高浜原発差し止め 司法の警告に耳を傾けよ
(2015年4月15日 朝日新聞社説)
高浜差し止め 規制基準否定した不合理判断
(2015年4月15日 読売新聞社説)
高浜原発差し止め 司法が発した重い警告
(2015年4月15日 毎日新聞社説)
福井地裁の高浜原発差し止めは疑問多い
(2015年4月15日 日本経済新聞社説)
高浜原発差し止め 「負の影響」計り知れない
(2015年4月15日 産経新聞社説)
国民を守る司法判断だ 高浜原発「差し止め」
(2015年4月15日 東京新聞社説)


福井県の関西電力高浜原発3、4号機に対し、福井地裁は再稼働を認めない仮処分決定を出した。仮処分はすぐに効力が生じるため、即座に稼働停止が執行される。この決定は国や関西電力が控訴して高裁などで覆らない限り、取り消されないことになる。3.11以来、地域住民の関心の対象であった原発問題に、はじめてNOを突きつける司法判断として注目すべき事例だ。

ことの背景を整理すると、3.11の余波として発生した東京電力・福島第一原発事故を教訓に、原子力規制委員会が原発の安全性を判断する新たな規制基準を策定し、2013年7月に試行された。この規制基準は以前と異なり「重大事故対策」「地震・津波対策」が盛り込まれ、3.11以降の住民不安を反映されるものとなった。「世界で最も厳しい基準」と評されている。この基準をクリアしない限り、原発の運転は認められないことになった。
この施行以後、各電力会社は一斉に再稼働を申請し、2013年12月までに7電力の16基で申請が行われた。大々的に報道された事例としては、東京電力の柏崎刈羽原発が13年9月に申請を行っている。

この基準をよく読むと、原発の安全性に対する国の方針の転換がはっきり分かる。従来、国側は原発について「絶対に安全」というゼロリスクを強調してきた。しかし3.11以後、実際問題として発生する原発事故を踏襲し、「事故は起こるかもしれない」ということを前提とし、それに対する処置を想定する方針に転換した。このこと自体は、リスク管理のそもそものあり方として評価してよい。

問題は、その「想定している事故・天災は妥当な基準値なのか」という程度問題だ。今回の高浜原発再稼働に対する司法判断は、それに対して「不十分」という判断をしたことになる。
この司法判断に対して、新聞各社が一斉に社説を報じた。それぞれの新聞社には、社の報道方針として原発賛成派、反対派に与する立場がある。今回の社説はそれぞれの新聞社の立場を反映した主張になっている。

福井地裁の判決を容認する(=原発反対)社説は、朝日、毎日、東京の各紙。
判決を批判する(=原発賛成)社説は、読売、日経、産経の各紙。
数としては3対3で拮抗している。

原子力発電所の是非は大きな問題で、正直なところ、僕自身も確たる意見があるわけではない。高度な専門性に基づく審査基準が妥当なものであるかどうか、市井の一市民には判断できるはずもない。
しかし僕は個人的に、経済発展を根拠にした安易な原発賛成案には、ものすごい警戒心がある。日本は高度成長期に、同じ論理によって小数企業の工業生産を手放しに容認し、大公害問題を引き起こした過去がある。水俣病、四日市喘息、イタイイタイ病などの公害事件は、すべて「国が儲かる」という大正義のもと黙殺されてきた。

かといって、すべての原発を反対するような極端な「市民運動」には、急進左派が人の命を楯にとって正義の旗印にしているような胡散臭さを感じる。先日行われた統一地方選前半戦でも、左派系の政党の基本政策には、必ず「原発撲滅」が盛り込まれていた。僕が投票する神奈川県・横浜市の選挙でも、ご大層に原発廃止を高らかに宣言している候補者が何人もいたが、原発が存在しない神奈川県で原発廃止を訴えられても困る。国政選挙ならともかく、地方選挙の争点になる問題ではあるまい。
そういう急進左派にとって、原発とはもはや「安全なのかどうかを厳しく監視すべきもの」ではなく、「是が非でも撲滅しなければならないもの」というイデオロギーと化している。原発から発する放射線によって被爆するイメージを振りかざして、有権者を脅迫しているような意図を感じる。

だから今回の社説を読み比べる時には、「原発は是か非か」ではなく、単純に論説に必要な説得力を読み比べることにする。僕が大学の講義でいつも学生に言っていることだが、主張というのは「何を主張するのか」よりも、「どうやって主張するのか」のほうが大事だ。事象からスタートし、客観的な根拠に基づき、一貫した論理で、結論・主張に達する、という文章作法をきちんと遵守しているかどうか、で社説を読み比べてみたい。

まず論外なのは東京新聞だ。司法判断に賛成の立場だが、その理由は「住民感情として、それが普通だから」というものだ。

昨年五月、大飯原発(福井県おおい町)3、4号機の差し止めを認めた裁判で、福井地裁は、憲法上の人格権、幸福を追求する権利を根拠として示し、多くの国民の理解を得た。生命を守り、生活を維持する権利である。国民の命を守る判決だった。今回の決定でも、“命の物差し”は踏襲された。命を何より大事にしたい。平穏に日々を送りたい。考えるまでもなく、普通の人が普通に抱く、最も平凡な願いではないか。

