最近、巷の本屋さんでよく話題として取り上げられている本を読んでみた。
僕は大学受験のときに世界史選択だったが、あまり勉強熱心な高校生ではなかった。自慢じゃないが、はっきり言って高校過程の世界史の知識は皆無と言っていい。
むしろ大学に入ってから真剣に世界史を勉強した。英文学・言語学の研究室に在籍していながら歴史学のゼミにちょくちょく出入りし、中世教会史に関する原典講読の読書会に2年間出続けた。今では、在籍していた英文学研究室の同期とは絶えて連絡が久しいが、遊び感覚で参加した歴史学ゼミの仲間とは、卒業後、今に至るまで親交が続いている。
その時の読書会で印象的だったのが、「すごく話がローカルだな」ということだった。
とにかく、知っている人が出てこない。
受験世界史の範疇で「中世教会史」ときたら、ハインリヒ4世とグレゴリウス7世のケンカくらいしか思い出せない。それでも思い出せるだけマシだろう。
しかし、大学の原典講読の授業では、そんなビッグネームは一度たりとして出てこなかった。当時の教会がいかにして経済的な維持策を図っていたのか、隣の地域の教会との権力争いにどうやって対処していたのか、中世の教会人たちが年に1度、もっとも腐心していたイベントは何だったのか、そういった非常に局地的な話が延々と続いていた。油断すると「これ、何世紀ごろの話だっけ」と時代背景も分からなくなる有様だ。
しかし考えてみれば、高校の世界史に載っているビッグネームというのは、その時代を代表するほんの一握りの権力者の姿でしかない。それを覚えたところで、「その時代はいったいどういう時代だったのか」を理解することにはならない。その時代に生きていた無数の一般市民の生活様式や価値観とは無関係なのだ。
現在でも、プーチンという人間を理解したところで、ロシアという国の住み心地や人間性を理解することにはつながらない。
結局、大学の読書会で行っていたことは、「史料を読み解き、その時代がどういう時代だったのか、その息づかいと実際の生活の有様を想像すること」の訓練だったのだと思う。だからとても楽しかった。
僕はそのゼミで読書会に参加している間に、生まれて初めて聖書を通読した。どうも中世という時代の価値観が理解できず、その価値観の礎を直接読んだほうが話が早いと思ったからだ。それまで何の価値も見出していなかった「聖書」なる奇怪な書物に、ある程度の意義を見出せたのは、そういう知的体験が大きな機会だったと思う。
ふつう高校の世界史の授業は、いわゆる「教科書の太字」を覚えることが中心になる。大学入試でそれが問われることが多いからだ。それが「歴史=暗記科目」という語弊を生み、歴史嫌いを多数輩出するに至る。
具体的な方策として、まず世界中の文化圏ごとに地域をぶった斬る。ヨーロッパ史はそれぞれの発展段階ごとに捉え、アジアの歴史は中国の王朝変遷を主軸に据えて単元を構成する。それぞれの時代ごとに、キーマンとなる重要人物の名前とその業績を覚える。その業績がその時代にどういう意味があったことなのかは知ったこっちゃない。とにかく覚える。「ナントの勅令」や「マグナ・カルタ」がどういうものなのか知らなくても、とりあえず条件反射的にキーワードとして覚える。
そりゃ世界史の勉強が嫌になるわけだ。ひとは無意味な記号を単純に暗記しつづけられるようにはできていない。そのひとつひとつがどういう意味をもち、その時代にどういうインパクトがあったのか、社会背景から時代の前後までを理解しなければ、有機的に結びつく知識の体系には至らない。
僕は大学で講義をするとき、最初の授業で学生にアンケートをとる。その項目のひとつに「中学、高校で習った科目のうち、不要だと思う教科は何ですか」という質問を入れている。
世界史は、数学、古典と並んで不人気科目のひとつだ。その理由はすべて異口同音、「現在の自分の生活にいらない知識だから」「そんな知識は無くても生きていけるから」と来る。
世の中を「役に立つ」「役に立たない」という基準でしか見られない視野狭窄は、自我が確立し切っていない世代の未発達さの反映として、まぁ仕方がないとしよう。僕はこういう反応をする大学生を、本人だけの問題として切って捨てるわけにはいかないと思う。
高校の授業は、勉強の内容は教えるが、勉強の意義と方法は教えない。高校までの授業では、「なんのためにこの教科を勉強するのか」という問いに対して、「受験のためだ」という絶対的正解がある。だから先生のほうでも、その目的に沿うように授業の外枠をつくりあげてしまう。
