たくろふのつぶやき

春来たりなば夏遠からじ。

2016年11月

「教義」の必要性

今年、ももいろクローバーZが紅白歌合戦に呼ばれたら、どうするんですかね。


そろそろ年の瀬が近づいて参りましたが、たくつぶ読者のみなさまにおかれましてはいかがお過ごしでしょうか。
年末年始の予定を考えたり、忘年会の予定が入ったり、いろいろと年末的な行事が入ってくる季節ですね。
NHKの紅白歌合戦の当落も、年の瀬らしいニュースといえましょう。

去年の2015年、ももいろクローバーZが紅白歌合戦に「落選」して話題になった。報道では、高圧的なマネジャーがやたらとももクロの演出やら出演方法やらにいろいろと注文をつけ、それにブチ切れたNHKが「そんじゃ出なくていい」と落選にしたんだとか。それに対してももクロ側が「紅白歌合戦を『卒業』します」と声明を出し、紅白ファンから顰蹙を買った。

「卒業宣言」まで出してしまったのだから、普通に考えれば、今年紅白に呼ばれても拒否するだろう。しかしこればかりはいろいろと思惑が錯綜して、本人達の思うようにいかないのが世の中というものだろう。最初から呼ばれないなら呼ばれないで困ったことだろうし、呼ばれたら呼ばれたで去年の言動との辻褄合わせに苦労する。ご苦労なことだ。

そういう時、ももクロのファンとしてはどういう反応になるのだろうか。
僕はアイドルのファンをした経験がないので、追っかけに近いファンの方々の反応のほうが気になる。アイドルのファンというのは、時間も金も使ってアイドルを楽しんでいる方々なので、紅白の当落に際してのファンの気持ちはいかばかりか気になる。

AKB48のような大きなグループでも、ファンの気持ちの持ち方が不思議になることがある。
AKBでは、グループ全体が好き、というよりは、自分一押しの「推しメン」というのがいるファンのほうが多いそうだ。AKB48側でもそれをよく分かってて、総選挙だのじゃんけん大会だの握手会だの様々なイベントで、各メンバーの人気度をランキングする試みを行っている。

たとえば宮脇咲良はAKB48とHKT48を兼任しているが、宮脇が押しメンであるファンは、AKBとHKTの両方のコンサートにも握手会にも行くだろう。そういう時、「純AKB48ファン」から、裏切り者呼ばわりされることはないのだろうか。
AKBとHKTであれば、まぁ、同系列のグループだからまだいい。これがたとえば、AKB48のファンとももクロのファンを兼ねている人が、両方のコンサートに行くことは、「ファンの仁義」としてどう捉えられているのだろうか。


話がまったく変わって申し訳ないのだが、有史以来の人間の知的活動の歴史を紐解くと、中世ヨーロッパを席巻した「スコラ哲学」なるものに行き当たる。
名前だけは世界史や倫理の授業で習ったことがあるが、それがどういうものであるのかは知らん、という人が多いのではあるまいか。

スコラ哲学は、要するにキリスト教の教義の正当性を体系化した学問のことだ。学問とは言っても、「哲学」なる名称を冠していても、その実体は学問でもなければ哲学でもない。
教科書的な知識としては、スコラ哲学の目的は、キリスト教の正当性を追求すること、ということになっている。それは裏を返せば、それに叛くものは「異端」として扱う、ということだ。こっちの見方のほうがスコラ哲学の本質を理解しやすい。

スコラ哲学の成立背景には、内的要因と外的要因がある。
内的要因は、キリスト教が巨大化し過ぎ、各地でそれぞれの生活実体に即した信仰のあり方が分岐したことだ。「○○派」と呼ばれるローカル派閥がいろいろと発生して、ローマの意向とはかけ離れた信仰に向かう宗派もあった。
そもそもキリスト教は395年にローマ帝国が分裂して以来、ローマ・カトリックと東方教会で、ほぼ違う宗教として独自に発展する下地ができあがっている。聖書が編纂されるよりも前の話だ。こうして多岐に渡った教義のあり方を、ひとつの宗教としてみなすには、最初から無理があっただろう。

これはアイドルファンに例えてみれば、「俺は○○ちゃん押しだ」「いや△△ちゃんこそ至高」のような言い争いや、「AKBファンであればHKTに『浮気』するなど邪道」「いや同系列であれば良いはずだ」などという論争に相当する。

外的要因としては、7世紀からキリスト教の「脅威」となったイスラム教の存在がある。イスラム教を「異教徒」「蛮族」と決めつけるためには、「自分達の宗教こそ正当」という理論武装が必要になる。
これはアイドルで言えば、「AKB48ファンであれば、ももクロなどものの数ではない」のような言い方になる。

