2018年08月
(A)「彼女は金髪だから、好きというわけではない」
(B)「彼女は、金髪だから好き、というわけではない」
ふたつの文は、音にすれば同じ読みだが、意味が正反対になる。
(A)は「彼女が嫌い」という意味。その理由は「金髪だから」。おそらく黒髪フェチの発言だろう。
一方(B)は「彼女が好き」という意味だ。彼女のことが好きなのだが、その理由は別に彼女が金髪だからというわけではなく、他にもいろいろと理由がある、という意味。こちらのほうは(A)と違い、金髪萌えの発言になる。
文をどこで切るのか、によって意味が変わってしまうことがある。
英語に「非制限関係代名詞」(non-restrictive relative clauses)というのがある。文法用語が理解を妨げている最たる例で、この文法用語を正しく理解している学生は少ない。
中学3年生で関係代名詞を導入するとき、「ふたつの文をひとつに合わせる用法」と教える教師がいる。例えば
I met the girl yesterday.
The girl is my cousin.
というふたつの文を出し、それを
The girl [ who I met yesterday ] is my cousin.
というふうに繋げる用法、と教える。
個人的には、そういう教師は教員免許を返上して退職してほしい。関係代名詞なんて、放っておけば高校生や大学生になってからも理解があやふやな学生が多い。その根源を辿ってみると、そもそも「なんのための用法だか分からない」という、最初の段階でつまずいている学生がまことに多いのだ。関係代名詞を最初に導入する中学の英語教師は、ことの深刻さを理解しているのだろうか。
「I met the girl yesterday」と「The girl is my cousin」というふたつの文を合わせた意味を伝えたければ、単純に「I met my cousin yesterday」と言えば済む話なのだ。それを「The girl [who I met yesterday] is my cousin」などと、もって回った表現をさせようとするから、わけが分からなくなる。僕も中学時代、英語の先生に「こう言えばいいだけの話じゃないですか」と質問して、えらく怒られたことがある。
つまり、関係代名詞を理解していない学生の根源的な理由は、「なぜそんな言い方をしなければならないのか分からない」というところにある。もっと簡単な言い方ができるなら、そうすればいいじゃないか、という、至極もっともな理由だ。この学生の疑問にきちんと答えられなければ、英語教師として失格だろう。
意味論的には、関係代名詞節というのは「ふたつの述語表現の交わりを表現するもの」だ。
正確には、「個体変項をとる集合同士の共通部分に属する領域を示すもの」だ。
「女の子」という表現を考えると、この意味するところは、「世の中に存在する女の子の集合」にあたる。その集合に属する「誰か」の話をしたいが、このままでは集合がでかすぎるので、特定の女の子を示すために集合を「絞る」必要がある。
そのために、「私が昨日会った人」という別の集合をかぶせる。すると「女の子の集合」と「私が昨日会った人の集合」の共通部分が抽出される。それが特定可能な個人であれば、冠詞のtheがつけられる。
この「集合を『絞る』」という意味操作を、文法用語で「制限」(restriction)という。「女の子」の集合の要素から、「『私が昨日会った』女の子」に、集合を「制限」するわけだ。
これが、いわゆる「普通の関係代名詞」、正確には「制限関係代名詞」(restrictive relative clauses)の意味機能だ。
まずこれが分かっていないと、「非制限関係代名詞」が分からない。非制限関係代名詞のほうは、別に集合を絞る意味操作をするのではなく、単純に文をつなげる接続詞としての役割を果たす。「集合を『制限する』のではない」から「非制限」だ。
(C) I talked to a girl in the cafeteria who I have loved so long.
「カフェで、長いこと心を寄せている女の子に話しかけた」
(D) I talked to a girl in the cafeteria, who I have loved so long.
「カフェである女の子に話しかけたのだが、私はその子のことがずっと好きなのだ」
(C)が制限、(D)が非制限の用法だ。
わかりやすく対称性を考えると、(C)ではカフェに何人かの女の子がいたが、(D)では彼女ひとりしかいなかった、とすると分かりやすい。(C)では「女の子」といっても何人かの可能性があるので、それに「私がずっと好きな人」という情報をかぶせて、女の子の範囲を「制限」している。「この女でもあの女でもなく、『私が好きな女の子』に話しかけた」という意味だ。
ところが(D)ではそういう「集合の絞り込み(制限)」をしているわけではなく、単に「ひとりの女の子」のことを話題にしている。それに接続詞のように文をつなげて文を続けているだけだ。
(E) There were few passengers who escaped the accident.
「事故から逃れた乗客は、ほとんどいなかった」
(F) There were few passengers, who escaped the accident.
