2016年06月
まずはクイズを。
まず、びんに1から10まで名前をつける。
そして、びんから名前の数だけあめ玉を取り出す。 すると、量るあめ玉の合計は1+2+3+4+5+6+7+8+9+10 = 55個、になる。
もしあめ玉すべての重さが1グラムだったら、これらのあめ玉の重さは55gのはずだ。
しかし実際には、ひとつのびんだけは1.1グラムのあめ玉が入っているので、実際のあめ玉の重さは、
となる。
例えば、量った重さが55.4グラムだったら、4番のびんが答え。55.9グラムだったら、9番のびんが答え。
・・・という枕を振っておいて、本番の問題はコチラ。
先の問題ではあめ玉がひとつ1gだったが、こちらの問題ではひとつ10gになっており、あめ玉が10倍でかい。その分だけ、こちらの問題のほうが「大人向けの問題」と言えるだろう。
そんな冗談はともかく、この問題では、びんがふたつあるため、先ほどの方法がそのままの形では使えない。たとえば余剰分の重さが5gだとしたら、探すべきふたつが「1のびん+4のびん」なのか、「2のびん+3のびん」なのか、区別がつかないからだ。
それをもう一歩進めて考えると、「じゃあ、びんから取り出すあめ玉の数は、『2数の和が決して同じにならないような数』にすればいいのではないか」ということに思いつく。
基本的な考え方は先ほどの問題と同じだが、とりだすあめ玉の数にもう一歩工夫がいる。
フィボナッチ数列というのは、1, 2, 3, 5, 8, 13, 21, 34, 55, 89, … という数の並びのことだ。前ふたつの数字の和が、次の数字となっている。つまり、
1+2 = 3
2+3 = 5
3+5 = 8
5+8 = 13
8+13 = 21
という関係になっている。
フィボナッチ数列は、花びらの数、ひまわりの種の数、ウサギやアリの子供の数など、自然界にわりと見られる法則性である。
フィボナッチ数列の特徴は、任意の2数の和が等しくなる組み合わせが一通りしかない、ということだ。a=1(初項)、b=2(第2項)とすると、すべてのフィボナッチ数はaとbの2数で表せる。
1 = a
2 = b
3 = a + b
5 = b + (a+b) = a+2b
8 = (a+b)+(a+2b) = 2a+3b
13 = (a+2b)+(2a+3b) = 3a+5b
21 = (2a+3b)+(3a+5b) = 5a+8b
34 = (3a+5b)+(5a+8b) = 8a+13b
見て分かる通り、それぞれの数をa, bを使って表すと、それぞれの係数もまたフィボナッチ数になっている。任意のフィボナッチ数ふたつを足し合わせると、その和はaとbの係数のフィボナッチ数同士の組み合わせになるので、一通りに特定できる。
たとえば、8と34を足すと、(2a+3b)+(8a+13b)=10a+16bとなる。aとbの係数をそれぞれバラに見て、それらをフィボナッチ数の和に分解すると、10=2+8、16=3+13の組み合わせしかない。そのため、それらの数をa, bの係数とする、8と34に特定できる。
この性質を使うと、先の問題が解ける。
この問題でも、びんを順番に1, 2, 3, 4, 5, …, 10と名前をつけ、それぞれのびんにフィボナッチ数をラベルとして順番に貼っていく。1のびんは1, 2のびんは2, 3のびんは5, 4のびんは8, ・・・といった具合だ。
そして、それぞれのびんから、貼ってあるフィボナッチ数のラベルの数だけあめ玉を取り出す。 すると、あめ玉の合計は1+2+3+5+8+13+21+34+55+89 = 231個、となる。
もし全部のあめ玉が10gであれば、この合計は2310gとなるはずだ。しかし実際には、ふたつのびんだけは11gのあめ玉が入っているのだから、実際の合計は
2310 + M (g)
となる。 ここでMは、任意のフィボナッチ数の和になっているはずである。
たとえばM=18だとしたら、これは5+13なので、第4のびんと第6のびんが答えだと分かる。
フィボナッチ数列がどういうものか知っている人は多いが、この問題を解くための道具としてフィボナッチ数列を思い浮かべられる人は、それほど多くないだろう。
