熊本県と埼玉県。


九州と関東に位置し、お互いに何の関係もない県と言ってよかろう。僕はたまたま両方の県に関係があり、どちらの県もゆかりが深い。
人間、年をとると歴史や地誌に興味関心が増えるというが、僕とて例外ではなく、最近、両地域に関する記事を目にすると、注意して読むことが多くなった。

熊本県と埼玉県との関連は、4世紀ごろのヤマト王権の時代に遡る。
奈良盆地を中心に発達したヤマト王権は、徐々にその権力を拡大し、日本の大部分を包括する大朝廷を形成するに至った。朝廷を担った中心王権の担い手は、近年の歴史学の考証では、現在の皇室につながる系譜とされている。

その支配域の拡大は、各地に残された遺跡から確認することができる。主に古墳だが、この古墳の作り方がきれいに同一の様式であるため、同じ権力支配層によって建築されたものとされている。
古墳は、建築年代が下るとともに巨大化している。それは、それほどの巨大な古墳を建築するほどの人員動員力が備わっていたということで、ヤマト王権の権力の大きさが拡大していく経過と軌を一にする。

その東端となるのが、埼玉県行田市にある稲荷山古墳、西端が熊本県玉名郡にある江田船山古墳だ。埼玉と熊本ではずいぶん離れているが、当時のヤマト王権の支配領域がその両者を包括するほどの広い地域だったことが分かる。
両古墳は地域的な差異をもとともしないほど建築様式が似ており、同じ時代の同じ権力によって作られた、同系の建築物であったことを今に伝えている。

では、奈良の一権力に過ぎなかったヤマト王権が、なぜここまで勢力を広げることができたのだろうか。
当時でも、地方にはそれぞれの豪族が地域支配を進めていた。単なる軍事力や政治力では、3C〜5Cのわずか200年ほどの間にこれほどの勢力図版を広げることは難しかっただろう。
ヤマト王権の勢力拡大の背景には、どのような下地があったのだろうか。

稲荷山古墳、江田船山古墳の両古墳が日本史で重要な位置を占めているのは、両古墳から出土した「鉄剣」にその理由がある。
埼玉県の稲荷山古墳から出土した鉄剣には碑文が刻まれており、その時代における当地の権力層が示されている。

其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也

「其の児、名はカサヒ(ハ)ヨ。其の児、名はヲワケの臣。世々、杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。ワカタケルの大王の寺、シキの宮に在る時、吾、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也」
(稲荷山古墳出土の鉄剣銘、裏面)


同様の内容は、熊本県の江田船山古墳から出土した鉄剣にも記されている。
稲荷山古墳の鉄剣よりは多少ストーリー性があるが、これとて「俺たちの大王スゲぇ」のようなヨイショ的な内容であることには変わりない。

治天下獲□□□鹵大王世奉事典曹人名无利弖八月中用大鉄釜并四尺廷刀八十練九十振三寸上好刊刀服此刀者長寿子孫洋々得□恩也不失其所統作刀者名伊太和書者張安也

「天の下治らしめし獲□□□鹵大王の世、典曹に奉事せし人、名は无利弖、八月中、大鉄釜を用い、四尺の廷刀を并わす。八十たび練り、九十たび振つ。三寸上好の刊刀なり。此の刀を服する者は、長寿にして子孫洋々、□恩を得る也。其の統ぶる所を失わず。刀を作る者、名は伊太和、書するのは張安也」
(江田船山古墳出土の鉄刀)


この碑文に刻まれている「獲□□□鹵大王」というのは、他の資料との比較から「獲加多支鹵大王」、つまりワカタケル大王(雄略天皇)であることが分かっている。このワカタケル大王なる人物は、埼玉県の稲荷山古墳出土の鉄剣にも「獲加多支鹵大王」と記されている。

つまりこの時代、同一の「ワカタケル大王」なる人物が、埼玉県と熊本県の古墳遺跡の鉄剣に記されていたことになる。これをもって、5世紀頃の日本で、ヤマト王権の威光が、西は熊本、東は埼玉に及んでいたことが分かる。

この「ワカタケル」という人物、あまり日本史ではなじみのある名前とは言えない。名前くらいは聞いたことがあるが、この人物が日本史で果たした役割は何だったのか、あまりよく知らない人のほうが多いだろう。当時のヤマト王権にあって、ワカタケルの果たした役割は何だったのか。
中学・高校で日本史を習うと、関東に政治権力が及んだのは、鎌倉幕府あたりにようやく、という印象がある。しかしワカタケルの時代に、ヤマト王権の威光がすでに関東に及んでいたということになる。

