ある能楽師のエッセイを読んでいたら、面白いことが書いてあった。
昨今、能楽師や狂言師などの伝統芸能の演者が、現代演劇とコラボして舞台に出演する機会が増えているそうだ。ミュージカルやオペラなどへの出演も増えているという。多くは演劇側からの要請だそうで、日本風の文化を反映させるために伝統芸能の要素を盛り込む工夫をしている。伝統芸能の側でも、演者の所作に新しい風を取り入れるために、そういう企画を歓迎しているのだそうだ。
面白いのは、舞台本番直前の、いわゆる「気持ちを作る」ための時間の使い方が、伝統芸能と現代演劇でまったく違うことだそうだ。
演劇の役者さんは、本番前に、自分が演じる登場人物に「同化」するため、そのキャラクターの心情・感情を心の中に再現する。中には、悲劇を演じる際に、準備の段階で涙を流す俳優さんもいるそうだ。作品に共感できる心理状態を作り上げ、「心」からそのキャラクターになり切る努力をするらしい。
こういう感情移入の方法論を、演劇用語で「スタニスラフスキー・システム」という。モスクワ芸術座の演出家スタニスラフスキーが編み出した手法で、特定のキャラクターを演じるときには、その感情や心情から再現すべく、心をそのキャラクターに一致させる、という演じ方だ。この方法論は、後に「メソッド演劇」として、演じる側の方法論を体系化させる試みに発展している。
実際のところ演劇の世界では、このスタニスラフスキー・システムは、賛否両論ある方法論らしい。「登場人物に感情移入する」ということは、要するに「役者個人の人生経験を、演技に反映させる」ということだ。つまり、役者個人が経験したことがない感情は、演技で再現できない、ということになる。親を亡くして悲しむ役は、実際にそれを経験したことがない者には演じられない。また、演技の質が役者の個人的体験、経験に左右される、ということは、オーディション等で役を決める時の基準が、演技力とは関係ない個人調査に陥りやすい。
現在でも、スタニスラフスキー・システムは、意識的にしろ無意識にしろ、本番前の「気持ち作り」として採用している俳優さんが多いらしい。かくして本番前の舞台裏では、やたらに怒ったり、悲しみのあまりさめざめと泣き出したり、という俳優さんが多くなるそうだ。
能楽師などの伝統芸能の演者さんは、そういう準備を見ると、非常に戸惑うそうだ。
伝統芸能では、本番前にいわゆる「気持ちを作る」ということを全くしない。むしろ、稽古では個別のキャラクターに「感情移入」することを、厳しく禁じられているそうだ。現代演劇とは真逆といっていい。
だから、本番前に能楽師が何をしているかというと、「ぼーっと時間待ちしている」だけなのだそうだ。ところが周りでは、俳優さんたちが必死に怒ったり泣いたり笑ったりして「気持ち」を作っている。「その迫力と、ぼーっとしている自分とのギャップが、なんかいたたまれない」のだそうだ。
その場面を想像してみると、なんとなくおもしろい。さぞ居心地が悪いだろう。
なぜ、能や狂言などの伝統芸能では、「気持ちをつくる」ことを禁じているのか。
伝統芸能の稽古では、演じる側の感情や個人的経験など一切関係なく、ひたすら所作の「型」を習得することに専念する。心の稽古をするのではなく、ただひたすら「体の動き」としての「型」を稽古するのだそうだ。
長い歴史をもつ伝統芸能では、各シーンでの「ココロ」を演じる際に、演じる側が多種多様でも、時代や場所を隔てても、それを忠実に再現する必要がある。たとえ現代と価値観が違う数百年前の演舞を行う時にも、それを忠実に再現する。そんな昔の登場人物に「ココロで接近する」など、どだい無理な話だ。
だから伝統芸能では、各シーンの「ココロ」の奥にある「芯」「思ひ」と言うべきものを、身体の動きに封じている。それが「型」だ。
つまり能や狂言では、各シーンのココロや感情は、それを表す身体の所作によってのみ表す。その「型」は、演じる側の感情や個人的経験に左右されてはならないものだ。個人の体験を越えた、より普遍的なものを保存し、表出するための知恵なのだろう。
だから伝統芸能では、舞台の本番前に「気持ちを作る」などということはしない。むしろ、そういうことをしてはならない。演じるキャラの気持ちがどんなものであろうと、個人の経験が追いつかなくても、関係ない。稽古によって身体に染み込ませた「型」によって、どんな世界のどんな気持ちでも表現する。
同じ演劇という枠でくくられていても、それに対するアプローチのしかたが正反対なのが面白い。世の中のノウハウに正解なんてものはないのだろうが、それぞれの方法にはそれぞれの根拠があり、それぞれの稽古の仕方があるだろう。