高校卒業程度の学生は、自分の頭で考えることができない。環境から叩き込まれた価値観を、何の疑いもなくそのまま鵜呑みにして自分の人生観にまで押し上げてしまう。受験対策のために叩き込まれた世界史の授業から、本当に歴史を学ぶ意義を感じ取れる学生は、よほどの秀才か、好奇心が高い学生か、変な奴か、そのどれかだろう。
僕は個人的に、世界史を学ぶことで身につけられる能力とは、例えて言えば、「豪華客船が難破して、100人前後の人間が無人島に流れ着き、サバイバル生活をしなければならなくなったとき、どうすれば全員が生き残れるか」を知ることだと思う。
人間の歴史の黎明期は、火を使い、言葉を使い、道具を使って食物を確保することから始まった。説明不可能な自然現象から精神崩壊を防ぐために、宗教という発明も行った。少人数の集落による狩猟集団から、定期的な食物確保が可能な農村への変質、それが高度に社会化した都市の発達に至るまで、人間はすでに一通りの経験を済ませている。
その筋道を知っていれば、すべてがリセットされた状況に置かれても、それを一から作り直すことができる。その過程になにか不具合があれば、すぐに過去の実例を想起して似たような対処をすることができる。
生き残るために有利な居住環境の条件は何か。どこに集落を構えればいいのか。定期的、安定的に食物を得るには、集落をどう統括すればいいのか。食物を得る方法はどのように発達させていけばいいのか。
たとえば歴史上、青銅器の文化から鉄器の文化に移行したことは常識の範疇だろうが、なぜその順番で発達したのかをきちんと説明できる人は少ないだろう。青銅だって鉄鉱石だって、同じような頻度と分布で手に入る。それがなぜその順だったのか。鉄に移行してから文明が飛躍的に発達したのは、なぜだったのか。
それがきちんと自分の言葉で答えられれば、「いま自分が生き残るのに必要なものは何か」の想像がつくはずだ。
焼畑農業から始まった略奪的な原始農業が、毎年の再生産が可能な高度な農業形態に移行するまでに、人はどのような努力と発明を続けてきたのか。中世の教会があそこまで権威を高められたのはなぜなのか。キリスト教圏とイスラム教圏が最終的な殲滅戦にならなかったのはなぜなのか。産業革命とは、具体的に世の中の何がどう変わった出来事だったのか。その変化が後の世の中にどういう影響を及ぼしたのか。社会が高度に発達すると必ず生じる「権力争い」とは、要するに人の何が原因で起こるものなのか。
すべて、知っているはず・習ったはずなのに、自分の言葉で説明できない事柄だ。高校の世界史で学ぶことは、「情報としての知識」であって、「その時代に生きた人の実感」ではない。そりゃ、世界史の先生だってタイムマシンで各時代に訪問した経験があるわけではなかろうから、見て来たことのように話をすることはできないだろう。
上掲の『世界史』という本は、そこのところに焦点を当てて書かれている。これからの未来に歴史を再生産する必要に駆られた時「かつて人はどのような筋道を辿ってきたのか」を把握できるように書かれている。歴史上の特定の事件、特定の人物に注目する紀伝体でなく、その時々がどのような社会であったのかを概括する手法で書かれている。単にこれまでの記録を綴った本ではなく、これからの世界を再構成するときに必要な部分に焦点を当てて書かれている。
時代背景を一般化して書いている本だから、とても内容が抽象的だ。固有名詞による登場人物が異様に少ないため、歴史に登場する人の姿がイメージしにくい。逆説的なようだが、この本を退屈せずに読むためには、いわゆる受験世界史的な知識がかなり必要だと思う。この本で論じられている時代の背景を読んで、「ははん、だからこの時代にあんな事件が頻繁に起きていたのか」と、頭の中で具体的な「事件」「人物」に落としこむ思考作業が必要になる。少なくとも、僕はこの本を読みながら、受験時代の世界史の教科書を頻繁に読み返した。
学生はよく「勉強が嫌い」と言うが、実は彼らがしていることは単なる記憶作業に過ぎず、とても「勉強」と言えるレベルのものではない。学校の勉強が嫌いな学生は、個別の現象を情報として覚え込むことを「勉強」だと思っている。そこから知恵を使って一般化し、個々の現象の裏に深く流れる大きな脈絡に気付こうとする欲求がない。「試験の得点を取る」といういわば目先の利益のため「覚えること」に汲々としてきた学生は、「考えること」ができない。
そのあたりを誤解している学生が読んでも、さっぱり意図が見えてこない本だと思う。

『世界史』(上、下)