当時としては至宝であった鉄剣に刻む内容が「誰の父ちゃんが誰々で、誰の子供が誰々で」という家系図的な内容であったのはご愛嬌だが、紙や木片に書くよりも保存性は高かろう。本来は武器である鉄剣にこのような内容が記されているということは、この剣は武器を目的として作られていたのではなく、交易のための商品として使われていた可能性が高い。

ヤマト王権が地方に勢力を拡大した方法は、中央集権的な一律支配ではなく、地方の豪族と協商を結ぶ同盟関係だったと考えるほうが妥当だろう。そうでなければ、短期間の間に勢力を拡大した事実が説明できない。もし武力で殲滅戦を計るような軍事的制圧であれば、のんきに古墳など建築しているほどの経済的な余裕は残らないだろう。

ヤマト王権と地方豪族との同盟関係は、実際のところ、同列関係ではなく朝貢関係だったと思う。ヤマト王権が地方豪族に「地域を制圧する方法」を伝授してその支配領域を承認し、豪族はヤマト王権に倣って権力世襲を確実にするための手段として古墳建築などの施策を行っていたのだろう。
その際、ヤマト王権から地方豪族に「下賜」されたのが、鉄剣だったのではあるまいか。当時の日本ではまだ製鉄技術は伝わっていなかったから、不思議な材料で作られている「剣」は、権力の象徴として威力抜群だっただろう。

そう考えると、もうひとつの疑問が生じる。そもそもヤマト王権は、鉄剣をどうやって製造していたのだろうか。
当時まだ製鉄技術がなかったのは、奈良の都でも同じことだ。あちこちに権力の象徴としてバラまくほどの鉄剣を、ヤマト王権はどこから調達していたのか。

輸入しかないだろう。当時、朝鮮半島では中国を経由して鉄器時代に移行していた。ヤマト朝廷はすでに百済と交易関係があったから、百済あたりから鉄剣を輸入していたとしても不思議はない。
そう考えると、ヤマト王権が行っていた国内施策と対外施策が、「鉄」というひとつの補助線で、ひとつにつながっていると考えることができる。

当時の朝鮮半島では、北部に君臨する高句麗が南下政策を進めていた。高句麗は朝鮮半島の完全支配を目指して、南部の百済、新羅、伽羅に進撃する気満々だった。
もし百済を高句麗に押さえられてしまっては、鉄剣の輸入に差し支える。つまりヤマト王権の国内支配は、朝鮮半島の情勢に左右される事態となった。

そこでヤマト王権が採った策は、中国・南宋の影響力を利用することだった。
『宋書』倭国伝には、478年に上奏された「倭王武の上表文」が記されている。これによると、倭の王権が東(毛人)、西(衆夷)、北(海北)の多くの国を征服したことが述べられており、当時のヤマト王権の広がりが記録されている。

これを単なる受験日本史の知識として捉えると、「ヤマト王権は中国の南宋に使者を送っていた」というだけのことになるが、問題は「なぜわざわざ、そんなことをしたのか」だ。単純に言って、中国に使者を送るのは、金も手間もかかる。日本にとってよほどメリットのある理由でもなければ、わざわざ南宋に使者を派遣するようなことはしないだろう。

ヤマト朝廷が南宋に使者を派遣した目的は、朝鮮半島を制圧しようとする高句麗を抑えるために、南宋に睨みを利かせてもらうためだろう。直接、高句麗と戦争を行うと、リスクと負担が大きい。百済から鉄剣を輸入するためには、高句麗の動きを牽制する必要がある。そこで南宋に使いを送り、「高句麗よりも上位の地位を保証してくれ」と依頼した。朝鮮半島の権益を確保するための外交だろう。

だからこの時代のヤマト王権の、中国に対する姿勢は、基本的に「朝貢」だったことが分かる。対等の立場として南宋とつき合うのではなく、臣下の立場として「朝鮮半島の権益を認めてください」というお願いに過ぎない。「高句麗を牽制するためにより上位の立場を利用する」という外交の性質上、前提として南宋の権威を絶対的として認めていることになる。