いずれにせよ、現代的な観点、特に僕のような宗教とは縁なき衆生からすれば、くだらない話だ。宗教というのは本来、人が平穏に生きるためのものであって、誰がどういう方法で何を信じようが、その人の勝手だろう。それを宗教の側が「正当派」のあり方を決め、「こういう信じ方をしない奴は異端だ」のように決めつけることが、宗教本来のあり方からして真っ当だとは思えない。
僕のようにアイドルに疎い者にとっては、別にAKB48とももクロが両方好きでも、別に構わないだろうとしか感じない。それを「正しいアイドルファンのあり方とは」などと規定することが、アイドル人気そのものに寄与する姿勢とは、とうてい思えない。

では中世キリスト教では、なぜそのような自分達の首を絞めるようなことをわざわざしていたのか。
中世ではまだ体系だった政治的方法論が確立しておらず、共同体を治める方法論としてはまだまだ宗教のほうが実効力をもっていた。宗教が、単なる生きる為の信念であるのみならず、政治的な役割を背負う必要があった。

また学問も、哲学や科学が「知の包括的な方法論」として確立するまでには、まだまだ時代を要した。世の中はどうなっているのか、世界を統べる法則はどういうものか、そういう理解を得るための方法論が確立しておらず、キリスト教会が示す「答え」を拠り所にするしか仕方がない時代だった。

スコラ哲学は、そうした時代の中で生まれた。宗教、政治、学問という、基本原理がまったく違う3つの営みを、短期間のうちにまとめあげる必要があったのだ。内的要因と外的要因の必要性に迫られ、世界のあり方と「正解」を、人々に示す必要があった。

スコラ哲学は、13世紀にトマス・アクィナスによって編纂された『神学大全』によって大成した、とされている。僕は学生時代に『神学大全』を通読したが、何が書いてあるのかまったく分からなかった。僕はキリスト教徒ではないし、そもそも『神学大全』が何を目的として書かれたものなのかが不明瞭なままこれを読んでしまった。分かるわけがない。
当時の僕は、『神学大全』を、単に人類の知の集積のひとつとして読んでいた。古代に生まれた哲学と、近代に生まれた科学の、間をつなぐミッシング・リンクとしてこの本を位置づけていた記憶がある。

実際のところ『神学大全』は、当時すでに巨大化していたキリスト教の各分派の教義の違いや、イスラム教に対する正当性をでっち上げるための「辻褄合わせ」が全てと言ってよい。敬虔なキリスト教徒にとってはまた違った位置づけができる書物なのだろうが、キリスト教の外側から見る『神学大全』は、その程度のものだ。少なくとも、現代の科学に立脚した思考方法から逆算して、その方法論の進展を補完する役割としては、まったく役に立たない。

たとえば、キリスト教は「人類に普遍的な愛の必要性」を説いてはいるが、十字軍の時代にはイスラム教徒をぶっ殺して全滅させることを命じている。これは矛盾ではないのか。
こうした素朴な疑問に対して、スコラ哲学は、さももっともらしい「正当性」を説いている。何も矛盾していることはありませんよ、すべて神の御心のままに均整を保っていますよ、という理屈がこね上げられている。

スコラ哲学の必要性のひとつに、「権力」を確立する必要性があっただろう。全体の統一を重んじたキリスト教とよく対比される宗教として、インドや南アジアで広まったヒンドゥー教がある。ヒンドゥー教もキリスト教と同様、広い地域に多くの人を取り込んだ宗教なので、多宗派に分岐する歴史を辿っている。

しかし、ヒンドゥー教にスコラ哲学は発生しなかった。ヒンドゥー教は「分岐したけりゃ分岐すりゃいいじゃん」「この辺とあの辺では生活の仕方が違うからな」のように、宗派が分岐することにあまり抵抗感がなかった。いまでは「ヒンドゥー教」と一言で括るには無理があるほど、各地に根付いた土着宗教のように変容している。それは他宗教に対する姿勢でも同様で、同じ地域にイスラム教が浸透した地域は政治的にも独立している。現在のパキスタンだ。

「統一」を指向するのは、そこに「権力」の存在が必要とされるからだ。少なくとも逆は成り立つ。権力を掌握しようとする者は、必ず統一を指向する。中世のキリスト教がスコラ哲学という理論武装によって教義の統一を図ったのは、当時のキリスト教が政治的な役割を負わざるを得なかったという背景によるものだろう。

当然ながら、そういう姿勢は学問にとってはマイナスでしかない。「これが答えだ」と唯一解が強制され、その他の異論が一切認められない姿勢など、学問とは呼べない。
世の中の成り立ちを理解する学問としてスコラ哲学が採用したのは、アリストテレスの哲学だった。アリストテレスという人物は能力の偏りが激しく、博物学的な分類に関しては驚異的な能力を発揮しているが、自然科学の能力は皆無だった。

クジラが魚ではなく哺乳類であることを発見したのはアリストテレスだ。そういう観察や分類に関しては現代的にも正しいとされる「答え」を出していたが、化学や物理に関しては全くの無能と言ってよい。「物はそれが本来あるべき方向を指向する。だから物は地に落ち、炎は空に上がる」「あらゆる物質は、土、火、空気、水から成り、それを補完するものとして『第五の要素』が満ちている」「軽い物と重い物を同時に落としたら、重い物のほうが早く落ちるに決まってる」「太陽は地球の周りを廻っている」。こうした、現代では中高生でも間違いと分かるような誤謬を、平気で犯している。現代的な観点から答え合わせをしたら、間違いだらけだ。

