たくろふのつぶやき

オリンピック生中継で夜明けと洒落込む

2013年09月

「まんぷく遊々記」読みました。

最近、愛読しているBlogが本になりまして。




まんぷく
まんぷく遊々記』(片倉真二 著)
エンターブレイン、ISBN-13: 978-4047290433 



いつもBlogを楽しく読ませていただいております。


このBlogは嫁も大好きでして。
かの藤子・F・不二雄先生は「子供はね、丸いものが大好きなんですよ。だから子供向けの漫画には、丸っこいキャラクターを使うといいんです」とおっしゃっておりましたが、嫁はまさしくその好みがありまして
このマンガのキャラクター設定が非常に好みらしいのです。



まぁ、その嫁が選んだダンナが僕なわけですが、その辺はまぁおいといて。



なんというか、嫁はこのマンガを見て、筆者の奥さんキャラが自分にかぶるらしいんです。
だいたい研究者の嫁なんてのは、ダンナの心の健康に気を配る必要があるものです。学会前や論文締切前になると、追いつめられた研究者は鬼と化しますので、うまくおだてて仕事にのせるのが上手なもんです。
僕の嫁は、僕が学会で発表した後には、かならずご褒美と称して、ちょっとぜいたくな夕食に連れていってくれます。1年に1回は僕を旅行に連れ出し、心のリセットをします。

このマンガの主人公の奥さんも、独立して仕事にプレッシャーを感じている筆者さんを、あちこち旅行に連れ出しています。マンガの内容はその道中記みたいなものなんですが、読んでてすごくよく気持ちが分かるんですよね。
だいたい男なんてものは、旅行の計画を立てるのはすごくめんどくさがるくせに、いざ旅行に連れ出すとウキウキして熱中しちゃうもんです。寝台列車で旅行するときのワクワクっぷりとか、気持ち分かるなぁ。こういう、自分でコントロールできないストレスをうまく和らげてくれる奥さんがいたら、男子一生の本懐でしょうね。
僕の嫁さんも旅行やグルメが好きなので、この本でいろんな所に行ったりおいしいものを食べたりする話を読んで、ご満悦です。
こんどの冬休みはどこに旅行に行こうかなぁ。

筆者曰く、このBlogを描きはじめたきっかけは、奥さんの薦めだそうです。プロのデザイナーとして仕事をする傍ら、「たまにお遊びで描いていたマンガ風のイタズラ描き」を奥さんが大好きで、それを日記風にBlogにすることを薦めたとか。「この漫画は元々、嫁さんのために描きはじめた」と言うあたり、非常に共感を覚えます。
僕もこのたくつぶを書き始めてもう10年になりますが、最初これを書き始めたときは僕はアメリカで大学院生、嫁さんは日本で働いていました。地球の反対側という超遠距離恋愛をしていた頃、このBlogは嫁さんのために書いていたようなもんです。学会準備とかで更新が止まったときなんて、よくメールで突っつかれたりしたもんです。


この本の最後の章は書き下ろしで、筆者が地元を出て東京で就職した時の話が綴ってある。
上京して慣れない仕事の技術を身につける過程で、筆者が奮闘した時代の話が載っている。

実家でゴロゴロしていた筆者に「20万円くれてやる。東京で働け」と喝を入れた兄の話。
静岡の富士宮で育った筆者が、東京の「水道水の臭い」に驚いた話。
グラフィックデザインというものが、単に絵を書くだけでなく、出力機器の条件から逆算して書き方を決めていかなければいけないことに衝撃を受けた話。
残業して他の人に追い付こうとすると「限られた時間内に仕事を終わらすのがプロだ」と怒られた話。

僕も大学院の駆け出しだった頃は、実家を出てひとり暮らしをする苦学生だった。それでも僕は奨学金をもらっていたし、実家から仕送りもしてもらっていたから、明日のごはんに危機感を抱くまでの生活ではなかった。
しかし、上京してひとり仕事をする多くの人は、この筆者のように、明日をも知れない環境の中で、自分の能力に失望しながら、少ないごはんで毎日を戦っているものだろう。
なんか僕も昔を思い出して、なんとなく懐かしい気分になった。