ところがこの策は、うまくいったとは言いがたい。『宋書』倭国伝には、「使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東將軍」と記されている。要するに、倭王(ヤマト王権)を、使持節都督倭、新羅、任那、加羅、秦韓、慕韓、の6国の諸軍事を司る「安東將軍」に任ずる、という内容だ。
この支配域には、肝心の百済が入っていない。百済は当時、自国防衛のために独自に南宋に朝貢しており、国境を接している高句麗からの軍事圧力に備えていた。南宋はその関係に配慮し、百済を自らの「直轄地」とすることで、ヤマト王権の管轄内に組み入れなかったのだろう。

また、ヤマト王権の仮想ライバルだった高句麗は、すでに南宋から「車騎大将軍」の称号をもらっていた。これはヤマト王権がもらった「安東將軍」よりも格上だ。これでは高句麗の勢力を牽制する目的としては意味がない。
ヤマト王権が行った外交は失敗に終わった、と言ってよいだろう。百済が高句麗の軍門に下ることはもはや時間の問題だった。事実、475年には高句麗によって百済が滅ぼされている。

「くだらない」などという駄洒落はともかく、ヤマト王権が「最悪の事態」と憂慮していた百済の滅亡は、まったく違う形でプラスに働いた。百済が高句麗の勢力範囲に落ちたことで、ヤマト王権は朝鮮半島との交易関係が断たれたが、百済の鉄器製造技術者が大挙して日本に「難民」としてなだれ込んだ。いわゆる渡来人だ。
渡来人の来日によって、日本で鉄剣の製造が可能になった。鉄器以外にも、繊維工、農業技術者、歴史記述者などの専門技術をもつ人材が大量に日本に流入し、日本の技術が格段に上がった。

その結果、ヤマト王権は、朝鮮半島と交易をする必要がなくなってしまった。連鎖的に、朝鮮半島の権益を確保するための南宋の権威も不要になる。これ以後、ヤマト王権は中国に使者を派遣していない。権威におもねる必要がなくなったからだ。
この「渡来人による技術の流入」→「中国大陸へ媚へつらう必要がなくなる」という図式が、のちの大和朝廷の強気の外交の伏線になっている。のちに聖徳太子が遣隋使を送った時、最初から対等の外交を要求し、隋の煬帝を唖然とさせている。これは5世紀のワカタケルの時代に、すでに「中国の権威など必要ない」という事態になっていたことが理由だろう。

こうして見ると、ワカタケルが行った国内支配、対外外交のふたつの施策は、「鉄剣」というキーワードでつながることが分かる。鉄の輸入を確保するために南宋に働きかけ、鉄剣の威光で国内支配の領域を広げた。このふたつがリンクとなって、当時のヤマト王権のあり様が明確に分かる。


歴史を勉強するとき、個々の知識を単発情報として暗記しようとしている限り、何の意義もないだろう。埼玉県と熊本県の両方で鉄剣が出土したことも、『宋書』倭国伝で日本が南宋に使者を送ったことも、受験日本史としては出題確率の低い「穴場問題」に過ぎない。ただ覚えるために覚えている受験生のほうが多いのではあるまいか。

しかし、本当の歴史の勉強とは、個々の知識をつなぎ合わせ、「歴史のストーリー」をつくりあげることだと思う。ある事件が起きた、という事実を暗記するのではなく、「なぜそんなことが起きたのか」「その結果、世の中がどう変わったのか」を頭で考えなければ、歴史が有機的につながる物語にならない。

そういう勉強の仕方の根本となる姿勢は、個々の事象に対して「なぜなのか」という疑問をもつことだろう。歴史が苦手な学生から話を聞くと、生じた事件を、単なる事実として無批判に受け入れる「受け身」の姿勢が染み付いており、「なぜそんなことをしたのか」と挑みかかる姿勢がない。覚えることばかり一生懸命になっており、考えようとしていない。蓋し、歴史に限らず、学校で習う勉強というものは、そのように主体的に謎に挑みかかる姿勢がなくては、すべて無意味なものなのではあるまいか。


僕は埼玉県にも熊本県にもゆかりが深いが、寡聞にして稲荷山古墳にも江田船山古墳にも行ったことがない。そのうち嫁さんを連れて遊びにいきたいと思っているが、実際にワカタケルの名が刻まれた鉄剣を見て、5世紀当時の日本のあり様に思いを馳せるのも面白そうだ。勉強していなければ単なる剣に過ぎないものが、学ぶことによって興味深い世界が広がる歴史の鍵になる。
学ぶことから得られる最も大きな恩恵は、そのような世界が広がる体験をする機会を、自分で増やせるようになることだと思う。



見る物が同じでも、そこに感じる面白さは、学びの差で表れる。