たくろふのつぶやき

オリンピック生中継で夜明けと洒落込む

2005年11月

サウジの結婚

サウジの女性教師4人、通勤時の運転手と「そろって」結婚


リャド(ロイター) 中東サウジアラビア南西部の、都市から離れた村の学校で教えている女性教師4人が、自分たちを村まで連れて行ってくれる運転手と「そろって」結婚、不便な通勤生活に終止符を打った。

サウジアラビアでは、女性が車を運転することは許されていない。また、イスラム法では、男性は妻を4人まで持つことが出来る。

同国のアルワタン紙が28日に伝えたところによると、アル・バハ州の村で教える4人は、通勤時の運転手の「品行方正」な点に惹かれ、4人そろって結婚することに同意。「通勤先」の村で一緒に暮らすことになったという。

簡単な結婚式を済ませ、毎日の「通勤疲れ」から解放された4人は、運転手と月々の給料を分けることで合意している。



こういうのを「運転手を雇う」と言いませんか



がんばれアッシー

11人の社長

【写真版】親分イレブン、e気分??プレステドットコム、SCEの発表に集まったゲームと流通、11人の社長たち


ずいぶん似た感じの社長さんが多いんですな



女社長さん多すぎ

寄生虫を規制中

毎日新聞がどうやら発狂したらしいので晒しておきます。


寄生虫の卵 感染、ラッキーかも=猪飼順 /東京

 鍋物の季節がやってきた。我が家の定番はキムチ鍋。冷蔵庫にあったキムチは、寄生虫の卵が検出されたと話題の某国製だったが、炒めたキムチを使うのがおいしさのコツというから、卵があっても問題ないだろう。

 子どものころ、野菜を洗っていて「虫がいる」と大騒ぎして怒られたことを思い出した。行商に来る農家から買っていた野菜は、虫食い跡は当たり前。菜っ葉類を洗うと、必ずといっていいほど、元気な虫に遭遇したものだ。慣れてしまえば、「虫がつくほどおいしい」と思えてきた。

 寄生虫に感染するとアレルギー反応を抑制できるという学説を唱える藤田紘一郎・東京医科歯科大名誉教授は、自らもサナダムシを体内に共生させていたことで有名だ。花粉症が抑えられる上に、いくら食べても太らないなどと聞くと、魅力的とすら思う。

 とはいえ、さすがに自分から卵を飲む勇気はない。「キムチで感染したら、ラッキーかもしれない」と頭をかすめ、深夜に鍋を平らげた。感染よりも、まず食べ過ぎに注意すべきかもしれない。

毎日新聞 2005年11月19日




じゃあ寄生させてみろよ。さあ早く。

童話と文化

大学の学生交流課主催のパーティーで、面白い人と知り合いになった。


彼は文学を専攻しているアメリカ人の大学院生で、なんと日本の昔話を研究しているという。日本にも2回来たことがあるらしい。
アメリカではもともと細く長く武士道ブームがあったが、特に最近、映画『Kill Bill』や『ラスト・サムライ』などでブームが爆発している。しかし、欧米で流布しているサムライ観、武士道、日本古来の道徳というものは、どうも誤解があるのではないか、というのが彼の動機とのこと。

もともとの日本古来の道徳律を探るために、彼は小さい子供に話して聞かせる童話に目をつけたそうだ。確かに子供向けの童話には無意識のうちにその文化の道徳律が色濃く反映されているだろう。なかなか目のつけどころがいい。

彼にアメリカの「日本ブーム」について面白い話を聞いた。
アメリカでは日本のサムライを模したアクションものやTシャツや漢字などが流行っている。デタラメな漢字が書いてあるTシャツを得意満面で着ているアメリカ人を見るたびに「何やってんだか」と苦笑いして見ていたもんだが、アメリカ人の大半は、そういう日本もののアイテムがニセモノであることを知っているそうだ。

彼らは「これぞ日本の文化」と喧伝したくてインチキ漢字のTシャツを着ているわけではない。彼らにとって大事なのは、自分がその字のデザインを気に入ったかどうかであり、それがオリジナルの漢字として意味を成すものかどうかは全く関係ないのだそうだ。彼らは日本文化を行儀よく踏襲するよりも、日本文化を自分たちの気に入るように作り変えて独自の亜流を作り出してしまうほうに価値観を見いだす。たとえニセモノの漢字であっても、自分が気に入ったデザインの文字であれば躊躇無くタトゥーにして腕に彫り込む。