「乗客はほとんどおらず、彼らは事故を免れた」
(E)は大惨事、(F)は幸運だ。
ふたつの文では、fewが修飾している名詞句が違う。(E)では、「事故を逃れた乗客」がほとんどおらず、(F)では単に「乗客」がほとんどいない。カンマひとつで、文全体の意味が正反対になる。
(G) They are not patriots who agree with nuclear weapon.
「彼らは『核兵器に賛同する愛国者』ではない」
(H) They are not patriots, who agree with nuclear weapon.
「彼らは愛国者ではない。なにせ核兵器に賛成しているのだ」
(G)では核兵器に反対、(H)では核兵器に賛成している。
これらの文では、notが否定している名詞句が異なる。(G)では「核兵器に賛同する愛国者」を否定しており、(H)では単に「愛国者」を否定している。
カンマひとつで文の意味が変わってしまうことは、『ゴルゴ13』77巻の『隠されたメッセージ』という話に使われている。
アラブ諸国に武力行使したいアメリカは、イスラエルに核保有させることを目論む。当然、国際世論の反発が予想されるため、アメリカとイスラエルは形式上、「イスラエルの核保有を凍結する」という和平協定を結ぶ。ところが協定の条文には、内容が真逆に解釈できるような文法上のトリックが埋め込まれており、協定締結後にイスラエルの核保有が可能である仕掛けになっている。
書くときにはカンマひとつの違いだから分かりにくいが、話すときには文が一旦切れるのであまり間違えることがない。文法事項の中でも「聞くよりも読むほうが難しい」という、珍しい例だろう。
「制限」「非制限」という文法用語は、語弊があることは確かだが、無意味につけられた用語ではない。「文法を理解する」ということは、その意味はもとより、使う状況や文脈までも包括して覚えなければ「使える知識」には昇華しないだろう。
(B)「彼女は、金髪だから好き、というわけではない」
ふたつの文は、音にすれば同じ読みだが、意味が正反対になる。
(A)は「彼女が嫌い」という意味。その理由は「金髪だから」。おそらく黒髪フェチの発言だろう。
一方(B)は「彼女が好き」という意味だ。彼女のことが好きなのだが、その理由は別に彼女が金髪だからというわけではなく、他にもいろいろと理由がある、という意味。こちらのほうは(A)と違い、金髪萌えの発言になる。
文をどこで切るのか、によって意味が変わってしまうことがある。
英語に「非制限関係代名詞」(non-restrictive relative clauses)というのがある。文法用語が理解を妨げている最たる例で、この文法用語を正しく理解している学生は少ない。
中学3年生で関係代名詞を導入するとき、「ふたつの文をひとつに合わせる用法」と教える教師がいる。例えば
I met the girl yesterday.
The girl is my cousin.
というふたつの文を出し、それを
The girl [ who I met yesterday ] is my cousin.
というふうに繋げる用法、と教える。
個人的には、そういう教師は教員免許を返上して退職してほしい。関係代名詞なんて、放っておけば高校生や大学生になってからも理解があやふやな学生が多い。その根源を辿ってみると、そもそも「なんのための用法だか分からない」という、最初の段階でつまずいている学生がまことに多いのだ。関係代名詞を最初に導入する中学の英語教師は、ことの深刻さを理解しているのだろうか。
「I met the girl yesterday」と「The girl is my cousin」というふたつの文を合わせた意味を伝えたければ、単純に「I met my cousin yesterday」と言えば済む話なのだ。それを「The girl [who I met yesterday] is my cousin」などと、もって回った表現をさせようとするから、わけが分からなくなる。僕も中学時代、英語の先生に「こう言えばいいだけの話じゃないですか」と質問して、えらく怒られたことがある。
つまり、関係代名詞を理解していない学生の根源的な理由は、「なぜそんな言い方をしなければならないのか分からない」というところにある。もっと簡単な言い方ができるなら、そうすればいいじゃないか、という、至極もっともな理由だ。この学生の疑問にきちんと答えられなければ、英語教師として失格だろう。
意味論的には、関係代名詞節というのは「ふたつの述語表現の交わりを表現するもの」だ。
正確には、「個体変項をとる集合同士の共通部分に属する領域を示すもの」だ。
「女の子」という表現を考えると、この意味するところは、「世の中に存在する女の子の集合」にあたる。その集合に属する「誰か」の話をしたいが、このままでは集合がでかすぎるので、特定の女の子を示すために集合を「絞る」必要がある。
そのために、「私が昨日会った人」という別の集合をかぶせる。すると「女の子の集合」と「私が昨日会った人の集合」の共通部分が抽出される。それが特定可能な個人であれば、冠詞のtheがつけられる。
この「集合を『絞る』」という意味操作を、文法用語で「制限」(restriction)という。「女の子」の集合の要素から、「『私が昨日会った』女の子」に、集合を「制限」するわけだ。
これが、いわゆる「普通の関係代名詞」、正確には「制限関係代名詞」(restrictive relative clauses)の意味機能だ。
まずこれが分かっていないと、「非制限関係代名詞」が分からない。非制限関係代名詞のほうは、別に集合を絞る意味操作をするのではなく、単純に文をつなげる接続詞としての役割を果たす。「集合を『制限する』のではない」から「非制限」だ。
(C) I talked to a girl in the cafeteria who I have loved so long.