その中でひとつ、とても印象的な話があった。
ほぼ未経験のまま職に就いた筆者は、ベテランの女性グラフィックデザイナーから指導を受ける。作画の課題を出された筆者が、フォトショップというグラフィックソフトを使いコンピューターで作画しようとすると、指導女性に「フォトショップ使用禁止」を言い渡される。
筆者は泣く泣く、学校時代に使っていたポスターカラーを使って紙に絵を描いていく。

この指導の気持ちはよく分かる。大学での研究も、論文を読む時にはその内容がダイジェストでまとまっている要旨集のようなものがあるが、僕がゼミで学生に論文を読ませるときには、その使用を禁止している。まずは原著にあたり、苦労しながら1行1行を這うような遅さでじっくり読んでいく経験を積まなければ、論文なんていつまでたっても読めるようにはならない。

言い方が難しいが、別に学生に「無用な苦労をさせよう」と思っているわけではない。論文を読む時に必要なことは「その1本の内容を理解すること」ではない。「どんな内容の論文を読む必要が生じた時にも、なんとか読みこなしていける力をつけること」なのだ。
固定された既存の体系を理解するのが目的なのではなく、どんな新しい理論が出てきてもそれに柔軟に対処できる力、「自分の能力を自分で作り出していく力」のほうが、はるかに大事だ。

しかし初学者にとっては理不尽に感じるかもしれない。筆者も、指導女性からコンピューターの処理能力を越えた無理難題を課され、それに対処するため四苦八苦する。
おそらく、答えはあったのだろう。しかし、その答えを教わったところで、その問題に対処できるようにはなるかもしれないが、まだ未知の問題が生じたときには対処の仕方を失う。いつでも人に答えを教わっているのが習い性になっている人は、自ら問題を解決していく能力が身につかないものだ。

結局筆者は、自分なりに工夫をして、課題をクリアする。その答えが指導女性の用意していた答えと合っていたのかどうかは、さしたる問題ではあるまい。自分の頭で考え、結果として求められている効果を出せるように工夫する。その道筋を見つけたことが大事なのだと思う。
なんか、研究室で僕が学生にやっていることを見ているような気がして、僕はこの章を読んでいるときに筆者の立場ではなく、指導女性の立場で読んでしまっていた。


課題をクリアした筆者は、禁止されているにも関わらず、指導女性に「フォトショップを使わせてください」と申し出る。
「機械に使われるのではなく、自分で使いこなす新しい素材として、フォトショップを使いこなせるようになりたい」。

筆者はのちに会社を退職しフリーとして独立しているが、すでにこの頃からその資質に開眼していたのだと思う。
僕も学生を指導していてよく思うことだが、学生には「先生が正解として用意している答えを探そうとする学生」と、「先生や教科書など知ったこっちゃなく、自分の力で何か答えを見つけようとする学生」がいる。
どちらが正しいという問題ではない。資質としては両方必要なのだ。おそらく大学のゼミの中で、必要な資質のうち9割は、前者の資質だと思う。先行研究を踏まえ、それまでの研究史を踏まえて、それに上乗せをしていく姿勢は、いわば王道なのだ。経験の裏打ちのないオリジナリティーは、単なる自己流に過ぎない。それは学問研究分野に関わらず、どんな世界もそういうものだろう。

しかし、のこり1割の能力、「自分でなんとかやってみる」という資質に欠ける学生は、単なる人真似で終わる。論文を書かせても、他人の分析のまとめで終わる。いつまでたっても「自分の論文」が書けるようにならない。
自分でなんとかする能力を身につけるためには、自分が何のためにその分野を志しているのか、結局自分は何がやりたいのか、それが明確になっていなければならない。欲求のないところに能力は無い。

筆者が「フォトショップを使わせてほしい」と申し出たのは、自分がそれを使ってやりたいことが明確にあったからだろう。もし指導女性の課題だけを淡々とこなしていくだけの人だったら、いつまでたってもその指導女性の枠内から出ることはできず、いずれ同業者としてライバル関係になるであろう人を抜くことはできない。
結局、筆者はフォトショップの使用を許可される。それは、フォトショップという技術を使う前提となる資質を、筆者がすでに身につけていた、という判断だと思う。

