たくろふのつぶやき

春来たりなば夏遠からじ。

2019年07月

「バイエル」って誰?

本屋で書棚を眺めてて、ふと面白そうな題名の本があった。
新刊ではないが、なんとなく買って読んでみた。


Byel

「バイエルの謎 日本文化になったピアノ教則本」
安田寛、新潮文庫


めっちゃくちゃ面白かった。


この夏、僕が自信をもってお薦めできる渾身の一冊だ。大学の講義で課題として全学生に有無を言わさず強制で読ませたい。というか、夏休み読書感想文の課題図書、推薦図書の類いに一切選ばれていないのが不思議で仕方がない。僕が新潮社の企画担当なら、この夏の文庫フェアとして「新潮文庫の1冊」に選定したい。

この本を大学生に読ませたいのは、「大学での研究というのは、一体どういうものなのか」を端的に示している本だからだ。
世間一般に、大学での研究というのは、「人知を越えた知能を持つ天才達が、最新の装置やら理論やらを駆使して行なっている、難解で高尚な営み」と思われていることが多い。まったくの間違いとは言わないが、完全に正しくもない。少なくとも、大学に進学しようとしている高校生たちが身につけるべき姿勢は、そういうことではない。

世の中には大学の研究者が書いた本が溢れている。ふだん学問研究に関係ない一般人でも、誰でも読める。その中で、「本物の一流研究者」が書いた本というのは、読めばすぐに分かる。楽しそうなのだ。「自分の研究がどのように世の中の役に立つか」とか、「この研究にどのような価値があるのか」など、他人の評価は一切無視。ただひたすらに、自分が「面白い」と思った謎を追い求めて、その答えを探すことにのみ熱中する。答えにたどり着くまでは絶対に諦めず、必要とあらば世界の果てまで手がかりを追う。最後は執念で押し倒す。

よく、高校までは秀才で通ってきたが、大学に入って以降、勉強というものが分からなくなり、虚脱状態になる学生がいる。その理由は、「『勉強』というものの持つ意味が、高校までの中等教育と、大学から先の高等教育では、まったく違う」ということに対処できないことにある。

高校までの勉強は、他人に訊かれたことに答えられれば「優秀」とされる。自分の勉強能力を評価するのは、他人なのだ。中等教育というものは、高等教育に入るための準備段階という位置づけだから、必然的に既存の知識体系を敷衍することが中心になる。要するに暗記中心だ。「いままでの人類は、ここまでの知を積み重ねてきたんですよ」という、人類の知的遺産をとりあえず知ることが中心となる。

ところが高等教育はそうではない。大学から先の「勉強」というのは、「で、あなたが独自に見つけた真実は何ですか?」ということなのだ。既存の知識を敷衍するのは、大学では「手段」であって「目的」ではない。「自分で新たな真実を発見する」ということに結びつけられなければ、たとえ百科事典全冊分の知識を丸暗記したとしても、すべて無駄だ。

つまり大学から先の勉強というのは、「狩り」なのだ。自分が仕留めたい獲物を、どこまでも追い続ける。そのためには、まず何よりも最初に、自分が追うべき「獲物」を定める必要がある。つまり研究テーマとして取り組む「謎」だ。これがなければ、大学での勉強というものは始まらない。
大学に入ってから勉強に惑う学生というのは、この「謎」を持っていないのだ。既存の知識体系、普段生きている世界を、当たり前のものとして疑っていない。「なぜなんだ?」「どうしてなんだ?」という「謎」、つまり「獲物」がなければ、追い求めるという行為そのものが成り立たない。

そういう学生に「いま何の研究をしているの?」と訊いても、ろくな答えが返ってこない。ひどい学生になると、指導教官に「で、僕はどういう獲物を追えばいんでしょうか?」ということを訊いてくる。知らねぇよとしか答えようがない。何のために大学で勉強するのか、その目的まで人に決めさせるなと言いたい。


閑話休題。この本で追っている「謎」は明白だ。


バイエルって、誰?


非常に分かりやすい。この本の筆者は、この謎を追うために延々と調査を続け、研究に没頭する。「その解明がいったい何の役に立つのか」など一切考えない。研究の世間的な価値など、知ったこっちゃない。必要とあらば書類一枚を見るためにはるばるドイツやアメリカに取材に出かける。その過程からは、筆者が何の邪念もなく「狩り」に没頭し、謎を追い求める知的興奮が伝わってくる。


『バイエル ピアノ教則本』。
ピアノを習ったことのある人なら、誰もが一度は手に取ったことがある楽譜だろう。約160年の長きにわたって、世界中で使われ続けているベストセラーだ。

しかし、この教則本を作った「バイエル」なる人物、わかっていないことが多い。音楽の教科書にも出てこない。音楽室に掛けられるような肖像画もない。音楽辞典を調べても2〜3行しか載っていない。いつ、どこで生まれ、どのような経歴があり、どこで働き、どこで死んだのか、情報が一切明らかにされていない。

