時差ボケでやたらと朝早く起きてしまうのはまぁいいとして。
アメリカの大学に出戻っているたくろふです。
いくら日本ーアメリカの長距離移動とはいっても、やっぱり住み慣れた街だと魂の到着が早いですね。
到着の翌日から,違和感なく普通に生活できます。
無理なく時差ボケを解消する方法は、午前中にたくさん日光にあたることです。
ただでさえ人間の体内時計は25時間周期に設定されています。だからダラダラした生活をしていると、生活は徐々に夜型に傾きます。
お日さまにはそうした体内時計の狂いを正常に戻す働きがあります。早寝早起きの人が健康なのはそのためです。
「時差ボケだから」といってグーグー朝寝してると、いつまでたっても時差ボケがとれません。
そんなわけで、朝早く起きてしまったたくろふとしましては、早朝からのこのこ学生寮の食堂に行ってあさごはんをたらふくいただいてきました。
オーダーメイドのオムレツ(゚Д゚ )ウマー
ソーセージとベーコン(゚Д゚ )ウマー
パンケーキ(゚Д゚ )ウマー
しぼりたての牛乳(゚Д゚ )ウマー
要するに僕はなんでも食べるので、世界のどこで生活しても構わない、ということですね。
学食であさごはんを食べてから、大学のキャンパス内をのんびり散歩しました。
湖のそばのベンチでのんびりしながら朝日をあびて飲むコーヒーはめちゃくちゃうまいですね。
ベーグルをちぎって、隊列をなしているカモさんたちにあげます。
そうやってのんびりしてると、なんとなく既視感に襲われました。
この感覚は前に感じたことがあるぞ。
よく考えてみたら、今朝僕が辿ったコースは、僕がはじめてアメリカに来た朝に辿ったのと全く同じものでした。
時差ボケで早起き → 学食で朝ごはん → 大学を散歩 → 湖でコーヒー。
5年前の夏も、こうして朝早くに湖を眺めていました。
あれから5年。あっという間ですね。
大学院の生活が終わろうとしている今、はからずも渡米最初の日と同じ行動をして、留学当初のワクワク感を思い出しました。
ぼけーっと湖を眺めているうちに、朝イチの授業に出る学生さんたちが行き交います。
早朝の授業だから、たぶん学部の1年生か2年生くらいの学生さんたちでしょう。
僕はとっくに大学院の履修用件を満たしたので、ここ2年ほど授業は取ってません。
早朝の授業に出る学生さんたちを眺めて「ふふふ。お疲れさまだねぇ学部生ども。しっかり授業に出てくれたまい。俺はもう授業に出なくてもいいんだもんね」なんて、勝ち誇った気分になっていたわけですが
急に、授業に出る彼らのほうが楽しいんじゃないかという気がしてきました。
僕はここ1年くらい博士論文にかかりきりになっていたため、新しい勉強ができていません。
いままで考えてきたことを形にする仕事で精一杯です。
いわば、新しいことを吸収したり、自分の知らないことを勉強したり、という自分の成長に関わる営みが疎かになっています。
翻って学部生たちというのは、現時点の勉強進度という点では何も知らないに等しい分、毎日が新しいことで一杯の経験をしているわけです。知ることすべてが新しいはずです。
つまり、それだけ自分を成長させる経験をいっぱいしています。
一ヶ月前の自分よりも今日の自分のほうが、確実に賢いはずです。
生きていて何が楽しいって、自分の能力がぐんぐん伸びていることを実感することほど楽しいことはないと思います。
新しく身につけた能力や知識が、楽しさとなり、身を立てる術となり、生きる上での自信となります。
すべてを成し遂げて頂上であぐらをかいている人よりも、豊富な伸びしろがあり、毎日その克服を実感できる人のほうが、生きていて楽しいでしょう。
博士論文の完成を、大学院生活の「あがり」と見る向きもあるでしょうが、そう思ってしまった瞬間にその人の成長は止まってしまいます。
大学院の5年間で得るべきものは、知識の完成品などではなく、ひとつの分野を自分なりに咀嚼し吸収し、未知の謎を発見し解決するプロセスであるはずです。
一旦そのプロセスを身につけてしまえば、その後はどんな分野であれ自分で克服していくことが可能になります。
博士論文は「あがり」などではなく、今後そうしたプロセスを自力で辿っていくために、その土台となる経験をひととおり積んだ結果でしかありません。
その後、その経験を活かせられなければ、たとえ何百枚の博士論文でも無駄です。
僕も春から教壇に立ちます。僕が教える学生より、僕自身が新しく知ることのほうが多く深くなければ、教え続けることは難しいと思います。
それは知識量とか授業のネタ切れとかの問題ではなく、学問を続ける上で、それに情熱をもって楽しめる、柔軟でしなやかな感性が失われてしまうからです。
履修がすべて終わって朝ごはん後にのんびり湖を散歩する生活と、新しい経験のために気合を入れて早朝の授業に出るのと、どっちが楽しい生活か。
そのへんの価値観が、ひとつの分水嶺になるのでしょう。
実際は学生さんたちは欠伸をしながらてくてく歩いてただけですが、その姿が非常に躍動感あふれるものに見えました。
同じ湖を見ている5年前の僕と、今の僕では、どっちがより人生にワクワクしてたのでしょう。
