たくろふのつぶやき

春来たりなば夏遠からじ。

2012年08月

高知新聞の4コママンガ

スペイン






なんか観光客が押し寄せる大人気らしいですね

ドラゴンクエストX

ドラクエ10




夏休みということで、ドラゴンクエストXをやってるんですけどね。


評価としては「うーん」という感じ。
少なくとも、買った時に期待したものとは違うことは確か。

まず、始めるまでがめんどくさい。
やれ16GBのメモリースティックが必要だの、やれネットワーク接続が必要だの、やれ初期インストールに1時間かかるだの、始めるまでに手間がかかりすぎる。ソフトさえ買えばできる、という簡易性が削がれている。少なくともお手軽にできるゲームではなくなった。敷居が高くなった気がする。

それに、やっぱり有料課金はいかがなものか。
ドラクエXは基本的にインターネット接続が必要なネットワークゲームなので、ライセンスを購入してネット上で遊ばなければならない。1ヶ月1000円という金額を高いとみるか安いとみるかは人それぞれだろうが、少なくとも子供が気軽に遊べるものではないことは確かだ。しかもネット接続料金にはクレジットカードが必要。これは完全にスクウェア・エニックスが訴求先を「金をもってる大人」だけをターゲットにしている証左だろう。

登録制の有料課金にした背景には、転売阻止という背景もあると思う。クリアしたら中古ソフト屋に売りさばいたり、発売後しばらく待って中古で安く買う形態は、いまのビデオゲーム業界に根付いている。今回のドラクエは完全登録制のため、いちどネット上で登録されたら転売ができない。
それは今回のドラクエがネットゲームになった背景のひとつだと思うが、僕はスクウェア・エニックスの販売戦略の大きな転換があるような感じがした。

今の日本は、最近のアニメにしてもアイドルにしても、「固定客を絞って狙い撃ちにする」という経営戦略が定着している。AKB48にしても、幅広く老若男女に支持されるようなアイドル像は最初から放棄している。握手会の入場券や総選挙の投票権なるものを入れたCDを出せば、100枚でも200枚でも同じCDを買うような「金のある頭の悪い大人」をターゲットに絞り込んでいる。
今回のドラクエXも、大人にも子供にも楽しんでもらうようなゲーム像を振り捨て、「金を絞り取れる層から絞り取る」という作り方に見える。普段からネットゲームにはまっている人にとっては、今回のドラクエXはそれほど違和感のないゲームなのかもしれない。しかし、朝から晩まで自室にこもってネットゲーム三昧に耽るような人種というのは、それほど多くはあるまい。スクウェア・エニックスは、そういう層の支持を得るところに、ドラクエの未来像があると思ったのだろうか。

ドラクエは昨日今日に始まったゲームではない。なにせ、僕が小学生だった頃から20年以上の歴史のあるゲームだ。そういうゲームが新作を出す時にまず配慮すべきは、「小学生、中高生、大学生などの学生層を取り込むこと」だと思う。その時期に夢中になったゲームは、大人になっても絶対にやりたくなる。
なのに、今回の新作のようにその層をあっさり切り捨てるようなゲームの作り方は、ドラクエの将来を先細りさせるだけだと思う。クレジットカードでの登録が必要なゲームなど小学生の子供がやろうとしても親はやらせてくれないだろう。有料課金はたとえ月1000円だとしても学生にはきついだろう。その層のドラクエ離れが進むと、間違いなく10年後にドラクエは新作を出せなくなるだろう。誰も「久しぶりにやりたいなあ」などとは思わなくなる。

なんか、スクウェア・エニックスが必死になって「新しいものを」と躍起になって作った根性策、という気がしてならない。オンラインゲームにせよ有料課金にせよ、それが最新のゲーム業界の動向だ、という向きもあるのかもしれない。しかし、それをドラクエという固定客のあるシリーズでやる必要があるのだろうか。
ドラクエをやる層は、別にネットでの交流とかキャラの交換とか、別にどうでもいいと思う。ドラクエというのは基本的に一人でやり込むゲームであって、こんなネット上で広大な世界観をつくる必要はないのではないか。

