2011年03月
プロ野球界が揉めてるようですね。
3/25の開幕に、予定通り試合を始めていいものかどうか。
一応、セ・リーグは予定通り開幕、パ・リーグは延期ということになっているようです。
ま、仙台の楽天と、千葉ロッテがありますからね。
セ・リーグの25日開幕を強行に押し進めているのは、またもやというか、巨人の渡辺恒雄オーナーのようだ。
それに対し、阪神の新井を会長とする労組・日本プロ野球選手会が反発している、という構図らしい。
渡辺会長×選手会全面戦争再燃、25日強制開幕でスト必至
これに対し、ネット上ではおおむね延期案に意見が傾いているようだ。
心情的にも、「震災なんて知ったことか。俺は野球が観たいんだ」という意見など許されない、という程度には公共心がある人が多いのだろう。 僕も個人的には、開幕延期は止むを得ないと思う。
しかし、議論は平行線をたどっているように見える。決め手がない。
その原因は、僕が見る限り、「開幕延長すべき」案の根拠が、多分に心情的なものだからだと思う。「こんな時期になにが野球だ」「被災者のことを考えろ」のような意見が多い。せいぜい「計画停電の最中にナイターとは何事か」程度の根拠だ。
はっきり言うと、説得力がないのだ。
では、なぜ説得力がないのか。
それは、戦の鉄則「敵を知り、己を知れば、百戦危うからず」のうち、「敵を知り」を怠っているからだと思う。
具体的には、「なぜセ・リーグ球団側はそんなに25日開幕に固執するのか」を全然考えようとしていない。もしその理由が分かれば、そこを是正する形で開幕延期を提案すれば、敵は折れる可能性はかなり高くなるはずだ。
僕は球団の台所事情など全然知らないが、推測するくらいならできる。
球団の支出のうち金額がデカいのは、「選手の年棒」「球団運営費」「球場使用料」だろう。
特に、選手の年棒高騰はどの球団でも収支を逼迫させる頭痛のタネだろう。
調べてみると、2010年度の巨人の年棒総額は48億4300万円。
2位の阪神・33億6500万円、4位の中日・30億6300万円と、年棒ランキング上位にはセ・リーグの人気球団が並ぶ。
球団運営費に関しては、球団職員の給料だけを考えても、50人×1000万円で5億円くらいはかかっているだろう。選手年棒から漏れた監督・コーチ・スタッフの類いを含めても、10億円くらいいっているかもしれない。
その他、春のキャンプ諸経費、2軍運営費、施設運用費、広告費などを含めると、ざっくり込み込みで70億円くらいかな、と仮定してみる。
球場使用料に関しても、「開幕が延期になりました。だから使わない日の分はチャラね」というわけにはいかないだろう。スケジュールは年間で押さえているのだろうし、開催しなくてもなんらかの費用は発生するだろう。
調べてみると、巨人が本拠地としている東京ドームは、推定で年間20億円の使用量がかかるらしい。
選手年棒が約50億、球団運営費が約70億、球場使用料が約20億として、球団の主要な年間支出は約140億円。
それを1シーズン144試合で割ると、概算で1試合につき約1億円かかっている計算になる。
翻って収入のほうを考えてみると、巨人の2010年のホームゲーム72試合で、観客動員総計が約300万人。
面倒なのでチケット1枚が5000円として一律に計算してみると、300万人×5000円=150億円の収入、ということになる。1試合あたりにすると1億400万円の収入だ。
年間収入150億円から年間支出の140億円を引くと、純収益として1年間でだいたい10億円のプラス、という計算になる。
つまり、ざっと概算してみた限り、巨人にとって1つ試合が中止になる、ということは、球団にとって1億400万円の損になる、ということを意味する。
仮に開幕を1ヶ月遅らすとして、20試合が流れたとしよう。それだけで20億円強の損失が生じる。
