休校にするかどうかは地域によって事情が違うので、その辺は各自治体が判断してください」と言ってしまうと、政府の指示として役を成さない。最初にきつめの要求をしておいて、後で状況により緩めることは可能だが、その逆は難しい。最初の指示が曖昧なものだと、全体として効果のある指示にはなりにくい。伝染病のような緊急時の指示であればなおさらだろう。

新聞各紙は、各家庭の事情や、職種によって休みがとれない仕事に就いている人達への配慮を問題点として挙げている。もしそれらを問題点として挙げるのであれば、政府が最初からそのような事情をいちいち勘案した「例外だらけの指示」を出したときの指示効果について、責任をもって立証しなければならない。

各紙とも、「専門家の検討なしに」「この指示の効果は疑わしいという専門家もいる」と、やたらに「専門家」という言葉を並べているが、この「専門家」なるものは何の専門家なのか、どの新聞もはっきり書いていない。伝染病に関する医学専門家なのか、人の行動が疾病伝播に影響する度合いを考察する社会行動学者なのか、学校教育の専門家である教育研究者なのか、どの「専門家」であれば今回の施策の妥当性をきっちり査定できるというのか。新聞は、評価の軸も曖昧なまま、印象だけで政府指示を非難している。 読者の学歴コンプレックスにつけ込んで、「専門家」とさえ書けば説得力のある記事になるだろう、という雑な書き方だ。テレビ番組がやたらと「大学教授」に喋らせて権威付けをしている構造と、何ら変わりはない。

現在の民主主義は間接民主制なので、国民は決断権を選挙によって特定の人達に委託している。その委託が間違っていれば、また選挙によって妥当な人を選び直さなければならない。そこでは「妥当」かどうかをしっかり評価するための基準が必要だろう。今回の新聞各紙の社説では、そのへんの評価軸をしっかり作ろうという気がまったく無く、最初から「非難ありき」の姿勢で書かれている。政府を非難するときは、印象や感情によって曖昧に非難するのではなく、明確な事実やデータによって明確に非難しなければならない。



初めてのことで狼狽しているだけのようにも見える。
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ペンギン命

takutsubu

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