今回のドラクエは、レベルが15くらいからいきなり上がらなくなる。どんなに敵を倒しても経験値をためても、一向にレベルが上がらない。
おそらくスクウェア・エニックスは、良く言えば「できるだけ長い時間をユーザーに楽しんでもらいたい」、穿った見方をすれば「プレイ時間を少しでも長引かせてネット接続料金をふんだくりたい」という意図なのだと思う。
しかし、レベルが上がらないドラクエがなんぼのもんじゃ。なかなかクリアできない、果てしなく長いゲームが楽しいゲームか、といえば、そんなことはあるまい。ラスボス前のダンジョンで延々とレベル上げをする時間は、ドラクエユーザーにとってまんざら悪い時間ではない、ということを、スクウェア・エニックスは分かっていないのではあるまいか。


今回のドラクエXは、「ドラクエがネットゲームになった」のではない。「わけの分からんネットゲームがドラクエの名を騙ってる」のだと思う。ドラクエが好きな人には全くおすすめしない。普段からネットゲームにはまっている人が、ドラクエテイストのものをやりたいと思えば、やればいいのではないか。



好きだったゲームのシリーズがまたひとつ終わった気分

違いが分からん

ぜんぶおなじ






しかも俺の好みじゃない

私が人生で学んだこと

6歳のとき
「きよしこの夜」を歌いながらいつも泣くから
わたしはその先生が好きなんだとわかった

7歳のとき
飼ってる犬もわたしと同じでブロッコリーが嫌いなんだとわかった

9歳のとき
田舎の人は 手を振ると
仕事の手を止めても 手を振り返してくれるんだとわかった

12歳のとき
お部屋を便利なように整えると
ママはもう一度片付けろと言うことがわかった

14歳のとき
元気になりたいと思ったら
誰かを元気付ければいいとわかった

15歳のとき 
認めるのは嫌なんだけど
パパとママが厳しいのはいいことなんだとわかった

24歳のとき
アドバイスの言葉よりも
何も言わずにそばにいてくれる友達の方が
心を癒してくれるとわかった

26歳のとき
わが子の髪をとかしてあげることは
ほんとうに幸せなことなんだとわかった

29歳のとき
わたしが行くところにはいつも
この世で一番運転の下手な人がついてくるんだとわかった

39歳のとき
誰かがわたしの悪口を言ったら
自分は誰もそれを信じないような
生き方をすればいいんだとわかった

42歳のとき
本当は自分をとても大切に思ってくれているんだけど
その示し方がわからないだけという人がいることを知った

44歳のとき
ちょっとした手紙を送るだけで
誰かの一日をいい一日にできるんだとわかった

46歳のとき
自己嫌悪の強い人は
他の人を責める気持ちも強いとわかった

47歳のとき
おじいちゃんおばあちゃんと孫たちは
自然とチームを組むものなんだとわかった

48歳のとき
今日 何があろうと どんな悪いことが起ころうと
人生は続いていくし 明日はいいことがあるんだとわかった

49歳のとき
聖歌の「アメイジング・グレイス」を歌うと
とても元気になることがわかった

50歳のとき
ホテルのベッドのマットレスは
電話の傍じゃない方が寝心地がいいとわかった

52歳のとき
この3つのことをどう処理するかで
男の人はだいたいわかると知った
雨の日
なくし物
こんがらがったクリスマスツリーのライト

52歳のとき
自分で野菜畑を作るのは
いっぱい詰まった薬箱と同じ価値があるとわかった

55歳のとき
親とどういう関係にあろうが
親が死んだら本当に悲しいものだということがわかった

58歳のとき
「生きること」と「暮らしていくこと」は
違うんだとわかった

61歳のとき
子供に良くしてやろうと思ったら
まず自分の夫婦関係を良くしなければいけないとわかった

62歳のとき
人生には二度目のチャンスが与えられているとわかった

64歳のとき
両手にキャッチャーミットを持ってたらいけない、
何かを投げ返せるようにならなくてはいけないとわかった

65歳のとき
幸せそのものを追い求めればそれは逃げていくけど
家族と、他の人の必要と、新しい出会いと、
ベストを尽くすことを心がければ
幸せが自分を見つけてくれるんだとわかった