コンピューターグラフィックの世界は技術の進化が早く、筆者がその時代に身につけた技術は、今では必要のない時代になったそうだ。しかし、自分で志し、自分の頭で考え、自分で道を作っていく、という資質は、どの時代でも必要なものなのだろう。
どの分野でも、成功していくために必要なことは、深い根っこのところで同じようなものなのだと思う。


僕はあまり人のBlogは読みませんが、こういう自分と共感できるところがある話はいいですね。
そろそろ大学は新学期が始まりますが、おいしいものでも食べて、また頑張りましょうかね。



研究室の本棚にしれっと置いときます。

科学研究と生命倫理

サイボーグ009




漫画家・石ノ森章太郎の作品に『サイボーグ009』というのがある。
特殊能力を持った9人のサイボーグ戦士の活躍を描いた作品だ。

子供の頃にTVアニメでよく見た。2012年10月にはリメイク版として3Dアニメ映画が制作された。
懐かしいので見てみたが、まぁ、原作の世界観をうまく活かしてある。発表当時とは世界情勢が違うため敵キャラの設定がやや複雑になっているが、「彼らが現代にいたらこういう戦いになるんだろうな」という時代考証がよくできている。
最近、やたらと「昭和時代のかつての子供」をターゲットにしたアニメのリメイク版が濫発しているが、その中では良く出来ているほうだろう。

この映画をみて昔が懐かしくなり、平成作成版のTVアニメの全回を見返してみた。ちょうど夏休みだし。
アニメ版を見返してみて思ったのだが、僕も歳をとったのか、子供の頃に見ていたのとは違う視点でこの作品を見いることに気付いた。

夏の甲子園野球を見てもしょっちゅう思うことだが、僕ももういい歳になり、高校球児よりも監督のほうに感情移入して見てしまう。選手交代や酷使など、監督の立場もいろいろと葛藤があるんだろうな、という視点で見てしまう。
『サイボーグ009』を子供の頃に見ていた時は、002みたいに空を飛びたいなぁ、 004みたいに指がマシンガンにならないかなぁ、なんてことを思って見ていたが、今回むかしのTV版を見ると、どうも彼らをサイボーグに改造したギルモア博士の立場になって見てしまう。

もともと『サイボーグ009』の9人のサイボーグは、悪の組織によって生物兵器として改造された。のちにギルモア博士は組織の方針に疑問を持ち、自分が改造した9人のサイボーグとともに組織を脱走する。組織は裏切り者の博士とサイボーグ9人に追手の刺客を差し向け、彼らの殲滅を計る。
この「自分たちを作った悪の組織を裏切り追手と戦い続ける」という構図は、『仮面ライダー』など石ノ森作品の多くに一貫するモチーフになっている。

ギルモア博士は組織の目標が世界征服であることに気付き、自分の研究能力がそのために利用されていることに気付く。中には自分の研究にどっぷりと嵌まり組織に洗脳されている科学者もいたが、ギルモア博士は同僚の科学者の中で正義感の残っている研究者と協力し、組織からの脱走に成功する。
しかし、組織を抜けた後でも、ギルモア博士はサイボーグ達をパワーアップのために改造手術することに全く躊躇がない。自分が作ったサイボーグを戦いで死なせたくない一心からなのだろうが、その改造手術がサイボーグ達にどのような葛藤を引き起こしているか、一切考慮していない。

この作品が単なるハリウッド的な単純活劇と決定的に異なるのは、サイボーグ達が自分達のアイデンティティーに悩む箇所が随所に埋め込まれている点だ。人間でも機械でもない彼らは、自分達が何者であるのか、常に悩み苦しんでいる。
004=アルベルト・ハインリヒは組織に改造された段階で肉体破損が激しかったため、最も改造箇所が多い。だから004はコンピューター制御のもの・機械仕掛けのものを非常に忌み嫌う。また、深海活動に特化した008=ピュンマが重傷を負ったとき、ギルモア博士は硬度が格段に高い新素材のウロコをピュンマの皮膚組織に埋め込む改造を行なった。体中が銀色のウロコになってしまったピュンマはショックを受けてしまう。改造を非難するメンバーに対して、ギルモア博士は新素材の性能や硬度を根拠に必死に言い訳をするが、メンバーに「そういう問題じゃない」と叱責されてしまう。



