たくろふのつぶやき

オリンピック生中継で夜明けと洒落込む

2006年03月

デートで科学

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「デートに使える科学ネタ」文科省が無料誌作成

(毎日新聞 2006年3月24日)


◇「デートに使える科学ネタ」を集めた無料情報誌「サイエンスウォーカー」を、文部科学省が作成した。角川書店が「東京ウォーカー」など28日に全国で発行する雑誌にとじ込む。

 ◇内閣府の調査では、30歳未満で科学技術に関心を持つ人は4割。文科省は約7000万円で計110万部を作り、「若者を科学へ振り向かせたい」と意気込む。

 ◇内容はサッカー、音楽、食事、ドライブなど、身近な話題が満載。デート前に予習して、やさしく科学的に解説できれば、彼女(彼)もほれ直す?
【永山悦子】



科学と哲学に興味のあるカポーの方々はぜひご一緒に「たくつぶ」をどうぞ。



惚れ直されはしませんが

地理という科目

最近、「高校生のころもっと地理を勉強しておけばよかった」と後悔している。


僕のいた高校の社会科では、1年で地理、2年で世界史、3年で日本史と政経をやらされた。僕は受験で世界史を選択したが、ひとつには地理がさっぱり分からなかったからだ。なんというか、勉強していてちっとも面白くない。

行ったこともない国、見たこともない地域の情報を、数字だけで覚えさせられる。「アメリカの何年の小麦の生産高が何トン」とか「東南アジアの年間降水量が何ミリ」とか、そんなことを暗記してもちっとも面白くない。そんなことを覚えて何になるんだろうと思っていた。

一方、歴史のほうには物語があり、ドラマがある。「紀元前27年、アウグストゥスのローマ帝国平定」「1096年、キリスト教徒とイスラム教徒の戦争開始」「1917年、ロシア革命勃発」など、どれをとっても事件として何が起きたのかイメージしやすい。それが今日的にどのような意味があるのか、そこから何を汲み取るべきなのか、高校生にも理解しやすい。

そんなわけで、高校の頃の地理の授業は、ほとんど寝ているか内職をしているかのどっちかだった。大学に入ってからも、歴史学のゼミはずっと出続けていたが、地理学の授業は触る気も起きなかった。


巷でよく使われる学問の区分に「自然科学」「人文科学」という区別の仕方がある。本当は厳密な区分のしかたではないが、大雑把に分野の特徴を言うときに使われることが多いようだ。

「自然科学」というのは、物理学、化学、生物学、天文学、地質学など、人間が介在しない普遍的真理を追求する学問を言う。数学や論理学などの形式科学もこの区分に含めることがある。「経験的に観察可能な事実から真理を追求する」という方法論に注目するとき「経験科学」という用語を使う。

一方、「人文科学」というのは、大雑把に言えば「人間とは何なのか」を探る学問と言える。文学、歴史学、文化人類学、考古学、宗教学などの分野は、人のつくりあげた社会、価値観、文化などの側面から、ヒトというものの特質を理解することを目的とする。真理の追求の他に、時の流れに風化されがちな時代背景、特定の文化における社会通念などを後世のため保存することも目的となる。

ここで注意しなければならないのは、「ヒトを探る学問であれば人文科学」と一律には決められないことだ。たとえば医学。医学も「ヒトというものの理解」を目的としているが、その目的は歴史学や文学とは異なる。医学はヒトの物質的な成り立ち、人体の機能的な作用などの解明を目的としており、ヒトのつくりだす文化的な側面とは関係ない。医学は区分上、物理学や化学などと同様の自然科学に属する。


僕が専攻している言語学は、区分上、医学に最も近い。ヒトのもつ言語能力というものを探りながら、ヒトのつくりだす文化、価値観、歴史には無関係だ。研究上の方法論としても経験科学と軌を一にする。

「言語学をやってます」と言うと、よく「じゃあいろんな外国語できるでしょう」と言われる。しかし、医学がさまざまな民族のヒトをいちいち検証する必要がないように、言語学もヒトの生得的な言語能力を研究するために何十カ国語も検証する必要はない。ある特定の言語から普遍的な人間の言語能力を解明できる、という前提に立っている。運動生理学を学ぶ医学生がスポーツ万能である必要がないように、言語学の学生も何十カ国語も話せる必要はない。