「カフェで、長いこと心を寄せている女の子に話しかけた」
(D) I talked to a girl in the cafeteria, who I have loved so long.
「カフェである女の子に話しかけたのだが、私はその子のことがずっと好きなのだ」
(C)が制限、(D)が非制限の用法だ。
わかりやすく対称性を考えると、(C)ではカフェに何人かの女の子がいたが、(D)では彼女ひとりしかいなかった、とすると分かりやすい。(C)では「女の子」といっても何人かの可能性があるので、それに「私がずっと好きな人」という情報をかぶせて、女の子の範囲を「制限」している。「この女でもあの女でもなく、『私が好きな女の子』に話しかけた」という意味だ。
ところが(D)ではそういう「集合の絞り込み(制限)」をしているわけではなく、単に「ひとりの女の子」のことを話題にしている。それに接続詞のように文をつなげて文を続けているだけだ。
(E) There were few passengers who escaped the accident.
「事故から逃れた乗客は、ほとんどいなかった」
(F) There were few passengers, who escaped the accident.
「乗客はほとんどおらず、彼らは事故を免れた」
(E)は大惨事、(F)は幸運だ。
ふたつの文では、fewが修飾している名詞句が違う。(E)では、「事故を逃れた乗客」がほとんどおらず、(F)では単に「乗客」がほとんどいない。カンマひとつで、文全体の意味が正反対になる。
(G) They are not patriots who agree with nuclear weapon.
「彼らは『核兵器に賛同する愛国者』ではない」
(H) They are not patriots, who agree with nuclear weapon.
「彼らは愛国者ではない。なにせ核兵器に賛成しているのだ」
(G)では核兵器に反対、(H)では核兵器に賛成している。
これらの文では、notが否定している名詞句が異なる。(G)では「核兵器に賛同する愛国者」を否定しており、(H)では単に「愛国者」を否定している。
カンマひとつで文の意味が変わってしまうことは、『ゴルゴ13』77巻の『隠されたメッセージ』という話に使われている。
アラブ諸国に武力行使したいアメリカは、イスラエルに核保有させることを目論む。当然、国際世論の反発が予想されるため、アメリカとイスラエルは形式上、「イスラエルの核保有を凍結する」という和平協定を結ぶ。ところが協定の条文には、内容が真逆に解釈できるような文法上のトリックが埋め込まれており、協定締結後にイスラエルの核保有が可能である仕掛けになっている。
その阻止を依頼されたゴルゴ13は、「内容が真逆になる文法上のトリック」が、ひとつのカンマにあることを突き止め、条約締結の直前に文書のカンマひとつを撃ち抜き、協定を無効化する。
書くときにはカンマひとつの違いだから分かりにくいが、話すときには文が一旦切れるのであまり間違えることがない。文法事項の中でも「聞くよりも読むほうが難しい」という、珍しい例だろう。
「制限」「非制限」という文法用語は、語弊があることは確かだが、無意味につけられた用語ではない。「文法を理解する」ということは、その意味はもとより、使う状況や文脈までも包括して覚えなければ「使える知識」には昇華しないだろう。
日本語には関係代名詞がないからねぇ
このところ、ドイツの古い民話や童話を読み返している。
グリム童話『ドイツ伝説集』の中に、「ハーメルンの笛吹き男」という話がある。

ドイツの民話を編集したグリム兄弟は、本職は言語学者で、童話の編集にも綿密な取材をしていたことで知られている。単なる噂話を集めただけの童話集ではない。
だとしたら、この「ハーメルンの笛吹き男」も、当時の何らかの社会現象をモチーフにしたものだろう。童話通りの事件があったとは考えにくいが、かといって全く事実と無関係でもあるまい。
笛吹き男によって連れ去られたのはふたつある。「ネズミ」と「子供たち」だ。
そのうち、「ネズミ」については分かりやすい。14Cに大発生した黒死病(ペスト)のことだろう。ヨーロッパの人口を1/3も激減させた大災害だった。イギリス・フランスでは百年戦争の最中だったこともあり、当時の社会のあり方を変えてしまうほどの衝撃だった。
ハーメルンの笛吹き男によってネズミが「連れ去られた」ということは、なにか「ペストを避けるための行動」が反映されていると考えられる。
