たくろふのつぶやき

毎年「記録的な暑さ」じゃね?

2005年01月

ミサイル

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Bush National Missile Defence



まぁ、要するにブロックくずしの要領でミサイルを弾き続ければいいわけです。ミスってミサイルが落ちちゃうとぶっしゅタンが吹っ飛んでしまいます。やってるうちにわざとミサイルを落っことして吹っ飛ぶぶっしゅタンを見て楽しむようになると著しくゲームの趣旨から外れていく方向ですのでお気をつけください。

エラーメッセージ

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Error Message Generator



Windows風味のエラーメッセージを作ってくれるサイト。
むかしこういうのが流行りましたな。なんでも簡単に作れるようになっていい世の中である。

字が読めない

[日本人と漢字]「手で『書く』ことで文化を守る」
(2005年1月29日 読売新聞社説)
小学生誤読だらけ
(産経新聞)


まぁ、昨今の小学生の生活習慣にも拠るのかもしれないし、理由は様々にあるだろう。しかし、ふつうに考えれば学校の国語教育削減の結果と考えてよいのではあるまいか。

国語教育不要論者のほとんどは、自分の生活のなかに読書や執筆という習慣をもっており、学校による国語教育がなくても自分で言語感覚を培うことができるのだろう。そういうエリート様たちにとってはたしかに学校での国語教育などいらないだろうが、世の中はそうそう偉い人たちばかりではない。教えなければ分からないというのが大半ではあるまいか。

指導要領改訂の際、こういう事態になることは指摘されていたはずで、文部科学省も分かってたはずだ。だとしたら、「そんなに騒ぐことのほどでもない」というのが偉い人たちの見解なんだろうか。

その光

この世界が、最初にどうやって創られたかご存知だろうか。

世界のはじまりについて、見てきたようなことを書いてある本がある。
旧約聖書、『創世記(Genesis)』。


はじめに御言葉があった。
御言葉は神と共にあった。
御言葉は神であった。
御言葉ははじめに神と共にあり、
万物は御言葉によって創られた。
創られたもののうち、
一つとして御言葉によらずに創られたものはない。
御言葉に生命があり、
生命は人の光であった。

始めに神が天地を創造された。
地は混沌としていた。
暗黒(やみ)が原始の海の表面にあり、神の霊風が大水の表面に吹きまくっていたが、神が、「光あれ」と言われると、光が出来た。
神は光を見てよしとされた。
神は光と暗黒との混合を分け、神は光を昼と呼び、暗黒を夜と呼ばれた。



要するに、この世で何が一番最初にあったか。

まぁ、神ちゃんがまず第一に存在していたとして、これは別格だから置いておこう。この世にあるものは、具体物、抽象概念などひっくるめて、すべて神が作ったものなんだそうだ。僕が言うのではない。聖書がそう言っている。『創世記』によると、神ちゃんは6日で世界のすべてを創りあげた。その最初の作業として、一日目には「光」をつくって光と闇を分けている。

では、その光はどうやって創ったのか。
なんでも、神ちゃんが「光あれ」と言ったら、光が創られたんだそうだ。

"Dixit Deus: fiat lux. Et facta est lux. "
「主は『光あれ』と言った。すると光が成った」


これは便利だ。僕もこんな能力が欲しい。「コーヒーあれ」「サンドイッチあれ」「お金あれ」。なんでも作りたい放題だ。

冗談はさておき、光をはじめ「万物は御言葉によって創られた」という。ということは、神ちゃんによって真っ先に光が創られる以前に、まず言葉が存在していたことになる。しかし、創世記の中には「まず神は言葉を編み出された」などとは書いていない。

"In principio erat Verbum." 「はじめに御言葉があった」
これは、どういう意味なのだろう?
「言葉」というのは、空気よりも光よりも先に、すべてを超越して初めから在ったものなのだろうか?言葉に興味を持つ者として、これは見捨てておけない。

中世の神学者トマス・アクィナスはこれに対するひとつの見解を与えている。曰く、神ちゃんの言葉というのはワレワレしもじもの言葉とは3つの点で異なるんだそうだ。

まず第1に、ふつう人間は「思考」が先行し、しかるのちその考えを「言葉」で表現する。1に思考、2に言葉。ところが神ちゃんの言葉は「思考」というステップを踏まない。絶対的存在として最初から言葉がある。神ちゃんは賢いので、ワレワレがするところの「思考」などという流動的なステップは踏まないのだそうだ。考えなくてもすべて頭のなかに入っているんだろうか。

第2に、人間の言葉は不完全で不便極まりない。日常生活において、「ええと、思ってることがうまく言えないな」という思いをすることがあるだろう。ワレワレしもじもは、いろいろな観念を全て一つの言葉によって表現することができないので、自分の知っていることの全ての事柄を別々に多くの不完全な言葉を形成して表現しなければならない。ところが神ちゃんの言葉はそうではない。最も完全なものだそうだ。この世のすべては神ちゃんが作ったモノで、かつ第1点に挙げた通り、神ちゃんは全てのものの本質を、思考なしでいきなり知性認識するのだとしたら、その全てを言い尽くすのはそりゃ簡単だろう。

第3に、ワレワレの言葉はワレワレそのものではない。日常生活において言葉そのものにその人そのものを感じることがあるにせよ、言葉がすなわち発話者そのものであるのではない。もしそうだったら破綻する遠距離恋愛はかなり減るのではあるまいか。言霊信仰などを脇に置くとしても、我々の言葉は発話者の存在とは別物だ。しかし神ちゃんの言葉はそうではない。言葉すなわち神なのだそうだ。"et Deus erat Verbum" 「御言葉は主であった」とはっきり書いてある。

こうした違いを踏まえて創世記を読むと、言葉について聖書の見解が垣間見えるようで面白い。創世記の天地創造のくだりをよく読むと、存在を言葉によって実現させ、その存在をさらに言葉によって記述するという二重構造になっている。"et sine ipso factum est nihil quod factum est."「創られたもののうち、一つとして御言葉によらずに創られたものはない」と言い切るくらいだからよほどの生産力だ。聖書にとって言葉、少なくとも神の言葉とは、他ならない神そのものと同一のものであり、すべての存在を司るものなのだ。少なくとも僕にはそう読める。

言語は、人間と他の生物を分ける特徴のひとつだ。神ちゃんそのものである言葉を人間がもつことを許された、ということは、聖書は人間のことばをどのように捉えているのだろう。
単純な3段論法だと、


「人間の言葉と神の言葉は違う」
「神の言葉は神そのものである」
ゆえに「人間の言葉は神ではない」


あたりまえだ。


ことばは、どこから来たのか。神そのものであったはずの言葉を、なぜ人間がもつに至ったのか。
そういったことを考えると、創世記の段階で「言葉」が果たしていた役割が気になる。


ちなみに神は6日間で世界を創り、最後の日に人間を創られた。
神は、お疲れだった。

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あなた一体何者?


明らかにプロ。
ペンギン命

takutsubu

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