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富岡製糸場に行ってきました。


1872年(明治5年)設立。明治政府が設立した官営工場で、輸出品の要である生糸の品質向上と生産のために作られた。明治期には日本製の生糸が世界一になるほどの技術力を誇る。1987年(昭和62年)に操業を停止するまで115年にわたり日本の生糸産業を牽引し続けた。
2014年(平成26年)、世界遺産に登録。

小学校のときに社会の授業で習った。「富国強兵・殖産興業」のうち殖産興業の一例として教科書に載っている。当時から、この製糸場について非常に不思議なことがあった。
なぜ、明治期に最先端の官営工場を作ったのが群馬県なのか。

上信越自動車道を富岡ICで下りると、非常にさびれた感じの街が広がっている。富岡製糸場の近くにも古くから続く地元の商店が続いており、中には閉店し空家になった商店もある。かつての官営工場で栄えた街とは思えない。まぁ、富岡製糸場はあるが、富岡製糸場しかない場所と言っても過言ではない。
どうして明治政府は、こんな所に官営工場を作ったのか。

富岡製糸場でもらった資料を見てみると、その理由は主に5つあったらしい。

(1) 生糸の原料である繭を確保するため、養蚕が盛んな土地であること
(2) 工場用地の広い土地が確保できること
(3) 良質の水が確保できること
(4) 燃料の石炭が採れること
(5) 外国人指導の工場建設に対し地元住民の同意が得られたこと


怪しい。怪し過ぎる。


まぁ「たくつぶ」の読者の方にはお馴染みでしょうが、研究者の常として、僕には日頃から世の中を疑ってかかる習性がある。
この手の「きれいごと」には、非常に胡散臭いものを感じる。

まず第一に怪しいのは、富岡に工場を作った理由がことごとく「流通経路」と「労働力」を無視していることだ。
生糸は、国内需要のために生産していたのではない。外国に売って外貨を獲得することが目的だ。だから輸出が大前提になる。当時の商港は関東地方では横浜に限られていたから、製品の生糸をわざわざ横浜まで運ばなければならない。

工場の立地条件には、大雑把に分けて「原料立地」「市場立地」「労働力立地」がある。工場をどこに立地させるかは、その原料と製品の「運搬費」、つまり流通経路が要素となる。
「原料立地」は、要するに重いものを原料とする産業に属する。鉄鋼業やセメント、金属、精油などの重工業がこれに相当する。
「市場立地」は大都市や消費地に工場を作る方法で、消費傾向が大都市に偏る産業に属する。清涼飲料水、ビール、出版、化粧品などがこれに相当する。
「労働力立地」は、安価な労働力あるいは熟練工が必要な産業に属する。繊維工業、服飾、宝石、精密機械などがこれに相当する。

上の富岡製糸場の工場立地条件を見ると、要するに「原料立地」で工場を建てていることになる。
しかし、生糸のような軽工業はそもそも原料立地にするほど原材料に縛りがあるわけではない。運搬費だって鉄や原油に比べれば格段に安い。わざわざ群馬の山の中に工場を建てなければいけない理由が「原材料の蚕の調達の必要性」とは、とうてい考えられない。 軽工業は、ふつう労働力立地で工場を作る。

富岡製糸場開業当時、もっとも困難だったのは「原材料」でも「石炭」でも「水」でもない。間違いなく「労働力」だっただろう。年頃の女の子を全国からかき集め、労働力として技術を身につけさせた。
富岡製糸場で資料を閲覧すると、当時の工女は別に群馬近辺の地元民に限ったものではなかったらしい。むしろ開業当時は工女のなり手がおらず、工場の要職の子女や、政府の要職を占めていた薩摩・長州の良家の娘が送り込まれていた。当時の工女の日記を見ると、地元出身の娘が「私は最初の1年は既製品のチェックしかさせてもらえなかったのに、長州出身の娘は私よりも後輩のくせにもう糸を紡がせてもらっている」と、出身地による依怙贔屓が行われていたことに対する苦情が綴られている。