そりゃ、ナベツネでなくても、ゴネたくなるだろう。
選手の年棒が厳しいのは、主にセ・リーグの人気球団だ。
だからセ・リーグのほうが強行に開幕予定の遵守を主張している、と考えるのは自然な帰結だろう。
しかし選手会の言い分ももっともで、実際のところ、日本がこんな状態のときに開幕している場合ではない、という見方もある。心情的な理由ではあるが、そもそも人間は心情で生きている。完全に無視できる意見ではあるまい。
先のプロ野球再編問題の際にも、決め手となったのは、ナベツネの「たかが選手の分際で」という一言でオーナー側が世論を敵に廻したからだ。今回も、世論の多くが反対意見であるところを押し切って強引に開幕をしたとしても、皆が楽しめる野球が開催できるとは思えない。
では、どうすればいいのか。
答えは明らかだ。世間の一般企業は、とっくにその答えを出している。
球団の支出のうち、球団運営費と球場使用量は切り詰めることができない。経費削減に奔走しても、1ヶ月20億の損失の前では焼け石に水だろう。
だから、削れるところを削る。つまり、選手の年棒を、中止期間に見合う分だけ削減する。
「企業存亡の時には人件費を削る」くらい、世間では当たり前なのだ。
プロ野球選手会が「被災者のことを考えて開幕を延期すべき」というのは立派な意見だが、その意見は、延期が及ぼす球団への影響に対して責任を負ってはじめて、立派な意見になり得る。
もし選手会が「開幕は延期ね。あ、俺の年棒は下げないでね」というのであれば、それは単なる自分勝手だ。
プロ野球選手は、球団から給料をもらっている。被災者からもらっているのではない。であるのなら、開幕延期か否かを考えるときに、まずは球団のことを考えるのが筋だろう。
何のことはない。要は金だ。ナベツネを説き伏せて1ヶ月でも開幕を遅らせるべき、というのであれば、損失分の20億円をどうやって補填するのかという代案を提示しなくては、話にならないだろう。
オーナー側が事実としての損失を念頭に置いて主張しているのに、選手会側が被災者や世間の心情をベースに反論するのでは、話が噛み合っていない。そんな議論、100年続けても決着つかないだろう。
相手側の立場になって、相手側の論拠を見切るのは、ディベートの基本中の基本だ。
それを行うために必要なことはただひとつ、「両方の立場に立って大局的にトピックを俯瞰する」という客観力だ。「自分は自分は」一本槍のガチガチ主観では、攻め方ひとつ見えてこない。
この件に関する報道やWeb上での議論を見る限り、最初から「ナベツネ=悪役」というイメージを固定し、それを叩く構造に持ち込もうとしている。一種の大衆煽動だろう。そんな主張に説得力があるわけがない。「ナベツネだったら叩けば叩くほど世論の支持を得られる」という、一種の甘えに基づく論調が多過ぎるような気がする。
3/25の開幕に、予定通り試合を始めていいものかどうか。
一応、セ・リーグは予定通り開幕、パ・リーグは延期ということになっているようです。
ま、仙台の楽天と、千葉ロッテがありますからね。
セ・リーグの25日開幕を強行に押し進めているのは、またもやというか、巨人の渡辺恒雄オーナーのようだ。
それに対し、阪神の新井を会長とする労組・日本プロ野球選手会が反発している、という構図らしい。

渡辺会長×選手会全面戦争再燃、25日強制開幕でスト必至
25日開幕を巡り、労組・日本プロ野球選手会(新井貴浩会長=阪神)vs巨人・渡辺恒雄球団会長の全面対立が再燃。パ・リーグ存続の危機から球界再編、10球団1リーグ制度の動きに反対して、選手会が史上初のストライキを敢行した、2004年以来の非常事態。選手会が再びストライキも辞さずの危機が高まっている。