また、最終的に行われたことは「子供を連れ去る」ということなので、これは何らかの民族的な空間移動が起きたということだろう。
以上、「ハーメルンの笛吹き男」が行ったことを考えると、それが暗喩していると思われる状況は以下の通り。
・ネズミを連れ去った → ペスト回避
・子供を連れ去った → 住民移動
・「子供」→ 権力階級ではなく、若年世代・被支配階級の移動
・「連れ去る」→ 自発的なものではなく、仕方のない事態
・足の悪い子供、盲目と聾唖の子供が残る → 健常者が必要
これらを合わせると、中世当時のドイツで生じたひとつの状況が思い浮かぶ。
東方植民。
11〜12世紀、農業の発達によって人口が増え過ぎ、大開墾時代が始まった。各地で森林や原野が開拓され、農地の不足が生じた。食い扶持を減らすため、当時のドイツでは人口抑制政策が必要となった。
また当時のドイツは閉鎖的な社会で、領主への賦役・貢納を農民を苦しめていた。そのためドイツよりも有利な場所へ移住することを希望する人達が多かったとしても不思議ではない。未開拓のドイツ、特にエルベ川より東の地域は、当時のドイツ農民にとって狙い目の移住地だっただろう。

さらに、11世紀から始まった十字軍が「東方への移動」を後押ししていた。第三回十字軍はちょうどドイツ東方植民の移動路に沿っている。この十字軍から、いわゆる「ドイツ騎士団」が発生し、東方植民の流れに沿ってバルト海沿岸に進出し、ドイツ騎士団領を形成する。のちのプロイセンの原型だ。
偶然とは思えない。
東方植民によって未開の地に移動したドイツ農民の活躍は目覚ましい。農業の進展は商業の発達を促し、ハンザ同盟を中心とする都市型商業形態が確立した。ハンザ同盟は海運の利を活かして北海・バルト海の覇権を握るに至り、リューベック、ダンツィヒなどの都市を支配下に収め、北ヨーロッパを掌握した。
ここまではいい。「ハーメルンの笛吹き男」がドイツ東方植民を暗喩しているのは納得がいく。
僕が不思議なのは、その童話が、「なんとなく暗いイメージ」で描かれている点だ。
未知の土地への進展・開拓。その後の大発展。そういう冒険活劇は、普通もっと勇ましいイメージで描かれるものではあるまいか。しかし「ハーメルンの笛吹き男」は、黒魔術的な呪術で「連れ去られた」という暗いイメージで描かれている。メイフラワー号で勇ましく新大陸に渡ったピューリタンとはえらい違いだ。
それは、東方植民がその後ろくな結果を生まなかったことを示している。「行かなければよかったのに、あぁ…」的な、歴史を顧みての「後悔」が反映されているような気がしてならない。
ドイツ東方植民は、ハンザ同盟の覇権という形で一応の成功を収めた。しかし、その栄光は長くは続かない。
15世紀の大航海時代に入ると、世界史の様相が一変する。新大陸の発見によって、経済の中心がヨーロッパ内部から、アジア・アメリカ・アフリカを包括した広域圏に拡大する。アメリカ大陸から大量の銀が流入して価格革命が起こり、従来の商業圏は大打撃を受けた。
東方植民によって形成されたエルベ川以東の地域は、もともと農業上の必要性があって開拓された地域だ。だからどんなに商業圏が発達しても、その基盤は農業にある。だから東方植民の地が西欧経済から期待される役割は「農産物の供給源」だった。大航海時代の価格革命によって商業的な命運を断たれた地は、農業生産地としての役割に先祖帰りせざるを得なかった。
一般的に、経済的な役割が後退した地は、政治的な段階も後退する。本来は自由な社会生活を夢見て行われたはずの東方植民は、「農業生産の必要性」という経済的後退によって、社会制度も中世的な封建制度に後戻りする。
本来は自由を求めたはずの移民なのに、いつのまにかその中で階級差が生まれ、地主貴族(ユンカー)が発生する。ユンカーは立場の弱い農民から保有地を奪って領主直営地を拡大し、農民に賦役労働を強制して農奴の身分に墜とした。こうした先祖帰りした農場領主制を「グーツヘルシャフト」という。農奴制から逃れて東方植民したはずなのに、その先で同じような農奴制を作っていれば世話はない。
一方その頃、西欧世界では農奴解放が進み、都市型経済が順調に発達した。保守的だった土地では自由が生まれ、自由を求めた東方植民では封建制に逆戻りする。自由を求めたはずの東方植民が、移動した先で従来と同じような封建制をつくりだす。
歴史の皮肉というか、人間というものは放っておけばこういう性質をもつ生き物なのだろう。