福島原発事故の現実を見て、多くの国民が、原発に不安を感じている。なのに政府は、それにこたえずに、経済という物差しを振りかざし、温暖化対策なども口実に、原発再稼働の環境づくりに腐心する。一体誰のためなのか。原発立地地域の人々も、何も進んで原発がほしいわけではないだろう。仕事や補助金を失って地域が疲弊するのが怖いのだ。福井地裁の決定は、普通の人が普通に感じる不安と願望をくみ取った、ごく普通の判断だ。だからこそ、意味がある。
(東京新聞社説)


「考えるまでもなく」というのであれば、社説に載せるな、と言いたい。社説というのは、考え抜いた文章を載せるべきだ。東京新聞の記事は、「原発の恐怖」という脅迫記事によって、読者の心証を煽動する書き方に他ならない。その根拠が「多くの国民」「普通」「平凡」などという主観的なものであれば、文章は説得力を失う。

東京新聞の記事が想定している「地域住民」とは、原発と関係なく暮らしている人々のことだろう。しかし実際のところ、原発の地域には、原発で働いている労働者とその家族も多い。そういう人たちの立場からすれば、原発再稼働の差し押さえは、生活基盤を失うことに直結する。そういう人たちも「地域住民」には含まれるのだ。もし「地域住民の生活安定」という大風呂敷を広げるのであれば、そういう原発労働者を地域住民から排除してよい理由はない。10歩譲って、「原発産業に関与していない地域住民」という、但し書きが必要だろう。

一般的に、論説で「普通」「平凡」「常識」「当たり前」という言葉を使う論拠は、屑に等しい。社説というものは、極端に言うと、「常識のない人」に対しても依然として説得力をもつような文章でなければならない。
ほかにも東京新聞の社説は、下手な文章の典型的な例として使われる「のである」を安易に使うなど、文章力の稚拙さを晒している。他の社説と比べても、格段に点数の低い社説だろう。

判決反対派の主張として採点しやすいのは、日本経済新聞だ。日経は福井地裁の判決を批判する根拠として、「経済への影響」と「司法判断の根拠の妥当性」の2点を挙げている。
前者の根拠は、前述の理由として、僕には違和感がある。国が儲かるから原発賛成、というのは、日本がかつて一度犯した過ちだ。日経の読者層には経済産業に従事する人が多いだろうから、読者におもねた主張、という感が否めない。

差し止め決定へのもうひとつの疑問は、原発の停止が経済や国民生活に及ぼす悪影響に目配りしているようにみえないことだ。国内の原発がすべて止まり、家庭や企業の電気料金は上がっている。原発ゼロが続けば、天然ガスなど化石燃料の輸入に頼らざるを得ず、日本のエネルギー安全保障を脅かす。だが決定はこうした点について判断しなかった。
(日経社説)


日経の論拠は、もうひとつの「司法判断の根拠の妥当性」のほうが説得力が高い。今回の判決は、福井地裁が、原子力規制委員会が設定した新規基準を「疑わしい」と判断したことが根拠となっている。しかし、高度に専門性が必要とされる原子力発電所の安全基準を、一地方裁が評価できるほどの知見があるのか、という意見だ。

だが今回の地裁決定には、疑問点が多い。ひとつが安全性について専門的な領域に踏み込み、独自に判断した点だ。決定は地震の揺れについて関電の想定は過小で、揺れから原発を守る設備も不十分とした。これらは規制委の結論に真っ向から異を唱えたものだ。福島の事故を踏まえ、原発の安全対策は事故が起こりうることを前提に、何段階もの対策で被害を防ぐことに主眼を置いた。規制委は専門的な見地から約1年半かけて審査し、基準に適合していると判断した。
(日経社説)


要するに、福井地裁に対して「お前らに何が分かるんだ」という主張だ。地裁は司法の専門家ではあっても、原子力問題に関する専門家ではない。その地裁が、原発の安全性について判断する、というのは妥当なのか、という問題だ。
この日経社説を、練習問題として考えてみよう。もし判決賛成派が、この日経の主張に反対するとしたら、どういう論拠を組み立てればよいだろうか。

反論の仕方としては、この原発問題における司法の立場が、法で規定されていることを挙げればいいだろう。確かに、法律の専門機関である地裁には、原発の安全性を正確にチェックする能力はないだろう。しかし、原発に不安を感じる地域住民が、主張を訴える先として法律で規定されている機関は、原子力規制委員会ではなく地方裁判所なのだ。つまり法律によって、地裁は「そういう問題を訴える先」と指定されていることになる。

つまり日経の主張は、「そのように規定されている法律そのものがおかしい」という主張に直結することになる。地域住民が訴える先は、原子力に対して無知である地裁ではなく、専門性を兼ね備えた独自の研究機関であるべきだ、という主張になる。福井県の地域住民は、法に従って、法が定めるルールの上で、訴えるべきところに訴えたに過ぎない。地裁も、そのルールに従って、自分に与えられた役割を果たしたに過ぎない。双方ルールを守っているにも関わらず、地裁に向かって「お前らはそれができる能力はないだろう」というのは、ルールの外側からの視点だ。これは議論のルール違反だ。

そこを汲み取って提言をしているのが産経新聞だ。産経新聞は、そもそもこの問題を地裁が判断するのは法的な不備があるとして、このような専門的な問題を精査し判断するような機関の設立を提言している。