これは大きく言うと、「心から入る精神的アプローチ」と「身体から入る『型』のアプローチ」の違い、ということだろう。たとえばスポーツの世界では、昔から試合前に「気持ちを作れ」とよく言われる。試合に負けると「気持ちで負けたからだ」とよく責められる。これは要するに、心を先行させて、身体をそれに追随させる考え方だろう。
こういう指導の仕方は、試合に負けたり上達が滞ったりする原因を、すべて個人の「気持ち」のせいにする風潮につながり、ひいては選手個人への人格を否定することにつながる。
今年の夏に、なでしこリーグの岡山湯郷で、宮間あや、福元美穂ら日本代表経験選手を含む4名が同時に退団するという事件があった。結城治男監督代行に「選手の人格を否定する言動があった」ということが原因と報じられている。
これと近いことは、日本全国の中学・高校の部活に蔓延しているだろう。身体能力に帰着するスポーツの根源資質を「心」「気持ち」「人格」「人生経験」に安易に結びつける傾向は、スタニスラフスキー・システムが重視していることと根っこが同じだと思う。
最近では、選手の側が自発的に工夫をして、メンタルトレーニングやノウハウの蓄積が体系的に行われるようになってきた。ラグビー日本代表の五郎丸選手がプレースキックの前に行う「ルーティン」はかなり有名になった。あれは要するに、「身体の動きによって普遍的なパフォーマンスを表出する」というやり方で、方法論としては能楽師に近い。スポーツ選手のなかには無意識のうちにこれを実行している人もいて、「いつも同じ通路から球場入りする」「試合前にはいつも同じ食事をとる」などの、いわゆる「ジンクス」というものも、要するに身体的な動きによって自らをコントロールする知恵だ。
心で身体を動かそうとするのか、身体で心をコントロールしようとするのか、どちらが正解ということはないだろう。場に応じて、必要に応じて、どちらも正解となり得る方法論だと思う。
しかし、多くの人はそのどちらかに方法論が偏っている気がする。学生が「よし気合を入れて勉強するぞ」と意気込んでいるのを見るたびに、気合が入っていない時にもするのが本当の勉強なんだけどな、とつい茶々を入れたくなる。
昨今、能楽師や狂言師などの伝統芸能の演者が、現代演劇とコラボして舞台に出演する機会が増えているそうだ。ミュージカルやオペラなどへの出演も増えているという。多くは演劇側からの要請だそうで、日本風の文化を反映させるために伝統芸能の要素を盛り込む工夫をしている。伝統芸能の側でも、演者の所作に新しい風を取り入れるために、そういう企画を歓迎しているのだそうだ。
面白いのは、舞台本番直前の、いわゆる「気持ちを作る」ための時間の使い方が、伝統芸能と現代演劇でまったく違うことだそうだ。
演劇の役者さんは、本番前に、自分が演じる登場人物に「同化」するため、そのキャラクターの心情・感情を心の中に再現する。中には、悲劇を演じる際に、準備の段階で涙を流す俳優さんもいるそうだ。作品に共感できる心理状態を作り上げ、「心」からそのキャラクターになり切る努力をするらしい。
こういう感情移入の方法論を、演劇用語で「スタニスラフスキー・システム」という。モスクワ芸術座の演出家スタニスラフスキーが編み出した手法で、特定のキャラクターを演じるときには、その感情や心情から再現すべく、心をそのキャラクターに一致させる、という演じ方だ。この方法論は、後に「メソッド演劇」として、演じる側の方法論を体系化させる試みに発展している。
実際のところ演劇の世界では、このスタニスラフスキー・システムは、賛否両論ある方法論らしい。「登場人物に感情移入する」ということは、要するに「役者個人の人生経験を、演技に反映させる」ということだ。つまり、役者個人が経験したことがない感情は、演技で再現できない、ということになる。親を亡くして悲しむ役は、実際にそれを経験したことがない者には演じられない。また、演技の質が役者の個人的体験、経験に左右される、ということは、オーディション等で役を決める時の基準が、演技力とは関係ない個人調査に陥りやすい。
現在でも、スタニスラフスキー・システムは、意識的にしろ無意識にしろ、本番前の「気持ち作り」として採用している俳優さんが多いらしい。かくして本番前の舞台裏では、やたらに怒ったり、悲しみのあまりさめざめと泣き出したり、という俳優さんが多くなるそうだ。
能楽師などの伝統芸能の演者さんは、そういう準備を見ると、非常に戸惑うそうだ。