この本では、最初のほうに「バイエル ピアノ教則本」にまつわる様々な謎を提唱している。
たとえば、バイエルのピアノ教則本は、106曲から成る。なぜこんな半端な曲数が含まれているのか。なぜ100曲ぴったりではいけなかったのか。

さらに、バイエルは106曲のいわゆる「番号曲」のほかに、曲番号が割り振られていない12曲の「番外曲」が挿入されている。この「番号曲」と「番外曲」のバランスが、非常に悪い。何の脈絡もなく、突然「番外曲」が挟まっている。この正体不明の「番外曲」は、どういう意図で入れられたのか。
106曲の構成も不可解だ。バイエルの1曲め、最初の曲は、いきなり変奏曲で始まっている。しかも連弾だ。なぜ子供に教える最初の曲が、よりによって変奏曲なのか。

著者が一番疑問に思っているのは、「バイエルは、曲として全然おもしろくない」ということだ。子供にピアノを教える最初の教材としては、絶望的に曲がつまらない。「芸術的には無価値な曲ばかり」と断言している。なぜこんなつまらない曲を、バイエルは子供向けの練習用教材として作ったのか。なぜそれが、世界中で広く使われているのか。

さらに筆者は疑問の手を緩めない。最初のはしがきに、バイエルはこう書いている。

 この小品は将来のピアニストができるだけやさしい仕方でピアノ演奏の美しい芸術に近づけることを目的としている。
 子ども、とりわけまだまだ可愛い子どものためのこの本は、小品に許されたページ数の範囲内でどの小さなステップでも上手くなってゆけるように作ったものである。以上のことから、ピアノ演奏で出会うあらゆる困難、例えば装飾音などについてもれなく網羅することはこの小品の目的では有り得ないことを了解してほしい。実際、生徒が一年かせいぜい二年で習得できる教材を定曲するための入門書を作ろうとしたに過ぎない。こうした内容の作品はおそらくこれまでになかったもおのである。この作品は、音楽に理解がある両親が、子どもがまだほんの幼いとき、本格的な先生につける前に、まず自分で教えるときの手引きとしても役立ててほしいものなのである。
 私はこの後に中級程度まで進む詳しいピアノ教則本を出版することを考えている。
フェルディナント・バイエル


著者はこのはしがきを評して「何を言っているのだろうか」と疑問を投げかける。はしがきが言っているのは、「この教材を使ってもテクニックなんて身に付かないぞ」「先生につく?てめぇひとりで練習しろ」「弾き方?ママにでも訊いてろ」ということだ。つまりバイエルの教材は、音楽教室で先生に教わるための教材として作られていない。こんな意図で、はたして子供用の教材の役に立つのか。

バイエルは残された資料が極端に少ないので、この「はしがき」は、バイエルが自筆で残した数少ない貴重な資料だ。著者はこのはしがきを出発点に、バイエルが生きた痕跡を辿り続ける。

本の後半になって、著者は執念で「バイエルの謎」をひとつひとつ解き明かしていく。この謎解きがあまりにも見事で、鮮やかな解答というほかはない。正直、僕も読んでいてびっくりした。何を言っているのか不可解な「はしがき」に照らし合わせて、その意図がひとつひとつ明快に理解できる。 ネタバレになってしまうのでここでは書かないが、それが非常にもどかしいくらいの鮮やかさだ。

人文科学であれば、出てくる解答はすべて「仮説」の域を出ない。本当のところはどうなのか、を証明することは原理的に不可能だ。しかし研究者の直感として、真実に肉薄した仮説にたどり着いたときには、「仕留めた」という明確な実感がある。謎が阻む強固な壁を、自らの執念でぶち抜いたという実感、これこそが高等教育のもたらす最大の福音だろう。大学時代に一度でもそのような実感を得られる経験をしたら、ちゃんとした大学生活を送っていたということだと思う。

また、単に謎解きの本というだけでなく、謎を追う際の紀行文としても楽しめる。著者はバイエルの情報を追って、アメリカ、ドイツ、オーストリアに取材に出かけるのだが、その道中記が生き生きと描かれている。
どんな研究者でも、偉い大学の先生でも、自分の知らない外国の街にひとりで行くのは、怖いのだ。目的の所に辿りつけるだろうか。人に会ったら自分の用件をちゃんと伝えられるだろうか。こっちの不備で必要なものが手に入らなかったらどうしよう。そんな不安と戦いながら恐る恐る図書館を巡り、手がかりを見つけたときは大喜び、ガッツポーズをしながらホテルに戻る。そこには、世間一般に考えられている「大学教授」のイメージは欠片も無い。ただ一心に謎を追い続け、知りたいことを知ろうとする、「知のハンター」がいるだけだ。

