次の文章は、明治四十年に書かれた、国木田独歩の、友人あての書簡である。この書簡を受けとったと仮定して、一六〇字以上二〇〇字以内で返事を書け(句読点も一字として数える)。なお、解答に関しては、頭語(「拝復」など)・結語(「かしこ」「敬具」など)・書名・あて名・日付け・改行等は不要で、文体も自由である。


 僕もとうとう病人らしい病人の中に加入してしまった。Aドクトルは咽喉カタルと診断し、Bドクトルは肺尖カタルと診断す。右の中、右肺は軽微、左肺は肺尖以上のカタルの由。両ドクトルともに僕の顔を見ると転地転地とすすめ、ぐずぐずすれば死んでしまいそうな口ぶりで僕を東京から追い出す工夫に余念なし。
 さて何処へ転地するか、目下彼方此方とせんさくするばかりで決定せず。ただ今急に思いついたのはC君の別荘なり。差し当たり、あれを借りる事が出来るならすぐにでも行かれるし、万事好都合と案じたのであるが、君が考えてなるほどと思うならば、先方へ、単に独歩が病を養うべくひと月ばかり借りたいというが如何と、掛け合って見てはくださるまいか急に。右御返事を乞う。
 僕は衰えたよ。まるで骨と皮になったよ。君が見たらびっくりするぞ。ひいき目なしに見て「長くはあるまい」が適評ならん。僕も少々悔しくなって来た。今死んでたまるものかと思うと涙がぽろぽろこぼれる。しかし心弱くてはかなわじと元気を出して、これから大いに病と戦い、遠からず凱歌を奏する積りなり。
(国木田独歩『小杉未醒への手紙』明治四十年八月二十六日付)



何の文章作法の問題かと思うだろうが、これが東京大学・現代文の入試問題だと聞くと驚くだろうか。歴とした東大1982年の現代文[二]の問題だ。
東大がこの問題で受験生のどういう資質を試そうとしたのか、見当がつくだろうか。

東大は別に「いい人」を入学させるべくこんな問題を出したのではあるまい。現代文とはいえ、この問題は「大学という場で学問を修める資格のある学生」を選抜するための試験のはずだ。だとすれば、この問題で要求されている答案は、学問を行う上で必須の能力が試されていると思ってよい。間違っても、東大は文豪と対等に手紙をやりとりできる小説家を見分けようとしているのではない。

大学で行われている学問は、おおよそ科学の方法論を土台としている。たくつぶでも今まで何度となく「科学的方法論とは何か」のような記事を書き散らしてきたが、こういう問題を考えるときもまったくやり方は同じだ。

主観と客観を明確に分けること。
客観性を保証するために再現性を備えた観察を行うこと。
漠然とした事象の中に形式化し得る構造を見いだすこと。

そういう「科学的思考法の基本」が備わっていれば、東大がこの問題で何を問いたいのか、見当がつくはずだ。

まず不合格答案としては、「病気なのか、かわいそうだね。早く良くなるように祈るよ」のような返事は全部零点だろう。東大は別に、どれだけ独歩に同情できるか、「いい人競争」をさせようとしているのではない。
むしろ、同情というのは、科学的思考法が必要とする「客観性」と対極にある「主観」に過ぎない。そのような主観まる出しで、「かわいそう」の連打を綴る答案は、すべて学問的な姿勢としては無価値だろう。

科学的思考法の出発点は何か。
現象の中から「謎を見つける」ことだ。「なぜ、こうなっているのだろう?」という疑問を見いだすことが、科学的考察のすべての出発点と言ってよい。

もし僕が独歩からこの手紙を受けとったら、その意図が理解できずに首をひねるだろう。
そもそも、なぜ独歩は自分でC君に直接頼まないのか。なぜ「僕」を介して別荘を依頼するような、回りくどいことを頼んでいるのか。

「独歩はC君とあまり親しい仲ではないから、『僕』に仲介を頼んできた」というのは、違うだろう。誰が死にかけている際の療養に、親しくもない人の別荘を借りようと思うだろうか。余計な気を使い、却って健康に悪いだろう。転地療養の場としてC君のことを考えていることからして、独歩とC君は充分に親しい間柄と考えてよい。