ウィリアム・H・マクニール著、中公文庫
僕は大学受験のときに世界史選択だったが、あまり勉強熱心な高校生ではなかった。自慢じゃないが、はっきり言って高校過程の世界史の知識は皆無と言っていい。
むしろ大学に入ってから真剣に世界史を勉強した。英文学・言語学の研究室に在籍していながら歴史学のゼミにちょくちょく出入りし、中世教会史に関する原典講読の読書会に2年間出続けた。今では、在籍していた英文学研究室の同期とは絶えて連絡が久しいが、遊び感覚で参加した歴史学ゼミの仲間とは、卒業後、今に至るまで親交が続いている。
その時の読書会で印象的だったのが、「すごく話がローカルだな」ということだった。
とにかく、知っている人が出てこない。
受験世界史の範疇で「中世教会史」ときたら、ハインリヒ4世とグレゴリウス7世のケンカくらいしか思い出せない。それでも思い出せるだけマシだろう。
しかし、大学の原典講読の授業では、そんなビッグネームは一度たりとして出てこなかった。当時の教会がいかにして経済的な維持策を図っていたのか、隣の地域の教会との権力争いにどうやって対処していたのか、中世の教会人たちが年に1度、もっとも腐心していたイベントは何だったのか、そういった非常に局地的な話が延々と続いていた。油断すると「これ、何世紀ごろの話だっけ」と時代背景も分からなくなる有様だ。
しかし考えてみれば、高校の世界史に載っているビッグネームというのは、その時代を代表するほんの一握りの権力者の姿でしかない。それを覚えたところで、「その時代はいったいどういう時代だったのか」を理解することにはならない。その時代に生きていた無数の一般市民の生活様式や価値観とは無関係なのだ。
現在でも、プーチンという人間を理解したところで、ロシアという国の住み心地や人間性を理解することにはつながらない。
結局、大学の読書会で行っていたことは、「史料を読み解き、その時代がどういう時代だったのか、その息づかいと実際の生活の有様を想像すること」の訓練だったのだと思う。だからとても楽しかった。
僕はそのゼミで読書会に参加している間に、生まれて初めて聖書を通読した。どうも中世という時代の価値観が理解できず、その価値観の礎を直接読んだほうが話が早いと思ったからだ。それまで何の価値も見出していなかった「聖書」なる奇怪な書物に、ある程度の意義を見出せたのは、そういう知的体験が大きな機会だったと思う。
ふつう高校の世界史の授業は、いわゆる「教科書の太字」を覚えることが中心になる。大学入試でそれが問われることが多いからだ。それが「歴史=暗記科目」という語弊を生み、歴史嫌いを多数輩出するに至る。
具体的な方策として、まず世界中の文化圏ごとに地域をぶった斬る。ヨーロッパ史はそれぞれの発展段階ごとに捉え、アジアの歴史は中国の王朝変遷を主軸に据えて単元を構成する。それぞれの時代ごとに、キーマンとなる重要人物の名前とその業績を覚える。その業績がその時代にどういう意味があったことなのかは知ったこっちゃない。とにかく覚える。「ナントの勅令」や「マグナ・カルタ」がどういうものなのか知らなくても、とりあえず条件反射的にキーワードとして覚える。
そりゃ世界史の勉強が嫌になるわけだ。ひとは無意味な記号を単純に暗記しつづけられるようにはできていない。そのひとつひとつがどういう意味をもち、その時代にどういうインパクトがあったのか、社会背景から時代の前後までを理解しなければ、有機的に結びつく知識の体系には至らない。
僕は大学で講義をするとき、最初の授業で学生にアンケートをとる。その項目のひとつに「中学、高校で習った科目のうち、不要だと思う教科は何ですか」という質問を入れている。
世界史は、数学、古典と並んで不人気科目のひとつだ。その理由はすべて異口同音、「現在の自分の生活にいらない知識だから」「そんな知識は無くても生きていけるから」と来る。
世の中を「役に立つ」「役に立たない」という基準でしか見られない視野狭窄は、自我が確立し切っていない世代の未発達さの反映として、まぁ仕方がないとしよう。僕はこういう反応をする大学生を、本人だけの問題として切って捨てるわけにはいかないと思う。
高校の授業は、勉強の内容は教えるが、勉強の意義と方法は教えない。高校までの授業では、「なんのためにこの教科を勉強するのか」という問いに対して、「受験のためだ」という絶対的正解がある。だから先生のほうでも、その目的に沿うように授業の外枠をつくりあげてしまう。