今回の決定では、原子力規制委員会の新しい安全基準について「合理性を欠く」と断じたが、あまりにも乱暴だ。原発の安全性をめぐって規制委の審査との間に齟齬を来し、国民は何をよりどころにすべきか迷ってしまう。そもそも現在の司法の体制で、高度に科学的、技術的な分野の判断に踏み込むことには無理があろう。知財高裁に相当する専門対応力を備えた「科学高裁」設立の検討が望まれるところである。
(産経社説)


僕が今回の社説を読み比べた感想としては、この産経の主張は、現実問題として最も状況を前進させる提言と評価できる。「地裁が原子力問題を裁く制度そのものに無理がある」という問題の根幹を、最もストレートな形で提言に昇華させている。

日経も産経も、言っていることは基本的に同じだ。しかし主張のしかたが異なる。ルールの内側で議論をしている人たちに対して、ルールの外側から反論するのは作法に反するが、ルールの妥当性そのものを焦点として、それを批判するのは合格だ。双方の議論のしかたは、土俵の設定の仕方が最初から異なる。日経と産経の議論のしかたの相違は、「何を主張するか」よりも「どのように主張するか」のほうが重要だ、ということを示すよい事例だろう。

産経新聞は従来、コテコテの保守派で、右派に与する記事を頻発する。それは別によいのだが、問題は主張の仕方が「伝統」「国の誇り」といった感情論に偏りすぎるところにある。ところが今回の記事に関しては、問題の根幹を正しく捉え、いつも論理構成力に抜きん出ている日経に対して、金星を挙げる主張を展開している。今回の記事だけで判定する限り、産経記事は日経記事に圧勝しているだろう。

判決反対派で筆が滑ったのが、読売社説だ。読売新聞は福井地裁の判決を批判する根拠として、1992年の最高裁判決を使っている。かつて四国電力伊方原発の稼働に関する訴訟において、最高裁は「行政の判断」を信頼する判決を行い、稼働にGOサインを出した。今回の福井地裁の判決は、この最高裁判決の判例に反する、という主張だ。

最高裁は1992年の四国電力伊方原発訴訟で、原発の安全審査は、「高度で最新の科学的、技術的、総合的な判断が必要で、行政側の合理的な判断に委ねられている」との判決を言い渡した。規制委の結論を覆した今回の決定が、最高裁判例を大きく逸脱しているのは明らかだ。
(読売社説)


ここまでの書き方は良い。法治国家であれば、最高裁の判断は絶対であり、過去の判例から地方裁の判決を批判するのは、十分にルールに従っている議論のしかただ。
しかし読売新聞は、これに続く箇所で、法整備の不備を指摘している。今回の福井地裁の判決を出した樋口裁判長は、今回だけでなく、昨年2014年5月にも大飯原発3、4号機の訴訟に対して稼働差し止めの判決を出している。同じ裁判長が偏った判決を出すことを容認するような体制になってはいないか、という問題提起だ。

樋口裁判長は昨年5月、福井県の大飯原発3、4号機の訴訟でも、運転再開差し止めを命じている。福井地裁には民事部門が一つしかない。再稼働に反対する住民側は同様の判断を期待し、同じ裁判長が、これに応えたのだろう。福島第一原発の事故後、原発再稼働に関し10件の判決・決定が出たが、差し止めを認めたのは樋口裁判長が担当した2件しかない。偏った判断であり、事実に基づく公正性が欠かせない司法への信頼を損ないかねない
(読売社説)


まず議論の仕方としては、合格だ。はっきり書いてはいないが、読売新聞が警鐘を鳴らしている事態は、「特定の主義・主張をもつ裁判長が、個人の信念に基づいた判決を出してるんじゃないか」、つまり「樋口裁判長が個人的に原発反対派なんじゃないの」という懸念だろう。これを主張するために、読売新聞はきちんと大飯原発3、4号機訴訟問題という「事実」を用意している。実際に起こった事例に基づいて論旨を組み立てる、その文章作法に問題はない。

問題はないが、議論の作戦としては下手だ。批判の根拠として「司法の信頼性」を持ち出してしまうと、今回の福井地裁判決賛成派に、付け入る隙を与えてしまう。そもそも読売新聞は、「最高裁の判例」を絶対的な根拠として福井地裁を糾弾しているのだ。そこへ裁判所判断への不信を言い出すと、「最高裁の判例を絶対視する態度はいかがなものか」という反論を引き出してしまう。

最高裁判決の1992年と今では、20年以上の開きがある。東日本大震災はおろか、阪神淡路大震災すら起こっていない時代の判例だ。当時は国側も「原発絶対安全説」に固執していた時代だ。地震の脅威も事故の可能性も、一切顧みられることがなかった。そういう時代の最高裁判決を、災害が頻発して世の中の仕組みを変える必要が生じた現在に振りかざすことに、意味はあるのだろうか。

日本の法解釈は判例主義で、いちど最高裁が判断を下すと、その判断が絶対視される傾向がある。最高裁の判断が事例によって猫の目のように変わるのでは法律に意味がなくなってしまうので、最高裁の一貫した姿勢はある程度必要ではある。しかし、地震や災害に対する処置の必要性のように、時代によって重要度が変化するような事例に対して、時代背景を無視した最高裁判例絶対主義は、百害あって一利なしだろう。法律や先例を頑に遵守するのが大事なのか、世の中に合った司法判断を下すのが大事なのか、読売新聞はどちらが大事だと思っているのだろうか。