驚くべきことは、アリストテレスの間違った世界観が、2000年以上の長きにわたって「常識」とされてきたことだ。人間の知を結集すれば、こんな間違った世界観が2000年もまかり通るほど、人間は馬鹿ではあるまい。それがまかり通ってしまったのは、アリストテレスの知見を「教義」にまで昇華し、それに対する異論をすべて犯罪視した、スコラ哲学の弊害があった。人間は2000年の長きに渡って、アリストテレスの間違いに「気がつかなかった」のではなく、そもそも「疑うことを許されていなかった」のだ。

現代の科学では、先行研究に対して「説明できない事実」を発見したら、科学者は嬉々として論文を書く。「間違い」は科学を発展させるための原動力でこそあれ、科学の権威を貶めるものでは決してない。仮説を立て、それに対する反証を見いだし、それを包括するようなさらなる仮説を立てる。そういう無数の階段を積み上げることで、科学は成り立っている。

つまり、科学の実体とは「何か固定化した知識」という静的なものではなく、「間違いを修正していく営み」という動的な方法論なのだ。だから、科学には「聖典」は存在しない。ニュートンの『プリンキピア』であろうと、アインシュタインの『一般相対性理論』だろうと、それらは単に「途中の階段」に過ぎない。その中の矛盾を見いだし、それを克服する営みは、今もなお延々と続けられている。

ところがスコラ哲学では、「これが答えです。これ以外は認めません」という『聖典』を求めてしまい、かつそれを作ってしまった。その枠から外に出ることを禁じたのだから、学問が発展するわけがない。スコラ哲学の「発展」というのは、あくまでもキリスト教的世界観の中での辻褄合わせが遂行されることを指すのであって、それはいわば同じ屋根の下で延々と動き回るような行動に過ぎない。

中世のキリスト教世界では、分化した教義の統一を図るため、「公会議」というものが何度も開催されている。世界史の教科書では、三位一体説を確立した381年のコンスタンチノープル公会議、十字軍派遣を決定した1095年のクレルモン公会議、教会大分裂(シスマ)を収拾した1414年のコンスタンツ公会議などが有名だ。一番新しいところでは、他宗教との対話を重視する声明を発表した1962年のバチカン公会議がある。

公会議を実施するには、決定の基盤となる聖典が要る。理屈づけのために拠り所となる「正しい理由」が必要となる。その目的のためには、聖書は役に立たない。キリストが指向した原始キリスト教は、そもそも政治的・学問的な目的に基づく教義のあり方を目指していない。スコラ哲学は、そうした必要性に迫られて作られた、いわば「最初に目的ありき」の、理屈の集大成だったと言えるだろう。

政治的、学問的な「権威」を確立してしまったら、それを制度に適用する際に、必ず歪みが生じる。特に人間は権力を握ると、必ずそれを濫用する誘惑に駆られる。キリスト教の権威といえどもそれは例外ではなかったようで、スコラ哲学を背景とした政治・学問的な腐敗が顕著になった。それが16世紀のルターによる宗教改革につながっていく。宗教改革というのは、実際のところはカトリックとプロテスタントという二大流派が生じる「宗教分裂」のことだ。教義の統一を図ったはずのスコラ哲学が、行き着く先として宗教分裂を巻き起こしたのは、皮肉としか言いようがない。


スコラ哲学の実体を調べてみると、「多くの人が集まると、あり方を統一しようとする欲求が生じる」「人は人、自分は自分と割り切って、他者を違うものと認めつつ接するのは難しい」という、人間に普遍的な傾向が見て取れる。AKB48のファンであろうと、ももクロのファンであろうと、自分と他人を切り離して、それぞれのあり方を尊重する、というのは、なかなか難しいことなのだろう。「そんな参加の仕方じゃ、本当のファンとは言えないぜ」という言い方は、有史以来スコラ哲学が発生して権威を得た理由を、現代に反映したものだと思う。

もし今年、ももいろクローバーZが紅白歌合戦の出場を打診されたら、スタッフの間でさぞ盛大な「公会議」が開催されることだろう。過去の言動と、実際の行動の辻褄を合わせ、かつファンが納得のいく形で「教義」をでっち上げなくてはならない。
人間というのは、どの時代でも、やっていることは基本的に同じなのだな、という気がする。



初詣に出かけるタイミングが重要なのだ。

何千万回掲載しても無意味な類いの社説

いじめの手記 きみは独りじゃない
(2016年11月17日 朝日新聞社説)

鉛筆で書いたんだろうか。きみの手記を読んで、胸が張りさけそうになりました。  

「いままでなんかいも死のうとおもった。でも、しんさいでいっぱい死んだからつらいけどぼくはいきるときめた」  

見知らぬ土地でばい菌あつかいされたり、支援物資の文房具をとられたり、福島から転校してきた5年前からずっとつらい思いをしてきた。それが、いたいほど伝わりました。

きみは独りじゃない。そのことをまず知ってほしい。学校の外に目をやれば、味方はいっぱいいる。そして、学校以外に自分の居場所をみつけて、いまかつやくしている大人も大勢いる。東日本大震災のぎせいとなって生きられなかった多くの人やその家族も、「生きる」という決意を後おししてくれるはずです。  