フィボナッチ数列を「知っている」という段階から、「問題を解くために使える」という段階までに移行するには、どういう類いの勉強が必要なのだろうか。
そういう発想の転換を可能にするために必要なのは、一般に言われている「勉強」とは、違うと思う。知識は、知っていることが大事なのではなく、それを使いこなせるようになることのほうが大事だ。しかし、どうすれば知識を「使いこなせるようになる」のか、その方法論はあまり教えてもらう機会がないのではないか。
ある知識を使えるようになるには、その知識を、教わった通りの形で覚えているだけでは不十分で、いろんな角度から眺める経験が必要となる。ひととおりの角度だけでなく、上からも下からも横からも逆からも、どこから辿ってもすらすらと論じられるような理解の仕方が必要だ。
そのために必要なのは、ひたすら「勉強しよう」「覚えよう」という、知識の量を問題にする態度ではない。知った知識を面白がって、頭のなかでムダにいろいろと転がし、その使い方にあれこれと思いを馳せるような「知的遊戯」だと思う。「知識の咀嚼」と言ってもよい。
学問に必要な姿勢は、生真面目な義務感ではなく、柔軟な知的好奇心だ。その理由は、義務感で勉強している人は、頭のなかで知識を転がして遊ぶ心の余裕がないからだ。知ること自体が目的なのではなく、その知識を使っていろいろと「考える」ことを楽しむ人でないと、なかなか多面的な視点でものごとを捉える能力は身に付きにくい。
受身で学ばされた知識と、能動的に頭で生み出した思考は、種類が違う。俗に言われる「頭がいい」というのは、後者のことを指す。
ところが多くの人は、勉強というと「知識を覚えること」と思い込み、思考によって知識の使い方をあれこれと編み出していく手間を嫌う。中には、そういう「思考によって生み出した知識の使い方」を他人から聞く人もいる。そういう本もたくさん出版されている。
しかし、そういうズルは、ほとんど実を結ばない。そういうノウハウを他人から聞いた時点で、それは生産的な思考ではなくなってしまう。単なる「覚えなければならない知識」に過ぎなくなってしまう。知識の使い方というのは、他人から貰える類いのものではなく、あくまで自分の頭を使って生み出さなければならないのだ。
以前、ある有名進学校の高校で世界史の講師をしている人と話したことがある。その先生は、国立大学の進学を希望している学生を中心に、論述問題の指導をしているそうだ。その分野では有名な先生で、かなりの実績を上げ、難関国立大学への合格者を多数輩出しているそうだ。
僕も国立大学出身なので、受験時代には歴史の論述問題の勉強をしたことがあるが、当時から勉強のしかたがさっぱり分からなかった。世界史など教科書の太字を覚えるだけでも大変なのに、それらの知識を使って論述問題を解け、など不可能に等しい。僕が入試を受けた時の答案は、さぞ惨憺たるものだっただろう。
一体どういう授業をしているのか非常に気になって、「論述問題の勉強というのは、どうやってやるんですか」と訊いてみた。
その先生は、笑いながら、気前よく方法を教えてくれた。
曰く、その先生が授業でやっていることは、ふたつだけだそうだ。
ひとつは、「すべての歴史上の出来事に対して、『なぜ』を考えさせること」、もうひとつは、「生徒に『入試の予想問題を作らせること』」だそうだ。
普通、歴史の勉強というのは、時系列の順番に教わる。たとえばフランス革命を習うときには、「絶対君主制」→「三部会開催」→「テニスコートの誓い」→「バスチーユ襲撃」→「国王処刑」→「ジャコバン独裁」→「クーデター」→「ナポレオン統領政府樹立」、という具合に教わる。
そして、この順番で教えて、この順番でちゃんと覚える生徒はいないそうだ。だいたい授業では、バスチーユ襲撃あたりで「フランス革命っぽさ」を味わった気分になって、その先の展開を覚える気力がなくなる。
その先生は、「たぶん、歴史は延々と続いて、終わりがないからでしょうねぇ」と言っていた。時系列順に歴史を教える弊害は、「ここで終わり」という勉強のゴールがないために、ひとつの「閉じたストーリー」として歴史を把握する意欲がなくなること、だそうだ。