15日のセ、パ理事会でそれぞれセ・リーグが予定通りに25日開幕を強行、パ・リーグは開幕を延期することを決定した。が、労組・選手会が12球団実行委員会に対し、東日本大震災の深刻な影響を考え、「セ、パともに開幕を延期してほしい」と緊急提案。セ、パともに開幕延期の流れになっていたが、16日になって事態は急変した。
この日の財界G党による巨人軍激励会で巨人・渡辺球団会長が25日開幕の正当性を強調。セ・リーグはあくまで当初の予定通り25日に開幕することになった。パ・リーグは被災した仙台を本拠地にする楽天の深刻な状況を考え、開幕延期、セ、パ分離開幕が決定した。この裏にあるのが、巨人・渡辺球団会長と労組・選手会の確執再燃だ。
セ・リーグが理事会で25日開幕を決めたのは、巨人が予定通りに開幕することに固執したからだ。が、実行委員会での選手会の緊急提案で白紙状態に戻った。この事態に怒りを爆発させたのが、巨人・渡辺球団会長だったことは、容易に想像がつく。
というのも、04年のシーズン中に起きたオリックスと近鉄の合併に端を発した球界再編、10球団1リーグ制度の動きを阻止したのが労組・選手会だからだ。西武・堤義明オーナー、オリックス・宮内義彦オーナーが巨人・渡辺オーナー(当時)に対し、「パ・リーグは存続できない。1リーグ制度にしてほしい」と懇願。巨人・渡辺オーナーが了承して、球界再編は必至の情勢だった。が、当時、古田敦也会長だった労組・選手会が「12球団2リーグ制度堅持」を訴え、史上初のストライキを敢行して成功。現在に至っている。
選手会が勝利したのは、「たかが選手の分際で」という渡辺オーナーの発言が、決定的な追い風になったからだ。世論が渡辺発言に猛反発、選手会を熱烈支持したのだ。今回、選手会が要求する「セ、パともに開幕延期」が実現すれば、またまた球界のドンと言われる渡辺球団会長の面目は失われることになる。そういった背景によるセ・リーグの25日開幕強行決定といえる。
しかし、選手会サイドも「まだ復興のメドも立っていないこの時期に野球をすることが許されるのか。開幕することで、被災者に勇気と元気を与えるというのは、思い上がりだ」という基本姿勢を崩していない。ストライキも辞さずの強硬姿勢をちらつかせているという。セ・リーグが当初予定通りの25日開幕。パ・リーグは延期という、分離開幕ですんなりと一件落着とはいきそうにない情勢だ。球界は重大局面に直面する大危機を迎えている。
これに対し、ネット上ではおおむね延期案に意見が傾いているようだ。
心情的にも、「震災なんて知ったことか。俺は野球が観たいんだ」という意見など許されない、という程度には公共心がある人が多いのだろう。 僕も個人的には、開幕延期は止むを得ないと思う。
圧倒的。
しかし、議論は平行線をたどっているように見える。決め手がない。
その原因は、僕が見る限り、「開幕延長すべき」案の根拠が、多分に心情的なものだからだと思う。「こんな時期になにが野球だ」「被災者のことを考えろ」のような意見が多い。せいぜい「計画停電の最中にナイターとは何事か」程度の根拠だ。
はっきり言うと、説得力がないのだ。
では、なぜ説得力がないのか。
それは、戦の鉄則「敵を知り、己を知れば、百戦危うからず」のうち、「敵を知り」を怠っているからだと思う。
具体的には、「なぜセ・リーグ球団側はそんなに25日開幕に固執するのか」を全然考えようとしていない。もしその理由が分かれば、そこを是正する形で開幕延期を提案すれば、敵は折れる可能性はかなり高くなるはずだ。
僕は球団の台所事情など全然知らないが、推測するくらいならできる。
球団の支出のうち金額がデカいのは、「選手の年棒」「球団運営費」「球場使用料」だろう。
特に、選手の年棒高騰はどの球団でも収支を逼迫させる頭痛のタネだろう。
調べてみると、2010年度の巨人の年棒総額は48億4300万円。