言語学にも研究史上、「言語と、その話者の文化背景や思考には、相関関係がある」とした立場があった。「サピア・ウォーフの仮説」という。現在ではこの考え方は否定されている。現在の理論言語学は「言語は人間の脳で独自のモジュールを形成しており、思考、記憶、価値観などを司る位置とは無関係」と仮定するのが一般的だ。その言語独自のモジュールが破損した症状が失語症で、記憶のモジュールが破損したのが記憶喪失だ。

「サピア・ウォーフの仮説」は、人間の言語という生得的な能力を文化に関連づけようとした。この姿勢は、第二次世界大戦中に趨勢を占めた「民族は遺伝的に優劣が決定される」という優生学と同じ発想だ。「サピア・ウォーフの仮説」には言語によって民族を差別する政治的イデオロギーは働いていなかったが、そう悪用される危険性はあった。現在では優生学もサピア・ウォーフの仮説も、事実としては認知されていない。


つまり大雑把に分けると、学問というものは

(1) ヒトと無関係な普遍的事実を探る自然科学(物理学、化学、天文学など)
(2) ヒトを探るが、客観的研究の対象としてであって、ヒトの文化、歴史、価値観などには無関係な自然科学(医学、言語学など)
(3) 文化、歴史、社会のしくみからヒトの理解をめざす人文科学(文学、歴史学など)

に大別できる。


そこで、地理学というのは、どういう学問なんだろう。


僕もアメリカに来てから、多少世界の国々について興味が出てきた。日本はおろか関東地方からも滅多に出なかった高校時代と違い、アメリカにもヨーロッパにも足を踏み入れた。部活と女の子のことしか考えていなかった高校時代に比べ、多少はまわりを見回す精神的な余裕もできてきたのだと思う。

興味の最初はやはり自然に対する疑問からだ。アメリカのモニュメントバレー、中国の桂林などの岩山を見るにつけ、「どうやってあんな地形ができたのかなぁ」と考える。


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モニュメントバレー(アメリカ・アリゾナ州)




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桂林(中国・広西チワン族自治区)



こういう地形を見て、その成り立ちを考察するのは自然科学の領域に属する分野だ。何万年もの地球の歴史で何が起きてきたのか、その自然の力に人間は関係ない。

しかし、こういう砂漠のど真ん中でも、山水の風光明媚な街でも、その土地、気候に合わせて暮らしてきた人達がいる。その土地の地形の成り立ちや気候の在り方は人間という存在とは無関係かもしれないが、その場所で暮す人達は気候や土地の特質に合わせ、農業を営み、得られる資源から産業を興し、文化を作り上げてきた。

そうしたヒトの営みが世界中で多岐に渡るのは、地形、気候などの自然条件が異なるからだ。自然の在り方はヒトとは関係ないが、そこに生まれる社会の在り方は人間が形成してきた。

地理という科目は、そういう「ヒトとは関係ない自然、地形の在り方」と「ヒトが作り上げた文化、社会」の、両面にまたがり橋を渡す分野ではあるまいか。普遍的な法則によってもたらされる自然の在り方と、ヒトという存在の、関連のしくみを与えてくれる。

そういう、普遍的真理と人間をむすぶ学問としては、地理学のほかに経済学がある。「普遍的事実からヒトの営みを」という地理学の方向は、「ヒトの営みから普遍的事実を」という経済学と方向性は異なるが、両者を結び、「ヒト」と「この世の普遍的事実」とを関連づけることに変わりはない。


今、僕は学部生の授業で、世界中の言語の多様性を教えるクラスのアシスタントをしている。電話帳ほどもある分厚い教科書には、各国言語のデータと一緒に、その言語を使う民族の分布、生活様式などが一緒に紹介されている。そういう資料を見て、いままで考えたこともなかった、それぞれの言語の話し手のことをちょっと想像することが多くなった。