かように全国から人員をかき集める製糸場として、富岡という地はそれほど便利な土地には見えない。高速道路や新幹線が整備している現在とは違い、当時の移動手段は船や陸路に限られただろう。官営工場であれば、そういう移動費はすべて国が負担しなければならない。
上の(1)〜(5)の条件は、「労働力の確保」「製品の流通」という最重要条件をまるで無視している。なのに、敢えて富岡にこんな大層な工場を建てた明治政府の意図は何だったのか。

実際に工場を見て、非常に違和感を感じたことがある。
設備投資に金をかけ過ぎなのだ。当時の最先端技術を注ぎ込み、フランスの技術者を雇い入れ、必要な機材をバンバン輸入している。工場の機械すべてを動かすエンジンも、当時の日本では作れない代物なので、フランスからはるばる輸入している。

工場の機械だけでなく、工場の建物そのものの建築様式も当時の最先端技術を使っている。当時は電力ではなく石炭による蒸気で機械を稼働させていたので、建物内には照明がない。そのため自然光を効率よく採り込んで明るい視界を確保するため、建物の窓の向きや大きさまで緻密に計算されて作られている。実際に見学してみると、電気の照明がなくてもかなり明るい。


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超絶気合を入れて作った工場。


日本の建物は木造なので、柱を中心として梁をめぐらせる工法が一般的だが、工場ではそれができない。体育館のように柱のないフラットな空間が必要となる。しかもコンクリートが普及していない時代なので、木造の骨組にレンガを使う、という和洋折衷の建築にならざるを得ない。当時、そこまでの建築技法は日本になかったため、当時の技術者は富岡製糸場を建築するために新しい工法をわざわざ編み出した。

施設を見学しながら、「設備投資や工場建築に必要な予算」と「実際に生糸によって得られる利益」をフェルミ推定してみた。iPhoneの電卓をはじいてみたところ、どうしても赤字になる。しかも、かなりの赤字だ。維持費を含めると、相当の出費がかさむことになる。「殖産興業」どころの話ではない。こんな赤字工場を、金に糸目をつけずに作った明治政府の意図は何だったのか。

富岡製糸場で働く工女は期限制で、そこで働く期間は「3年間」と定められていた。3年もみっちりと最新設備で働けば、生糸を精製する技術が身に付く。3年というのは、ずぶの素人が一等工女の資格を得るための平均的な年数だったようだ。
富岡製糸場で一等工女の資格を得た工女たちは、全国の生糸工場に散って現地で製糸技術を指導した。それが全国各地津々浦々に伝播し、日本の軽工業全体のレベル向上に貢献した。

つまり富岡製糸場は、それ自体が製造工場というよりも、製糸技術を身につけるための学校だったのだ。そこで生産する生糸そのものが目的だったのではなく、全国に派遣するための熟練工を養成することが第一の目的だった。だからこそ明治政府は、金に糸目をつけずに最新設備・最新技術を結集させた。もし仮に富岡製糸場が「利益を第一とする生産工場」であれば、この採算度外視の方針は矛盾している。

実際に富岡製糸場を見学して驚くのは、当時使っていた施設や機材が見事に保存されていることだ。この保存状態の良さは、ユネスコが世界遺産として認定したときの理由のひとつとなっている。
富岡製糸場は1987年(昭和62年)に操業を停止し、2014年(平成26年)に世界遺産に認定されている。その間、実に27年にわたって、地元の人達は富岡製糸場を保存し続けた。

保存するとは言っても、年間の維持費は莫大な額になるだろう。富岡製糸場を払い下げられた民間の片倉工業は、「売らない、貸さない、壊さない」を方針とし、頑に維持と管理を徹底した。固定資産税だけで年間2000万円は下らない。その他、建物の補修、機械の維持など、もろもろ合わせると、維持費はおそらく年間1億円は超えるはずだ。