議論をするときには、焦点を絞り、狭い領域での根拠のやり合いに持ち込むのが王道だ。それを今回の読売記事は、わざわざ自分で「裁判所の判断への信頼」という議論の土俵に広げてしまい、その結果「本来であれば土俵の外」である論拠から反論される可能性を、自らつくってしまった。言っている内容に間違いはないが、議論としては下手の部類に属するだろう。余計なことを言わなければいいのに、という惜しい感が否めない。

翻って再び判決賛成派の主張を見てみると、判決賛成派で最も堅実な論旨を展開しているのが、珍しいことに朝日新聞だ。朝日新聞は判決容認の根拠として、「原子力規制委員会が規定した新基準が、そもそも疑わしい」ということを挙げている。

注目したいのは、規制委の新規制基準に疑義を呈した点だ。規制委は、最新の知見に基づいて基準を強化した場合、既存原発にも適用して対策を求めることにした。再稼働を進めようとする政治家らからは「世界一厳しい基準」などの言説も出ている。しかし、今回の決定は「想定外」の地震が相次ぎ、過酷事故も起きたのに、その基準強化や電力会社による対策が、まったく不十分と指摘している。

地裁は、安全対策の柱となる「基準地震動」を超える地震が05年以降、四つの原発に5回も起きた事実を重くみて、「基準地震動を超える地震が高浜原発には到来しないというのは楽観的見通しにすぎない」と断じた。再稼働の前提となる新規制基準についても「緩やかにすぎ、これに適合しても原発の安全性は確保されていない」とまで指摘、「新基準は合理性を欠く」と結論づけた。
(朝日社説)


今回の朝日新聞の社説の優れているところは、判決を出した樋口裁判長が過去にも同様の原発差し押さえ判決を出したことに基づく「お前が個人的に原発反対派なんじゃないの」という反対意見に、対処する根拠を用意しているところだ。

今回の決定を導いたのは、昨年5月に大飯原発の運転差し止め判決を出した樋口英明裁判長だ。この判決について、経済界などから「地震科学の発展を理解していない」などと批判もあった。現在は、名古屋高裁金沢支部で審理が続いている。しかし、決定を突出した裁判官による特異な判断と軽んじることは避けたい。

それを考える材料がある。昨年11月、大津地裁で高浜、大飯の原発再稼働の是非を問う仮処分申請の決定が出た。同地裁は運転差し止め自体は却下したものの「多数とはいえない地震の平均像を基にして基準地震動とすることに、合理性はあるのか」と指摘し、今回と同様、基準地震動の設定のあり方について疑問を呈していた


つまり朝日新聞は、「新基準に疑義を呈しているのは、福井地裁の樋口裁判長だけではない」という事実を用意している。ひとりの裁判長に偏った意見ではない、ということを示す客観的な根拠を用意することによって、主張の説得力がかなり上がっている。主観的な主張を振り回す傾向にある朝日新聞にしては、しっかり議論の作法を守っている書き方と評価できるだろう。
主張の妥当性を決めるのは、主張の内容そのものではなく、その主張の根拠となる「事実」の積み重ねだ。その材料をきちんと用意し、「事実」→「主張」という作法を、きちんと守っている。

一方、朝日社説の弱点は、「そもそも法律の専門である地方裁判所が、そのような専門性の高い判断ができるのか」という反論に対する再反論が脆弱なことだ。ここで朝日新聞は、論説の禁句を使ってしまっている。

関電は決定に対し、不服申し立ての手続きをする意向だ。もちろん規制委も電力会社も、専門的な立場から決定内容に異論があるだろう。だが、普通の人が素朴に感じる疑問を背景に、技術的な検討も加えたうえで「再稼働すべきでない」という結論を示した司法判断の意味は大きい。裁判所の目線は終始、住民に寄り添っていて、説得力がある。
(朝日社説)


もったいない、の一言に尽きる。他の部分では客観的な根拠に基づき緻密な論旨を組み立てていたのに、「普通の人」という主観的な言葉を使ってしまったことで、すべてがぶち壊しだ。朝日社説は判決容認派の中で最も説得力が高いが、それとて判決批判派で最もできが良い産経新聞と比べると、この一言が仇となって負けるだろう。


僕の個人的な評価では、どの新聞も同じポイントを見逃している。そもそも原子力規制委員会が新規の規制基準を設けた意図は、「ヤバい原発と、安全な原発の、線引きをすること」にある。ところがどの社説でも、「原発」をすべて一括して扱い、程度問題を考慮していない。極論すると、どの社説も「そもそも原発は是か非か」という大問題に直結する論じ方をしている。
原発の安全性は、すべての原発をひとからげにして論じる問題ではなく、比較的安全性の高い原発と、危険な原発を分けて議論をしなければならない。新基準の意図は、そういう「危険な原発」を排除することを意図している。

仮に今回の福井地裁の判決が批判の対象となる理由は、「福井の原発はヤバいですよ」と言っているのではなく、「原発というものはそもそもヤバいものなんですよ」という主張につながるからだ。それに引っ張られて、判決否定派の社説は、どれも「原発という存在そのものを脅かす判決」という見方をしてしまっている。

福井地裁の判決には極端なところがある。よく読むと、福井地裁の判決の根拠は、「高浜原発は、新基準を満たしていない」ということではない。「そもそも、新基準が甘い」という根拠だ。これが妥当な判決であれば、日本の原発は「全く事故が起こらず、危険性がゼロでなければ認められない」という極端なことになる。現実問題として、そんなことは不可能だろう。各紙が高浜原発の問題を局地的な事例として捉えず、日本の原発に一般化して論じている理由には、そのような地裁の姿勢があるのだろう。