言語学では言語データは単なる客観的資料であり、その言語を用いる人々の生活様式や文化などを考える必要はない。むしろ、そういう要素を研究上考慮に入れることは許されない。ところが地理学では、客観的な事実である自然条件から出発し、そこに上乗せされるヒトの営みにまで思考が及ぶ。ヒトの言語能力の在り方はヒトの文化には影響しないが、自然の在り方はヒトの文化に多いに影響を及ぼす。

何を職業とするか、どういう生き方をするかに関係なく、人間の一生というものは畢竟「ヒトを理解すること」に多くを費やされる気がする。いま僕自身が専門としている研究分野には不要な思考ではあろう。しかし、学問に限った狭い話ではなく、これから生きていく上で、地理学の思考は何か大きなものを与えてくれるような気がする。僕は高校時代、授業中に居眠りして、小麦の収穫量や降水量なんかよりももっと大事な、本当に学ぶべきものをすっ飛ばしてしまったのではあるまいか。



世界中を旅行したいと最近思うようになった

メキシコ

読売新聞 3月25日付・編集手帳


将棋の米長邦雄永世棋聖が、「一番大切な対局、これだけは負けられない勝負とは何だろう」と語ったことがある。タイトル戦でも、昇段のかかる一局でもないという

◆その勝敗が実は自分にはあまり影響がなく、しかし、対戦相手にとってはこの上なく重い意味をもつ一局であるとき、そういう勝負こそ全身全霊を傾けて勝たなくてはならないのだ、と

◆「勝ったところで…」と手を抜くことが、将棋という技芸の道を冒涜(ぼうとく)し、みずからの誇りをも深く傷つけるからだろう。日本が初代王者となって閉幕した野球のWBC大会にも、“米長主義”そのままの一戦があった

◆米国が準決勝進出をかけて臨んだ2次リーグのメキシコ戦である。メキシコはたとえ勝ってもリーグ敗退が九分九厘決まっていたが、投打に気迫あふれるプレーで米国の夢を葬り去った

◆メキシコの奮闘によって日本が4強に勝ち残れたことを感謝し、全国の野球ファンからいま、お礼の声が在日メキシコ大使館に続々と寄せられている。電話あり、ファクスあり、メールだけで500通を超えたという

◆世界一に道をひらいてくれた恩義それ以上に、競技者の精神に一本通った「誇り」という筋金を見ることができた、その眼福に手を合わせる。将棋に限らず、野球に限らず、勝負の場に消化試合はないのだろう。



WBCでのメキシコの対アメリカ勝利が素晴らしいのは、日本に準決勝進出の道を開いてくれたこと以上に、本当の「勝負する姿勢」を見せてくれたからだと思う。メキシコチームの奮闘が、以前書いたクロアチアの姿とかぶって見える。



天晴ぢゃ。

ちら

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おい、おっさん

途中経過のでっちあげ

tan1°は有理数か

(2006年 京都大学(後期)数学・文系[5]、理系[6])



もっと何か言えよ。


基本的にはtan30°、tan60°などの、あからさまな無理数を使って強引につなげればいいんだと思う。たとえば30°を(29+1)°としたり、(2×3×5)°としたり、まぁいろいろと分け方はあると思う。その関係をどうつなげるかの問題。


<こたえ>
tan1°を有理数と仮定する。

tanθ(1°≦θ≦29°)において、
tan(θ+1°) = (tanθ+tan1°)/(1-tanθtan1°)
これは有理数。
よって、tan30°が有理数であり得ることになる。
これは、tan30° = √3/3が無理数であることに矛盾。

よって仮定が誤り。tan1°は無理数である。


数学の問題のなかには、ゴールがはっきり見えていながらも「その途中経過をどうでっちあげるか」を思いつきにくい問題がある。その典型的な問題。「tan30°は無理数」「背理法」というふたつの道具はすぐに思いつくものの、それをどうつなげたらいいのかが面倒。

道具として数学を使いこなすことができるかを問うにはいい問題だと思う。



難問というほどのものではないが
ペンギン命

takutsubu

ここでもつぶやき
バックナンバー長いよ。
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