たくろふのつぶやき

春来たりなば夏遠からじ。

2010年04月

大学の研究室

僕は今勤めてる大学で3年目ですが。
3年も経つと、いつのまにか研究室に住みついてる学生が発生しますな。


高校までと違って大学というものは、学生自身が学びたいと思うものを「攻めて学ぶ」場所だ。
「この先生からもっと学びたい」というものを見つけられれば、その先生に食いついて、なんでも吸収しようという心構えは必要だと思う。
思い返してみれば、僕も学部生の頃はそうやって指導教官の研究室に頻繁に出入りしていた。

僕が学部時代の指導教官は、学部生相手の授業でも一切手加減をしない先生だった。
英語学の基礎の授業でも、平気で原著の分厚い教科書を指定して使う。説明内容も、初学者にわかりやすく噛み砕いて教えるのではなく、そのトピックが最新の研究でどういう位置づけになっているのかという、上からの視点で説明していた。
授業についていけなくて、授業中に寝ている学生もたくさんいた。

当然、授業内容はさっぱり理解できない。
そのたびに、授業のノートと教科書をもって先生の研究室に質問に行った。

研究室に行くと、先生は多忙な時間を割いて、よく質問に答えてくれた。
自分はどこが分からないのか、それは何が分かっていないからなのか、授業内容を理解するためにはまず何を知らねばならないのか、そういう積み重ねの欠如は、授業中ではなく先生の研究室で理解していた。
思えば、僕は授業時間よりも、先生の研究室で個別に質問に答えてもらっている時間のほうが遥かに長かったような気がする。

その先生に教えてもらったことは、学部生当時には理解できないことがほとんどだった。
大学院に入って本格的に勉強をはじめてから、当時の授業のノートを紐解いて、はじめて先生の授業内容の意図が理解できた、ということもしばしばあった。

実はその先生は、僕の正式な指導教官ではなかった。所属していたゼミには文学が専門の別の先生がおり、書面上ではそちらが指導教官ということになっていた。
僕が理論言語学で卒論を書きたいと決めてからは、双方の先生の了承をとり、実際の指導は理論言語学が専門の先生にしていただいた。

正式な指導教官ではないながらも、その先生は一切手を抜かず、僕が必要としていた指導をすべて行ってくれた。大学院を受験するときも道を開いてくれたのはその先生だ。
授業のない日でも、夏休みでも、僕が必要であれば面会の時間をとってくれる。僕はその先生に指導をお願いして、断られたことが一度もない。
しょせん学部の卒論レベルでは、先生が本気を出して相手をするほどの内容ではなかったのかもしれない。しかし物理的には時間と手間をかけるわけだし、人を相手にするというのは、どんな相手であっても大変な仕事だと思う。

僕がその指導教官から学んだことはたくさんある。しかし今考えてみると、知識そのものは、その先生に教わらなくても、いずれ独学でも身につけることになるものばかりだった。少なくとも、大学院に入れば理解できるようになることばかりだ。


最近、その先生に一対一で相手をしてもらっていた頃のことをよく思い出す。


僕がその先生から学んだことは、知識ではない。研究するとはどういうことなのか、人を指導するということはどういうことなのか、そういう大学における研究生活の根本を成すものだったと思う。

大学という場で教育に携わる以上、仕事の本分は研究にある。自分の論文を発表し、学問の向上に寄与する。それが第一義であることは間違いない。
しかしそれを言い訳にして、次代の人材の育成を無視し、自分だけの世界にこもりきりになることは許されないだろう。

世界を知る方法論は、数限りなく存在する。科学はそのひとつにすぎない。
科学がもつ特徴のひとつは、継続性だ。個人の研究はその人ひとりで終わるのではなく、その成果を次世代の人間が継続できる。その繰り返しによって、科学は他の方法論よりも飛躍的な進歩をもたらした。
その科学の研究に携わっていながら、その後継たる次世代の育成を軽視するのは、矛盾だ。

僕の指導教官は、それを身を以て示してくれていた。
僕に対する個別指導が、先生の仕事時間を圧迫していたこともあったと思う。しかし、先生はまったくそんな素振りを見せたことがなかった。僕はそんなことは露ほどにも感じたことはなく、自分の勉強に没頭することができた。
今、自分が学生の指導をする立場になって、当時の先生にしていただいたことがどれほどのことだったのか、分かりかけてきた。

僕は個人的には、自分の研究分野に興味をもって研究室を訪れる学生に対しては、所属ゼミがどうの、指導教官がどうのは関係なく、相手をしてあげたいと思っている。少なくとも僕はそういう教育を受けた。
僕が学生当時の指導教官にどういう恩返しができるのかは、今の僕には分からない。僕ができるのは、先生にしていただいたことを、こんどは自分が学生にしてあげることだと思う。僕の講義や指導を通して、理論言語学という分野の面白さを少しでも感じてくれる学生が増えてくれれば、それがすなわち学問の裾野を広げることにつながる。
世の中というものは、そうやって前に前に進んでいくものではなかろうか。