その結果、近世のエルベ川以東は、先進的な西欧世界を食料供給によって支える「周辺的な従属地域」という立場に置かれることになった。これは1970年代にアメリカの歴史家ウォーラーステインによって提唱された「近代世界システム」という考え方だ。中核として経済・政治中心地があり、その周縁に商業圏が広がり、さらにその外側に食料・奴隷供給の被支配権が広がる。
面白いのは、その傾向がヨーロッパに限らなかったことだ。もともと近世というのは、ヨーロッパ、イスラム、中国という「三大文化圏」が瓦解し、「国」としての単位が萌芽する段階にあたる。しかしどの文化圏でも、細切れに発生した各地域は独立した平衡関係ではなく、何らかの「支配」「従属」関係の上で成り立っていた。イスラムではカリフ時代から続く主従関係があったし、東アジアは中国への朝貢関係によって地域関係が構築されている。
ふつう、でかい単位が崩壊して小さい単位に分かれたら、「支配」から「自由」に進んだと考えるのが普通だ。しかし世界史的にはまったく逆で、小さい単位になってから「支配関係」が強化されている。近世というのは、そういう事態が同時発生的に世界中で起きていた時代だった。偶然とは考えにくい。
「ハーメルンの笛吹き男」が暗い調子で描かれているのは、東方植民という「自由への逃避」が、逆に中世的な封建体制に逆戻りする事態を招く歴史的結果を暗示しているのではあるまいか。東方植民の地はのちのプロイセンとなってドイツ建国の中心的役割を果たすが、11月革命によってホーエンツォレルン朝は廃位、ワイマール共和国となって以降は第一次世界大戦に敗北、ナチスが第三帝国を称して再建を期すも第二次世界大戦に大敗、とろくな歴史を辿っていない。
グリム兄弟が生きたのは、18世紀後半から19世紀半ば。ビスマルクよりも前の時代だ。当時はまだドイツの歴史がどうなるか分からなかった時代だ。しかしグリム童話の「ハーメルンの笛吹き男」の暗い調子は、世界史的にドイツが暗い歴史を辿ることになることと一致している。
当時のグリム兄弟がそこまで世界史的な予知をしていたとは思わない。しかし東北植民というのはドイツの歴史において決して輝かしいものではなく、むしろ「呪われた土地」という印象があるような気がしてならない。
グリム童話『ドイツ伝説集』の中に、「ハーメルンの笛吹き男」という話がある。

1284年、ハーメルンの町にはネズミが大繁殖し、人々を悩ませていた。ある日、町に笛を持ち、色とりどりの布で作った衣装を着た男が現れ、報酬をくれるなら街を荒らしまわるネズミを退治してみせると持ちかけた。ハーメルンの人々は男に報酬を約束した。男が笛を吹くと、町じゅうのネズミが男のところに集まってきた。男はそのままヴェーザー川に歩いてゆき、ネズミを残らず溺死させた。しかしネズミ退治が済むと、ハーメルンの人々は笛吹き男との約束を破り、報酬を払わなかった。
笛吹き男はいったんハーメルンの街から姿を消したが、6月26日の朝に再び現れた。住民が教会にいる間に、笛吹き男が笛を鳴らしながら通りを歩いていくと、家から子供たちが出てきて男のあとをついていった。130人の少年少女たちは笛吹き男の後に続いて町の外に出てゆき、市外の山腹にあるほら穴の中に入っていった。そして穴は内側から岩でふさがれ、笛吹き男も子供たちも、二度と戻ってこなかった。物語によっては、足が不自由なため他の子供達よりも遅れた1人の子供、あるいは盲目と聾唖の2人の子供だけが残されたと伝える。
ドイツの民話を編集したグリム兄弟は、本職は言語学者で、童話の編集にも綿密な取材をしていたことで知られている。単なる噂話を集めただけの童話集ではない。
だとしたら、この「ハーメルンの笛吹き男」も、当時の何らかの社会現象をモチーフにしたものだろう。童話通りの事件があったとは考えにくいが、かといって全く事実と無関係でもあるまい。
笛吹き男によって連れ去られたのはふたつある。「ネズミ」と「子供たち」だ。
そのうち、「ネズミ」については分かりやすい。14Cに大発生した黒死病(ペスト)のことだろう。ヨーロッパの人口を1/3も激減させた大災害だった。イギリス・フランスでは百年戦争の最中だったこともあり、当時の社会のあり方を変えてしまうほどの衝撃だった。
ハーメルンの笛吹き男によってネズミが「連れ去られた」ということは、なにか「ペストを避けるための行動」が反映されていると考えられる。
また、最終的に行われたことは「子供を連れ去る」ということなので、これは何らかの民族的な空間移動が起きたということだろう。