66歳のとき
優しい心で何かをする時
それはたいてい正しいことだとわかった

72歳のとき
誰にでも祈ることが必要だとわかった

75歳のとき
奇跡を信じる者は報われるとわかった
実は わたしもいくつか奇跡を目撃したので

82歳のとき
苦しみがあっても
誰かの苦しみの種になる必要はないとわかった

85歳のとき
毎日誰かと触れ合うことが必要だとわかった
握手でも、抱擁でも、軽く背中をなでてやることでもいい
人は人のぬくもりが必要なのだと


92歳のとき
まだまだ学ぶべきことがたくさんあるということがわかった



作者不詳。

序数詞

大学で日本語授業を担当しているので、助数詞を教える機会がある。


「一匹」「一頭」「一人」「一冊」「一個」など、ものの数を数えるときに必ずつけなければいけない単位のことを指す。世界の言語のなかでも珍しい現象なので、外国人が日本語を勉強するときにはなかなか覚えるのが難しい。モノそれぞれにつき別々の
数詞を覚えなければいけない、ということを理解すると、呆然とする。


そうやって序数詞を教えていると、最近気になる
数詞がある。
「携帯電話」につく
数詞は何だろう?


学生さんに訊いてみると、おおむね「一台、二台」だそうだ。
しかし固定電話でもあるまいし、「一台」はおかしくないか。携帯電話みたいに持ち運びできるサイズのものに「台」を使う例がほかにあるだろうか。

かといって「一機、二機」かというと、これも何か違う。なんか軍用の衛星電話みたいだ。
なんかマシン感が凄過ぎて、ポケットにも入る携帯電話にそぐわない気がする。

まぁ、「一台、二台」でいいのだろう。むしろ、「台」という
数詞の意味が少し変化しているのだと思う。
個人的には、ノートパソコンの普及がきっかけではないかと睨んでいる。むかしデスクトップのパソコンしかなかったとき、パソコンは「一台、二台」と数えたのだろう。ノートパソコンになっても初期型のデカいやつは同じ数え方でよい。
しかしノートパソコンが軽量化し、タブレット端末が普及してきても、相変わらず「一台、二台」という数え方を踏襲したのではあるまいか。それが定着し、持ち運べるか否かに関係なく、個人使用の端末はすべて「台」と数えるように
数詞の意味が変化してきたのだと思う。


E-mailの数え方も腑に落ちない。
紙の手紙だったら「一通、二通」だが、メールは「一件、二件」と数えるのだそうだ。まるで苦情や110番通報の数え方だ。

僕の感覚では、メールは送信と受信で数え方が違うような気がする。
メールを打つときには、「あ、ごめん、メール1通打つね」のように、「一通、二通」を使う。
一方、受信するメールのときには「未読メールが2件あります」のように、「一件、二件」を使う。
同じメールでありながら、送る側と受ける側の数え方が違うというのは、なんか不思議だ。


日本語の授業では日本のむかしばなしを素材に使うときがある。
このとき、僕がかねてから不思議なのは、鬼の数え方だ。

ほぼすべての昔話で、鬼は「一匹、二匹」と数える。
しかし「匹」という
数詞は、ウサギやリスのように、小型の動物に使うものだ。せめて牛や馬のように「頭」で数えるべきではないか。
少なくとも、ほとんどの昔話では鬼は怖い存在として登場している。それに「匹」という序数詞を使うと、なんか「簡単に倒せる弱っちい存在」のように聞こえはしないか。

なかには『泣いた赤鬼』のように、鬼が人間の仲間になる物語もある。そういうお噺では、仲間になったときから鬼は「一人、二人」と数える。
そうなると、鬼を数える
数詞は、「差別感覚に基づいたもの」ということになる。生命体を数えるときにつける序数詞で、その生命体の社会的地位を反映させていることになる。
いずれにせよ、差別問題に敏感な留学生に教える際には苦労しそうな
数詞ではある。



幽霊って何て数えるんだろう。
ペンギン命

takutsubu

ここでもつぶやき
バックナンバー長いよ。
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