しかし、このポイントこそが今回の福井地裁の判決の問題点ではないか。新基準を認めた上で、高浜原発の安全性に判決を出すのであれば、司法のあり方として問題はない。しかし今回の問題点は、一地裁が専門領域に踏み込んで新基準の妥当性に疑義を呈したことなのだから、そこではじめて「お前にそんな判断ができるのか」という批判が可能になる。福井地裁の判決を批判するのであれば、局地的な一事例としての判決の妥当性と、普遍的な一般論に関する判断の妥当性の、線引きが曖昧な姿勢を突くのが、妥当な批判のしかただろう。地裁は局地的な事例に判断を下すのが仕事なのだから、国全体のエネルギー政策に関わる判断につながる判決には慎重であるべきだろう。

福井地裁も各新聞社説も、おしなべて「原発をすべて容認」「原発をすべて廃止」という究極論から逆算して、今回の事例を論じている気がする。そもそも国が新基準を設定した背景には「原発といっても安全性に差がある」という事実から日本の原発政策を見直す意図がある。これをすべてひっくり返し、原発は危険ゼロでなければ一切認めない、という福井地裁の態度は、正しくはあるのだろうが現実的ではない。理想と現実の調整をとるべき司法の立場としては、極端に理想論に偏った判決を言わざるを得ないだろう。

この点に関しては、日経社説だけがわずかにかすっている。

今回の決定を下した裁判長は昨年5月、関電大飯原発についても「万一の事故への備えが不十分」として差し止め判決を出した。原発に絶対の安全を求め、そうでなければ運転を認めないという考え方は、現実的といえるのか
(日経社説)


惜しい、という感想だ。司法判断に対する福井地裁のあり方を批判するには、踏み込みがわずかに浅い。むしろ、この指摘を中心として論を組み立てれば、「すべてか、ゼロか」という極論に傾いている福井地裁の極端な判断を糾弾する意見として、最も説得力のある社説になり得たと思う。


今回の社説は、原発問題という大きい問題を背景とした局地的事例で、かつ各紙が異なる根拠で異なる主張を展開した、なかなか読み応えのある社説だった。議論のしかたを学ぶ上で、珍しく取り上げる価値のある社説だったと言えるだろう。

東日本大震災当時に政権を担っていた民主党政権は、「2030年に原発ゼロを目指す」と息まいて、現実を無視した原発廃止論を押し進めた。その方策が行き詰まり、国民の同意を得られなくなったのは周知の事実だ。自民党が政権に復帰し、エネルギー基本計画の策定が進められた過程で原発の重要性が方針として定められ、もはや原発への回帰は事実上の規定路線となっている。それに対して厳しい審査の目を持ち続けることが大切なことは間違いない。問題は、適切なシステムで、適切な立場が、その審査を行うような制度をつくりあげることだろう。 理想と現実の調整を計りつつ、実施可能な具体的な施策に結びつく提言が、今回の社説の中で価値ある論説と評価できる。



たくつぶは社会派のブログでございます。



高浜原発差し止め 司法の警告に耳を傾けよ
(2015年4月15日 朝日新聞社説)
原発の再稼働を進める政府や電力会社への重い警告と受け止めるべきだ。福井地裁が関西電力高浜原発3、4号機の再稼働を禁じる仮処分決定を出した。直ちに効力が生じ、今後の司法手続きで決定の取り消しや変更がない限り再稼働はできなくなった。裁判所が仮処分で原発の運転を認めないという判断を示したのは初めてだ。高浜3、4号機は原子力規制委員会が「新規制基準を満たしている」と、事実上のゴーサインを出している。

福島での事故後、規制当局も立て直しを迫られ、設置されたのが規制委である。その規制委が再稼働を認めた原発に、土壇場で司法がストップをかけた。国民に強く残る原発への不安を行政がすくい上げないとき、司法こそが住民の利益にしっかり目を向ける役割を果たす。そんな意図がよみとれる。

■新規制基準への疑問
注目したいのは、規制委の新規制基準に疑義を呈した点だ。規制委は、最新の知見に基づいて基準を強化した場合、既存原発にも適用して対策を求めることにした。再稼働を進めようとする政治家らからは「世界一厳しい基準」などの言説も出ている。しかし、今回の決定は「想定外」の地震が相次ぎ、過酷事故も起きたのに、その基準強化や電力会社による対策が、まったく不十分と指摘している。

地裁は、安全対策の柱となる「基準地震動」を超える地震が05年以降、四つの原発に5回も起きた事実を重くみて、「基準地震動を超える地震が高浜原発には到来しないというのは楽観的見通しにすぎない」と断じた。再稼働の前提となる新規制基準についても「緩やかにすぎ、これに適合しても原発の安全性は確保されていない」とまで指摘、「新基準は合理性を欠く」と結論づけた。

■燃料プールの安全性
また決定は、燃料プールに保管されている使用済み核燃料の危険性についても触れた。格納容器のような施設に閉じ込められていないことを指摘して、国民の安全を最優先とせず「深刻な事故はめったに起きないという見通しにたっている」と厳しく批判した。