以上、「ハーメルンの笛吹き男」が行ったことを考えると、それが暗喩していると思われる状況は以下の通り。
・ネズミを連れ去った → ペスト回避
・子供を連れ去った → 住民移動
・「子供」→ 権力階級ではなく、若年世代・被支配階級の移動
・「連れ去る」→ 自発的なものではなく、仕方のない事態
・足の悪い子供、盲目と聾唖の子供が残る → 健常者が必要
これらを合わせると、中世当時のドイツで生じたひとつの状況が思い浮かぶ。
東方植民。
11〜12世紀、農業の発達によって人口が増え過ぎ、大開墾時代が始まった。各地で森林や原野が開拓され、農地の不足が生じた。食い扶持を減らすため、当時のドイツでは人口抑制政策が必要となった。
また当時のドイツは閉鎖的な社会で、領主への賦役・貢納を農民を苦しめていた。そのためドイツよりも有利な場所へ移住することを希望する人達が多かったとしても不思議ではない。未開拓のドイツ、特にエルベ川より東の地域は、当時のドイツ農民にとって狙い目の移住地だっただろう。

さらに、11世紀から始まった十字軍が「東方への移動」を後押ししていた。第三回十字軍はちょうどドイツ東方植民の移動路に沿っている。この十字軍から、いわゆる「ドイツ騎士団」が発生し、東方植民の流れに沿ってバルト海沿岸に進出し、ドイツ騎士団領を形成する。のちのプロイセンの原型だ。
偶然とは思えない。
東方植民によって未開の地に移動したドイツ農民の活躍は目覚ましい。農業の進展は商業の発達を促し、ハンザ同盟を中心とする都市型商業形態が確立した。ハンザ同盟は海運の利を活かして北海・バルト海の覇権を握るに至り、リューベック、ダンツィヒなどの都市を支配下に収め、北ヨーロッパを掌握した。
ここまではいい。「ハーメルンの笛吹き男」がドイツ東方植民を暗喩しているのは納得がいく。
僕が不思議なのは、その童話が、「なんとなく暗いイメージ」で描かれている点だ。
未知の土地への進展・開拓。その後の大発展。そういう冒険活劇は、普通もっと勇ましいイメージで描かれるものではあるまいか。しかし「ハーメルンの笛吹き男」は、黒魔術的な呪術で「連れ去られた」という暗いイメージで描かれている。メイフラワー号で勇ましく新大陸に渡ったピューリタンとはえらい違いだ。
それは、東方植民がその後ろくな結果を生まなかったことを示している。「行かなければよかったのに、あぁ…」的な、歴史を顧みての「後悔」が反映されているような気がしてならない。
ドイツ東方植民は、ハンザ同盟の覇権という形で一応の成功を収めた。しかし、その栄光は長くは続かない。
15世紀の大航海時代に入ると、世界史の様相が一変する。新大陸の発見によって、経済の中心がヨーロッパ内部から、アジア・アメリカ・アフリカを包括した広域圏に拡大する。アメリカ大陸から大量の銀が流入して価格革命が起こり、従来の商業圏は大打撃を受けた。
東方植民によって形成されたエルベ川以東の地域は、もともと農業上の必要性があって開拓された地域だ。だからどんなに商業圏が発達しても、その基盤は農業にある。だから東方植民の地が西欧経済から期待される役割は「農産物の供給源」だった。大航海時代の価格革命によって商業的な命運を断たれた地は、農業生産地としての役割に先祖帰りせざるを得なかった。
一般的に、経済的な役割が後退した地は、政治的な段階も後退する。本来は自由な社会生活を夢見て行われたはずの東方植民は、「農業生産の必要性」という経済的後退によって、社会制度も中世的な封建制度に後戻りする。
本来は自由を求めたはずの移民なのに、いつのまにかその中で階級差が生まれ、地主貴族(ユンカー)が発生する。ユンカーは立場の弱い農民から保有地を奪って領主直営地を拡大し、農民に賦役労働を強制して農奴の身分に墜とした。こうした先祖帰りした農場領主制を「グーツヘルシャフト」という。農奴制から逃れて東方植民したはずなのに、その先で同じような農奴制を作っていれば世話はない。
一方その頃、西欧世界では農奴解放が進み、都市型経済が順調に発達した。保守的だった土地では自由が生まれ、自由を求めた東方植民では封建制に逆戻りする。自由を求めたはずの東方植民が、移動した先で従来と同じような封建制をつくりだす。
歴史の皮肉というか、人間というものは放っておけばこういう性質をもつ生き物なのだろう。
その結果、近世のエルベ川以東は、先進的な西欧世界を食料供給によって支える「周辺的な従属地域」という立場に置かれることになった。これは1970年代にアメリカの歴史家ウォーラーステインによって提唱された「近代世界システム」という考え方だ。中核として経済・政治中心地があり、その周縁に商業圏が広がり、さらにその外側に食料・奴隷供給の被支配権が広がる。