原発事故で自主避難した横浜で、きみがいじめにあったことは、すこし前の新聞にのっていました。でも多くの人は今回あらためて、きみや同じような立場の人たちに思いをはせるようになった。手記の公表を弁護士さんはためらったそうだけど、「ほかの子のはげみになれば」と、きみが求めたと聞きました。その勇気をありがとう。  

東日本大震災では、いまも大勢の人たちが、住みなれた家をはなれて避難しています。事故を起こした原発のある福島県双葉町の伊沢史朗(いざわしろう)町長が先週、こんな話をしていました。避難先で町の人がパートなどにつくと「賠償金をもらっているのに」とかげ口をいわれるというのです。かといって働かずにいると、今度は「賠償金があるからだ」といわれる。
同じ学年の子たちが、きみに「ばいしょう金あるだろ」と言い、大金をはらわせたことなどは許せません。しかし彼らも、そんなまわりの話を耳にしていたのかもしれない。これは大人の社会の問題です。  

福島からの避難者への冷たい仕打ちは各地で問題になっていたし、きみもサインを出し続けていた。だれか気づいてほしい、助けてほしい。そう思っていたんじゃないだろうか。

なのに学校の対応はまったく不十分だった。ほかの保護者からの連絡で、お金がやり取りされているのを2年前に知っていながら、相談をよせたご両親に伝えなかった。教育委員会も本気で向き合ってほしかった。同じことをくり返さないようにしなければなりません。  

きみが将来、自分のことも、他人のことも大切にできる大人になることを信じています。



勝手に浸ってろ。



晒しておく。

アメリカ大統領選挙、トランプ当選

トランプ氏の勝利 危機に立つ米国の価値観
(2016年11月10日 朝日新聞社説)
米大統領選 トランプ氏勝利の衝撃広がる
(2016年11月10日 読売新聞社説)
米大統領にトランプ氏 世界の漂流を懸念する
(2016年11月10日 毎日新聞社説)
米社会の亀裂映すトランプ氏選出
(日本経済新聞 2016年11月10日)
日本は防衛努力を強める覚悟持て 規格外の人物登場「トランプ・リスク」は不可避だ
(2016年11月10日 産経新聞社説)
トランプのアメリカ(上) 民衆の悲憤を聞け
(2016年11月10日 東京新聞)


政治経験皆無の不動産王ドナルド・トランプが、アメリカ合衆国大統領に当確した。
それを受けての新聞各社の社説。大学生に読ませて批判的読解力を試すのにはいいトピックだろう。
上記社説のなかで、ずば抜けて優れた社説がふたつある。実際に読んでみて、それがどれとどれだか分かるだろうか。

それを判断するには、まず今回の社説で言及すべきことは何か、から考える必要がある。
政治経験皆無、暴言連発の候補者が大統領に当選するという事態は、はっきりいって異常だ。アメリカ大統領選というのは大きなイベントなので、誰が当選しても各社は社説として取り上げるだろう。しかし今回は、その取り上げ方が通常とは異なる。異口同音に「こんなので大丈夫なのか」という論調だ。

日本の立場から、アメリカ大統領選の及ぼす影響および対策を考えることは、どのみち必要だ。しかしその前段階として必要なことがある。現状をまず把握することだ。
現状を正しく把握することなく、理想論によってあるべき方策を提言しても、絵に描いた餅に過ぎない。理想論というのは、すべてがうまくいっている理想状態においてさえ、実現が難しいものだ。ましてや、今回の大統領選のように「異常事態」が発生している時に、のんきに理想論など唱えていても、何の役にも立たない。

つまり、今回の社説がまず明らかにするべきことは、「どうするべきか」ではない。それよりも前に、まず「何が起こっているのか」なのだ。なぜトランプのような奴が大統領に当選してしまったのか。それはアメリカでどういう原理が働いているからなのか。その理解なしでは、これからの対策も方針もへったくれもない。
それを明らかにすることなく、「するべき論」で正論ばかりつらつら並べている社説は、無価値と断じてよい。


そういう観点で社説を読み比べてみると、毎日新聞と東京新聞の2紙がずば抜けている。
いや、冗談ではない。普段は主観ズブズブで煽動意欲バリバリのこの2紙が、今回に関しては書くべきことをきちんと書いている。

そもそも、なぜトランプ氏が勝ったのか。10月末、フロリダ州で開かれた同氏の集会では、元民主党員の40代の男性が「民主党のクリントン政権は女性スキャンダルにまみれ、オバマ政権の『チェンジ』も掛け声倒れだった。もう民主党には期待できない」と語った。これはトランプ支持者の代表的な意見だろう。
(毎日社説)
クリントン氏の決定的な敗因は経済格差に苦しむ人々の怒りを甘く見たことだ。鉄鋼や石炭、自動車産業などが衰退してラストベルト(さびついた工業地帯)と呼ばれる中西部の各州は民主党が強いといわれ、ここで勝てばクリントン氏当選の目もあった。