2位の阪神・33億6500万円、4位の中日・30億6300万円と、年棒ランキング上位にはセ・リーグの人気球団が並ぶ。
球団運営費に関しては、球団職員の給料だけを考えても、50人×1000万円で5億円くらいはかかっているだろう。選手年棒から漏れた監督・コーチ・スタッフの類いを含めても、10億円くらいいっているかもしれない。
その他、春のキャンプ諸経費、2軍運営費、施設運用費、広告費などを含めると、ざっくり込み込みで70億円くらいかな、と仮定してみる。
球場使用料に関しても、「開幕が延期になりました。だから使わない日の分はチャラね」というわけにはいかないだろう。スケジュールは年間で押さえているのだろうし、開催しなくてもなんらかの費用は発生するだろう。
調べてみると、巨人が本拠地としている東京ドームは、推定で年間20億円の使用量がかかるらしい。
選手年棒が約50億、球団運営費が約70億、球場使用料が約20億として、球団の主要な年間支出は約140億円。
それを1シーズン144試合で割ると、概算で1試合につき約1億円かかっている計算になる。
翻って収入のほうを考えてみると、巨人の2010年のホームゲーム72試合で、観客動員総計が約300万人。
面倒なのでチケット1枚が5000円として一律に計算してみると、300万人×5000円=150億円の収入、ということになる。1試合あたりにすると1億400万円の収入だ。
年間収入150億円から年間支出の140億円を引くと、純収益として1年間でだいたい10億円のプラス、という計算になる。
つまり、ざっと概算してみた限り、巨人にとって1つ試合が中止になる、ということは、球団にとって1億400万円の損になる、ということを意味する。
仮に開幕を1ヶ月遅らすとして、20試合が流れたとしよう。それだけで20億円強の損失が生じる。
そりゃ、ナベツネでなくても、ゴネたくなるだろう。
選手の年棒が厳しいのは、主にセ・リーグの人気球団だ。
だからセ・リーグのほうが強行に開幕予定の遵守を主張している、と考えるのは自然な帰結だろう。
しかし選手会の言い分ももっともで、実際のところ、日本がこんな状態のときに開幕している場合ではない、という見方もある。心情的な理由ではあるが、そもそも人間は心情で生きている。完全に無視できる意見ではあるまい。
先のプロ野球再編問題の際にも、決め手となったのは、ナベツネの「たかが選手の分際で」という一言でオーナー側が世論を敵に廻したからだ。今回も、世論の多くが反対意見であるところを押し切って強引に開幕をしたとしても、皆が楽しめる野球が開催できるとは思えない。
では、どうすればいいのか。
答えは明らかだ。世間の一般企業は、とっくにその答えを出している。
球団の支出のうち、球団運営費と球場使用量は切り詰めることができない。経費削減に奔走しても、1ヶ月20億の損失の前では焼け石に水だろう。
だから、削れるところを削る。つまり、選手の年棒を、中止期間に見合う分だけ削減する。
「企業存亡の時には人件費を削る」くらい、世間では当たり前なのだ。
プロ野球選手会が「被災者のことを考えて開幕を延期すべき」というのは立派な意見だが、その意見は、延期が及ぼす球団への影響に対して責任を負ってはじめて、立派な意見になり得る。
もし選手会が「開幕は延期ね。あ、俺の年棒は下げないでね」というのであれば、それは単なる自分勝手だ。
プロ野球選手は、球団から給料をもらっている。被災者からもらっているのではない。であるのなら、開幕延期か否かを考えるときに、まずは球団のことを考えるのが筋だろう。
何のことはない。要は金だ。ナベツネを説き伏せて1ヶ月でも開幕を遅らせるべき、というのであれば、損失分の20億円をどうやって補填するのかという代案を提示しなくては、話にならないだろう。