だからその先生は、いきなり「ナポレオンは一体何をやったのか」と問う。ナポレオンを知っている人は多いが、いざ実際に「ナポレオンって一体なにをやった人なの?」と訊かれて、答えられる人は意外に少ないだろう。中には「フランス革命を行った人」などと答える人もいると思う。
実際のところナポレオンは、ブリュメールのクーデターによって、革命政府から実権を奪って統領政府を樹立している。のちには皇帝を名乗って帝政まで始めている。つまり、「フランス革命をやった人」ではなく、「フランス革命を終わらせた人」なのだ。
「ナポレオンは一体何をやったのか」という問いに対して、生徒が「クーデターで政権を奪いました」と答えたら、そこから本当の勉強が始まる。「なぜ、そんなことをしたのか」。その問いを皮切りに、歴史を逆へ逆へと辿っていく勉強が始まる。
つまりその先生は、教える順番が逆なのだ。時系列にそって出来事を教えていくのではなく、最も歴史にインパクトを与えた事件をまず持ってきて、「なぜその事件が起きたのか」という理由を考えさせる。
なぜナポレオンはクーデターを起こしたのか。当時の革命政府が過激になりすぎて恐怖政治を敷いたからだ。
ではなぜ革命政府は過激になりすぎたのか。王党派を全滅させる必要があったからだ。
なぜ王党派を全滅させる必要があったのか。当時の議会が王党派によって形成されていたからだ。
なぜ議会が王党派ばかりだったのか。その前段階に絶対王政があったからだ・・・。
「なぜ、そうなったのか」を軸に歴史を逆に辿ると、見えてこなかった歴史の流れがすっきりと頭の中に入る。理由を求めて歴史を掘ると、それまでバラバラに見えていた知識が有機的につながり、ひとつのストーリーに編み上がる。
その先生は、「たぶん、人というものは、『これから、どうなるのか』には興味がないけど、『なぜ、そんなことをしたのか』を追求するのは大好きなんでしょうね」と言っていた。今現在でも、夏の参議院選について展望をする議論よりも、舛添都知事の不祥事を弾劾するニュースのほうが受けがいい。舛添都知事の不祥事を暴くことには熱心でも、では都議会はこれからどうあるべきなのかを提言するひとは皆無だ。「これからどうなるか」よりも、「なぜそんなことを」という追求のほうが、たしかに受けている。
生徒が歴史のストーリーを辿ったら、それを実際に紙に書いて思考を形にする。つまり、「どうして」「なぜ」と辿った過程で得た知識を使って、そのストーリーを問う入試問題を予想させて作らせる。入試の論述問題なんて、基本的には「なぜ」が基本となっているから、普段から問いを立てさせる練習を繰り返していたら、大学が問うてくる問題の見当がつきやすい。
30人のクラスで授業をしたら、30人の生徒が30通りの論述問題を作ってくる。それをクラスで発表し、発想と思考を共有する。「ひとつのテーマに30通りの論述問題があれば、そこそこの予想問題になりますよ」と笑っていた。
歴史の勉強とは、年号と人名と事件を「暗記すること」と思っている人が多い。そう思っている人は、知識を暗記してから、そこから先なにをやっているのだろうか。覚えるために覚えた知識では、使いこなせないのも、忘れてしまうのも、当たり前だ。知識を「使うため」に掘り出し、頭の中でひとつのストーリーを作り出し、知識を関連づける思考遊戯を行う時間をとらなければ、なかなか思考は定着しにくい。道具は、道具として覚えるのではなく、作業の流れの中で、必要性とともに覚えなければ、熟達しない。
昨今の書店を覗いてみると、ビジネスマンや学生を対象とした自己啓発書がたくさん出版されている。発想力、思考力、ひらめきなど、既存の「暗記学習」では身に付かない方法論が大はやりだ。
僕は、そういう本が大受けしている理由は、「新しい知識を覚える必要がないから」だと思っている。これまで暗記暗記で勉強してきた人は、ひたすら知識を暗記することが苦痛であることをよく知っているし、そういう勉強の仕方はあまり効果がないことを実は悟っている。だから「無理して覚える必要はないんですよ。知っている知識を使うほうが大事なんですよ」という指南書に飛びつく。実際にそういう啓発書を立ち読みしていると、ほぼ例外なく、既存の知識の「使い方」を解き、違う角度から知識体系を眺める多面的な視野の必要性を説いている。