そして(1)基準地震動の策定基準の見直し(2)外部電源等の耐震性強化(3)使用済み核燃料を堅固な施設で囲む(4)使用済み核燃料プールの給水設備の耐震性強化――の必要性をあげ、4点が解決されない限り脆弱(ぜいじゃく)性は解消しないと指摘した。これらはいずれも全国の原発に共通する問題だ。政府内では、2030年に向けた電源構成を決める議論が続いている。電源ごとの発電コストについても再検証中だ。04年時に1キロワット時あたり5・9円だった原発コストは、事故直後に8・9円以上とされた。電力各社は規制委の新基準に沿った安全対策費としてすでに2兆円以上を投じてきているが、今回の決定に則して対策の上積みを迫られれば、費用はさらに上昇しかねない。

関電は決定に対し、不服申し立ての手続きをする意向だ。もちろん規制委も電力会社も、専門的な立場から決定内容に異論があるだろう。だが、普通の人が素朴に感じる疑問を背景に、技術的な検討も加えたうえで「再稼働すべきでない」という結論を示した司法判断の意味は大きい。裁判所の目線は終始、住民に寄り添っていて、説得力がある。

■立ち止まって考える
今回のような司法判断が定着すれば多くの原発で再稼働ができなくなる。電力会社にとっては受け入れ難いことだろう。だが、原発に向ける国民のまなざしは「福島以前」より格段に厳しいことを自覚するべきではないか。

今回の決定を導いたのは、昨年5月に大飯原発の運転差し止め判決を出した樋口英明裁判長だ。この判決について、経済界などから「地震科学の発展を理解していない」などと批判もあった。現在は、名古屋高裁金沢支部で審理が続いている。しかし、決定を突出した裁判官による特異な判断と軽んじることは避けたい。

それを考える材料がある。昨年11月、大津地裁で高浜、大飯の原発再稼働の是非を問う仮処分申請の決定が出た。同地裁は運転差し止め自体は却下したものの「多数とはいえない地震の平均像を基にして基準地震動とすることに、合理性はあるのか」と指摘し、今回と同様、基準地震動の設定のあり方について疑問を呈していた。

政府や電力会社の判断を追認しがちだった裁判所は、「3・11」を境に変わりつつあるのではないか。安倍政権は「安全審査に合格した原発については再稼働を判断していく」と繰り返す。そんな言い方ではもう理解は得られない。司法による警告に、政権も耳を傾けるべきだ。



高浜差し止め 規制基準否定した不合理判断
(2015年4月15日 読売新聞社説)
合理性を欠く決定と言わざるを得ない。定期検査で運転停止中の関西電力高浜原子力発電所3、4号機に関し、福井地裁が再稼働差し止めを命じる仮処分を決定した。

関電が決定を不服としているのは、もっともである。原子力規制委員会は2月、高浜3、4号機の再稼働に向けた合格証にあたる「審査書」を関電に交付した。東京電力福島第一原発事故後に厳格化された新規制基準を満たしていると結論づけた。

新基準は、地震や津波の想定を拡大し、これを大幅に上回った際の対策を求めている。ところが、樋口英明裁判長は新基準の考え方を否定し、「これに適合しても安全性は確保されていない」と断じた。ゼロリスクを求めた非現実的なものだ。

1年7か月にわたる高浜原発の安全審査で、関電は想定地震の規模を引き上げた。旧基準時の2倍近い揺れに耐えられるよう、配管などを耐震補強し、最高6・7メートルの津波に耐えられる防潮堤を設けた。非常用の電源や冷却設備も整備した。樋口裁判長は、この想定を「楽観的見通しにすぎない」と否定した。対策についても、「根本的な耐震補強工事がなされていない」との見方を示した。

最高裁は1992年の四国電力伊方原発訴訟で、原発の安全審査は、「高度で最新の科学的、技術的、総合的な判断が必要で、行政側の合理的な判断に委ねられている」との判決を言い渡した。規制委の結論を覆した今回の決定が、最高裁判例を大きく逸脱しているのは明らかだ。

樋口裁判長は昨年5月、福井県の大飯原発3、4号機の訴訟でも、運転再開差し止めを命じている。福井地裁には民事部門が一つしかない。再稼働に反対する住民側は同様の判断を期待し、同じ裁判長が、これに応えたのだろう。福島第一原発の事故後、原発再稼働に関し10件の判決・決定が出たが、差し止めを認めたのは樋口裁判長が担当した2件しかない。偏った判断であり、事実に基づく公正性が欠かせない司法への信頼を損ないかねない。

仮処分では、差し止めの効力が直ちに生じる。11月を目指している高浜原発の再稼働が大幅に遅れることが懸念される。関電は、決定に対する異議などを福井地裁に申し立てる。今後、決定が取り消されることを前提に、関電は、保守点検体制の強化などを着実に進めるべきだ。



高浜原発差し止め 司法が発した重い警告
(2015年4月15日 毎日新聞社説)
関西電力高浜原発(福井県)3、4号機に対し、福井地裁は再稼働を認めない仮処分決定を出した。原子力規制委員会の安全審査に合格した原発の再稼働についての初の司法判断だったが、決定は審査の基準自体が甘いと厳しく指摘した。

私たちは再生可能エネルギー拡大や省エネ推進、原発稼働40年ルールの順守で、できるだけ早く原発をゼロにすべきだと主張してきた。それを前提に最小限の再稼働は容認できるとの考え方に立っている。それに対し、決定が立脚しているのは地震国・日本の事情をふまえると、原発の危険をゼロにするか、あらゆる再稼働を認めないことでしか住民の安全は守れないという考え方のようだ。