オーナー側が事実としての損失を念頭に置いて主張しているのに、選手会側が被災者や世間の心情をベースに反論するのでは、話が噛み合っていない。そんな議論、100年続けても決着つかないだろう。
相手側の立場になって、相手側の論拠を見切るのは、ディベートの基本中の基本だ。
それを行うために必要なことはただひとつ、「両方の立場に立って大局的にトピックを俯瞰する」という客観力だ。「自分は自分は」一本槍のガチガチ主観では、攻め方ひとつ見えてこない。
この件に関する報道やWeb上での議論を見る限り、最初から「ナベツネ=悪役」というイメージを固定し、それを叩く構造に持ち込もうとしている。一種の大衆煽動だろう。そんな主張に説得力があるわけがない。「ナベツネだったら叩けば叩くほど世論の支持を得られる」という、一種の甘えに基づく論調が多過ぎるような気がする。
野球観たいけどね。開幕戦のチケットも買ったし。
『流言蜚語』寺田寅彦
(大正13年9月『東京日日新聞』)
(太字は引用者による)
(大正13年9月『東京日日新聞』)
長い管の中へ、水素と酸素とを適当な割合に混合したものを入れておく、そうしてその管の一端に近いところで、小さな電気の火花を瓦斯(ガス)の中で飛ばせる、するとその火花のところで始まった燃焼が、次へ次へと伝播して行く、伝播の速度が急激に増加し、遂にいわゆる爆発の波となって、驚くべき速度で進行して行く。これはよく知られた事である。
ところが水素の混合の割合があまり少な過ぎるか、あるいは多過ぎると、たとえ火花を飛ばせても燃焼が起らない。尤も火花のすぐそばでは、火花のために化学作用が起るが、そういう作用が、四方へ伝播しないで、そこ限りですんでしまう。
流言蜚語の伝播の状況には、前記の燃焼の伝播の状況と、形式の上から見て幾分か類似した点がある。
最初の火花に相当する流言の「源」がなければ、流言蜚語は成立しない事は勿論であるが、もしもそれを次へ次へと受け次ぎ取り次ぐべき媒質が存在しなければ「伝播」は起らない。従っていわゆる流言が流言として成立し得ないで、その場限りに立ち消えになってしまう事も明白である。
それで、もし、ある機会に、東京市中に、ある流言蜚語の現象が行われたとすれば、その責任の少なくも半分は市民自身が負わなければならない。事によるとその九割以上も負わなければならないかもしれない。何とならば、ある特別な機会には、流言の源となり得べき小さな火花が、故意にも偶然にも到る処に発生するという事は、ほとんど必然な、不可抗的な自然現象であるとも考えられるから。そしてそういう場合にもし市民自身が伝播の媒質とならなければ流言は決して有効に成立し得ないのだから。
「今夜の三時に大地震がある」という流言を発したものがあったと仮定する。もしもその町内の親爺株の人の例えば三割でもが、そんな精密な地震予知の不可能だという現在の事実を確実に知っていたなら、そのような流言の卵は孵化らないで腐ってしまうだろう。これに反して、もしそういう流言が、有効に伝播したとしたら、どうだろう。それは、このような明白な事実を確実に知っている人が如何に少数であるかという事を示す証拠と見られても仕方がない。
大地震、大火事の最中に、暴徒が起って東京中の井戸に毒薬を投じ、主要な建物に爆弾を投じつつあるという流言が放たれたとする。その場合に、市民の大多数が、仮りに次のような事を考えてみたとしたら、どうだろう。
例えば市中の井戸の一割に毒薬を投ずると仮定する。そうして、その井戸水を一人の人間が一度飲んだ時に、その人を殺すか、ひどい目に逢わせるに充分なだけの濃度にその毒薬を混ずるとする。そうした時に果してどれだけの分量の毒薬を要するだろうか。この問題に的確に答えるためには、勿論まず毒薬の種類を仮定した上で、その極量を推定し、また一人が一日に飲む水の量や、井戸水の平均全量や、市中の井戸の総数や、そういうものの概略な数値を知らなければならない。しかし、いわゆる科学的常識というものからくる漠然とした概念的の推算をしてみただけでも、それが如何に多大な分量を要するだろうかという想像ぐらいはつくだろうと思われる。いずれにしても、暴徒は、地震前からかなり大きな毒薬のストックをもっていたと考えなければならない。そういう事は有り得ない事ではないかもしれないが、少しおかしい事である。