「知識は、覚えている量ではなく、それを使いこなせることのほうが大事」とはよく言われているが、ではどうすれば「知識を使いこなせる能力」が身に付くのか、という方法論が明快に提示されることは少ない。
そういう能力を身につけるためには、別にお金を出して自己啓発書を買う必要はないと思う。早い話が、中学・高校で習った教科をちゃんと復習すれば、それで十分ではないか。フィボナッチ数列だって、フランス革命だって、それを単なる知識として暗記対象と見なしているうちは、苦痛の種でしかない。しかし、勉強の仕方をがらっと変えて、「しくみを知るために分解する」「『なぜ』を問う」「逆に辿る」「答えではなく、問題をつくる」のように、手を変え品を変え「知識を頭の中で転がして遊ぶ経験」として捉えると、わりと勉強というものは楽しいものだ。
知識というのは、思考の材料であって、それ自体を頭に詰め込むことが「頭がいい」ということではない。その知識を縦横無尽に駆使して使いこなす思考に昇華しなければ、知識が無駄になる。その思考能力は、決して他人から与えられるものではない。あくまでも「自分の頭で考える」という経験によってしか身に付かないものだ。
世の中のどんな些細な知識でも、その知識を血肉と化して、思考の燃料としている人がいるのだろう。どういう人が、どういう思考のために、その知識を使っているのだろうと想像してみると、世の中につまらない知識など何もないような気がする。
10個のびんがあります。そのうち9個のびんにはひとつ1グラムのあめ玉が10個入っており、のこり1個のびんにはひとつ1.1グラムのあめ玉が10個入っています。
秤をつかって重さを一回だけはかり、1.1グラムのあめ玉が入っているびんを見つけてください。
まず、びんに1から10まで名前をつける。
そして、びんから名前の数だけあめ玉を取り出す。 すると、量るあめ玉の合計は1+2+3+4+5+6+7+8+9+10 = 55個、になる。
もしあめ玉すべての重さが1グラムだったら、これらのあめ玉の重さは55gのはずだ。
しかし実際には、ひとつのびんだけは1.1グラムのあめ玉が入っているので、実際のあめ玉の重さは、
55 + 0.1n グラム (nは、1.1グラムのあめ玉が入っているびんの名前)
となる。
例えば、量った重さが55.4グラムだったら、4番のびんが答え。55.9グラムだったら、9番のびんが答え。
・・・という枕を振っておいて、本番の問題はコチラ。
10個のびんがあり、そのうち8個のびんにはひとつ10gのあめ玉が100個ずつ入っていて、のこりふたつのびんにはひとつ11gのあめ玉が100個入っている。
11gのあめ玉が入っているふたつのびんを、秤を一回だけ使って重さをはかり、見つけてください。
先の問題ではあめ玉がひとつ1gだったが、こちらの問題ではひとつ10gになっており、あめ玉が10倍でかい。その分だけ、こちらの問題のほうが「大人向けの問題」と言えるだろう。
そんな冗談はともかく、この問題では、びんがふたつあるため、先ほどの方法がそのままの形では使えない。たとえば余剰分の重さが5gだとしたら、探すべきふたつが「1のびん+4のびん」なのか、「2のびん+3のびん」なのか、区別がつかないからだ。
それをもう一歩進めて考えると、「じゃあ、びんから取り出すあめ玉の数は、『2数の和が決して同じにならないような数』にすればいいのではないか」ということに思いつく。
基本的な考え方は先ほどの問題と同じだが、とりだすあめ玉の数にもう一歩工夫がいる。
フィボナッチ数列というのは、1, 2, 3, 5, 8, 13, 21, 34, 55, 89, … という数の並びのことだ。前ふたつの数字の和が、次の数字となっている。つまり、
1+2 = 3
2+3 = 5
3+5 = 8
5+8 = 13
8+13 = 21
という関係になっている。
フィボナッチ数列は、花びらの数、ひまわりの種の数、ウサギやアリの子供の数など、自然界にわりと見られる法則性である。