伝統芸能では、本番前にいわゆる「気持ちを作る」ということを全くしない。むしろ、稽古では個別のキャラクターに「感情移入」することを、厳しく禁じられているそうだ。現代演劇とは真逆といっていい。
だから、本番前に能楽師が何をしているかというと、「ぼーっと時間待ちしている」だけなのだそうだ。ところが周りでは、俳優さんたちが必死に怒ったり泣いたり笑ったりして「気持ち」を作っている。「その迫力と、ぼーっとしている自分とのギャップが、なんかいたたまれない」のだそうだ。
その場面を想像してみると、なんとなくおもしろい。さぞ居心地が悪いだろう。
なぜ、能や狂言などの伝統芸能では、「気持ちをつくる」ことを禁じているのか。
伝統芸能の稽古では、演じる側の感情や個人的経験など一切関係なく、ひたすら所作の「型」を習得することに専念する。心の稽古をするのではなく、ただひたすら「体の動き」としての「型」を稽古するのだそうだ。
長い歴史をもつ伝統芸能では、各シーンでの「ココロ」を演じる際に、演じる側が多種多様でも、時代や場所を隔てても、それを忠実に再現する必要がある。たとえ現代と価値観が違う数百年前の演舞を行う時にも、それを忠実に再現する。そんな昔の登場人物に「ココロで接近する」など、どだい無理な話だ。
だから伝統芸能では、各シーンの「ココロ」の奥にある「芯」「思ひ」と言うべきものを、身体の動きに封じている。それが「型」だ。
つまり能や狂言では、各シーンのココロや感情は、それを表す身体の所作によってのみ表す。その「型」は、演じる側の感情や個人的経験に左右されてはならないものだ。個人の体験を越えた、より普遍的なものを保存し、表出するための知恵なのだろう。
だから伝統芸能では、舞台の本番前に「気持ちを作る」などということはしない。むしろ、そういうことをしてはならない。演じるキャラの気持ちがどんなものであろうと、個人の経験が追いつかなくても、関係ない。稽古によって身体に染み込ませた「型」によって、どんな世界のどんな気持ちでも表現する。
同じ演劇という枠でくくられていても、それに対するアプローチのしかたが正反対なのが面白い。世の中のノウハウに正解なんてものはないのだろうが、それぞれの方法にはそれぞれの根拠があり、それぞれの稽古の仕方があるだろう。
これは大きく言うと、「心から入る精神的アプローチ」と「身体から入る『型』のアプローチ」の違い、ということだろう。たとえばスポーツの世界では、昔から試合前に「気持ちを作れ」とよく言われる。試合に負けると「気持ちで負けたからだ」とよく責められる。これは要するに、心を先行させて、身体をそれに追随させる考え方だろう。
こういう指導の仕方は、試合に負けたり上達が滞ったりする原因を、すべて個人の「気持ち」のせいにする風潮につながり、ひいては選手個人への人格を否定することにつながる。
今年の夏に、なでしこリーグの岡山湯郷で、宮間あや、福元美穂ら日本代表経験選手を含む4名が同時に退団するという事件があった。結城治男監督代行に「選手の人格を否定する言動があった」ということが原因と報じられている。
これと近いことは、日本全国の中学・高校の部活に蔓延しているだろう。身体能力に帰着するスポーツの根源資質を「心」「気持ち」「人格」「人生経験」に安易に結びつける傾向は、スタニスラフスキー・システムが重視していることと根っこが同じだと思う。
最近では、選手の側が自発的に工夫をして、メンタルトレーニングやノウハウの蓄積が体系的に行われるようになってきた。ラグビー日本代表の五郎丸選手がプレースキックの前に行う「ルーティン」はかなり有名になった。あれは要するに、「身体の動きによって普遍的なパフォーマンスを表出する」というやり方で、方法論としては能楽師に近い。スポーツ選手のなかには無意識のうちにこれを実行している人もいて、「いつも同じ通路から球場入りする」「試合前にはいつも同じ食事をとる」などの、いわゆる「ジンクス」というものも、要するに身体的な動きによって自らをコントロールする知恵だ。
心で身体を動かそうとするのか、身体で心をコントロールしようとするのか、どちらが正解ということはないだろう。場に応じて、必要に応じて、どちらも正解となり得る方法論だと思う。
しかし、多くの人はそのどちらかに方法論が偏っている気がする。学生が「よし気合を入れて勉強するぞ」と意気込んでいるのを見るたびに、気合が入っていない時にもするのが本当の勉強なんだけどな、とつい茶々を入れたくなる。
たくつぶの更新が多いのは長い論文を書いている時であります。