栞を使わない。
読書は5分あればできる。特に、自分の勉強に関係ない小説や教養書やマンガなどの軽い本は、切れ切れの読書で読みつなぐ。
文庫本などを読み止めるときに、栞をつかわないことにしている。邪魔だからだ。本を読んでいる間は栞をどこか他のページに挟むことになるが、その感触が気に入らない。油断すると、するっと滑り落とすこともある。持つ手にかかる感触が嫌いなので、新潮文庫の紐栞も根元から切る。
では読み止めるときにどうするか。ページの端を折るのは本を粗末に扱っているようで、どうも気が進まない。そのへんの紙の破片や端切れを使うと本が汚れることがある。
というわけで、僕は本を読み止めるときに、最後のページ数を記憶することにしている。
栞を邪魔だと思うか、数字を暗記するのを煩わしいと思うか、その程度の差にすぎない。読書に作法はないので、読み止めたところをどうするかは、人それぞれだろう。しかし、ページを暗記すると、栞を使っているときには気づかないことに、いくつか気づく。
まず、当たり前のことだが、人の頭は使えば使うほど良くなる。といっても、さほど気合を入れて主張できるほど大したことではない。ページ数を覚えることは、やってみるとそれほど脳に負荷がかからない。文庫本のページ数など、たかだか2ケタか3ケタ程度の数字にすぎない。簡単に覚えられる。慣れてくると、並行して読んでいる3, 4冊の本のページも同時に覚えられるようになる。
不思議なことに、そういう習慣をつけていると、いままで読み止めたページの履歴をすべて覚えられるようになる。しかも、どのページはいつどこで読み止めたのか、その情景まで思い出せる。本のなかの特定の内容を思い出したいときに、「たしかおととい電車の中で読んだ箇所だな」などと、そのページ数まで思い出せる。つまり、本の内容を検索しやすくなる。
人の記憶には短期記憶と長期記憶がある。短期記憶は訓練次第で簡単に鍛えられるそうだ。僕は別に特技になるような凄い記憶力には興味ないので、記憶力を鍛えたことはないが、本のページを覚えるようにしてからは数字の記憶力がちょっと上がった気がする。なによりも、数字を覚えること一般が億劫ではなくなった。
さらに、ページ数を暗記すると、読書という行為を計量的に数値化して把握しやすい。
一般の文庫本がだいたい何ページくらいあるか、すぐに思い浮かぶだろうか。作家や分野によって幅があるが、だいたい一般的な文庫本は300ページから500ページくらいの分量がある。京極夏彦の本などは1000ページを越えるものがある。
ページの数字を覚えて読み止める癖がつくと、自分の読む速度が数字で分かるようになる。10分あれば何ページ、1時間では何ページ、と、読む速度がわかる。だから、本の全ページ数がわかれば、割り算をすれば、その本を全部読むのにどのくらいの時間がかかるのか、あらかじめ分かる。時間の谷間に「これくらいの時間があれば最後まで読み切れるな」などと予測がつくようになる。
僕は面白い本はゆっくり読み、つまらない本は飛ばして読む傾向がある。読み止めたときに本を読むペースが早いと、「あー、雑に読んでるんだなぁ」というのが実感できる。
小説を読むときには、内容の展開具合とページ数とを比べると、筆者の筆遣いが感じられる。どのくらいの分量までに、どういう情報を提示するか、物語の全体図から部分を鳥瞰するような読み方をするようになる。たとえば推理小説では、決定的な根拠となる内容は話の前半には入れにくい。「いまこのくらいまでの分量まで来たから、そろそろ何か起こるな」などと、筆者が物語をどう組み立てているのか、物語の外から見える気がしてくる。
人が漫然と行っている行為は、計量可能な概念に換算して数値化すると、客観的に把握しやすい。読書という行為はきわめて漫然と、気の向くまま行うものだろう。それを「ページ数」で計量化することで、自分の読書という行為を計りやすくなる。
ダイエットがうまくかない人は、ほとんど記録をつけていないそうだ。漫然と「やせよう」と思ってもそう簡単に痩せられるものではない。一日どれくらい食べたのか、どれくらい運動したのか、何時に起きたのか、何時に寝たのか、今日の体重はいくらだったのか。そういう記録を毎日とって、漫然と送っていた生活を客観的に眺めることで、自分をコントロールできるようになる。ついおやつを食べてしまうのは、「おやつを食べる」ということがどれくらい自分の生活に影響を及ぼしているのかが実感できないからだ。ところが日常生活を数値化すると、自分の行為の意味がよりはっきり分かるようになる。
むかし、人々はそれぞれの地域で勝手に長さの単位を使っていた。それを世界共通にするため、「地球の北極から赤道までの子午線の長さの1000万分の1」という基準を単位をする約束事(メートル)を決めた。現在ではメートルは「約3億分の1秒に光が真空中を進む速さ」として定義されている。
そこにある発想は、「漠然とした概念(長さ)を数値化することで、客観的な比較を可能にしよう」という試みだ。長さ、重さ、速さなどという、もともと曖昧だった概念に尺度を与え、時空を越えた情報の保存、比較、計算を可能にしてしまう。ピラミッドの周囲を歩くと何分かかるのか、エッフェル塔の高さは自分の家をいくつ積み上げたくらいの高さなのか、実際に現地で実験しなくても分かってしまう。数というのは、かように魔法のような力をもつものなのだ。
本のページ数など、紙の枚数という単純な物理量なので、数値概念としては最も単純な自然数に属する。その単純な自然数による数値換算を通してでさえ、概念や体験を計量化することの威力が垣間見える。算数、数学のトラウマから数字嫌いになった人は多いと思うが、この「数字の力」を自在に使えるようになった人間は、童話に出てくる古の魔法などよりも、もっと凄い能力を授かったのではないか。