大学生にこの本を薦めるときには、特に語学の必要性を説きたい。バイエルはドイツ人なので、調査にドイツ語が必要なのは当然として、この調査には少なくともドイツ語、フランス語、英語を使いこなすことが必須だ。大学の第二外国語で落第点を取っている程度の語学力では、この「狩り」は出来なかろう。銃もないのに狩りが出来るか。語学というのは、学問研究における基礎中の基礎だ。普段からそういう意識で語学の授業に出ている大学生が、どれほどいるのだろうか。

著者は調査の過程で、市井の人を含む、さまざまな人から助力を得ている。大学教授でありながら、自分の専門以外の分野に関しては、大学院生にだって謙虚に教えを乞う。真実にたどり着く「運」を偶然にでも掴むには、こうした日々の生き方が必要なんだろうな、と思わせてくれる。

知的研究の興奮を余すところなく伝え、世界を飛び回る紀行文が楽しめ、謎をひとつずつ解いていくパズルとして優れている。この夏、なにか読書をしようと思っている人に、ぶっちぎりでお薦めの一冊だ。


note

内容をまとめる読書ノートは当然コレ。



巻末の解説が、名著『絶対音感』の最相葉月というのも渋い。

『いのちのよろこび』(でんぱ組.inc)





仕事しながらラジオ聞いてて、たまたま流れてたんだけど、歌詞にびっくりした。
仕事の手を止めてじーっと聞いてしまった。

「日本人は無宗教」なんて言う人がいるけど、宗教という特定の既存物に頼らず、習合によって様々な世界観を各自が自分の中に取り込んで、独自に完結させている世界唯一の民族なのだと思う。たとえ矛盾する教義であっても、それを自分の中に取り込む能力がある。哲学にせよ宗教にせよ、既存の世界観は、自分の内的世界をつくるためのきっかけに過ぎず、頼るものではない。

この詞を各国語に翻訳して「どこの国で作られた曲か」と聞いても、世界中の人がためらいなく「日本」と答えると思う。こんな詞、世界の中で日本人しか書けない。愛だの恋だの、自我だの平和だの、そんなことしか詞の題材がない欧米人に書ける詞ではない。こんな詞を、女の子たちが踊りながら平然と歌ってるのが日本という国。

内容だけでなく、使われていることばもかなり練られてる。概念とことばが離れ過ぎず、なおかつ現代の女の子世代の身体感覚に合うようなことばを選んで楽曲の勢いを全く殺さない。安直な繰り返しもなく、詞が一つの物語として完結している。半端ない完成度。



作った人は何者だろうか。

気になるコトバ。

夏が近づき、出版各社が夏の文庫フェアを開始した。
その中のひとつ、集英社文庫の「ナツイチ」に採り上げられた、『言えないコトバ』(益田ミリ 著)を読んでみた。


ienaikotoba


言葉に関するエッセイ集。単なるあるある話から、筆者が日頃から違和感を感じている言葉まで、言葉に関するあれこれを雑然と綴っている。
まぁ、読みやすい本。年配者による「最近の若者の言葉遣いはけしからん」的な、上から目線のダメ出しなどでは全然なく、筆者が肩肘張らずに言葉に関して思ったことをそのまま書いている観のある本。言語論ではなくエッセイとして、気軽に読める本だろう。暑い夏に読むための読書フェアに推されるのも、まぁ分からないではない。


しかし、言葉に関してエッセイを書いているにしては、この著者、ことばづかいが雑すぎるのが気になった。


まず、文章に「のである」がやたらに多い。
中・高の国語の授業であれば、無条件に削除するように添削される表現だ。

「試しに言ってみるのだが、今まで驚いてくれた人は、ひとりもいなかったのである

「どうも気後れして真似ができなかったのである

「想像したら、少し胸がキュンとしたのである


見開きの2ページだけで、「のである」が3例も出てきている。
一般的に「のである」は、単独で使われる時は削除しても意味が変わらない。「ひとりもいなかった」「真似ができなかった」「少し胸がキュンとした」と書くほうが簡潔で、意味も伝わりやすい。

「のである」が使われるのは、一度言ったことを、他の例を使ったり違う言葉を使ったりして、もう一度言い直すときだ。
本書の『パンツ』という項目で、筆者は「チョッキ」「トックリ」という言葉を最近使わなくなり「ベスト」「タートルネック」と言うようになったことを挙げて、こう書いている。

「わたしの父には、いいまだそれらは死語ではないし、このまま突き進むはずだ。ちなみにわたしの母は、わたしよりも、うんと長い時間がかかったものの、ベストやタートルに辿り着いている。オシャレへの関心の度合いによって、夫婦である父と母には若干のコトバの壁ができたのである。」


