2004年09月
Lightbulb Burns for 96 Years
(Reuters)
96年灯り続けている電球があるんだそうです。
テキサスのノース・フォートワース歴史協会で、ほんの数セントだった電球が96年めの「誕生日」を祝われたそうです。40Wで、炭素フィラメントと厚いガラスで作られているフツーの電球であるとのこと。96年前に地元オペラハウスのステージ入り口の照明としてスイッチを入れられて以来、ずっと絶えることなく点り続けているそうです。
間違えて作っちゃったんでしょうね。
ある大手家電メーカーの技術職に就職した友達に聞いた話ですが、技術的には100年以上保つ電球を作るのは簡単なんだそうです。フィラメントをぶっとくすればいいんですから。もちろんそれだけではダメで、特殊な小細工がちょっと必要らしいんですが、基本的に長持ちしすぎる電球は制作可能であるとのこと。
しかし、それでは電球が売れません。そりゃそうだみんながみんな一世紀も保つ電球だったら一度買われたら二度と売れんでしょう。
そういうワケで、現在の電球づくりの最先端技術は「いかに『適正期間』で切れる電球を作れるか」を追求することなんだそうです。1ヶ月で切れたら不良商品です。10年ももったら売れなくなります。短すぎず長過ぎず、ちょうど消費者が納得する期間、6-8ヶ月でぴったり切れるような電球を作るのが最先端技術なんだそうな。
だから、「そろそろ電球、切れるかしら」という期間感覚は、メーカーによって作為的に作られた「感覚」なんですね。
ちなみにこの話、その友達から「絶対にナイショだよ」と念を押されて聞いた話なので、おおっぴらにできません。というわけでここにも書かないことにします。
(Reuters)
96年灯り続けている電球があるんだそうです。
テキサスのノース・フォートワース歴史協会で、ほんの数セントだった電球が96年めの「誕生日」を祝われたそうです。40Wで、炭素フィラメントと厚いガラスで作られているフツーの電球であるとのこと。96年前に地元オペラハウスのステージ入り口の照明としてスイッチを入れられて以来、ずっと絶えることなく点り続けているそうです。
間違えて作っちゃったんでしょうね。
ある大手家電メーカーの技術職に就職した友達に聞いた話ですが、技術的には100年以上保つ電球を作るのは簡単なんだそうです。フィラメントをぶっとくすればいいんですから。もちろんそれだけではダメで、特殊な小細工がちょっと必要らしいんですが、基本的に長持ちしすぎる電球は制作可能であるとのこと。
しかし、それでは電球が売れません。そりゃそうだみんながみんな一世紀も保つ電球だったら一度買われたら二度と売れんでしょう。
そういうワケで、現在の電球づくりの最先端技術は「いかに『適正期間』で切れる電球を作れるか」を追求することなんだそうです。1ヶ月で切れたら不良商品です。10年ももったら売れなくなります。短すぎず長過ぎず、ちょうど消費者が納得する期間、6-8ヶ月でぴったり切れるような電球を作るのが最先端技術なんだそうな。
だから、「そろそろ電球、切れるかしら」という期間感覚は、メーカーによって作為的に作られた「感覚」なんですね。
ちなみにこの話、その友達から「絶対にナイショだよ」と念を押されて聞いた話なので、おおっぴらにできません。というわけでここにも書かないことにします。
プロ野球再編 オーナーが決断する時だ
(2004年9月22日 産経新聞社説)
同、産経抄
二十日の各球場の大盛況は球界再編問題の方向を明確に示していた。神宮球場では阪神・三塁側スタンドから「古田(=選手会長)がんばれ」コールが起きたという。結論が出たというべきだろう。