フィボナッチ数列の特徴は、任意の2数の和が等しくなる組み合わせが一通りしかない、ということだ。a=1(初項)、b=2(第2項)とすると、すべてのフィボナッチ数はaとbの2数で表せる。
1 = a
2 = b
3 = a + b
5 = b + (a+b) = a+2b
8 = (a+b)+(a+2b) = 2a+3b
13 = (a+2b)+(2a+3b) = 3a+5b
21 = (2a+3b)+(3a+5b) = 5a+8b
34 = (3a+5b)+(5a+8b) = 8a+13b
見て分かる通り、それぞれの数をa, bを使って表すと、それぞれの係数もまたフィボナッチ数になっている。任意のフィボナッチ数ふたつを足し合わせると、その和はaとbの係数のフィボナッチ数同士の組み合わせになるので、一通りに特定できる。
たとえば、8と34を足すと、(2a+3b)+(8a+13b)=10a+16bとなる。aとbの係数をそれぞれバラに見て、それらをフィボナッチ数の和に分解すると、10=2+8、16=3+13の組み合わせしかない。そのため、それらの数をa, bの係数とする、8と34に特定できる。
この性質を使うと、先の問題が解ける。
この問題でも、びんを順番に1, 2, 3, 4, 5, …, 10と名前をつけ、それぞれのびんにフィボナッチ数をラベルとして順番に貼っていく。1のびんは1, 2のびんは2, 3のびんは5, 4のびんは8, ・・・といった具合だ。
そして、それぞれのびんから、貼ってあるフィボナッチ数のラベルの数だけあめ玉を取り出す。 すると、あめ玉の合計は1+2+3+5+8+13+21+34+55+89 = 231個、となる。
もし全部のあめ玉が10gであれば、この合計は2310gとなるはずだ。しかし実際には、ふたつのびんだけは11gのあめ玉が入っているのだから、実際の合計は
2310 + M (g)
となる。 ここでMは、任意のフィボナッチ数の和になっているはずである。
たとえばM=18だとしたら、これは5+13なので、第4のびんと第6のびんが答えだと分かる。
フィボナッチ数列がどういうものか知っている人は多いが、この問題を解くための道具としてフィボナッチ数列を思い浮かべられる人は、それほど多くないだろう。
フィボナッチ数列を「知っている」という段階から、「問題を解くために使える」という段階までに移行するには、どういう類いの勉強が必要なのだろうか。
そういう発想の転換を可能にするために必要なのは、一般に言われている「勉強」とは、違うと思う。知識は、知っていることが大事なのではなく、それを使いこなせるようになることのほうが大事だ。しかし、どうすれば知識を「使いこなせるようになる」のか、その方法論はあまり教えてもらう機会がないのではないか。
ある知識を使えるようになるには、その知識を、教わった通りの形で覚えているだけでは不十分で、いろんな角度から眺める経験が必要となる。ひととおりの角度だけでなく、上からも下からも横からも逆からも、どこから辿ってもすらすらと論じられるような理解の仕方が必要だ。
そのために必要なのは、ひたすら「勉強しよう」「覚えよう」という、知識の量を問題にする態度ではない。知った知識を面白がって、頭のなかでムダにいろいろと転がし、その使い方にあれこれと思いを馳せるような「知的遊戯」だと思う。「知識の咀嚼」と言ってもよい。
学問に必要な姿勢は、生真面目な義務感ではなく、柔軟な知的好奇心だ。その理由は、義務感で勉強している人は、頭のなかで知識を転がして遊ぶ心の余裕がないからだ。知ること自体が目的なのではなく、その知識を使っていろいろと「考える」ことを楽しむ人でないと、なかなか多面的な視点でものごとを捉える能力は身に付きにくい。
受身で学ばされた知識と、能動的に頭で生み出した思考は、種類が違う。俗に言われる「頭がいい」というのは、後者のことを指す。
ところが多くの人は、勉強というと「知識を覚えること」と思い込み、思考によって知識の使い方をあれこれと編み出していく手間を嫌う。中には、そういう「思考によって生み出した知識の使い方」を他人から聞く人もいる。そういう本もたくさん出版されている。
