たくろふのつぶやき

オリンピック生中継で夜明けと洒落込む

2008年10月

こたえ

英語のできない学生がよく質問に来る。


最近の大学は、進学要件や卒業要件に、TOEICやTOEFLなどのスコアを課しているところが多い。客観的な評価としてスコアを見れば分かるので、日本以外の国でも英語能力の目安として広く使われている。

むかしは英語テストといえば実用英語技能検定、いわゆる「英検」が重んじられていた。しかし、英検はテストの信頼性が低い。結果が合格・不合格の二択でしか得られないため、学生の英語能力の進歩が見えにくい。試験問題のレベルもそれぞれの級の間で全く違う。 問題そのものも「実用英語」とはほど遠い。
学校の先生は学生にやたらと英検を勧めるが、それは財団法人・日本英語検定協会が、退職後の天下り先として重宝するからだ。英検の存在意義が薄れてしまっては、自分の老後に影響する。そりゃ必死に受験を勧めるはずだ。

そんなわけで、最近の大学生はTOEIC、留学希望の学生はTOEFLを中心に英語の勉強をしている。
大学の授業ではあまりこれらの教材を扱うことは少ないので、どうしても学生は自学自習で勉強をすることになる。


よく学生が聞きにくるのは、
「どうすれば文法ができるようになりますか」
という質問が、圧倒的に多い。


TOEICで言えば、Part5の、短文の穴埋め問題のことを言っているらしい。
その問題は、文法や語法の単発問題が多いため、文法知識や語法やイディオムを勉強すれば点を取れるようになるだろう、ということらしい。

外国語の勉強一般に言えることだが、文法の知識が身に付くのは、かなり最後の段階だ。初期の頃は、文法知識など眼もくれず、ひたすらテキストの文章を暗記することに集中したほうが効率的だ。大学の第二外国語の試験などは、本文さえ暗記していれば、ほぼ満点を取れる。

TOEICで勉強時間とスコアが比例するのは、リスニングの方だ。TOEICはリスニングが100問、リーディングが100問、同じ数だけ問題がある。日本の従来の英語の試験からすると異例とも言えるほどリスニングの比率が高い。

だから、一ヶ月でスコアを100点ほど上げたければ、ひたすらリスニングの特訓をしたほうが良い。音声教材を聞きまくり、声を出して読みまくる。
これは時間さえかければ誰でもできるようになる。頭の良し悪しは関係ない。

どうやら学生たちは、Part5の文法・語法の問題を、「とっつきやすい、簡単なもの」と思っているらしい。とんでもない話で、リーディングのセクションで一番簡単なのは、実は最後のPart7の長文問題だ。なにせ答えが本文中に書いてある。問いを先に見て、答えを捜しながら本文を読めば、ほぼ完璧に正解が導ける。
反対にPart5の問題は知識問題なので、知らなければいくら考えても答えは出ない。

僕はTOEICの問題を解くときは、リーディングのセクションに関してはまずPart7を解く。ここは時間さえかければ確実に解けるので、じっくり時間をかけて満点狙いで行く。 同じようにPart6を解く。Part5に至っては、最後の10分くらいでさっと解く。ここばかりは、わからないものはしょうがない。

なのに学生の多くは、のっけからPart5に挑んで、考えたってしょうがない問題で時間を浪費する。その結果、時間をかければ解けるPart7の問題に手が回らなくなり、時間切れになる。

TOEICのスコアが伸びない学生の共通点として、「まずPart5の文法・語法の問題を得点源にする」と思い込んでいることがある。確かにPart5の問題は単発問題なので、一見、簡単そうに見える。「文法、語法が英語力の基本」と思い込んでいるという理由もあろう。


僕はそういう学生が質問に来るたびに、自分が勉強するときに使っている参考書や問題集を持ってくるように言っている。
ほぼすべての学生が、例外なく、問題集を最後までやり通していない。最初の1章くらいしか手を付けてないことも多い。
ひどい学生になると、問題集を買ったものの、一度も開けていない、というのもいる。

学生はよく「どういう問題集を使えばいいですか」と訊いてくるが、「これさえやれば誰でも英語ができるようになる魔法の問題集」など無い。現在市販されている英語の問題集は、おおむねどれもよくできている。少なくとも、問題集の質の良し悪しで結果が分かれるほどの差は無い。