手紙の文面から独歩の意図を察するに、その本意は「別荘を手配すること」ではあるまい。友人である「僕」に、現状を知らせるのが目的ではあるまいか。別荘の手配などはことのついでに過ぎず、今自分がこういう状況に置かれている、ということを知ってもらうためにこの手紙を書いた、と考えられる。

この手紙にテーマがあるとしたら、それは「死」だろう。独歩は手紙の中で死を恐れているし、それに立ち向かう決意表明もしている。受験生がこの文章のテーマとして「死」というものを見いだしたら、その構造を客観的に把握しようと努めなくてはならない。間違っても主観的に「かわいそうだな」などと感想文を書いてはいけない。

また、独歩がこの手紙をわざわざ「僕」に書いてきた、ということは、病気で心が弱くなり、友人としての「僕」に病状を知ってもらい別荘を手配してもらうことにより、「友情を確認したい」という希望があるのだろう。ここから、この文章には「友情」というもうひとつのテーマがあることが察せられる。

ここまで分かったら、もう答案までは一直線だ。東大が問うているのは、「『死』と『友情』に関して、この文章から見いだせる共通点は何か」という問題に過ぎない。自分が死や友情についてどういう考え方をもっているかは一切関係なく、「この文章を読んで」、そのふたつに見いだせる共通点を客観的に示せばよい。

死に瀕している独歩に対して「かわいそうだね」と同情するということは、そう言う自分を「生」という死の対岸に置いていることになる。自分は生きている、独歩は死にかけている、という相反する立場と考えていることになる。死と関係ない安全地帯から、死を他人事のように眺めている。
しかし冷静に考えれば、死というものは、誰にでも平等に訪れる。独歩だけでなく、「僕」もC君も、いずれは死ぬのだ。「死」を独歩のものだけでなく、自分自身も「死」という大きな環からは抜け出せない。

また独歩は、友情を感じたいために、わざわざ僕に別荘の手配を依頼している。つまり独歩にとって友情とは「人とのつながり」であって、人から人へとつながることで友情を確かなものと感じている。

そう考えると、「死」と「友情」の共通点として、「連鎖」というキーワードが思い浮かぶ。死も友情もともに、ひとりの個人が単独で向かい合うものではなく、人と人とのつながりを包括するものだ。その枠の外から他人事のように眺めるものではない。
それを反映させた返事を書けば、東大の要求を満たす答案になるだろう。


東大現代文の第二問は、代々「死」にまつわるテーマが多く、俗に「死の第二問」と呼ばれている。死をテーマにしているだけではなく、受験生にとって答案の書き方がさっぱり分からない、という意味でも「死の問題」と言える。
東大は別に、死についてなにか哲学的・超越的な知見に達している仙人のような受験生を採りたいわけではない。あくまでも学問研究機関として、学問をするに足りる資質を備えている学生を選抜するのが目的だ。

科学に基づく学問を行う以上、どんな学問分野でも「主観」と「客観」を区別することは必須の資質となる。東大が死にまつわる出題を頻発するのは、別に死そのものが重要だからではない。人が誰でも直面する現実問題として、「死」は主観を交えず客観視することが難しいテーマだからだ。たとえ「死」という重いテーマであっても、感情的にならず、冷静に客観視できるような学生を、東大は欲している。

学問というものがどのような営みであるのかをきちんと分かっていれば、そこから逆算して入試問題が問うている資質の見当がつく。東大が求めているのは、他人に共感できる「いい人」ではない。どんな事象にも冷静に客観視できるような学生だ。それは現代文という、一見科学的方法論と無縁に見えるような科目でも例外ではない。
そのような意図が分からずに答案を書いても、ことごとく「学問の本質」から外れた見当違いを書き連ねるだけだろう。


(解答例)
君がC君に直接別荘を依頼せず、僕を介して依頼してきた由、君が僕を友人として大切にしている気持ちを感じる。君と僕とC君と、友人として繋がる関係に感謝する。君は死に直面して辛い日々を送っているだろうが、死に向かうのは君ひとりではない。友人関係と同じく、死も僕ら全員に平等に訪れる。友情と死というものは、すべて等しく人をつなぐ環として、その本質は同じようなものなのだ。君の手紙を読んで、そんなことを思った。
(200字) 




誰か転地休養する別荘、貸してくれませんかね