これまでの経営者側の言い分は、ファンの声を理解せず、球団経営の苦しさばかりを強調している。「どうすれば、ファンから支持されるプロ野球に生まれ変われるのか」という理念が全く感じられない。
スト決行について、読売新聞の社説は、「ファン裏切る“億万長者”のスト」との見出しで、選手会を激しく非難した。非難されるべきは、選手会の主張に耳をかさず、当初は話し合いのテーブルにも着かなかった経営者側にあるのではないか。
久しぶりの産経節。
珍しく読売が叩かれてる。今回の件に関しては、こう正面切って異論を唱える新聞が少ないほうが不思議。それほど読売の主張は事実に目を向けず、オーナー側の太鼓持ちに成り下がっていた。
つまり巨人一辺倒ではなくなってきた。かつて“巨人・大鵬・卵焼き”というはやし文句があった。いまどきこんな言葉を書けば、「なんじゃ、それは」と若い人にいわれるに違いない。巨人志向の時代は過ぎたことを認識すべきなのだ。
だそうですよ読売さん。
(2004年9月22日 産経新聞社説)
同、産経抄
二十日の各球場の大盛況は球界再編問題の方向を明確に示していた。神宮球場では阪神・三塁側スタンドから「古田(=選手会長)がんばれ」コールが起きたという。結論が出たというべきだろう。
これまでの経営者側の言い分は、ファンの声を理解せず、球団経営の苦しさばかりを強調している。「どうすれば、ファンから支持されるプロ野球に生まれ変われるのか」という理念が全く感じられない。
スト決行について、読売新聞の社説は、「ファン裏切る“億万長者”のスト」との見出しで、選手会を激しく非難した。非難されるべきは、選手会の主張に耳をかさず、当初は話し合いのテーブルにも着かなかった経営者側にあるのではないか。
久しぶりの産経節。
珍しく読売が叩かれてる。今回の件に関しては、こう正面切って異論を唱える新聞が少ないほうが不思議。それほど読売の主張は事実に目を向けず、オーナー側の太鼓持ちに成り下がっていた。
つまり巨人一辺倒ではなくなってきた。かつて“巨人・大鵬・卵焼き”というはやし文句があった。いまどきこんな言葉を書けば、「なんじゃ、それは」と若い人にいわれるに違いない。巨人志向の時代は過ぎたことを認識すべきなのだ。
だそうですよ読売さん。
「血液型は何ですか?」と人に訊いたことがあるだろうか。
一体、それを訊いてどういう情報を得たいのだろう。血液型というのは、つまるところ赤血球の表面の形を分類したものだ。つまり「血液型は何ですか?」と訊くことは、「あなたの赤血球はどんな形をしてますか?」と訊いているに等しい。
そんなことを訊いてどうするんだろう、と思う。まさか僕が交通事故にあったときに輸血の必要に備えてくれるために訊いているとも思えない。おそらく、「人間の性格は血液型によって決まる」と思っているのだろう。一般的にはA型は堅実で几帳面、B型はマイペースで奔放、O型は豪放大胆でおおざっぱ、AB型は天才肌で理性的と思われているようだ。
血液型は我々になじみにあるABO式だけでなく、赤血球のどんな特徴で分類するかによってMN式、Duffy、Chido/Rodges、Kidd、Hh、P、Rh+/-、などの様々な種類がある。これらの特徴をすべて組み合わせると膨大な組み合わせになり、自分とまったく同じ特徴を持つ赤血球を持つ人などほとんどいないと言って疑いない。それを、ほんの特徴のひとつにすぎないABO式だけをことさらに取り上げて「あの人はB型だから協調性がないよね」「しょうがないよあいつはO型だから大雑把で」など訳知り顔で言うのは、不遜の誹りを逃れられまい。
それだけではない。そもそも血液型で人を測るなど、とんでもないと思う。
血液型には、政治目的に利用された暗い過去がある。