操業停止の頃は、まだ「世界遺産への登録」という動機付けはなかったと思う。世界遺産という制度そのものは1972年に始まっているが、日本初めての世界遺産(法隆寺、姫路城、屋久島、白神山地)が登録されたのは1993年、富岡製糸場が操業停止してから6年も後だ。世界遺産に登録されるまで間、地元の人は富岡製糸場を潰して他の用地として転用することはなかった。

僕の勘だが、明治政府が富岡を製糸場建設地として選んだ本当の理由は、そこにあったのではあるまいか。
街中を見てすぐ分かる通り、富岡市には製糸場以外には何もない。他に特筆するべき産業もなければ、景気のよい企業もない。また北関東地域の特性として保守的で、内陸的な風土から「革新」よりも「保守継続」を重んじる。

富岡製糸場の本当の機能が、製品製造よりも教育的機能にあるのだとしたら、最も重要な立地条件は何か。
学校教育に必要な条件は「継続性」だ。時代の変遷によってコロコロ変わるのではなく、深くどっしりした方針に従って脈々と教えを受け継ぐ。教える内容だけでなく、ハードとしての「学校」という施設そのものに、長期にわたる継続性が必要となる。

富岡には製糸場しかないから、製糸場を潰してしまえば何もなくなる。地元の人は保守的だから、一旦製糸場の存在意義を浸透させ「町の誇り」にしてしまえば、簡単には潰されない。
明治政府は、教育機関としての製糸場を永続させる」という条件を満たす場所として、富岡を選んだのではあるまいか。

明治政府は、工場設立から20年ほど経った1893年には、早くも富岡製糸場を民間に払い下げている。115年も続いた工場を最初の20年で払い下げるのは、どう考えても早過ぎる。 儲かる工場だったら、政府がそんなに簡単に手放すはずがない。これは明治政府が製糸工場が赤字操業になることが最初から分かっており、その「学校機能」を保持したまま工場を存続させることが第一の重要事項と考えたからだろう。

とはいえ、正直に「富岡には何もないから、最先端の工場を、簡単には潰すまい」とは言えない。だから「まわりに桑畑がある」「水が確保できる」「石炭が手に入る」などという、もっともらしい理由を後付けで考えたのではないか。
それらの理由がまったくのでっちあげとは言わない。それぞれ、半分くらいは当たっているだろう。しかし本当の理由は、工場としての採算を度外視しても、教育機関としての製糸場を永続させることではなかったか。

教育というのは、「役に立たないことを延々と続ける」という側面がある。当時の殖産興業の時風では、利益第一を求めるあまり「赤字なら潰してしまえ」「役に立たないなら取りやめろ」という意見が強かっただろう。明治政府は、そういう「効率化」から産業の育成を隔絶し、じっくりと時間をかけて産業を担う人材を育成すべく、地域的に遠い富岡に官営工場を作ったのだと思う。富岡は「地域的に隔絶しているのに工場が作られた」のではなく、「地域的に隔絶しているから工場が作られた」のではないか。

明治政府の見識の正しさは、現在も良好な保存状態で富岡製糸場が現存している、という事実が証明している。日本全国の至るところの市町村が、ここまで維持費のかかる工場を保存し切れたとは思えない。「富岡だから、ここまで保存できた」という側面は大きかろう。

歴史を知ろうとするときには、表面的な事実だけでなく、「そもそも、何を意図して成されたのか」というところまで掘り下げないと、なかなか本当の姿が見えてこないことがある。富岡製糸場は、そういった事例のひとつではあるまいか。

富岡製糸場のうち操糸場と置繭所は国宝に指定されているが、指定されたのは世界遺産に登録された後だ。文化庁は、ユネスコの評価に遅れをとったことになる。富岡製糸場は運良く保存状態が良かったが、遅きに失する文化財が有り得ることになる。しっかり仕事してほしい。




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製糸場近くのお肉屋さん。
揚げたてのコロッケとカレーパンをいただきました。 



世界遺産に指定されてから維持予算が増えた観がありました。