 実際はトランプ氏に票が流れたのは、給与が頭打ちで移民に職を奪われがちな人々、特に白人の怒りの表明だろう。米国社会で少数派になりつつある白人には「自分たちが米国の中心なのに」という焦りもある。教育を受けても奨学金を返せる職業に就きにくく、アメリカンドリームは過去のものと絶望する人々にもトランプ氏の主張は魅力的だった。

政治経験がなくアウトサイダーを自任する同氏は富豪ではあるが、経済格差などは既成政治家のせいにして低所得者層を引き付けてきた。米国社会の不合理を解消するには既成の秩序や制度を壊すしかない。大統領夫人や上院議員、国務長官を歴任したクリントン氏は既成政治家の代表だ--という立場であり、徹底したポピュリズムと言ってもいい。
(毎日社説)

支配層への怒りが爆発した選挙結果だった。ロイター通信の出口調査によると、「金持ちと権力者から国を取り返す強い指導者が必要だ」「米経済は金持ちと権力者の利益になるようゆがめられている」と見る人がそれぞれ七割以上を占めた。

トランプ氏はその怒りをあおって上昇した。見識の怪しさには目をつぶっても、むしろ政治経験のないトランプ氏なら現状を壊してくれる、と期待を集めた。
(東京新聞社説)
政策論争よりも中傷合戦が前面に出て「史上最低」と酷評された大統領選。それでも数少ない収穫には、顧みられることのなかった人々への手当ての必要性を広く認識させたことがある。トランプ氏の支持基盤の中核となった白人労働者層だ。

製造業の就業者は一九八〇年ごろには二千万人近くいたが、技術革新やグローバル化が招いた産業空洞化などによって、今では千二百万人ほどにまで減った。失業を免れた人も収入は伸びない。米国勢調査局が九月に出した報告書によると、二〇一五年の家計所得の中央値(中間層の所得)は物価上昇分を除いて前年比5・2%増加し、五万六千五百ドル(約五百七十六万円)だった。六七年の調査開始以来、最大の伸びだが、最も多かった九九年の水準には及ばず、金融危機前の〇七年の時点にも回復していない。
(東京新聞社説)
 一方、経済協力開発機構(OECD)のデータでは、米国の最富裕層の上位1%が全国民の収入の22%を占める。これは日本の倍以上だ。上位10%の占める割合となると、全体のほぼ半分に達する。これだけ広がった貧富の格差は、平等・公正という社会の根幹を揺るがし、民主国家としては不健全というほかない。階層の固定化も進み、活力も失う。

展望の開けない生活苦が背景にあるのだろう。中年の白人の死亡率が上昇しているというショッキングな論文が昨年、米科学アカデミーの機関誌に掲載された。それによると、九九年から一三年の間、四十五~五十四歳の白人の死亡率が年間で0・5%上がった。ほかの先進国では見られない傾向で、高卒以下の低学歴層が死亡率を押し上げた。自殺、アルコール・薬物依存が上昇の主要因だ。
(東京新聞社説)
ピュー・リサーチ・センターが八月に行った世論調査では、トランプ支持者の八割が「五十年前に比べて米国は悪くなった」と見ている。米国の先行きについても「悪くなる」と悲観的に見る人が68%に上った。

グローバル化の恩恵にあずかれず、いつの間にか取り残されて、アメリカン・ドリームもまさに夢物語-。トランプ氏に票を投じた人々は窒息しそうな閉塞感を覚えているのだろう。
(東京新聞社説)


普通であれば、トランプが勝利することはないだろう。ということは、今のアメリカは「普通でない状態」ということになる。であれば、その「普通でない状態」とは何なのかを知ることが先決だ。

要するに、今のアメリカで、白人層の生活が困窮していることが要因だ。原因は経済赤字による不況と、移民の増大による労働機会の減少。
今回の大統領選挙を動かしたのは、政治がどうの、経済がどうの、国際関係がどうの、といった理想論の実現可能性ではない。 金がない、仕事がない、生活ができない、という、非常に日常的な不満が鬱積したことが要因だ。

しかも今のアメリカは、その不満を公然と口にすることが禁じられている。
「日本のせいだ」「中国の野郎」「メキシコが悪い」などと公然の場で口にしようものなら、直ちに批判されて引責辞任だ。また移民に対する憎悪の根底には、はっきり言って人種差別的な感情があるだろう。「黒んぼはアメリカから出て行け」と言いたいが、言えない。不満が鬱積していることもさることながら、それを口に出して言えない、ということが、ストレスに拍車をかけている。

それを公然と口にして、白人層の「口に出しては言えないけど、誰もが思っていること」を具体化したのがトランプだった。トランプだったら、溜まりに溜ったストレスを解消してくれる。有色人種の移民どもを懲らしめてくれる。

