「死刑判決の破棄 裁判員に無力感を与える」
(2020年2月3日 産経新聞社説)


最近、韓国や中国の動向がやかましく、保守系の新聞として国際問題を論じることが多かった産経新聞が、珍しい社説を載せている。一般人によって構成される裁判員の判決を職業裁判官が否定し、事実上裁判員制度が形骸化していることを批判した社説だ。時期を同じくしてこの件を社説で論じた全国紙は他に無く、産経新聞だけがこの件をとりあげている。

産経新聞が具体例として挙げているのは、兵庫県洲本市で平成27年3月、男女5人を刺殺したとして殺人罪などに問われた被告の控訴審判決。1審神戸地裁の裁判員裁判の判決では求刑通り死刑としたが、大阪高裁はこの判決を破棄し、無期懲役を言い渡した。

裁判員裁判の死刑判決を控訴審が破棄したのは7例目であり、5件は最高裁が控訴審判決を支持して確定している。
洲本の事件で1審と2審の判断が分かれたのは、被告の責任能力の評価による。1審では2人の担当医の鑑定結果を検討して完全責任能力を認めたが、高裁は職権で3度目の鑑定を実施し、この結果から心神耗弱を認定して刑を減じた。被害者遺族の一人は代理人弁護士を通じ、「1審の判断を否定して被告人を守ることは、裁判員裁判の趣旨を台無しにするものと思います」とコメントした。

裁判員裁判の判決は、原則として裁判員6人、裁判官3人の合議で行われる。法解釈や判例の判断については裁判官から十分に説明を受けることができる。決して裁判員のみによる感情に任せた結論が導かれることはない。


産経の報道が正しければ、2度にわたって行われた精神鑑定に意味がなかったことになる。なぜ高裁が「職権」で3度目の鑑定を実施したのか、その鑑定が先の2回とどのように異なるのか、納得のいく説明がない。

これに対する産経新聞の提言はストレートだ。

裁判員制度導入前の判例と、国民の日常感覚や常識との間に、ずれが生じていると理解すべきだ。裁判員裁判の判決の破棄が続く現状は、裁判員に無力感を生じさせることにつながる。


僕は裁判員を引き受けたことはないが、相当な負担であることは想像できる。少なくとも、平日に数日間も拘束されるほど仕事に余裕がある人はそういるまい。裁判員制度があまり一般市民に浸透しているとも言えない状況で、このような自体は制度の存続そのものの妥当性に直結する、という指摘だ。

はっきり言及してはいないが、産経新聞がこの一件に注目した契機は、死刑判決との兼ね合いだろう。なまぬるい目で見れば、高裁が死刑判決を強引に翻したのは「一般市民の裁判員に『死刑』という極刑を宣告させる精神的負担を軽減したもの」という見方もできる。

しかし、それが正しければ、裁判員制度というものは死刑反対論者が死刑の履行を強引に覆すための制度的な装置、というだけのことになってしまう。ことの良し悪しは別として、現実問題として日本の法律は死刑制度を定めている。法を直接改訂することなく、運用のほうに枷をかけることにより刑の執行を妨げる、という方策は、法のまっとうな履行のしかたとは言えまい。

僕はつねづね、新聞社説の価値は、主張の内容そのものよりも「そもそもどのような件を採り上げるか」という、視点の持ち方だと思っている。裁判員裁判という、いわば世間的には訴求力の低い静的な話題で、しっかりと現在の日本の問題点を指摘している。最近、似たり寄ったりの社説が多いなか、秀逸な社説と評価できるだろう。



適当にやっても済むことになっちゃうもんね。
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