かつてナチス・ドイツは、「アーリア人種は優等人種で生きる価値があり、ユダヤ人、少数民族、遺伝病患者などは劣等であり生きる価値がない」という主張を正統化させるため、優生学という観点を利用した。優生学ではさまざまな側面の生得的獲得形質、つまり持って生まれた特徴によって人間の価値を分別する。血液型はそのひとつとして利用され、A型が優秀でB型は劣等だとして、B型の比較的多いアジア人を差別する論拠にしようとした。
こういう姿勢は科学とは言わない。はじめからゴールがある。「最初に目的ありき」の試みは、その目的に都合よく事実を書き換える姿勢に堕ちるため、澄んだ目で事実を観察できない。「まず先入観抜きで事実を観察し、そこから『何が出るかな』という姿勢で考察する」というまっとうな科学的思考とは正反対の姿勢なのだ。事実、優生学は彼らが劣等と信じ込んでいたアボリジニにA型が多いことが分かって崩壊した。現在では優生学そのものが似非科学とされ、顧みられることはない。
人間を、持って生まれた獲得形質で特徴づける姿勢は、間違っていると思う。皮膚の色、国籍、性別、もちろん血液型も、本人の意志や努力で決定できるものではない。こういう特徴をあげつらって、「だからあなたはこういう人なのね」という言い方は、差別的志向に一直線の危険な姿勢だと思う。
差別とは、べつに人を貶めることだけではない。その人の生得的性質を根拠に高くもちあげることも同様に差別だ。出自、出身を理由に就職希望者を落とすのは差別だし、同様に高い家柄を理由に無条件で採用するのも差別だ。血液型にしてもまた然り。血液型という、本人が生まれながらにして持っている特徴で人の現在の在り方を括るのは、褒めるにせよ貶すにせよ差別的態度と何ら選ぶところがない。「あなたはO型だからおおざっぱでいい加減なのね」も、「あなたはO型だから情熱的で一生懸命なのね」も、言っていることは同じだ。生得的な特徴をもって一方的に人の性格を決めつけている。
「そんなこと言っても、やっぱり身の回りの人をみると血液型の性格判断っていうのは合ってることが多いと思うんだけどなぁ」という言い方をよく聞く。こういう言い方をする人がいる限り、世の中から偏見と差別がなくなることはあるまい。「あなたはB型だから自分勝手なのね」という言い方は、「アメリカ人だからバカだ」「フランス人だから自分勝手だ」「ドイツ人だから融通が利かない」「イギリス人だから偽善的だ」「黒人だから教養がない」と思い込み、しかもそれを実際に口に出して言うのと同じ姿勢だ。経験的に正しいと思うか思わないかが問題なのではない。そういう一人一人の個人が生まれ持った性質をもとにその人の在り方を勝手に決め込み、それを口に出して言うこと自体が社会のモラルに反した姿勢だと思う。当然、「あなたはB型だから独創的なのね」「アメリカ人だから勇気がある」「フランス人だから洗練されている」「ドイツ人だから堅実だ」「イギリス人だから親切だ」「黒人だから運動能力が高い」という言い方も、まったく同様の理由で軽々しく口にするべきではあるまい。
人間の性格が脳によって形作されることは疑いなかろう。血液循環系と脳細胞との間でには“血液脳関門”と呼ばれる関所があり、血液が脳細胞に触れることは無いそうだ。つまり血液型の違いは脳の活動にまったく影響を及ぼず、性格云々にも関係ない。また、脳細胞はブドウ糖と酸素を活動源としていて、ABO式血液型の形質を決定するのは赤血球の話だから、血液型性格診断は何の根拠も無いことになる。
自分の経験から正しいと思っていようがいまいが、血液型で人を括ったり判断したりする人は、差別と偏見に対する姿勢が脆弱だと思う。ナチス・ドイツの優生学的主張「アーリア人は生きる価値があり、ユダヤ人は生きる価値がない」に憤る人が、平気で血液型をもとに人の性格を判断する。過去の人間の過ちから何も学んでいない。軽佻浮薄も甚だしい。