学生たちの問題点は、勉強の仕方を間違えていることにある。
学生に勉強の仕方を訊いてみると、まず自力で問題を解いてみて、答え合わせをしてみて、間違ったところをチェックして、ということを延々と続けようとしているらしい。
しかし、実際にはそれができない。そんな努力は長くは続かない。問題集の半分もいかないうちに力尽き、後半は手つかずのまま放ったらかしている。

学校の授業ならいざしらず、自分で問題集を買って勉強するときのポイントは


まず答えを見ろ


ということだと思う。

問題集はどんどん答えを見ても良い。むしろ、最初に一回通読をするときは、一切自力で解こうとしないで、答えを見ながら解説を吸収することに全力を傾注するほうがいい。答えを見て、解説を見て、その解説を反芻するようにもう一度問題を解くプロセスを頭で組み立ててみる。それで十分だ。

問題集を使うときのポイントは、「いま現時点での自分の実力を知ること」ではない。1ヶ月なり2ヶ月なりの間に、問題集に載っているすべての知識と解法を頭の中に叩き込むことだ。そのためには一度解くだけでは足りない。僕の感覚では、少なくとも4周は解き込まないと内容が頭に定着しない。

1周めは完全に答えを見ながら、知識を吸収することに集中する。
2周めは、1周めに覚えたことを思い出しながらもう一度答えを見ながら通読する。
3周めに初めて自力で解いてみる。ここの段階で間違えた問題は集中的に潰す。
4周めはスピード勝負。全問正解を狙って最短時間で問題を解いてみる。


多くの学生がやたらに「答えを見ずに自力で解く」ことに拘泥する理由は、答えを見ることに対する罪悪感だと思う。小学校や中学校の授業では、答えを見るのは大罪とされる。解けずに答えを開くのは、負けを意味する。

学校の先生がやたらと「答えを見てはいけません、自力で解きなさい」と強制するのは、生徒を授業に集中させるためだ。答えという「伝家の宝刀」を振りかざすことによって、生徒に自分の言うことを聞かせ、授業に集中させようとしているに過ぎない。
それを12年間も繰り返されているうちに、学生は無意識のうちに「答えというのは、極力、見てはいけないものだ」と刷り込まれてしまう。

大学生くらいのいい大人になれば、ストレスなく勉強を続けるコツくらい、自分で編み出せばよさそうなものだ。答えを見た方が勉強が進むんだったら、どんどん見ればいい。そうやって効率的に知識を吸収すれば、応用力を生む基礎力が身に付いてくる。

この勉強の仕方がいちばん効果があるのは、数学だろう。
僕は数学の勉強をするときには、躊躇せずにガンガン答えを見る。解法を真似してそっくり書いてみる。それを繰り返しているうちに、考え方と解き方が身に付いてくる。自力で新しい問題を解いてみるのは、それを相当量繰り返してからだ。
冷静に考えてみれば分かりそうなものだが、勉強もしてない、知識も身につけていない段階で、「自力で解いてみる」ことに、いかほどの意味もあるとは思えない。

数学が苦手な学生、「文系」を標榜して数学を捨てた学生の共通点は、答えを見ることに対するタブー意識が異様に高いことだ。むしろ、あきらめが早く、答えを見ることに罪の意識のない学生のほうが、数学を高い壁と感じずに、クイズ感覚で数学の問題に取り組むことができる。


「継続は力なり」はすべてにおいてあてはまる金言だ。それが分かっている人でも、「継続が可能なようにストレスのない方法をとる」ことには、あまり注意を払わない。つらい方法を根性で継続し続けられるほど、人間は強くできていない。自分が勉強できないのを安易に根性のせいにしないで、方法論に問題はないか、一度確認する必要がありはしないか。