しかし、そういうズルは、ほとんど実を結ばない。そういうノウハウを他人から聞いた時点で、それは生産的な思考ではなくなってしまう。単なる「覚えなければならない知識」に過ぎなくなってしまう。知識の使い方というのは、他人から貰える類いのものではなく、あくまで自分の頭を使って生み出さなければならないのだ。
以前、ある有名進学校の高校で世界史の講師をしている人と話したことがある。その先生は、国立大学の進学を希望している学生を中心に、論述問題の指導をしているそうだ。その分野では有名な先生で、かなりの実績を上げ、難関国立大学への合格者を多数輩出しているそうだ。
僕も国立大学出身なので、受験時代には歴史の論述問題の勉強をしたことがあるが、当時から勉強のしかたがさっぱり分からなかった。世界史など教科書の太字を覚えるだけでも大変なのに、それらの知識を使って論述問題を解け、など不可能に等しい。僕が入試を受けた時の答案は、さぞ惨憺たるものだっただろう。
一体どういう授業をしているのか非常に気になって、「論述問題の勉強というのは、どうやってやるんですか」と訊いてみた。
その先生は、笑いながら、気前よく方法を教えてくれた。
曰く、その先生が授業でやっていることは、ふたつだけだそうだ。
ひとつは、「すべての歴史上の出来事に対して、『なぜ』を考えさせること」、もうひとつは、「生徒に『入試の予想問題を作らせること』」だそうだ。
普通、歴史の勉強というのは、時系列の順番に教わる。たとえばフランス革命を習うときには、「絶対君主制」→「三部会開催」→「テニスコートの誓い」→「バスチーユ襲撃」→「国王処刑」→「ジャコバン独裁」→「クーデター」→「ナポレオン統領政府樹立」、という具合に教わる。
そして、この順番で教えて、この順番でちゃんと覚える生徒はいないそうだ。だいたい授業では、バスチーユ襲撃あたりで「フランス革命っぽさ」を味わった気分になって、その先の展開を覚える気力がなくなる。
その先生は、「たぶん、歴史は延々と続いて、終わりがないからでしょうねぇ」と言っていた。時系列順に歴史を教える弊害は、「ここで終わり」という勉強のゴールがないために、ひとつの「閉じたストーリー」として歴史を把握する意欲がなくなること、だそうだ。
だからその先生は、いきなり「ナポレオンは一体何をやったのか」と問う。ナポレオンを知っている人は多いが、いざ実際に「ナポレオンって一体なにをやった人なの?」と訊かれて、答えられる人は意外に少ないだろう。中には「フランス革命を行った人」などと答える人もいると思う。
実際のところナポレオンは、ブリュメールのクーデターによって、革命政府から実権を奪って統領政府を樹立している。のちには皇帝を名乗って帝政まで始めている。つまり、「フランス革命をやった人」ではなく、「フランス革命を終わらせた人」なのだ。
「ナポレオンは一体何をやったのか」という問いに対して、生徒が「クーデターで政権を奪いました」と答えたら、そこから本当の勉強が始まる。「なぜ、そんなことをしたのか」。その問いを皮切りに、歴史を逆へ逆へと辿っていく勉強が始まる。
つまりその先生は、教える順番が逆なのだ。時系列にそって出来事を教えていくのではなく、最も歴史にインパクトを与えた事件をまず持ってきて、「なぜその事件が起きたのか」という理由を考えさせる。
なぜナポレオンはクーデターを起こしたのか。当時の革命政府が過激になりすぎて恐怖政治を敷いたからだ。
ではなぜ革命政府は過激になりすぎたのか。王党派を全滅させる必要があったからだ。
なぜ王党派を全滅させる必要があったのか。当時の議会が王党派によって形成されていたからだ。
なぜ議会が王党派ばかりだったのか。その前段階に絶対王政があったからだ・・・。
「なぜ、そうなったのか」を軸に歴史を逆に辿ると、見えてこなかった歴史の流れがすっきりと頭の中に入る。理由を求めて歴史を掘ると、それまでバラバラに見えていた知識が有機的につながり、ひとつのストーリーに編み上がる。