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ギルモア博士は、発表当時の、昭和の高度経済成長期に日本が抱えていた「結果がすべて」主義を反映している象徴のような気がする。要するに研究バカで、猛烈主義。成果に固執するあまり、生命に対する倫理観が希薄なところがある。
昭和初期の漫画家の多くは、そのような「生命の尊厳」を隠しテーマにする作品を多く発表していた。手塚治虫も「ブラック・ジャック」「火の鳥」などで生命について深い考察を描いている。

かつての子供だった僕も、今では学者と呼ばれる職に就くようになった。僕がギルモア博士の立場だったら、どうするだろうか。
そんなことを考えながら『サイボーグ009』を見る時がくるとは、自分でも思わなかった。


話は全く変わるが、毎日新聞が9月5日配信の記事で、再生医療研究を専門にしている東京大学・中内啓光教授が、米スタンフォード大に移籍する報道を行なった。


<東大・中内教授>iPS有力研究者が米国流出

人工多能性幹細胞(iPS細胞)を使った再生医療研究の第一人者、東京大医科学研究所の中内啓光(ひろみつ)教授(61)=幹細胞生物学=が、米スタンフォード大に年内にも研究室を開設し、3年半後に完全移籍することを毎日新聞の取材に明らかにした。中内教授は、iPS細胞を使ってブタの体内でヒトの臓器を作製することを目指すが、日本では現在、研究指針で禁じられている。政府の成長戦略の柱となっている再生医療のトップランナーの「頭脳流出」は波紋を広げそうだ。

研究指針については、政府の生命倫理専門調査会が今年8月、中内教授の研究を踏まえ、動物の受精卵にヒトの細胞を入れて、子宮に戻す基礎研究を条件付きで容認。5日、指針改定に向けた議論が始まる。

だが、中内教授は、規制によって研究が2年半停滞したと指摘し、「もしこの研究しかしていなかったら、とっくに海外に移っていただろう」と明かした。「今後指針が改定されるとしても実施までは何年もかかる。リスクをとらないという日本特有の体制では、新しいことはやりにくい」と語った。中内教授によると、数年前から、スタンフォード大や英ケンブリッジ大など海外の複数の大学から移籍の誘いが来ていた。


毎日新聞の記事は、明らかに日本政府の対応を非難している。折しも2012年に山中伸弥氏がiPS細胞の開発でノーベル生理学・医学賞を受賞しており、毎日新聞の意図としては「政府のこんな政策のせいで、もし日本からノーベル賞が遠のいたらどうするんだ」という政府批判だろう。

日本の生命科学の研究指針ガイドラインの倫理方針は、おそらく世界で一番厳しいと思う。僕が大学院生のとき、所属している研究室が学際研究基金の対象となり、医学部と連携するプロジェクトの一端となったことがある。その時、遵守すべき研究倫理ガイドラインが廻ってきたが、「医学研究ってこんなに制約があるのか」と驚いた記憶がある。一般的に、生命科学の研究倫理の厳しさは、国の発展途上レベルと正の相関関係がある。

日本が科学研究の際に厳しい生命倫理の遵守を求めるのは、それなりの理由がある。日本は先の大戦で、「国の方針のためなら個々人の生命を犠牲にするのが正義」という倫理観で国民を洗脳した。大戦勝利・国体護持のためなら人間の生命など犠牲になって当然。731部隊などもそのような未熟な倫理観の上に設立されたものだろう。そういう「命を使い捨てにする方針」に対する戦後の反省の上に、現在の日本政府の生命倫理指針は成り立っている。

そういう歴史を辿った日本が、遺伝子操作による生命誕生に対して慎重になるのは、当然なのだ。
アメリカをはじめとするヨーロッパ各国がそこまで厳しい生命倫理を科学研究に課していないのは、そういう過ちを反省したことがないために、その本当の恐ろしさから目を背けているからだ。


僕は別に中内教授の移籍を非難するつもりはない。中内教授は自分の研究を行なっているだけで、それが日本という国では容認されていないだけの話だ。研究者であれば、自分の研究を思う存分行なえる環境に移りたい、というのは自然な欲求だし、もし僕でもそうするだろう。実際に僕自身も、日本では行なえない研究を行なうためにアメリカに移籍した経験がある。