仮りにそれだけの用意があったと仮定したところで、それからさきがなかなか大変である。何百人、あるいは何千人の暴徒に一々部署を定めて、毒薬を渡して、各方面に派遣しなければならない。これがなかなか時間を要する仕事である。さてそれが出来たとする。そうして一人一人に授けられた缶を背負って出掛けた上で、自分の受持方面の井戸の在所を捜して歩かなければならない。井戸を見付けて、それから人の見ない機会をねらって、いよいよ投下する。しかし有効にやるためにはおおよその井戸水の分量を見積ってその上で投入の分量を加減しなければならない。そうして、それを投入した上で、よく溶解し混和するようにかき交ぜなければならない。考えてみるとこれはなかなか大変な仕事である。
こんな事を考えてみれば、毒薬の流言を、全然信じないとまでは行かなくとも、少なくも銘々の自宅の井戸についての恐ろしさはいくらか減じはしないだろうか。
爆弾の話にしても同様である。市中の目ぼしい建物に片ッぱしから投げ込んであるくために必要な爆弾の数量や人手を考えてみたら、少なくも山の手の貧しい屋敷町の人々の軒並に破裂しでもするような過度の恐慌を惹き起さなくてもすむ事である。
尤も、非常な天災などの場合にそんな気楽な胸算用などをやる余裕があるものではないといわれるかもしれない。それはそうかもしれない。そうだとすれば、それはその市民に、本当の意味での活きた科学的常識が欠乏しているという事を示すものではあるまいか。
科学的常識というのは、何も、天王星の距離を暗記していたり、ヴィタミンの色々な種類を心得ていたりするだけではないだろうと思う。もう少し手近なところに活きて働くべき、判断の標準になるべきものでなければなるまいと思う。
勿論、常識の判断はあてにはならない事が多い。科学的常識は猶更である。しかし適当な科学的常識は、事に臨んで吾々に「科学的な省察の機会と余裕」を与える。そういう省察の行われるところにはいわゆる流言蜚語のごときものは著しくその熱度と伝播能力を弱められなければならない。たとえ省察の結果が誤っていて、そのために流言が実現されるような事があっても、少なくも文化的市民としての甚だしい恥辱を曝す事なくて済みはしないかと思われるのである。
(太字は引用者による)
科学を学ぶというのは、こういうことだ。
頑張ろう!
(出川哲朗オフィシャルブログ 2011年3月16日)
(出川哲朗オフィシャルブログ 2011年3月16日)
昨日のさんま御殿の収録中
オープニングでさんまさんが言った
「今、俺達芸人が出来る事は、笑いを提供する事だ!
困っている人達を笑顔にする事だ!
今日は、頑張るぞー! な~出川!」
俺は、笑いにして返したが
本当は、さんまさんの言葉に胸がジ~ンとしていた
本当にその通りだと思った
震災の後
少しモヤモヤしながら収録をこなしていたが
さんまさんの言葉で、スッキリした
俺達は、全力で仕事を頑張るんだ!
少しでも、みんなが笑顔になれる様に!
しかし本番中
さんまさんの言葉に力が入りすぎ
一番笑いを提供してたゲストは
俺達芸人じゃなく
ダイヤモンド・ユカイさんだった
それぞれの人にそれぞれの役割。
ペンギン命
takutsubu
ここでもつぶやき
趣味。
ネタ元
バックナンバー長いよ。
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