欧米人はそもそも自分の血液型を知らない人のほうが多い。「血液型で性格を分類する」と聞くと、驚くか鼻で笑うかのどっちかだ。日本では初対面の人が多くあつまるパーティーなどで、自己紹介のときにやたらと人の血液型を訊き、相性がどうのこうのと喋る手合いがいるが、僕には「あなたはあの部落の出身なんだ、じゃあ私とは合わないわね」という差別的発言と同程度の軽薄な姿勢に聞こえる。
一体、それを訊いてどういう情報を得たいのだろう。血液型というのは、つまるところ赤血球の表面の形を分類したものだ。つまり「血液型は何ですか?」と訊くことは、「あなたの赤血球はどんな形をしてますか?」と訊いているに等しい。
そんなことを訊いてどうするんだろう、と思う。まさか僕が交通事故にあったときに輸血の必要に備えてくれるために訊いているとも思えない。おそらく、「人間の性格は血液型によって決まる」と思っているのだろう。一般的にはA型は堅実で几帳面、B型はマイペースで奔放、O型は豪放大胆でおおざっぱ、AB型は天才肌で理性的と思われているようだ。
血液型は我々になじみにあるABO式だけでなく、赤血球のどんな特徴で分類するかによってMN式、Duffy、Chido/Rodges、Kidd、Hh、P、Rh+/-、などの様々な種類がある。これらの特徴をすべて組み合わせると膨大な組み合わせになり、自分とまったく同じ特徴を持つ赤血球を持つ人などほとんどいないと言って疑いない。それを、ほんの特徴のひとつにすぎないABO式だけをことさらに取り上げて「あの人はB型だから協調性がないよね」「しょうがないよあいつはO型だから大雑把で」など訳知り顔で言うのは、不遜の誹りを逃れられまい。
それだけではない。そもそも血液型で人を測るなど、とんでもないと思う。
血液型には、政治目的に利用された暗い過去がある。
かつてナチス・ドイツは、「アーリア人種は優等人種で生きる価値があり、ユダヤ人、少数民族、遺伝病患者などは劣等であり生きる価値がない」という主張を正統化させるため、優生学という観点を利用した。優生学ではさまざまな側面の生得的獲得形質、つまり持って生まれた特徴によって人間の価値を分別する。血液型はそのひとつとして利用され、A型が優秀でB型は劣等だとして、B型の比較的多いアジア人を差別する論拠にしようとした。
こういう姿勢は科学とは言わない。はじめからゴールがある。「最初に目的ありき」の試みは、その目的に都合よく事実を書き換える姿勢に堕ちるため、澄んだ目で事実を観察できない。「まず先入観抜きで事実を観察し、そこから『何が出るかな』という姿勢で考察する」というまっとうな科学的思考とは正反対の姿勢なのだ。事実、優生学は彼らが劣等と信じ込んでいたアボリジニにA型が多いことが分かって崩壊した。現在では優生学そのものが似非科学とされ、顧みられることはない。
人間を、持って生まれた獲得形質で特徴づける姿勢は、間違っていると思う。皮膚の色、国籍、性別、もちろん血液型も、本人の意志や努力で決定できるものではない。こういう特徴をあげつらって、「だからあなたはこういう人なのね」という言い方は、差別的志向に一直線の危険な姿勢だと思う。
差別とは、べつに人を貶めることだけではない。その人の生得的性質を根拠に高くもちあげることも同様に差別だ。出自、出身を理由に就職希望者を落とすのは差別だし、同様に高い家柄を理由に無条件で採用するのも差別だ。血液型にしてもまた然り。血液型という、本人が生まれながらにして持っている特徴で人の現在の在り方を括るのは、褒めるにせよ貶すにせよ差別的態度と何ら選ぶところがない。「あなたはO型だからおおざっぱでいい加減なのね」も、「あなたはO型だから情熱的で一生懸命なのね」も、言っていることは同じだ。生得的な特徴をもって一方的に人の性格を決めつけている。