東京新聞の社説は、かなりのスペースをとって、「アメリカ人の生活が困窮している」ということを具体的な数字で表している。ここの具体例に東京新聞が力を入れているということは、東京新聞が「現状を把握することがまず先決」という姿勢で記事を書いていることを示している。



アメリカ国民は、決して「トランプはアメリカ大統領にふさわしい能力がある」と思って投票したのではない。現状がどうにもやるせなく、生活は苦しく、ストレスがたまり、苛々している。そういう破壊欲求が根底にあるため、現状を破壊するエネルギーをもつトランプが票を集めた。
つまり今回、アメリカ国民がトランプに一票を投じたのは、暴動の替わりだったのだ。クリントンは既得権益を持つ側とされ、いわば打ち壊される側に廻ってしまった。

今回の選挙では、事前の窓口調査や、選挙投票場の出口調査がことごとくまったく役に立たなかった。そりゃそうだろう。アメリカ国民の本音は、口に出して言えないことにある。それを出口調査で「どうでしたかー?」とマイクを向けられて、堂々と喋れるものか。
つまり、今回の要因を考えれば、出口調査が実際の結果と食い違っていたのは、必然だった。それなのにアメリカの新聞各社は、「出口調査をもとに予測をたてる」という固定化した思考パターンに固執し、蓋を開けてから慌てふためく有様となった。

アメリカの新聞でトランプを支持する・当選を予想する新聞社は皆無に近かった。これも後から見ればなんのことはない、新聞社は「既得権益をもつ側」の情報発信源だったから、多数派の国民の声を黙殺しただけだ。新聞各社は、口には出せないアメリカ人の本音を、意図的にしろ無意識的にしろ無視し、のんびりと「大統領に必要な資質」「実際に行わなければならない政策」などの理想論をだらだらと並べ、現状を正確に把握できなかった。

今回の日本の社説の中にも、それと同様な社説がある。「普通の場合では妥当な理想論」がまったく役に立たなかったのが、今回の大統領選なのだ。それを無視して、相変わらず「理想論」「するべき論」を並べている社説は、まったくの無価値だろう。

無価値な社説の最たるものが、日本経済新聞。まぁ行儀のよい理想論と正論が、ずらずらと書き並べてある。言っていることは要するに「みんなでよく考えて、しっかり政治をしましょう」ということに過ぎない。こんな屑のような正論、たとえ本一冊分書き並べたところで、何の役にも立たない。
この社説は、本気で現状に対する策を提案しているようにはまったく見えない。なにせ「現状」を最初から無視している。日経社説で提案していることが現実可能な状況であれば、そもそもトランプは当選していないのだ。

思うに、日経のこの社説は、購買層の必要性に迎合したものだと思う。今回の大統領選挙に関して、なにか「建設的な意見」を求められた時には、この日経社説を棒読みで音読すりゃいい。朝のカフェで、意識高い系の若手サラリーマンが「勉強会カッコ笑い」をするときには、うってつけのカンニングペーパーだろう。意気軒昂とした若手の先輩がひと演説したあとに「それって日経社説の丸パクリですよね」とでも言ったら、顔色が変わると思う。


効果的な対策は、正確な現状把握からしか出てこない。トランプの当選原理が「口に出せない不満を解消する」というのであれば、なんのことはない、要するによくあるパターンのポピュリズムだ。その内容は

(1) 有色人種の移民は死ね
(2) 国内の金持ちは死ね
(3) アメリカ経済の困窮は、有色人種のサルどものせいだ。

くらいに集約できる。そこから逆算すれば、トランプが施行するであろう政策の見当はつく。

馬鹿正直に(1)〜(3)を実行に移していたら、たちまち行き詰まることは明らかだ。トランプは今後、これらの「本音」と、実施する「建前」の、つじつまを合わせるために奔走することになるだろう。
だから、「本音」を保つメンツを守ってやりながら、「建前」として実効性のある落としどころをそっと提示してやることが、今後の具体的な対策になる。社説が論じなければならないのは、その詳細な内容だろう。その「本音」を理解しないまま、高い所から偉そうに「こうするべきなのだ」的な理想論を振り回したところで、机上の空論に過ぎない。

以上のことを簡単に要約すると、次のような文章になる。

 欧州連合(EU)離脱を決めた英国の国民投票でも、グローバル化から取り残された人々の怒りが噴き出した。グローバル化のひずみを正し、こうした人たちに手を差し伸べることは欧米諸国共通の課題だ。

トランプ氏は所得の再配分よりも経済成長を促して国民生活の底上げをすると主張する。それでグローバル化の弊害を解消できるかは疑問だ。対策をよく練ってほしい。
(東京新聞社説)


ここでいう「グローバル化」というのは、要するに「表向きに整えた正論」くらいの意味に理解してよい。差別はいけない。機会は均等に。みんな仲良く。こういう世界基準の「いいこと」が、どれだけ多くのアメリカ人にフラストレーションを与えてきたか。
  東京新聞が問うているのは、「じゃあ国民ひとりひとりの所得を増やせば、それが問題の解決になるのかな?」ということだ。生活に困っている白人の所得を上げたところで、それは対処療法でしかなく、根源的な問題解決にはなっていない。