しかし、それを根拠に日本政府の対応を非難するのは筋違いだと思う。
僕は、今回の中内教授の移籍騒動をきっかけに、日本政府が生命倫理ガイドラインのレベルを引き下げることには、絶対に反対だ。少なくとも日本とドイツだけは、科学研究の発展と引き換えに生命への倫理観を引き下げる過ちは、決して犯してはいけないと思う。日本政府は誰が海外に流出しようと、ノーベル賞候補が国外に移籍しようと、毅然として生命倫理の規範を保つべきだ。日本というのはそういう倫理の国なのだから、それが嫌なら当人が他国に移籍すればいいだけの話だ。日本政府が非難されるとすれば、それは中内教授の海外移籍を妨害しようとした時だろう。 


今回の報道をもとに政府の対応を批判している人のほとんどは、暗黙のうちにノーベル賞を絶対の価値として容認しているのだと思う。
ノーベル賞がとれなかったら、いったい何だというのだろう。日本はノーベル賞などよりも、もっと重い経験の上に現在の生命倫理をつくりあげている。過去の過ちから直すべきところを直し、現在の制度になっている。それをノーベル賞ごとき栄誉に目がくらんで、政府の方針を安易に批判する人は、日本の辿った道を本当にわきまえているのだろうか。

僕は個人的に、ノーベル賞の生命倫理観には疑問をもっている。過去のノーベル賞の歴史の中には非常に疑わしい研究が少なくないが、その多くは生理学・医学賞に集中している。
有名な事件では、1949年のエガス・モニスに対するノーベル賞授与がある。ある種の精神病に対する前額部大脳神経切断、通称「ロボトミー手術」の治療的意義の発見に対する授与だった。これは当時、新しい病とされ対処法がなかった統合失調症、躁鬱病の治療として注目された。しかしこの手術は要するに前頭葉の一部分を切除するため、被験者の人格が変わってしまう。日本では本人の同意なくロボトミー手術を受けた患者が、復讐のため執刀医を殺害する事件も起きた。後年になってこの手術の危険性が広く認識され、現在ではロボトミー手術は世界各国で禁止されている。アカデミー賞を受賞した映画『カッコーの巣の上で』は、ロボトミー手術の悲劇を描いている。

ノーベル賞は科学の発展のためにあるのであって、科学がノーベル賞のためにあるのではない。
ノーベル賞ごときをありがたがって、人間として大事なことを軽々しく扱い、安易に科学研究の倫理指針を非難する人は、その危険性を本当に理解して、ものを言っているのだろうか。

隣の韓国では過去に、ノーベル賞に目がくらんだ大失態を犯している。黄禹錫によるES細胞論文の捏造が発覚し、国をあげての黄禹錫フィーバーが水泡に帰した。韓国では自然科学分野におけるノーベル賞受賞が無い。そのため黄禹錫に対する国民の期待は度を超えており、国を挙げて冷静さを欠いた支援体勢を整えた。飛行機のファーストクラスは乗り放題、研究予算は無制限、各地に黄禹錫の銅像が建ち、記念切手が発行され、小・中・高校用の教科書に大々的に伝記が載った。2005年の愛知万博の韓国パビリオンは黄禹錫記念館と化し、記念映画やマンガの展示、生涯の歩みなどを海外に喧伝した。

この黄禹錫騒動が起きた当時、僕は大学院生で、科学研究を職にしようという覚悟が固まりつつある頃だった。当時、僕がこの騒動に関する報道で奇異に感じたのは、黄禹錫の捏造の度合いではない。
研究者を志すひとりとして、論文捏造を犯す気持ちは分からないではない。科学者だって人間だ。成果に焦り、結果を渇望し、つい悪魔の囁きに乗ってしまう弱さは、人であれば誰でも持っているものだと思う。だからこそ制度としてそれを容認しない環境を作り、監視の目を強化しなければならない。
黄禹錫も結局、弱い人でしかなかったのだと思う。僕は当時、研究のプレッシャーというものが少しずつ分かりはじめていた頃だったので、個人的には「自業自得」と切って捨てる気分ではなかった。なんとなく、「気の毒だな」という感想だった。