・・・てなわけで最近、僕の研究室に座敷わらし共がおるのですが。
コレらがまた僕の研究室でまったりとくつろいでおるのですよ。
お茶しながらおしゃべりしておるのですよ。
ここはカフェじゃねぇぞ。

僕は嫁さんと二人暮らしなので、いただきものを消費できないことがたまにあります。
このあいだ、いただきもののカステラが食べきれないので、研究室に置いておきました。



「あー、先生、このカステラいただいていいんですかー?」



一瞬で食べ尽くされました。



どんなに食べてもおなかへる世代だからなぁ。

嗚呼,1年生

ラグビーのルールって、知らない人が多いですよね。


基本的に複雑なルールはすべて「オフサイド」に関するものなんですが、ラグビーの初心者にそのルールをぜんぶ教えるのはかなり大変です。
しかもポジションによって絡んでくるオフサイドのルールはかなり違ってきます。密集、スクラム、ラインアウトに関するオフサイドが多いFWに対し、キック処理に関するオフサイドが多いBK、という具合です。

だから、ラグビー初心者にルールを教えるときには、とりあえずまず試合をさせるんです。
ルール無用で、とりあえず「向こう側のラインにトライしろ」とだけ指示して、めちゃくちゃなまま試合をさせます。
当然、ルールを知らないまま試合をするわけですから、ひどいことになります。ボールを前に投げるし。地面に寝たままプレイするし。

そういう「不都合」を体験させることによって、ルールの大切さを学んでいくわけです。
ラグビーのルールというのは、いわばゲームを円滑に進めるための「紳士協定」ですから、ルールをきちんと守ることがすなわち安心して試合を進めることにつながることが、わかってきます。



なんてことを、



大学の1年生に英語で発表させる授業で思い出していました



もうね、発表のしかたがメチャクチャですよ。
パワーポイントのファイルはまとめてないし、ハンドアウトは作ってないし、自分が作ったファイルと再生するラップトップPCの整合性はチェックしてないし、そもそも持ち込みPCを自分たちで手配してないし。
パワーポイントのファイルが入ったUSBメモリを持って教室で立ち尽くしてるんですよ。
「コンピューターは?」と聞くと、「ありません。どうすればいいんですか?」だって。知らねぇよ
自分たちの発表だろうが。自分たちで用意しろよ。

大学では、こうした学生の発表用にノートパソコンを貸与しています。
授業やゼミで発表するときは、事前に申告してマシンを確保しておくのが常識です。
まぁ1年生だからその手続きの仕方を詳しく知らなかったにしても、PCもないまま、どうするつもりだったんでしょう。
「誰かが何とかしてくれる」とでも思ってたんでしょうか。

なんか、勉強ができる・できない以前に、そういう常識的なことに頭が回らない学生さんが多いような気がします。
「不安に感じたら事前に相談する」という、至極常識的なことができないんですね。
教室に来て、黙って座ってれば、授業というサービスを自動的に受けられる、という消極的な姿勢の「お客さん」気分です。

大学1年生に対する授業の入りは、まずその辺の意識改革からですね。



授業料がもったいないとは思わないのだろうか

ブラジリアン柔術世界王者の静岡県警・関根秀樹巡査部長の顔が怖すぎる件

県警にブラジリアン柔術の世界王者誕生 浜松中央署・関根巡査部長が喜びの報告


静岡県警に世界チャンピオン誕生−。浜松中央署駅前交番の関根秀樹巡査部長(36)が、アラブ首長国連邦で今月開かれたブラジリアン柔術の世界大会「ワールドプロフェッショナル柔術カップ世界大会」の98キロ超級で優勝した。23日、優勝報告のため県警本部を訪れ、「何も持って帰らないわけにはいかない、との気持ちだった。ほっとしました」と喜びを語った。   

大会は15日から3日間の日程で開催され、関根さんは98キロ超級と無差別級のトーナメント戦に出場。無差別級でも3位の成績を残した。  

ブラジリアン柔術は19世紀末にブラジルに移住した日本人柔術家から広まり、独自に発展した関節技などが特徴の格闘技。逆輸入された日本でも近年、格闘技ファンの間で人気が高い。  

柔道3段で、山梨学院大在学中に山梨県大会で準優勝したこともある関根さんが、ブラジリアン柔術に出合ったのは一昨年11月。  

浜松中央署で外国人犯罪を担当するようになったことから、「ブラジル文化を深く知りたい」と思ったのがきっかけで、浜松市東区の「ブルテリア格闘技ジム」の門をたたいた。以来、週4回のペースでジムに通う。身長176センチで、体重はこの1年で約10キロ増えて115キロ。  