ではその根源とは何か。

女性や障害者をさげすみ移民排斥を唱えるトランプ氏は、封印されていた弱者や少数派への偏見・差別意識を解き放った。そうした暴言は多民族国家である米社会の分断を、一層進行させることにもなった。

オバマ大統領は「先住民でない限り、われわれはよその土地で生まれた祖先を持つ。移民を迎え入れるのは米国のDNAだ」と語ったことがあるが、その通りだ。米国が移民を排除するのは、自己否定に等しい
(東京新聞社説)


いくらアメリカ人が本音として移民を嫌っても、そもそもアメリカというのは移民によって作られた国なのだ。本当の意味で移民を排斥してよいのは、古くからその土地に居たネイティブアメリカンの人達だけだろう。移民のくせに移民を嫌う、そういうアメリカ人のアイデンティティーに関わる問題なのだ。いくらトランプがアメリカ人の差別感情を口に出して放言したとしても、その差別感情は廻り回って自分たちに跳ね返って来る。

要するに、人というものは、正義も正論もまったく関係なく、「自分さえ良ければいい」という生き物なのだろう。他人に禁じることを、自分では平気でやる。他人が特権階級にいるのは我慢ならないが、自分は特権階級に就きたい。自身が移民でありながら、新たに流入する移民は排斥する。「差別はいけない」と言いながら、差別が大好きなのだ。
そういう人たちに対して、「じゃあ、望みを叶えてあげます」といえば、そりゃ支持はされるだろう。しかし、それが支持されたところで、永続的・恒久的な原則から逸れずに正しく国の方向性が示せるのか。


僕の直感だが、アメリカが今後、いわゆる日経的な「正論」を認めざるを得なくなることは、ないと思う。トランプが社会のしくみを一旦すべて壊し、その後に対処療法的な制度をつくったとして、その不備や欠点はいずれ露呈する。しかしその時にも、アメリカという国は、自分たちの過ちを決して認めないだろう。現実的には保守反動が起こるとしても、それを「新たなチャレンジ」的なイメージでごまかすと思う。実際にアメリカは、それと同じことを何度も繰り返している。

結局のところ、今まで何度も起きてきたことが、また繰り返される、というだけのことになるだろう。やたらに「対トランプ」のような未曾有の危機感を煽る前に、少しは冷静になって現状を把握してはいかがか。



人が死ぬ流血騒ぎよりは、よっぽど平和的な暴動だろ。
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小数と分数

小数と分数は、どちらが便利なのか。


直感的には、「分数」と考える人が多いのではあるまいか。「1枚のピザを8人で分けます。1人分はどれくらいになるでしょう」という問題を考えるとき、「1÷8=0.125」と考えるよりも、「8分の1」と考えるほうがビジュアル的に理解しやすい。
また欧米では、いわゆる「÷」という計算記号が無い。割り算はすべて分数の形で記述する。これも、分数を基本と考え、そこから計算によって小数を導く、という「主従関係」が見える。

確かに日常生活では分数というのは直感に近い理解が可能だが、ことを数の概念全般に拡張して考えれば、小数のほうが広い概念を考えられる。それは「有理数」と「無理数」の違いを考えてみれば明かだろう。
有理数というのは、整数比で表される数のことを言う。要するに既約分数のことだ。例えば1/3というのは有理数だが、円周率πは既約分数で表せないので無理数である。有理数は有限小数か循環小数となるため、小数は有理数も無理数も表せる。しかし整数による既約分数では無理数を表すことはできない。

ヨーロッパの数学は分数に基づいて発展し、アジアの数学は小数を駆使して発展してきた。その違いは、代数方程式に対する「姿勢」の違いに反映されているように思えてならない。
2次、3次、4次の方程式には解の公式が存在するが、5次以上の方程式には解の公式が存在しないことが、アーベルによって証明されている。ここまでは数学上の事実として、まぁいいとしよう。問題は、ヨーロッパとアジアでは、「解の公式がないと、どうなのか」という、そこから先の話が違っていることだ。

ヨーロッパの数学では、5次以上の方程式を解く公式が無い、ということが証明されれば、そこで話が止まる。「求まらないんじゃ、しょうがない」とでも言おうか、その事実を前提とした上で、代数学の発展がもたらされた。

ところが、小数を使う中国の数学や、それを取り入れた日本の和算では、5次以上の方程式に解の公式があろうがなかろうが、関係なく腕力で事実に肉薄しようとする馬力を感じる。なんというか、高次方程式の問題を「正確な数値が求められるかどうか」よりも、「どこまで正解に近づけるか」という問題として捉えていたように見える。

算木や天元術(和算で「代数学」に相当する分野)で計算すれば、無限に「近似解」を求めることができる。例え整数解でなくても、小数点以下100桁でも1万桁でも、時間さえかければどこまでも計算できる。また5次方程式どころか、10次方程式でも100次方程式でも、どんなに次数が上がろうとも関係ない。腕力で計算が可能だ。和算の文献を読むと、1000次を越える方程式を解いたという剛の者も登場する。

