たまに大学で、異様な光景を目にする。
何かの授業を受けている学生たちが、二人一組になって、構内を歩き回っている。そのうち一人はアイマスクなどで目隠しをし、もう一人が案内役になって先導している。


ブラインド


なんの儀式だ。 


実はこれ、「ブラインドウォーク」という活動で、「ホスピタリティとは何か」を学ぶためのものだ。
大学でこれを行うということは、おそらく教員養成課程の授業だろう。学生指導やカウンセリングなどの手法を学ぶ授業で、「どうすれば生徒を安心させる接し方ができるのか」を実践するために行われる。
また、教員養成以外でも、「人に対する接し方」の基本を教える講習で取り上げられることが多い。お客様に対するホスピタリティを学ぶための訓練として、一般企業の初任者研修でも行われることがある。

眼を塞いで歩くのだから、被験者の行動は、すべて案内役に委ねられる。ルールとして、案内役は一言も言葉を発してはならない。ボディータッチだけで、段差や障害物などの危険を被験者に伝えなければならない。身体接触という非言語コミュニケーションだけで、相手に安心感を与える能力をつけるための活動だ。

被験者に対する共感性が高い人ほど、直面する危機を伝える能力が高いのだそうだ。逆に、作業的・機械的に被験者に触れているだけの人に案内役をされると、身体接触によって伝えられる情報が、どんな危険への警告なのかが分かりにくい。案内役の能力の高さによって、安心して歩ける場合と、不安に感じる場合がある。

実は、僕もこれを行ったことがある。
昨今の大学では、学生指導やカウンセリングの方法を身につけさせるために、教員に研修を行うことがある。僕も大学から派遣されてこのカウンセリング講習を受けた。3泊4日くらいの研修で、軽井沢の人里離れた研修所に監禁されて、朝から晩まで講習を受けた。その中で、このブラインドウォークをやったことがある。

正直に言うと、たいした効果を感じなかった。僕が実際にブラインドウォークの被験者になった時には、パートナーを変えて2, 3回歩いたが、すべて不安に感じた。
その原因は、組んだパートナーの案内役が、すべて講習を受けている受講者であったことだろう。まだその能力が身に付いていない受講者同士が組まされても、下手に決まっている。

だからこのブラインドウォークを効果的に行うためには、「上手な人と下手な人との差」を感じられるように行わなくては、意味がないと思う。要するに、ホスピタリティに優れ、被験者に共感する能力の高い人の、お手本を体感しなくては、凄さが分からない。「なるほど共感性の高い人に案内されると、何も不安なく歩けるんだな」ということを実感しなければ意味がない。

僕が受けたときの講習では、その辺の事情をうっすらと分かっているような感じだった。ブラインドウォーク実施時の目的として、「カウンセリングを受ける学生の、不安感を体験すること」とあったからだ。
本当は、下手な人と上手な人との差を認識して、共感力の腕前の差を知るに越したことはない。しかし実際問題として、受講生全員が「上手な案内役」を体感できるほど、人材を用意することができないのだろう。僕が受講した講習会は、60人ほどの新任の教職員が同時に研修を受けていた。その全員に「上手な案内役」を配するのは、現実的に不可能なのだろう。だから、「カウンセリング能力の違いを知る」ではなく、単に「下手な人にガイドされた時の不安を知る」というレベルに受講内容を止めている。

僕が受講した講習会では、最後にレポートを提出することが義務付けられていた。そのレポートの中で、僕はこのブラインドウォークの実施方法の問題点を指摘しておいた。講習会では、受講者60人がいくつかの少人数グループに分かれて講義を受けるが、時間割が固定されているため、ブラインドウォーク実施の時にも、すべてのグループが一斉に活動を行った。もし、受講の時間割をグループごとに組み替えて、少人数ごとに別々の時間にブラインドウォークを行えば、たとえ「お手本役」の講師が少人数でも、全員に能力の差が体感できる。

あとで聞いた話だが、僕が受講した次の年から、ブラインドウォーク活動の実施が、僕が提案した方法に変わったそうだ。60人全員にブラインドウォークを行う講師の方は、ご苦労様だ。大学というのは組織が大きいから、現場の実施方法を変えることはなかなか難しい。だから、わりと柔軟にフィードバックに対処するんだな、と少し驚いたことを覚えている。

いま大学でブラインドウォークを実施している学生たちを見ていると、40人ほどの学生が一斉に行っている。おそらく、同じ授業を受けている学生たちなのだろう。 大学の授業であれば、40人ほどの学生というのは適正人数の範囲だし、実施の現実性からしても仕方のない部分はあるだろう。

しかし、あの授業を受けている学生たちは、僕が実際に体験したような、「うん、確かに不安ですね」という程度の感想しか持たないと思う。学生同士が案内役と被験者をやるのだから、おそらく下手だろう。「上手なホスピタリティとは」を体感できないまま、授業を終えるのではないか。

僕が実際に受けたブラインドウォークはあまり効果がなかったが、説明を受けると、その目指すところと実際の効果は想像できる。下手な案内役だけでなく、上手な案内役に導かれたら、その差を体感することができたのだろうな、ということくらいは分かる。
しかし、それを想像するレベルであることと、実際に体感できることの間には、ものすごい差があると思う。せっかくの講習を効果的に行うためには、その凄さを体感するところまで実施に含めなければ、意味がない。

僕は大学でプレゼンテーションの方法を教える授業を受け持っているが、学生にプレゼンの方法を認識させ、やる気を出させるのは簡単だ。「上手なプレゼン」のお手本を、実際に見せればいい。もっと言うと、その過程を含めない授業は、すべて机上の空論なのだ。

ホスピタリティに限らず、受講者に「能力の差」を認識させ、その差を埋めるための努力を引き出すために最も必要なのは、「お手本」だと思う。今の自分の実力の無さを実感し、本当に巧い人の技術を目の当たりにし、その差を埋めるための具体的な努力の方法を提示すれば、あとは本人が勝手に努力する。その3つの条件を満たしていない講習は、無意味だと思う。

プレゼンテーションの方法を教える授業でも、知識としてやり方を教えるだけでは、決してプレゼンは上手にならない。お手本をしっかり見て、自分で実際にやってみて能力の不足を体感し、数限りない試行錯誤によって失敗を繰り返す、というサイクルを作らなくては、能力の向上は望めない。
その環境は、自力では作れない。だからその条件と環境を提供するのが、授業や講習会の役割ではないか。


いま大学の授業でブラインドウォークをやっている学生たちを見ると、「ああ、あれやってるんだ」という懐かしさを感じる。それと同時に、「本当にあのやり方で効果があるのかね」と、ちょっと冷めた目で担当教員を見ることが多い。



ジャージ姿の女子学生を拝めるので、まあ良しとしてるんだけど