「そんなこと言っても、やっぱり身の回りの人をみると血液型の性格判断っていうのは合ってることが多いと思うんだけどなぁ」という言い方をよく聞く。こういう言い方をする人がいる限り、世の中から偏見と差別がなくなることはあるまい。「あなたはB型だから自分勝手なのね」という言い方は、「アメリカ人だからバカだ」「フランス人だから自分勝手だ」「ドイツ人だから融通が利かない」「イギリス人だから偽善的だ」「黒人だから教養がない」と思い込み、しかもそれを実際に口に出して言うのと同じ姿勢だ。経験的に正しいと思うか思わないかが問題なのではない。そういう一人一人の個人が生まれ持った性質をもとにその人の在り方を勝手に決め込み、それを口に出して言うこと自体が社会のモラルに反した姿勢だと思う。当然、「あなたはB型だから独創的なのね」「アメリカ人だから勇気がある」「フランス人だから洗練されている」「ドイツ人だから堅実だ」「イギリス人だから親切だ」「黒人だから運動能力が高い」という言い方も、まったく同様の理由で軽々しく口にするべきではあるまい。
人間の性格が脳によって形作されることは疑いなかろう。血液循環系と脳細胞との間でには“血液脳関門”と呼ばれる関所があり、血液が脳細胞に触れることは無いそうだ。つまり血液型の違いは脳の活動にまったく影響を及ぼず、性格云々にも関係ない。また、脳細胞はブドウ糖と酸素を活動源としていて、ABO式血液型の形質を決定するのは赤血球の話だから、血液型性格診断は何の根拠も無いことになる。
自分の経験から正しいと思っていようがいまいが、血液型で人を括ったり判断したりする人は、差別と偏見に対する姿勢が脆弱だと思う。ナチス・ドイツの優生学的主張「アーリア人は生きる価値があり、ユダヤ人は生きる価値がない」に憤る人が、平気で血液型をもとに人の性格を判断する。過去の人間の過ちから何も学んでいない。軽佻浮薄も甚だしい。
欧米人はそもそも自分の血液型を知らない人のほうが多い。「血液型で性格を分類する」と聞くと、驚くか鼻で笑うかのどっちかだ。日本では初対面の人が多くあつまるパーティーなどで、自己紹介のときにやたらと人の血液型を訊き、相性がどうのこうのと喋る手合いがいるが、僕には「あなたはあの部落の出身なんだ、じゃあ私とは合わないわね」という差別的発言と同程度の軽薄な姿勢に聞こえる。
太陽が沈む方角、3割が知らず 危うい小学生の天文知識
いいんじゃないの。
知らなきゃ生きていけないことでもあるまいし。
僕はいつ日本の小学校が一切の教科教育を廃止するつもりか注意して見てるんですが、まだ勉強のまねごとを続けてはいるようですね。
<追加>
2004年9月22日 毎日新聞「余録」
月に誓うロミオとジュリエットときたか。いいところに目をつけたな。
「うんほんとだよ、あの月に誓うよ」
イコール
「コロコロ変わるよ」
それにしても
「世界は遊星という星の一にして一年に一回日輪の周囲を回るものなり。その状は平坦く見ゆれども、実は円き球なれば世に之を地球という」
この教科書読みてえー。
いいんじゃないの。
知らなきゃ生きていけないことでもあるまいし。

僕はいつ日本の小学校が一切の教科教育を廃止するつもりか注意して見てるんですが、まだ勉強のまねごとを続けてはいるようですね。
<追加>
2004年9月22日 毎日新聞「余録」
月に誓うロミオとジュリエットときたか。いいところに目をつけたな。
「うんほんとだよ、あの月に誓うよ」
イコール
「コロコロ変わるよ」
それにしても
「世界は遊星という星の一にして一年に一回日輪の周囲を回るものなり。その状は平坦く見ゆれども、実は円き球なれば世に之を地球という」
この教科書読みてえー。
ペンギン命
takutsubu
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