確かに事故が起これば、広範な住民の生命・財産・生活が長期に脅かされる。そうした危険性を思えば、現状のなし崩し的な再稼働の動きは「安全神話」への回帰につながるという司法からの重い警告と受け止めるべきだ。  

決定は新基準に対して、適合すれば深刻な災害を引き起こす恐れが万が一にもないと言える厳格さが求められると指摘した。事実上、原発の再稼働にゼロリスクを求めるに等しい内容だ。関電は規制委への申請後、想定する地震の最大の揺れ「基準地震動」を550ガルから700ガルに、最大の津波の高さ「基準津波」を5.7メートルから6.2メートルに引き上げ、安全性を高めたと強調した。

しかし、決定は全国の原発で10年足らずに5回、基準地震動を超える地震が起きており、高浜でもその可能性は否定できないと指摘。このままでは施設が破損して炉心損傷に至る危険が認められると結論付けた。そのうえで、基準地震動を大幅に引き上げて根本的な耐震工事を施し、外部電源と主給水の耐震性を最高クラスに上げ、使用済み核燃料を堅固な施設で囲い込むことでしか、危険は解消できないと指摘した。関電は11月の再稼働を見込んで手続きを進める予定だったが、日程の見直しを迫られかねない。今回の決定が示した考え方は、再稼働を目指そうとする国内の多くの原発にあてはまる。関電の大飯原発3、4号機の運転差し止めを命じた昨年5月の福井地裁判決と同じ裁判長の決定で、共通した安全思想が根底にあるようだ。

原発再稼働の是非は国民生活や経済活動に大きな影響を与える。ゼロリスクを求めて一切の再稼働を認めないことは性急に過ぎるが、いくつもの問題を先送りしたまま、見切り発車で再稼働をすべきでないという警鐘は軽くない。



福井地裁の高浜原発差し止めは疑問多い
(2015年4月15日 日本経済新聞社説)
関西電力の高浜原子力発電所3、4号機について、福井地裁が再稼働を差し止める仮処分を決めた。同原発は2月に国の安全審査に合格し、関電は11月にも再稼働をめざしていた。仮処分はすぐに効力が生じ、高裁などで覆らない限り再稼働できなくなった。訴訟では、福井県の地元住民らが高浜原発は地震の想定が甘く安全対策が不十分と主張。関電は安全性を確保していると反論したが、地裁は「重大事故に至る危険がある」と差し止めを命じた。

東京電力福島第1原発の事故後、原発をめぐり各地で同様の訴訟が起きている。再稼働の可否は安全性に加え、地元住民や国民の利益にかなうかなど多様な観点から判断すべき問題だ。行政や原子力規制委員会だけでなく、司法も役割を担ってしかるべきだろう。

だが今回の地裁決定には、疑問点が多い。ひとつが安全性について専門的な領域に踏み込み、独自に判断した点だ。決定は地震の揺れについて関電の想定は過小で、揺れから原発を守る設備も不十分とした。これらは規制委の結論に真っ向から異を唱えたものだ。福島の事故を踏まえ、原発の安全対策は事故が起こりうることを前提に、何段階もの対策で被害を防ぐことに主眼を置いた。規制委は専門的な見地から約1年半かけて審査し、基準に適合していると判断した。

今回の決定を下した裁判長は昨年5月、関電大飯原発についても「万一の事故への備えが不十分」として差し止め判決を出した。原発に絶対の安全を求め、そうでなければ運転を認めないという考え方は、現実的といえるのか。

差し止め決定へのもうひとつの疑問は、原発の停止が経済や国民生活に及ぼす悪影響に目配りしているようにみえないことだ。国内の原発がすべて止まり、家庭や企業の電気料金は上がっている。原発ゼロが続けば、天然ガスなど化石燃料の輸入に頼らざるを得ず、日本のエネルギー安全保障を脅かす。だが決定はこうした点について判断しなかった。

関電は今回の決定に対し不服を申し立てる。今後、高裁の判断に委ねられる公算が大きい。原発の再稼働をめぐり司法は何を判断すべきか。安全性、電力の安定供給、経済への影響などを含めて総合的に判断するのが司法の役割ではないか。上級審などではそれを踏まえた審理を求めたい。



高浜原発差し止め 「負の影響」計り知れない
(2015年4月15日 産経新聞社説)
電力安定供給や地球温暖化防止に重大な負の影響をもたらす決定だ。関西電力の高浜原発3、4号機(福井県)に対し、同県や大阪府などの住民9人が求めた運転差し止めの仮処分を福井地裁が認めた。仮処分によって原発の運転が禁止されるのは、今回が初めてで、奇矯感の濃厚な判断である。同地裁では昨年5月にも今回と同じ裁判長が大飯原発の運転差し止めを命じる判決を下しており、司法が関電の目指す原発再稼働に重ねて待ったをかけた形だ。

運転差し止めの影響が及ぶ範囲は極めて広くかつ深い。仮処分なので、決定と同時に効力が発生するためである。高浜3、4号機は、原子力規制委員会による安全審査が進んでおり、今秋の再稼働への見通しが開けつつあったが、当面その可能性は遠のいた。