高校卒業程度の学生は、自分の頭で考えることができない。環境から叩き込まれた価値観を、何の疑いもなくそのまま鵜呑みにして自分の人生観にまで押し上げてしまう。受験対策のために叩き込まれた世界史の授業から、本当に歴史を学ぶ意義を感じ取れる学生は、よほどの秀才か、好奇心が高い学生か、変な奴か、そのどれかだろう。
僕は個人的に、世界史を学ぶことで身につけられる能力とは、例えて言えば、「豪華客船が難破して、100人前後の人間が無人島に流れ着き、サバイバル生活をしなければならなくなったとき、どうすれば全員が生き残れるか」を知ることだと思う。
人間の歴史の黎明期は、火を使い、言葉を使い、道具を使って食物を確保することから始まった。説明不可能な自然現象から精神崩壊を防ぐために、宗教という発明も行った。少人数の集落による狩猟集団から、定期的な食物確保が可能な農村への変質、それが高度に社会化した都市の発達に至るまで、人間はすでに一通りの経験を済ませている。
その筋道を知っていれば、すべてがリセットされた状況に置かれても、それを一から作り直すことができる。その過程になにか不具合があれば、すぐに過去の実例を想起して似たような対処をすることができる。
生き残るために有利な居住環境の条件は何か。どこに集落を構えればいいのか。定期的、安定的に食物を得るには、集落をどう統括すればいいのか。食物を得る方法はどのように発達させていけばいいのか。
たとえば歴史上、青銅器の文化から鉄器の文化に移行したことは常識の範疇だろうが、なぜその順番で発達したのかをきちんと説明できる人は少ないだろう。青銅だって鉄鉱石だって、同じような頻度と分布で手に入る。それがなぜその順だったのか。鉄に移行してから文明が飛躍的に発達したのは、なぜだったのか。
それがきちんと自分の言葉で答えられれば、「いま自分が生き残るのに必要なものは何か」の想像がつくはずだ。
焼畑農業から始まった略奪的な原始農業が、毎年の再生産が可能な高度な農業形態に移行するまでに、人はどのような努力と発明を続けてきたのか。中世の教会があそこまで権威を高められたのはなぜなのか。キリスト教圏とイスラム教圏が最終的な殲滅戦にならなかったのはなぜなのか。産業革命とは、具体的に世の中の何がどう変わった出来事だったのか。その変化が後の世の中にどういう影響を及ぼしたのか。社会が高度に発達すると必ず生じる「権力争い」とは、要するに人の何が原因で起こるものなのか。
すべて、知っているはず・習ったはずなのに、自分の言葉で説明できない事柄だ。高校の世界史で学ぶことは、「情報としての知識」であって、「その時代に生きた人の実感」ではない。そりゃ、世界史の先生だってタイムマシンで各時代に訪問した経験があるわけではなかろうから、見て来たことのように話をすることはできないだろう。
上掲の『世界史』という本は、そこのところに焦点を当てて書かれている。これからの未来に歴史を再生産する必要に駆られた時「かつて人はどのような筋道を辿ってきたのか」を把握できるように書かれている。歴史上の特定の事件、特定の人物に注目する紀伝体でなく、その時々がどのような社会であったのかを概括する手法で書かれている。単にこれまでの記録を綴った本ではなく、これからの世界を再構成するときに必要な部分に焦点を当てて書かれている。
時代背景を一般化して書いている本だから、とても内容が抽象的だ。固有名詞による登場人物が異様に少ないため、歴史に登場する人の姿がイメージしにくい。逆説的なようだが、この本を退屈せずに読むためには、いわゆる受験世界史的な知識がかなり必要だと思う。この本で論じられている時代の背景を読んで、「ははん、だからこの時代にあんな事件が頻繁に起きていたのか」と、頭の中で具体的な「事件」「人物」に落としこむ思考作業が必要になる。少なくとも、僕はこの本を読みながら、受験時代の世界史の教科書を頻繁に読み返した。
学生はよく「勉強が嫌い」と言うが、実は彼らがしていることは単なる記憶作業に過ぎず、とても「勉強」と言えるレベルのものではない。学校の勉強が嫌いな学生は、個別の現象を情報として覚え込むことを「勉強」だと思っている。そこから知恵を使って一般化し、個々の現象の裏に深く流れる大きな脈絡に気付こうとする欲求がない。「試験の得点を取る」といういわば目先の利益のため「覚えること」に汲々としてきた学生は、「考えること」ができない。
そのあたりを誤解している学生が読んでも、さっぱり意図が見えてこない本だと思う。
頭の中で世界を構築する作業が必要。