僕のモットーは「スローライフ」です。
読書は5分あればできる。特に、自分の勉強に関係ない小説や教養書
文庫本などを読み止めるときに、栞をつかわないことにしている。邪魔だからだ。本を読んでいる間は栞をどこか他のページに挟むことになるが、その感触が気に入らない。油断すると、するっと滑り落とすこともある。持つ手にかかる感触が嫌いなので、新潮文庫の紐栞も根元から切る。
では読み止めるときにどうするか。ページの端を折るのは本を粗末に扱っているようで、どうも気が進まない。そのへんの紙の破片や端切れを使うと本が汚れることがある。
というわけで、僕は本を読み止めるときに、最後のページ数を記憶することにしている。
栞を邪魔だと思うか、数字を暗記するのを煩わしいと思うか、その程度の差にすぎない。読書に作法はないので、読み止めたところをどうするかは、人それぞれだろう。しかし、ページを暗記すると、栞を使っているときには気づかないことに、いくつか気づく。
まず、当たり前のことだが、人の頭は使えば使うほど良くなる。といっても、さほど気合を入れて主張できるほど大したことではない。ページ数を覚えることは、やってみるとそれほど脳に負荷がかからない。文庫本のページ数など、たかだか2ケタか3ケタ程度の数字にすぎない。簡単に覚えられる。慣れてくると、並行して読んでいる3, 4冊の本のページも同時に覚えられるようになる。
不思議なことに、そういう習慣をつけていると、いままで読み止めたページの履歴をすべて覚えられるようになる。しかも、どのページはいつどこで読み止めたのか、その情景まで思い出せる。本のなかの特定の内容を思い出したいときに、「たしかおととい電車の中で読んだ箇所だな」などと、そのページ数まで思い出せる。つまり、本の内容を検索しやすくなる。
人の記憶には短期記憶と長期記憶がある。短期記憶は訓練次第で簡単に鍛えられるそうだ。僕は別に特技になるような凄い記憶力には興味ないので、記憶力を鍛えたことはないが、本のページを覚えるようにしてからは数字の記憶力がちょっと上がった気がする。なによりも、数字を覚えること一般が億劫ではなくなった。
さらに、ページ数を暗記すると、読書という行為を計量的に数値化して把握しやすい。
一般の文庫本がだいたい何ページくらいあるか、すぐに思い浮かぶだろうか。作家や分野によって幅があるが、だいたい一般的な文庫本は300ページから500ページくらいの分量がある。京極夏彦の本などは1000ページを越えるものがある。
ページの数字を覚えて読み止める癖がつくと、自分の読む速度が数字で分かるようになる。10分あれば何ページ、1時間では何ページ、と、読む速度がわかる。だから、本の全ページ数がわかれば、割り算をすれば、その本を全部読むのにどのくらいの時間がかかるのか、あらかじめ分かる。時間の谷間に「これくらいの時間があれば最後まで読み切れるな」などと予測がつくようになる。
僕は面白い本はゆっくり読み、つまらない本は飛ばして読む傾向がある。読み止めたときに本を読むペースが早いと、「あー、雑に読んでるんだなぁ」というのが実感できる。
小説を読むときには、内容の展開具合とページ数とを比べると、筆者の筆遣いが感じられる。どのくらいの分量までに、どういう情報を提示するか、物語の全体図から部分を鳥瞰するような読み方をするようになる。たとえば推理小説では、決定的な根拠となる内容は話の前半には入れにくい。「いまこのくらいまでの分量まで来たから、そろそろ何か起こるな」などと、筆者が物語をどう組み立てているのか、物語の外から見える気がしてくる。
人が漫然と行っている行為は、計量可能な概念に換算して数値化すると、客観的に把握しやすい。読書という行為はきわめて漫然と、気の向くまま行うものだろう。それを「ページ数」で計量化することで、自分の読書という行為を計りやすくなる。
ダイエットがうまくかない人は、ほとんど記録をつけていないそうだ。漫然と「やせよう」と思ってもそう簡単に痩せられるものではない。一日どれくらい食べたのか、どれくらい運動したのか、何時に起きたのか、何時に寝たのか、今日の体重はいくらだったのか。そういう記録を毎日とって、漫然と送っていた生活を客観的に眺めることで、自分をコントロールできるようになる。ついおやつを食べてしまうのは、「おやつを食べる」ということがどれくらい自分の生活に影響を及ぼしているのかが実感できないからだ。ところが日常生活を数値化すると、自分の行為の意味がよりはっきり分かるようになる。
むかし、人々はそれぞれの地域で勝手に長さの単位を使っていた。それを世界共通にするため、「地球の北極から赤道までの子午線の長さの1000万分の1」という基準を単位をする約束事(メートル)を決めた。現在ではメートルは「約3億分の1秒に光が真空中を進む速さ」として定義されている。
そこにある発想は、「漠然とした概念(長さ)を数値化することで、客観的な比較を可能にしよう」という試みだ。長さ、重さ、速さなどという、もともと曖昧だった概念に尺度を与え、時空を越えた情報の保存、比較、計算を可能にしてしまう。ピラミッドの周囲を歩くと何分かかるのか、エッフェル塔の高さは自分の家をいくつ積み上げたくらいの高さなのか、実際に現地で実験しなくても分かってしまう。数というのは、かように魔法のような力をもつものなのだ。
本のページ数など、紙の枚数という単純な物理量なので、数値概念としては最も単純な自然数に属する。その単純な自然数による数値換算を通してでさえ、概念や体験を計量化することの威力が垣間見える。算数、数学のトラウマから数字嫌いになった人は多いと思うが、この「数字の力」を自在に使えるようになった人間は、童話に出てくる古の魔法などよりも、もっと凄い能力を授かったのではないか。