面白いのは、その傾向がヨーロッパに限らなかったことだ。もともと近世というのは、ヨーロッパ、イスラム、中国という「三大文化圏」が瓦解し、「国」としての単位が萌芽する段階にあたる。しかしどの文化圏でも、細切れに発生した各地域は独立した平衡関係ではなく、何らかの「支配」「従属」関係の上で成り立っていた。イスラムではカリフ時代から続く主従関係があったし、東アジアは中国への朝貢関係によって地域関係が構築されている。
ふつう、でかい単位が崩壊して小さい単位に分かれたら、「支配」から「自由」に進んだと考えるのが普通だ。しかし世界史的にはまったく逆で、小さい単位になってから「支配関係」が強化されている。近世というのは、そういう事態が同時発生的に世界中で起きていた時代だった。偶然とは考えにくい。
「ハーメルンの笛吹き男」が暗い調子で描かれているのは、東方植民という「自由への逃避」が、逆に中世的な封建体制に逆戻りする事態を招く歴史的結果を暗示しているのではあるまいか。東方植民の地はのちのプロイセンとなってドイツ建国の中心的役割を果たすが、11月革命によってホーエンツォレルン朝は廃位、ワイマール共和国となって以降は第一次世界大戦に敗北、ナチスが第三帝国を称して再建を期すも第二次世界大戦に大敗、とろくな歴史を辿っていない。
グリム兄弟が生きたのは、18世紀後半から19世紀半ば。ビスマルクよりも前の時代だ。当時はまだドイツの歴史がどうなるか分からなかった時代だ。しかしグリム童話の「ハーメルンの笛吹き男」の暗い調子は、世界史的にドイツが暗い歴史を辿ることになることと一致している。
当時のグリム兄弟がそこまで世界史的な予知をしていたとは思わない。しかし東北植民というのはドイツの歴史において決して輝かしいものではなく、むしろ「呪われた土地」という印象があるような気がしてならない。
民話や昔話は何らかの歴史を反映している。
やみくもに逃走者を追いかけるのは、効率的ではない。
建物にいる以上、外に出るには出口を通るしかない。つまり、最初にやるべきことは「出口をすべて塞ぐこと」だろう。出口さえ塞いでしまえば、その内部で動き回るしかないので、捕まえられるのは時間の問題だ。
これに似たような考え方は、思いのほか適用範囲が広い。つかまえるべき要素を闇雲に追い回すより、「最終的にここさえ張っておけば間違いない」というポイントを掴むほうが効率的、ということは思いのほか多い。
これに似たような考え方は、思いのほか適用範囲が広い。つかまえるべき要素を闇雲に追い回すより、「最終的にここさえ張っておけば間違いない」というポイントを掴むほうが効率的、ということは思いのほか多い。
xy平面上の原点と点(1,2) を結ぶ線分(両端を含む)をLとする。Lとy=x2+ax+b が交点を持つような実数の組(a,b)の集合をab平面上に図示せよ。
2005年、京都大学の問題。
京都大学にしては簡単な問題だが、まぁ文理共通問題だからこの程度だろう。
数学慣れしていない学生には、x, y, a, bと文字が4つも出てくるだけでうんざりするだろうが、まぁ、京都大学にとっては簡単なジャブ程度の問題だと思う。
示せばならないのは要するに実数条件だ。形としては「Aとなるような、Bの条件を求めろ」という問題。おおむね数学の問題では、Aには「パラメータ(tとか)入りの関数」が入り、Bには「その関数が実数解をもつようなパラメータの条件」が入ることが多い。
この京都大学の問題ではちょいとひとひねりしてあって、パラメータがa, bと2変数になっており、示す条件が単純な範囲ではなく領域になっている。まぁ、変数が1つであれば一次元上の範囲で条件が求まるが、変数が2つなので二次元上の平面で示す必要がある、というだけの話だ。
さて、こういう形の問題は数学に限らない。
「AがBとなるような、Aの条件を求めろ」というだけなら簡単だ。「Aは、こうすべきである」という直接的な制約を求めればいい。「ぐうたらな男が働くようになる条件を求めろ」というのであれば、「男を蹴っ飛ばしてむりやり働かせる」という直接攻撃をかければいい。
しかし、そうやってAに直接的に条件をかけても、実際に効果があるかどうかは定かではない。そこで実際には、「Aを構成する具体的な要素」を操作することが多い。たとえば男が働くようになるための要素として「給料」「ごほうび」「女」「ごはん」などという要素を並べる。こういう、Aを動かす要素(=Aに内在する変数)のことを「パラメータ」という。