カモさんたちはベーグルよりもポテチのほうが好きらしい
アメリカの大学に出戻っているたくろふです。
いくら日本ーアメリカの長距離移動とはいっても、やっぱり住み慣れた街だと魂の到着が早いですね。
到着の翌日から,違和感なく普通に生活できます。
無理なく時差ボケを解消する方法は、午前中にたくさん日光にあたることです。
ただでさえ人間の体内時計は25時間周期に設定されています。だからダラダラした生活をしていると、生活は徐々に夜型に傾きます。
お日さまにはそうした体内時計の狂いを正常に戻す働きがあります。早寝早起きの人が健康なのはそのためです。
「時差ボケだから」といってグーグー朝寝してると、いつまでたっても時差ボケがとれません。
そんなわけで、朝早く起きてしまったたくろふとしましては、早朝からのこのこ学生寮の食堂に行ってあさごはんをたらふくいただいてきました。
オーダーメイドのオムレツ(゚Д゚ )ウマー
ソーセージとベーコン(゚Д゚ )ウマー
パンケーキ(゚Д゚ )ウマー
しぼりたての牛乳(゚Д゚ )ウマー
要するに僕はなんでも食べるので、世界のどこで生活しても構わない、ということですね。
学食であさごはんを食べてから、大学のキャンパス内をのんびり散歩しました。
湖のそばのベンチでのんびりしながら朝日をあびて飲むコーヒーはめちゃくちゃうまいですね。
ベーグルをちぎって、隊列をなしているカモさんたちにあげます。
そうやってのんびりしてると、なんとなく既視感に襲われました。
この感覚は前に感じたことがあるぞ。
よく考えてみたら、今朝僕が辿ったコースは、僕がはじめてアメリカに来た朝に辿ったのと全く同じものでした。
時差ボケで早起き → 学食で朝ごはん → 大学を散歩 → 湖でコーヒー。
5年前の夏も、こうして朝早くに湖を眺めていました。
あれから5年。あっという間ですね。
大学院の生活が終わろうとしている今、はからずも渡米最初の日と同じ行動をして、留学当初のワクワク感を思い出しました。
ぼけーっと湖を眺めているうちに、朝イチの授業に出る学生さんたちが行き交います。
早朝の授業だから、たぶん学部の1年生か2年生くらいの学生さんたちでしょう。
僕はとっくに大学院の履修用件を満たしたので、ここ2年ほど授業は取ってません。
早朝の授業に出る学生さんたちを眺めて「ふふふ。お疲れさまだねぇ学部生ども。しっかり授業に出てくれたまい。俺はもう授業に出なくてもいいんだもんね」なんて、勝ち誇った気分になっていたわけですが
急に、授業に出る彼らのほうが楽しいんじゃないかという気がしてきました。
僕はここ1年くらい博士論文にかかりきりになっていたため、新しい勉強ができていません。
いままで考えてきたことを形にする仕事で精一杯です。
いわば、新しいことを吸収したり、自分の知らないことを勉強したり、という自分の成長に関わる営みが疎かになっています。
翻って学部生たちというのは、現時点の勉強進度という点では何も知らないに等しい分、毎日が新しいことで一杯の経験をしているわけです。知ることすべてが新しいはずです。
つまり、それだけ自分を成長させる経験をいっぱいしています。
一ヶ月前の自分よりも今日の自分のほうが、確実に賢いはずです。
生きていて何が楽しいって、自分の能力がぐんぐん伸びていることを実感することほど楽しいことはないと思います。
新しく身につけた能力や知識が、楽しさとなり、身を立てる術となり、生きる上での自信となります。
すべてを成し遂げて頂上であぐらをかいている人よりも、豊富な伸びしろがあり、毎日その克服を実感できる人のほうが、生きていて楽しいでしょう。
博士論文の完成を、大学院生活の「あがり」と見る向きもあるでしょうが、そう思ってしまった瞬間にその人の成長は止まってしまいます。
大学院の5年間で得るべきものは、知識の完成品などではなく、ひとつの分野を自分なりに咀嚼し吸収し、未知の謎を発見し解決するプロセスであるはずです。
一旦そのプロセスを身につけてしまえば、その後はどんな分野であれ自分で克服していくことが可能になります。
博士論文は「あがり」などではなく、今後そうしたプロセスを自力で辿っていくために、その土台となる経験をひととおり積んだ結果でしかありません。
その後、その経験を活かせられなければ、たとえ何百枚の博士論文でも無駄です。
僕も春から教壇に立ちます。僕が教える学生より、僕自身が新しく知ることのほうが多く深くなければ、教え続けることは難しいと思います。
それは知識量とか授業のネタ切れとかの問題ではなく、学問を続ける上で、それに情熱をもって楽しめる、柔軟でしなやかな感性が失われてしまうからです。
履修がすべて終わって朝ごはん後にのんびり湖を散歩する生活と、新しい経験のために気合を入れて早朝の授業に出るのと、どっちが楽しい生活か。
そのへんの価値観が、ひとつの分水嶺になるのでしょう。
実際は学生さんたちは欠伸をしながらてくてく歩いてただけですが、その姿が非常に躍動感あふれるものに見えました。
同じ湖を見ている5年前の僕と、今の僕では、どっちがより人生にワクワクしてたのでしょう。

