第3に、ワレワレの言葉はワレワレそのものではない。日常生活において言葉そのものにその人そのものを感じることがあるにせよ、言葉がすなわち発話者そのものであるのではない。もしそうだったら破綻する遠距離恋愛はかなり減るのではあるまいか。言霊信仰などを脇に置くとしても、我々の言葉は発話者の存在とは別物だ。しかし神ちゃんの言葉はそうではない。言葉すなわち神なのだそうだ。"et Deus erat Verbum" 「御言葉は主であった」とはっきり書いてある。
こうした違いを踏まえて創世記を読むと、言葉について聖書の見解が垣間見えるようで面白い。創世記の天地創造のくだりをよく読むと、存在を言葉によって実現させ、その存在をさらに言葉によって記述するという二重構造になっている。"et sine ipso factum est nihil quod factum est."「創られたもののうち、一つとして御言葉によらずに創られたものはない」と言い切るくらいだからよほどの生産力だ。聖書にとって言葉、少なくとも神の言葉とは、他ならない神そのものと同一のものであり、すべての存在を司るものなのだ。少なくとも僕にはそう読める。