すると問題は、例えば「ぐうたらな男が働くようになる、妥当な給料の額の条件を求めろ」というように、問題が変わる。先ほどの問題では「男をどうすればいいか」だったのが、「給料の額をどうすればいいか」となる。
パラメータの特徴は、操作が簡単なように、変動する数値で表せることだ。「男を働かせる」という事象Aは客観的に効果の有無がはかりにくいが、「給料の額」というパラメータは数字で簡単に操作できる。まぁ、京都大学の出題の意図としては、「将来、ヒモの男につきまとわれたときに、ちゃんと男を鍛えて働かせることができますか」といったところだろう。

冗談です。
さて京都大学の数学に戻ると。
関数であれば、入力と出力を備えた構造になっている。通常はxが入力でyが出力だ。普通、いじらなければいけない事象Aがこういう構造をしているとき、入力条件とそれに伴う出力結果を考えることが多い。
この問題の場合、そういう正攻法で解こうとすると、a, bというパラメータが入っているため、考えるのが面倒だ。そういう時は、どうすればいいのか。
集合論や関数の考え方に、「逆像法」という考え方がある。一部の受験参考書では「逆手流」と呼ばれている。関数や集合などの写像関係を、出力の側から逆に条件を求める考え方だ。
普通、関数というものは「入力をすれば、出力が出てくる」という一方通行になっている。これを逆に、「この出力が出てきたということは、入力はこれに違いない」という逆方向に見る考え方だ。正確に言うと、従属変数として値域を求めるのではなく、独立変数として定義域を求める方法だ。
クラスに気になる女の子がいるとする。お付き合いを願いたいが、どういう男が好みなのか分からない。どうすれば彼女の好みが分かるか。
求めたい「彼女の好みの男の集合」をBとしよう。そして「彼女の元カレの集合A」を考える。まぁほとんどの場合、集合Bは集合Aを部分集合として包含する構造になっているだろう。「好みのタイプの集合」の中から「彼氏」を選ぶ構造だ。
集合Aの要素、つまり個々の元カレをいくら詳細に検討しても、集合Bを導くのは難しい。そういう時は、先に集合Bを仮定し、元カレがその中に入っているのかどうかを検討したほうが早い。
Bを「メガネの男」としてみると、その中に集合Aの要素(元カレ)が入っていればマル。
Bを「マッチョな男」としてみると、その中に元カレが含まれていなければバツ、といった具合だ。
つまり逆像法とは、「出力をこう定めてみたときに、入力の要素がその中に含まれているか」という方向で考える。入力→出力、ではなく、出力→入力、という検討のしかただ。
関数というのは、単なる対応関係とは異なり、方向性がある。その方向性を「逆」に考えるから「逆像法」だ。
京都大学の問題では
Lは要するに y=2x (0≦x≦1)のことで、これとy=x2+ax+bが共有点をもつということは、yを消去して
2x=x2+ax+b、つまり
x2+(a-2)x+b=0 … (1)
が0≦x≦1で実数解xをもつ(a, b)の条件を考えればよい。
この考え方ができた段階で、この問題はほぼ終わりと言ってよい。「ふたつのグラフが共有点をもつ」を、「ふたつをつなげた関数が実数解をもつ」と言い換える。つまりyという出力を条件として言い換え、それが関数として成り立つそもそもの条件を求めればいい。
あとはそれを実際に確認するための「作業」であって、ひとつずつ可能性を潰せばよい。
f(x)を平方完成して軸を求め、
(i) 0<x<1に実解がひとつ、その他にひとつ解がある
(ii) 0<x<1内だけに解がある(ふたつ、あるいは重解ひとつ)
(iii) x=0, 1が解である
の3通りに場合分けして、その3つから得られる条件を図示すればいい(詳しい回答はコチラ)。
建物内で侵入者を捕まえるときでも、女の子の好みのタイプを推測するときも、数学の関数問題でも、「最終的にどうなればいいのか」という大枠の形から逆算して方法を抽出するやり方は、汎用性が高い。一般的に手段は目的から逆算して求まるが、それと似たような考え方だろう。「結果に関係ない過程は辿る必要がない」と考えるとわかりやすい。無駄を省くために有効な考え方だと思う。
夏休みはこーゆーいらんことばっかり考えてしまいますな。
ペンギン命
takutsubu
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