たとえば、ある高次方程式の解のひとつが 123456.78910233456789… と求められたとしよう。小数点以下を四捨五入すれば、だいたい123457だ。
これはヨーロッパの数学では「解」として認められない。「だいたいこのくらい」では数学としての解の条件を満たさない。有理数であれ無理数であれ、正確な数値でないと解とはならない。

ところが和算では、数学が目指す方向性が違う。その高次方程式の解を「小数点以下いくつまで計算したか」という競争になっている。それが正確に定まるか否かでばっさり分け、定まらない式については切り捨てるヨーロッパ数学とは、はじめから方程式に向かう姿勢が異なる。

5次以上の方程式が「解けない」というのは、あくまでも「解の公式による冪根では解けない」という意味であって、「その値が求められない」という意味ではない。和算が指向したように、小数点以下を延々と求めるチャレンジとして捉えれば、望む範囲での値は手に入る。

例に挙げた高次方程式だって、そもそも「何のための解を求める方程式なのか」を考えてみれば、たとえば小数点以下100桁までの正確性が求められる状況など、そうそうあるものではない。解が 123456.78910233456789… と求まれば、「だいたい123457」としておけば問題ない状況がほとんどだろう。

つまり「全か無か」という分数に比べ、小数は「近似値」というマージンの存在を許す。「だいたいこのくらい」という概算をする必要がある分野では、小数のほうがむしろ直感に近い理解が可能となる。
たとえば1.8769… という数字を見たら、「1と2の間の数で、だいぶ2のほうに寄ってる数」と分かるが、それを同じことを 595/317 という分数の表記で感じ取るのは困難だ。

また、小数というのはすべての実数を表せるが、分数は有理数しか表せない。
「概算」という日常的な必要性を考えても、表記が記述できる数体系を考えても、小数のほうが優れた記述法と言える。
ただし、便利であるがゆえに、和算では代数学の発展が阻害された観は否めない。なにせ、必要なだけ近似値が求まるのだから、代数方程式を形式的に解く必要性を一切感じなかったのだろう。明治期に西洋の数学を輸入するとき、和算に慣れた日本の数学家は、まず代数学の目指すところが理解できずに苦心したのではあるまいか。

有理数と無理数という区分にしても、その対立概念の根底にある「整数による分数表記の可否」という議論の必要性を、そもそも感じていたようには見えない。江戸時代の和算家にとって、無理数と有理数の違いというのは、「小数計算の終わりがあるか・ないか」程度の違いではなかったか。


tan1°は有理数か
(京都大学)


「世界一短い入試問題」として、日本以外の国々でも話題となった、有名な問題だ。
有理数と無理数の境目を考える問題を出しているということは、京都大学が、数学を学ぶ上で日本と西洋の対立概念を念頭に置く必要性を提唱している気がしてならない。

入試問題に「1°」なんて尋常でない角度が出てくる時点で、加法定理を使う問題と思って間違いない。あとは整数論の証明問題の王道に従って、背理法と帰納法を使えばいい。

(こたえ)
tan1°が有理数であると仮定する。
kを正の整数として、tan k°が有理数であれば、加法定理より
tan(k+1)°= (tan k°+tan 1°)/(1-tan k°tan1°)
となり、これは有理数である。従って帰納的に、すべてのkに対してtan k°は有理数となる。
しかし、例えば30°に関して
tan30° = 1/√3
であり、これは無理数となる。これはすべてのkに対してtan k°が有理数となることと矛盾する。
よって仮定が誤り。tan 1°は無理数である。
(Q.E.D.)


「有理数であれば分数で表せる」という特徴を対偶として使うと、「分数で表せないものは有理数ではない」ということになる。されば、「分数で表せない」ということを背理法で導けばいい。見た目ほど怖い問題ではない。

入試問題程度の世界では、「tan 1°は無理数」ということが言えればそれでよく、その事実がもつ意味などはどうでもいい。しかし実際の数学史を考えてみると、この事実は、ヨーロッパの数学では「そうか、じゃあ分数で表せないのか」という「議論の終点」であり、和算では「そうか、じゃあどこまで求めることができるかやってみよう」という「チャレンジの出発点」だったのではないか。ひとつの数学的な事実が、議論のスタートでもあり、ゴールでもあり得る。その違いは事実の側の違いなのではなく、無理数というものをどのようなものとして捉えるか、人の側の違いに過ぎない。

議論を始める際には、まずその議論の必要性を明確にする必要がある。議論の必要性をそもそも認めない立場にとっては、議論の末の結論がどんなものであろうと意味はない。その齟齬に気がつかないまま議論に臨んでも、見当違いなことを追いかけてしまう恐れがある。こういう徒労は、わりとありふれたものではあるまいか。



考えてみりゃ「無理」の反対は「有理」だと習ったのは数学だったな
ペンギン命

takutsubu

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