その先生は、「たぶん、人というものは、『これから、どうなるのか』には興味がないけど、『なぜ、そんなことをしたのか』を追求するのは大好きなんでしょうね」と言っていた。今現在でも、夏の参議院選について展望をする議論よりも、舛添都知事の不祥事を弾劾するニュースのほうが受けがいい。舛添都知事の不祥事を暴くことには熱心でも、では都議会はこれからどうあるべきなのかを提言するひとは皆無だ。「これからどうなるか」よりも、「なぜそんなことを」という追求のほうが、たしかに受けている。
生徒が歴史のストーリーを辿ったら、それを実際に紙に書いて思考を形にする。つまり、「どうして」「なぜ」と辿った過程で得た知識を使って、そのストーリーを問う入試問題を予想させて作らせる。入試の論述問題なんて、基本的には「なぜ」が基本となっているから、普段から問いを立てさせる練習を繰り返していたら、大学が問うてくる問題の見当がつきやすい。
30人のクラスで授業をしたら、30人の生徒が30通りの論述問題を作ってくる。それをクラスで発表し、発想と思考を共有する。「ひとつのテーマに30通りの論述問題があれば、そこそこの予想問題になりますよ」と笑っていた。
歴史の勉強とは、年号と人名と事件を「暗記すること」と思っている人が多い。そう思っている人は、知識を暗記してから、そこから先なにをやっているのだろうか。覚えるために覚えた知識では、使いこなせないのも、忘れてしまうのも、当たり前だ。知識を「使うため」に掘り出し、頭の中でひとつのストーリーを作り出し、知識を関連づける思考遊戯を行う時間をとらなければ、なかなか思考は定着しにくい。道具は、道具として覚えるのではなく、作業の流れの中で、必要性とともに覚えなければ、熟達しない。
昨今の書店を覗いてみると、ビジネスマンや学生を対象とした自己啓発書がたくさん出版されている。発想力、思考力、ひらめきなど、既存の「暗記学習」では身に付かない方法論が大はやりだ。
僕は、そういう本が大受けしている理由は、「新しい知識を覚える必要がないから」だと思っている。これまで暗記暗記で勉強してきた人は、ひたすら知識を暗記することが苦痛であることをよく知っているし、そういう勉強の仕方はあまり効果がないことを実は悟っている。だから「無理して覚える必要はないんですよ。知っている知識を使うほうが大事なんですよ」という指南書に飛びつく。実際にそういう啓発書を立ち読みしていると、ほぼ例外なく、既存の知識の「使い方」を解き、違う角度から知識体系を眺める多面的な視野の必要性を説いている。
「知識は、覚えている量ではなく、それを使いこなせることのほうが大事」とはよく言われているが、ではどうすれば「知識を使いこなせる能力」が身に付くのか、という方法論が明快に提示されることは少ない。
そういう能力を身につけるためには、別にお金を出して自己啓発書を買う必要はないと思う。早い話が、中学・高校で習った教科をちゃんと復習すれば、それで十分ではないか。フィボナッチ数列だって、フランス革命だって、それを単なる知識として暗記対象と見なしているうちは、苦痛の種でしかない。しかし、勉強の仕方をがらっと変えて、「しくみを知るために分解する」「『なぜ』を問う」「逆に辿る」「答えではなく、問題をつくる」のように、手を変え品を変え「知識を頭の中で転がして遊ぶ経験」として捉えると、わりと勉強というものは楽しいものだ。
知識というのは、思考の材料であって、それ自体を頭に詰め込むことが「頭がいい」ということではない。その知識を縦横無尽に駆使して使いこなす思考に昇華しなければ、知識が無駄になる。その思考能力は、決して他人から与えられるものではない。あくまでも「自分の頭で考える」という経験によってしか身に付かないものだ。
世の中のどんな些細な知識でも、その知識を血肉と化して、思考の燃料としている人がいるのだろう。どういう人が、どういう思考のために、その知識を使っているのだろうと想像してみると、世の中につまらない知識など何もないような気がする。
「歴史は暗記」「数学は不要」という姿勢は、まだ勉強を始めていない人。
ペンギン命
takutsubu
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