僕がこの件の報道で奇異に感じたのはそこではなく、黄禹錫をとりまく韓国社会の狂信ぶりだった。論文捏造が発覚したきっかけは、人卵子売買、不法卵子での人工授精手術や代理母などのブローカーの存在が明らかになったからだ。しかし、それを報道した韓国文化放送(MBC)の報道調査番組『PD手帳』は、「国の裏切り者」の烙印を押され、スポンサーの不買運動にまで発展した。番組はそれが理由で打ち切りを余儀なくされている。
新聞各社も一斉に黄禹錫を擁護する記事を並べ、精神的ストレスという名目で入院した黄禹錫がベッドの上で苦悶の表情を浮かべる写真を掲載した。「事実がどうであるかはどうでもいい、まず黄禹錫ありき」の報道が蔓延した。

要するに当時の韓国社会は「ノーベル賞の奴隷」と化していたのだろう。生命倫理も科学研究倫理もことごとく無視され、国民全員が「ノーベル賞」に血眼になった。まさに手段を選ばず、の観があった。
僕の目には、たかが一介の科学賞ごときのため、国と国民がすべての尊厳を捨て、命の尊さを踏みにじっていたように見えた。捏造発覚の直接的なきっかけは卵子入手の倫理問題だったが、当時の韓国政府は必要とあらば人体実験でも許可したのではないか、と思わせるような理性の失い方だった。

現在でも韓国政府は10年間で一人当たり最大20億ウォンの研究支援をする研究費事業を継続し、本格化させている。もはや韓国にとってノーベル賞獲得は、科学研究とは関係ない「国威発揚」でしかない。こんなやり方でノーベル賞を取っても、それに続く科学研究成果は決して出せないだろう。
僕は個人的に、今後、自分の研究のために海外に出ることはあっても、韓国で研究を行なうことは絶対にないだろうと思っている。研究倫理の根幹がこんなに狂ってる国で、得られるものなど何もない。

はたして日本は、こういう韓国のような国になりたいのか。
人としての尊厳を失ってまで、ノーベル賞が欲しいのか。
国際社会の中で日本が占めていくべき位置として、歴史から学んだ行いを貫けるのか。

今回の報道からは、毎日新聞の「ノーベル賞絶対主義」が見え隠れしている。 新聞社は常に記事のネタ探しに追われているので、「日本人、ノーベル賞受賞」のようなビッグニュースを歓迎する。ひとり日本人がノーベル賞を受賞すれば、その関連記事をつくっていくだけで当分は記事を書きつなげられる。
しかし、信念ある報道機関であれば、そのような打ち上げ花火を記事にするだけではなく、日本が継承していくべき倫理観のような「静かな記事」で読者を啓蒙する能力もあってしかるべきではないか。本当に大切なものは、記事にしやすい突発的事件などではなく、普段の生活の中にある。そういう、目指すべき日本の姿をしっかりと信念をもって抉り出す記事のひとつも書けないのか。

毎日新聞の書き方は、中内教授の言葉を借りて政府を批判している。非常に卑怯な書き方だ。中内教授の言葉は本心を吐露しているだけであって、政府批判を目的としているのではあるまい。しかし毎日新聞はその言葉をうまく配置し飾り立て、「中内教授が政府の方針を批判している」ことにして、自分の手を汚すことなく自社の利益に結びつくように記事をこね上げている。
もし毎日新聞が本当に科学研究倫理について政府に物申すのであれば、中内教授の影に隠れていないで、堂々と自社の社説で批判するべきだ。政府を批判すること自体は良い。しかし、批判するなら己の責任で、自分の口で批判しなければなるまい。


中内教授がアメリカに移籍するのであれば、自身がギルモア博士になる可能性について、自分で覚悟を固めればよいだけの話だ。生命科学の研究にはどのみちその試練はつきまとうものだし、研究者の資質の中にはそれを乗り越えていく覚悟も含まれていると思う。
しかし、その研究事情と、それをとりまく日本政府の研究倫理指針は、まったく別の話だ。「ノーベル賞」という一般読者の意見操作に便利なアイテムを振りかざし、無関係なふたつの話を強引に結びつけて、読者を特定の意見に誘導しようとしている。新聞記事として下の下と断言してよい。



何が「波紋を広げそう」だ。それを煽っているのは自分達だろうが。
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ペンギン命

takutsubu

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