だから僕は数学や文法の勉強に苦労を感じたことは一度もありません

ことばのあそび

こんなショートショートがある。


邪馬台の詩

雪と闇夜、鳥啼きし。ふと卑弥呼が眠りから無意識に家の異変肌で知りし。気は騒ぎ、潮騒似て。「おのおの、起きよっ!」狗奴では?
手人の卑狗の来て告げゆ。「永遠邪馬台の眠る血をかき立てしが、奴の地の見たことを!人負けにしは、尊ぶ神や西の家に崩ず。今は形見惜し。山焼く狗奴の兵の見た。敵が来て、民の家なく、悔やまや。死を見、鷹は舞い、数歩に兵の死に、病み、兜を飛ばし逃げ惑ひ、男、民の血の流しきて滝が落ちる。胸の傷まやは」と。
「行けっ」。敵の首の飛びて、果てなく強き斧。斧を手に勲しき技、歯ぎしりしてた蛮兵の塀に来し居、群がり、棟囲み、火飛ぶ。
「死期なり。台与、見や!」と消ゆ。

死の悼まや。



また、中国・北宋の詩人の蘇軾(1036-1101)に、こんな詩がある。


春晩落花余碧草 夜涼低月半枯桐
人随遠雁辺城暮 雨映疎廉繍閣空

春晩れて落花碧草を余まし 夜涼くして低月枯桐に半す
人は遠雁に随う辺城の暮れ 雨は疎廉に映じ繍閣空し




文学的には無価値の作品だろう。


回文というのは、始めから読んでも終わりから読んでも同じ文のことだ。「しんぶんし」「たけやぶやけた」のような簡単なものから、「酢豚つくりモリモリ食ったブス」のような手の込んだものまである。

10文字20文字の回文ならなんとか力技で作れそうな気もするが、ひとつの文章全体が回文になっているとなると、どうやって作ったんだか見当もつかない。題名まで回文に含むという念の入れようだ。

蘇軾の詩を逆から読むと、こうなる。


空閣繍簾疎映雨 暮城辺雁遠随人
桐枯半月低涼夜 草碧余花落晩春

空閣繍簾疎にして雨に映ず 暮城辺雁遠く人に随う
桐枯れて半月涼夜に低し 草碧にして余花晩春に落つ



意味として似たような世界観を映じているだけでなく、平仄や押韻などの制約もクリアしている。
回文は日本の和歌にも散見される。


長き夜の とをの眠りの みな目覚め 波乗り舟の 音のよきかな


むかしはこの歌を短冊に書き、七福神の絵を添えて、布団の下に敷くと良い初夢を見ることができて幸運にあずかれるとされていたらしい。
「とをの眠り」が「遠の眠り」と「疾うの眠り」の掛詞になっている。

ほかにも


月のもと 清しといえば 冬の夜の 夕ばえいとし よき友のきつ

惜しめども ついにいつもと ゆく春は 悔ゆともついに いつもとめじを

白雪の 消ゆる春野か 駒しばし 馬子が乗る春 雪の消ゆらし


などがある。
俳句にも同じような試みがあって、芭蕉の弟子の其角は

今朝たんと 飲めや菖蒲の 富田酒

と詠んでいる。
他にも

永き日に 舞蝶とぶ蝶 二匹かな

ながくきの はなのその名は 野菊かな

田は月か 社しろしや かきつばた


などがある。
俳句は短く、しもじもにも馴染みが深いため


濡らしては 初夜ははやよし 果て知らぬ


なんてエッチなものまである。


最近の小学校、中学校、高校の国語の授業ではあまり詩や韻文をやらないらしい。授業数削減で内容を減らさざるを得ないということもあろうが、なによりも小説や論説など散文中心の言語生活のなかでは、詩に関する実用性が低いと判断されているのだろう。いまの世の中、詩なんか読めなくたって別に困りゃしない、そういう価値観が背後にありはしないか。教える先生の側が、はたして詩を教えられるかどうかも疑問だ。

詩というものは、社会においては、まぁ、必要のないものだ。
いってみれば、絵画や音楽が、社会構成上いらないと言えばいらないのと同様に、詩歌だって別に「必要」なわけではない。

しかし、だからこそ、古の人たちは詩歌に熱中していたのだろう。僕は芸術の根源は遊びにあると思っている。自分の生き方を客観的に捉え、自分をとりまく周囲や季節や風景に心を配る余裕がない者には、芸術を見る眼は開かれない。芸術家の伝記を読んでも、おおむね、命を賭けて必死に努力する一心不乱な状態から一皮むけて、ふと心の平静と余裕を得たときに、真の能力に開眼することが多いようだ。