「なんて言いますか、窮屈なホンモノよりも、自由なニセモノのほうが彼らは好きなんですよ。日本人に『日本にはそんな文化はない』と言われたら、堂々と『だからどうした、これは俺たちが作ったものだ』と言い放つでしょうね。もともとアメリカが誇る自由とオリジナリティーっていうのは、実はその程度のものじゃないかなと僕は思ってます」



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まぁ、一理あるんだけどね。



アメリカの大学でアメリカ人と話すことはあっても、それは仕事の内容であったり専門の勉強の内容だったりで、考えてみると、こうした比較文化の観点を聞く機会はついぞなかった。アメリカ人にしてはーというとなんかステレオタイプ化してしまうようで申し訳ないがー自国の文化を無条件に是とするのではなく、醒めた目で自分たちの文化を見ている。なかなかおもしろい。


日本の童話についていろいろと聞かれた。


「日本には誰もが知ってる童話というのがいろいろあるんですねぇ。『ピーチ・ボーイ』とか『ゴールデン・ボーイ』とか『タートル・ボーイ』とか。」

ああ、『ももたろう』に『きんたろう』に、・・・『うらしまたろう』かな?

「一番わかりやすいのは『ピーチ・ボーイ』ですね。仲間を増やして、鬼をやっつけて、最後には財宝を手にして。ハリウッド向けの内容ですよ」

ハリウッドかぁ。桃太郎がアクションものになっちゃうのかなw

「わかりにくいのは・・・『タートル・ボーイ』ですね。あれはどういう話なんですか?」

は?

「タートル・ボーイは自分で海底を探検して竜宮城を発見したわけではないでしょう?カメに連れて行ってもらっただけですよね」

はぁ。

「財宝を持ち帰ったわけでもないですよね。小さなマジックボックスひとつだけでしょう、持ち帰ったのは」

玉手箱ね。

「そしてそのボックスを開けたら、おじいさんになったわけですよね」

そうね。

「その物語の中で彼の幸せはどこにあるんですか?

は?

「あの物語全体で作者がこめたメッセージは、一体何なんでしょう?」


彼がアメリカ人だから、という問題ではなかろう。
我々も他の文化の民話や伝説の類いを読むときに、同じ錯誤を犯しがちなのではないか。

古くから継承される話は、明確にモチーフが決まっているわけではない。「この物語は、要するにこういうことを言いたいんですよ」という、主張めいたものがある物語はむしろ少ない。その点、すべての物語に寓意が込められているイソップ童話などはむしろ例外に属する。

自分と違う文化に接するときに、「要するに何が言いたいのか」「要するに何のためのものなのか」という、万国共通の論理や価値概念に置き換えて、ものを見てしまいがちだ。しかし、文化のなかには、そういう世界各国の共通理念に置き換えようとすることで、価値を失ってしまうものがある。意図も作為もない「ただあるだけ」のものが文化の本質ではあるまいか。その中から普遍的な価値を抽出しようという姿勢は、しょせん自分の文化の枠内に縛られてものを見ているに過ぎない。


「『ゴールデン・ボーイ』ね、あれもよく分からないんですよ」

金太郎ね。


金太郎は日本人でもよく知らない人が多い。TV番組『トリビアの泉』の調査によると、『桃太郎』を正確に知っている人は日本人の91%、『浦島太郎』を正確に知っている人は73%。それに比べて『金太郎』を知っている人は日本人の約1.4%しかいないという(4700人中67人)。

「トリビアの泉」では、金太郎を知っているかどうかを調べるために4つのポイントを踏まえるかどうかを調査していた。

1. 足柄山に住んでいた
2. クマと相撲をとって勝った
3. 後に源頼光という武士の家来になった
4. 坂田金時として鬼退治をした


確かに知らない。


「あの話はサクセスストーリーなんですか?」

は?

「結局、ゴールデンボーイは、武士の家来になるわけでしょう」

そうですね。

「集団のトップの座についたわけでもないのに、あれでどうしてサクセスストーリーなんでしょうか?」


ははぁ。


この国ではビル・ゲイツ並みじゃないとサクセスストーリーの名に値しないのか



そう考えると童話も読み方がいろいろあるんだなぁ

入り口なし

73834c28.jpg



とある物件の見取り図



和室とキッチンはどこから入るんだよ



窓から忍び込むしかないよなぁ
ペンギン命

takutsubu

ここでもつぶやき
バックナンバー長いよ。
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