今回の決定では、原子力規制委員会の新しい安全基準について「合理性を欠く」と断じたが、あまりにも乱暴だ。原発の安全性をめぐって規制委の審査との間に齟齬を来し、国民は何をよりどころにすべきか迷ってしまう。そもそも現在の司法の体制で、高度に科学的、技術的な分野の判断に踏み込むことには無理があろう。知財高裁に相当する専門対応力を備えた「科学高裁」設立の検討が望まれるところである。原子力発電は、先端科学技術を総合したものであり、火力などとは一線を画する発電システムだ。それゆえ、ベースロード電源としてだけでなく、国のエネルギー安全保障上も重視されている。

九州電力の川内原発にも運転差し止めの仮処分申請が出されているが、鹿児島地裁には良識ある決定を期待したい。仮処分という措置で原発の再稼働に遅れが生じると、電力会社の経営を圧迫し、電気代のさらなる値上げが不可避となる。中小企業は耐えられなくなっていく。政府による電源構成比の策定は大詰めの段階だが、その実効性への影響も出よう。原発の活用を封印されると、世界が足並みをそろえて取り組む二酸化炭素の排出削減計画にも乱れが生じる。

電力会社と規制委などの取り組みで、原発事故のリスクは、ゼロではないが、最小化されている。司法は、その現実と努力を正しく認識すべきである。



国民を守る司法判断だ 高浜原発「差し止め」
(2015年4月15日 東京新聞社説)
関西電力高浜原発(福井県高浜町)の再稼働は認めない-。福井地裁は、原子力規制委員会の新規制基準を否定した。それでは国民が守られないと。仮処分は、差し迫った危険を回避するための措置である。通常の訴訟とは違い、即座に効力を発揮する。高浜原発3、4号機は、動かしてはならない危ないもの、再稼働を直ちにやめさせなければならないもの-。司法はそう判断したのである。なぜ差し迫った危険があるか。第一の理由は地震である。電力会社は、過去の統計から起こり得る最大の揺れの強さ、つまり基準地震動を想定し、それに耐え得る備えをすればいいと考えてきた。

◆当てにならない地震動
原子力規制委員会は、新規制基準による審査に際し、基準値を引き上げるよう求めてはいる。関電は、3・11後、高浜原発の基準地震動を三七〇ガルから七〇〇ガルに引き上げた。しかし、それでも想定を超える地震は起きる。七年前の岩手・宮城内陸地震では、ひとけた違う四〇二二ガルを観測した。「平均からずれた地震はいくらでもあり、観測そのものが間違っていることもある」と地震学者の意見も引いている。

日本は世界で発生する地震の一割が集中する世界有数の地震国である。国内に地震の空白地帯は存在せず、いつ、どこで、どんな大地震が発生するか分からない。だから基準地震動の考え方には疑問が混じると判じている。

司法は次に、多重防護の考え方を覆す。原発は放射線が漏れないように五重の壁で守られているという。ところが、原子炉そのものの耐震性に疑念があれば、守りは「いきなり背水の陣」になってしまうというのである。また、使用済み核燃料プールが格納容器のような堅固な施設に閉じ込められていないという点に、「国の存続に関わるほどの被害を及ぼす可能性がある」と、最大級の不安を感じている。

福島第一原発事故で、最も危険だったのは、爆発で屋根が破壊され、むき出しになった4号機の燃料プールだったと、内外の専門家が指摘する。つまり、安全への重大な疑問はいくつも残されたままである。ところが、「世界一厳しい」という新規制基準は、これらを視野に入れていない。

◆疑問だらけの再稼働
それでも規制委は新基準に適合したと判断し、高浜原発は秋にも再稼働の運びになった。関電も規制委も、普通の人が原発に対して普通に抱く不安や疑問に、しっかりとこたえていないのだ。従って、「万が一の危険という領域をはるかに超える現実的で切迫した危険」があると、福井地裁は判断した。新規制基準の効力や規制委の在り方そのものを否定したと言ってもいいだろう。新規制基準では、国民の命を守ることができないと、司法は判断したのである。

昨年五月、大飯原発(福井県おおい町)3、4号機の差し止めを認めた裁判で、福井地裁は、憲法上の人格権、幸福を追求する権利を根拠として示し、多くの国民の理解を得た。生命を守り、生活を維持する権利である。国民の命を守る判決だった。今回の決定でも、“命の物差し”は踏襲された。命を何より大事にしたい。平穏に日々を送りたい。考えるまでもなく、普通の人が普通に抱く、最も平凡な願いではないか。

福島原発事故の現実を見て、多くの国民が、原発に不安を感じている。なのに政府は、それにこたえずに、経済という物差しを振りかざし、温暖化対策なども口実に、原発再稼働の環境づくりに腐心する。一体誰のためなのか。原発立地地域の人々も、何も進んで原発がほしいわけではないだろう。仕事や補助金を失って地域が疲弊するのが怖いのだ。福井地裁の決定は、普通の人が普通に感じる不安と願望をくみ取った、ごく普通の判断だ。だからこそ、意味がある。

◆不安のない未来図を
関電は異議申し立てをするという。しかし司法はあくまで、国民の安全の側に立ってほしい。三権分立の国である。政府は司法の声によく耳を傾けて、国民の幸福をより深く掘り下げるべきである。省エネと再生可能エネルギーの普及を加速させ、新たな暮らしと市場を拓(ひら)いてほしい。原発のある不安となくなる不安が一度に解消された未来図を、私たちに示すべきである。