音楽を極めた人は日常の音が音符になって聞こえる。絵画をたしなむ人は普通の人よりも色彩感覚が優れている。それと同様に、詩歌を詠む人は、ことばの使い方やことばの持つ響きの美しさに敏感になる。
近年、こどもの国語力の低さがよく話題になるが、それは学校教育で「ことばを使ったあそび」を根こそぎ削ぎ落としたことに原因がありはしないか。知識の即戦力となる論理的読解能力のみに特化した国語教育は、色も見えず、響きも聞こえない、殺伐とした国語能力しかもたらさないのではあるまいか。

その道に熟達した人というのは、その技術を生かしたちょっとした余興で「遊ぶ」ことができる。プロの画家は人の似顔絵をさらさらと描き上げるのが巧い。モーツァルトは一度聞いただけの曲を、終わりから逆向きに演奏することができた。こうした「遊び」は、そもそも本来の技術が備わってはじめて可能となる。
ことばにも、こうした「遊び」ではじめて分かる洗練度というものがある。ことばで遊べるためには、ことばそのものをよく知っていなければならない。

むかしの名文は定型文が多い。韻律になんの制限もない散文よりも、一定のルールが科せられた韻文のほうが難しいのは確かだろう。高校の漢文の授業でも、五言絶句だの七言律詩だのを覚えさせられる。日本が誇る最古の定型詩である和歌だって韻文だ。

制約の多い韻文では、創作の際に決められたルールの中で独自性を発揮しなければならない。ふつうに考えれば窮屈な制約だが、実際のところ、そういう制約がかえって自由な発想を手助けしていたのではあるまいか。

ルールも規約もないところで自由演技をさせると、初心者はどうすればいいか分からない。大学でもレポートを書かせるときに「何をテーマに選んでも自由です」とすると、学生が困惑する。しかし、「マスコミの虚偽報道についてひとつ例を選んでレポートしてください」などと、具体的なテーマでお題を出すと、安心して課題に取り組む。

オリジナリティーや独創性というものは、まったく制約のない本当の自由のもとでは、思いのほか発揮しにくいものではないか。一定の枠組みがあり、決まった土俵の中では、人は思いっきり自由さを発揮できる。
むかしの名文に韻文が多いのは、そういう形式上の枷をはめることによって、逆に発想の飛躍を促していた面があると思う。共通の形式を共有することによって、人と人との間に伝承性と再現性を高める効果もあっただろう。

昭和初期の国文学の大学教授は、ほとんどが和歌や漢詩を諳んじていた。
その師匠にあたる教授の代は、漢文を白文で読めた。
さらにその師匠の代になると、自らが漢詩を作れたそうだ。
その時代にして、ことばで遊びことばを磨く力は、徐々に落ちていたことになる。


回文なんていうものは単なる遊戯であり、何ら文学上の価値を持つものではない。しかし、人間の本質は、価値がないものに熱中することにあると思う。修練と経験に裏打ちされた本当の実力がないと、遊ぶことを楽しむレベルに達することはできない。いまの学校では、ことばの楽しさやことばの持つ力を、本当に伝えられているのだろうか。



別に小学生が新聞なんて読めなくってもいいと思うんだが

嫉妬と馬鹿

落語家の立川談志。
あとから入門した弟弟子の志らくを何かにつけてほめ、兄弟子の立川談春が腐っていたときの話。


談春が談志と書斎で二人きりになった。とき、突然談志が、

「お前に嫉妬とは何かを教えてやる」

と云った。

己が努力、行動を起こさずに対象となる人間の弱みを口であげつらって、自分のレベルまで下げる行為、これを嫉妬と云う。
一緒になって同意してくれる仲間がいれば更に自分は安定する。
本来ならば相手に並び、抜くための行動、生活を送ればそれで解決するんだ。」

「しかし人間はなかなかそれができない。嫉妬している方が楽だからな。
芸人なんぞそういう輩の固まりみたいなもんだ。
だがそんなことで状況は何も変わらない。
よく覚えとけ。現実は正解なんだ。
時代が悪いの、世の中がおかしいと云ったところで仕方ない。現実は事実だ。
そして現状を理解、分析してみろ。そこにはきっと、何故そうなったかという原因があるんだ。
現状を認識して把握したら処理すりゃいいんだ。
その行動を起こせない奴を俺の基準で馬鹿と云う」