優勝メダルを首から下げた関根さんから報告を受けた安村隆司本部長は「強い県警の象徴。これからも訓練を頑張って」とたたえた。  

関根さんは「来年の大会では、さらによい成績を取りたい。ブラジリアン柔術の普及にも貢献できれば」と抱負を語った。



ブラジリアン柔術

笑顔で優勝報告をする関根秀樹巡査部長
23日午前、静岡市葵区の県警本部で 




こんなのに職質されたら泣いて土下座するわな

数え上げ

1から5までの自然数を一列に並べる。どの並べ方も同様の確からしさで起こるものとする。このとき1番目と2番目の3番目の数の和と、3番目と4番目と5番目の数の和が等しくなる確率を求めよ。ただし、各並べ方において、それぞれの数字は重複なく一度ずつ用いるものとする。



ついこないだの、京都大学の前期入試問題(文理共通)。


数学のできない学生が増えている気がする。
いくら私立文系の大学に進学するにしても、少なくとも必修授業として数学は受講していたはずだ。それにしては論理的思考能力と現象を一般化する能力が皆無に近い学生が多い。

大学で授業中に「みなさん数学はできますか」と聞くと、みんな苦笑いしながら下を向く。そういう学生さんたちに、どうして数学ができなくなったのか聞いてみると、どうやら「数学」というものを「学校の試験で点を取れること」「問題が解けること」と思い込んでいる節がある。

冗談じゃない。高校の定期試験で点数がとれる程度のことが能力の証左であるならば、文法問題を全暗記して満点をとる学生は英語ができることになるのか。
こと数学に関する限り、「定期試験で点が取れる」というのは、数学に必要な能力のうち学校が客観的に評価しやすい面だけをクリアしているだけのことに過ぎない。それがそのまま本当の数学的能力であるわけではない。

観察した諸現象を一般化し、そこから法則性を導き出し、その正当性を立証する方法論は、どの学問分野においても等しく必要な能力だと思う。そうした試行錯誤の跡を簡潔にまとめたものが、公式や定理として結論づけられる。つまり公式や定理というものは、一連の思考過程の「結果」にすぎない。

しかし数学ができない学生に限って、公式や定理を、まず覚えなければならない「出発点」だと思い込んでいる。「わたし、公式とかってよく覚えていないんですよ。それを覚えられなければ問題を解けないじゃないですか」という具合だ。
つまり、数学がどのような能力を身につける分野なのかが分かっていない。

たとえば、定理というのは証明可能な言明のことだ。根源的には、定理というのはそれを使って入試問題を解くことが大事なのではない。そもそも、その定理をちゃんと証明できることのほうが大事なのだ。公理から出発してきちんと定理を証明できれば、すなわちそれは暗記する必要がない。いつでも導けるようになる。「知識」は蓄えることが目的ではない。それを使いこなせるようになることが目的なのだ。

数学に限らず、どの学問においてもまず必要な第一歩は、体当たりだ。
自分の眼で事実を見て、変化と法則性を書き並べる。そういう「観察」から出発し、自分の力で法則を見つけようという姿勢が何よりも大事だ。その過程をサボり、既存の知識や他人がつくってくれた法則を受動的に覚えることに執着する者が、主体的な思考能力を身につけられるはずがない。借り物の思考能力など、何の役にも立たない。

高校の数学の単元でいえば、そういう過程を一番体験しやすいのは、確率統計だと思う。どんな問題でも、まず自分でn=1の場合、n=2の場合、n=3の場合・・・と実験してみないことには、話が始まらない。そこから法則性を見つけて、それを一般化して記述する。
数学を課されることなく大学に入ってくるということは、その、最も基本的な能力すら必要とされなかったということだ。空恐ろしい。

上記の京都大学の問題だって、条件をちゃんと揃えて書いてみれば、両方の和に含まれるa3が鍵になることくらい、すぐに分かる。そうすれば場合分けの軸として、a3が奇数であることはすぐに分かるし、そうすればあとは条件を満たす場合分けは書き出せる。たかが5つの要素なので、全書き出しには根性すらいらない。ここを有限個の要素に設定してあり、n, n+1, n+2, ... という一般数にしなかったあたり、京都大学の情けだろう。京大くらいのレベルだったら、そこは手加減しなくてもよかったような気がする。


(こたえ)


並べた自然数を左から順にa1, a2, a3, a4, a5とする。
a1+a2+a3 = a3+a4+a5
⇔ a1+a2 = a4+a5   ・・・(A)

ここで a1+a2+a3+a4+a5 = 15なので、a3は奇数である。

(i) a3 = 1のとき、(A)を満たすa1、a2、a4、a5の組は、
< a1, a2, a4, a5 > =
<2, 5, 3, 4>, <5, 2, 3, 4>, <2, 5, 4, 3>, <5, 2, 4, 3>,
<3, 4, 2, 5>, <4, 3, 2, 5> <3, 4, 5, 2>, <4, 3, 5 2>
の8通り。

(ii) a3 = 3, 5のとき、
(i)と同様に8通りずつ。

以上により求める確率は、 3x8/5! = 1/5



5分以上は要らない問題だろうな

売ってなければ自分で作る

「ぶっかけ!おかずラー油チョイ辛」を作った
(デイリーポータルZ)



その意気や良し。
ペンギン命

takutsubu

ここでもつぶやき
バックナンバー長いよ。
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