この箇所では、「父はこう」「母はこう」「要するにこう」と、前に挙げたことを他の表現でまとめているので、これは「のである」の正しい使い方だ。
しかし、この本ではあまりに「のである」が多用され過ぎているので、これはたまたま正しい用法で「のである」を使っていた箇所、というだけに過ぎないだろう。「濫発した中にたまたま正しい用法があった」という、単なる偶然だと思う。

そもそも、「のである」の正用法には、「伝えたいことを一文だけで伝え切れていない」という大前提がある。伝えきれないから、他の言い方で補完しなければならないのである。だからそもそも正用法といえども「のである」を多用するのは、上手な書き手ではない。


他にもこの本、言葉遣いが疑わしい書き方が多く見られる。

「どうやら、おもてなしをすることが流行っているような気がする」


典型的な文のねじれ。「どうやら」の後に句読点が打ってあるので、これは文全体を修飾する。すると被修飾語は文全体の述語になるので「気がする」ということになる。すると言っていることは「自分では意識していないが、どうやら私は・・・という気がしているようだ」ということになる。おそらく誤文だろう。

察するところ、正しい係り受けは「どうやら・・・流行っているようだ」だろう。「どうやら」は、係り受けとして「〜ようだ」「〜らしい」で受ける表現だ。上の文では、それが成り立っていない。いっそのこと「どうやら、」を削除して、単に「おもてなしをすることが流行っているような気がする」と書いたほうが誤解がない。

「デパートか、百貨店か。
口にする前に、毎度、
『どっちだっけ?』
と一瞬とまどうわたしがいる。」


どこかで見た歌の歌詞か、哲学的な思索に関する言及を、何の疑問もなく丸パクリして使ってる表現だろう。当該のエッセイは、筆者が「『デパート』という言葉は『パレード』に似てるから、ゴージャス感が凄すぎて、使うのをためらう」という内容だ。そんな瑣末なことを迷っているよりも、「一瞬とまどうわたしがいる」という表現を躊躇もなく使う感性のほうを疑ったほうがいいのではないか。

「〜しているわたしがいる」という表現は、主文の述語が「いる」という存在認識なので、その対称として「いない」(=「非存在」)の概念が前提となる。つまり「死」「無」「虚」の世界だ。無というのは、それ自体に概念を与えられないので、必然的に「有」と対称することでしか捉えることができない。そういう「無」に捉えられそうになったとき、自分の存在に立ち返る(つまり「我に返る」)ことによって「無」の認識に達するときの表現が、「〜するわたしがいる」という言い方だ。この表現はもともと日本語独特のものではなく、海外の認識論を翻訳する際に編み出された翻訳表現だ。僕の知る限り、最初に使ったのは確か堀口大學だったと思う。

当該の文は、そこまで意図してこの表現を使ってはいまい。おそらく「デパートか百貨店か、気づくと『どっちだっけ?』と迷っていることが多い」くらいの意味だろう。それを何やら歌の歌詞のように、もってまわった言い方で表している。決して、文章勘の成熟した大人が書く文章ではない。


かように突っ込みどころが満載の本なのだが、別に僕はそれが悪いと言っているわけではない。この本はエッセイなのだし、想定している読者もそれほどことばにうるさい人ばかりではなかろう。夏の暑いさかりに、時間つぶしに読書を、などという向きには読みやすい本だと思うし、その面では「仕事をしている本」だろう。

僕が思うのは、「この筆者、いままでの人生で、誰にも文章を直される経験がないままここまで来てしまったのだろうか」ということだ。
たとえば先に挙げた「〜のである」などは、中学生のうちに直されているはずの表現だ。昨今では国語の授業数が削減されて、作文の指導も十分ではないのかもしれない。中学、高校と、文章を添削される機会は数多あったはずなのだが、そのどの段階でも添削をすり抜けてここまで来てしまったのだろうか。

日本語の母語話者だからといって、日本語が上手とは限らない。特に思考を文章に著して、広く世の人々の目に触れるようになれば、そこには一応の文章訓練が必要だろう。僕の印象では、学校における国語教育を軽視する人ほど、そういう能力をきちんと身につけていない。

言葉に関するエッセイであれば、読者としては、自然と筆者の「日本語力」に注視しながら本を読み進める。どれだけ書いてある内容が面白かろうと、気楽に読める本だろうと、「本を書く」ということの一番の根幹を成す能力が疑わしければ、説得力が激減する。読んでいて興醒めする。

言葉についてあれこれと書いてあるエッセイなのだが、この本から僕が一番強い印象を受けたのは、そういう言葉の運用面に関することだった。まぁ、筆者の意図とは違うだろうが、ことばの使い方とその身につけかたについて、考えさせられる本だった。 



『言えないコトバ』と、なぜカタカナで表記してるんですかね。
ペンギン命

takutsubu

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