自分を不動点とする姿勢からは何も生まれない

Wii Music

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Wii Musicで遊んでおります。


よく考えますね、任天堂。
Wii Sports, Wii Fitに続いて、いままでのゲームの概念をがらっと変えるような感じですね。
こりゃ売れるわけだ。

嫁がいいおもちゃを手に入れて喜んでおります。
テレビのCMを見て即買即決だったんですが、いろんな楽器の演奏を楽しめるだけじゃなくて、いろんな遊び方があるんですね。


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ハンドベルで遊んだり。



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指揮者になり切ってオーケストラを指揮したり。



嫁が直立してwiiリモコンを振りましておるのですよ。


Wiiを見てて思うんですが、いまどき売れる電子機器として、アップルコンピューターと非常に似たコンセプトがあると思うんです。
操作が簡単。インターフェイスの構造がシンプル。取扱説明書が不要。

Wiiのリモコンというのは非常にシンプルです。基本的にはふたつのボタンだけですべての操作を行います。
操作のしかたが分からなくても、「こうかな?」としばらくいじってれば、望みのオペレーションができるようになっています。

ソフトウェアもそれに対応するようにできており、初期画面から多くの選択肢を選ばせるような大量枝分かれ型の構造をしていません。ひとつの画面につき、選択肢は多くて2, 3個。どれを選んでも、自分がいまソフトウェア全体のなかでどこの位置にいるのかが分かりやすくなっています。

説明書がいらない、というのもユーザーにとってはストレスがかからない点でしょう。説明書を熟読してからじゃないと遊べないゲームなんて、売れるはずありません。
Wii Musicに限らず、Wiiのソフトウェアには本体の中にチュートリアル的な、操作方法を練習するセクションが作られています。Wii Musicも、セバスチャンとかいうイタリアっぽいおっさんがチューターとして操作方法を教えてくれます。

こうした傾向は、任天堂のWiiや、アップルコンピューターのiPodなど、売れてる電化製品の特徴だと思うんです。
機能重視で突っ走っりすぎると、やたらとインターフェイスが複雑にしなります。やたらにボタンが多くなる。いままでの電子機器類は、あれこれと特定の機能を単独でバラバラに付け加えてきた結果、改良を重ねるごとに構造が複雑になっていく、という構図だったと思います。そういう複雑な構造を理解していることが「玄人」として是とされていた観があります。そうなるに至る過程と歴史を知っていることを、さも得意げにひけらかす手合がよくいたもんです。

そういう硬直した姿勢は、新参の消費者への敷居を高くします。「機械を扱うには、機械に詳しくなくちゃいけないのは当然」という上から目線の態度から、新規ユーザーへの配慮に意識を切り替えたのが発想の転換でしょう。
その結果、アップルも任天堂も、「限られたインターフェイスと操作性から、いかに多くの機種能力を引き出すか」というアルゴリズムの開発に傾注せざるを得なくなりました。その結果、内部構造のロジックが極めて分かりやすい、明確な鳥瞰図をもったシステムの成功につながったのだと思います。

「まず手段を絞っておいて、そこから逆算してシステムを作る」というのは、かなり思い切った発想でしょう。たくさんの機能を実現しようと思ったら、それだけたくさんのインターフェイスを用意するのが普通の発想です。それを明確なフローチャートの下敷きのもと、分かりやすいシステムの構造で克服する、というのがポイントでしょう。


まぁ、それでも初めてwii musicを開けるときには、嫁は触らないで、僕にやらせるんですけどね。
どうもオニャノコというのは、誰か使ってるのを見て、それを真似する、というほうが入りが良いようですね。



合奏で音を合わせるのって楽しいですね

クマモト

スワヒリ語で「熊本(kumamoto)」というと、なんか とんでもない意味になるそうなので、熊本出身の方はケニアやタンザニアに行かれる際は注意するとよろしいかと。



行かねぇか。そうか。
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ペンギン命

takutsubu

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