学生に課題を出してるんですけどね。
僕のゼミでは、2年生のときから論文を書かせて提出させている。まぁ、大学2年生のことだから、ろくに論文の書き方も知らない。そういう学生に、1から論文の書き方を教える。
3年、4年となるにつれ、提出する論文に課されるハードルが徐々に高くなる。そのたびに課題をクリアしていけば、まっとうな卒業論文が書けるように、3年間の幅でゼミの内容をつくっている。
そういう課題を出すと、決まって期限までに提出できない学生がいる。能力がないのではない。力の使い方を間違えているのだ。
そういう、論文などの大きな課題につまずく学生の共通点は、「無駄に完璧主義者で、細かいところに執着し、仕事の全体像を見極めていない」ということだ。
学生は、論文などの課題を仕上げる作業を「石を積み上げて高い塔を作る」のようにイメージしている。だから、基礎となる石、その次の石、その次の石・・・と、ひとつひとつを理解していこうとする。単独の石それぞれに対する理解力もさることながら、石と石との関連性にも細かく気を使う。
だから、ちょっとでも理解できないところがあると、すぐに止まる。ひとつ石が確実に手に入らないと、先に進めない。中には、石のがすこし欠けているだけでそこが気になり、石を積むことを忘れて石を磨き出す学生もいる。
そして敢えなく期限切れとなり、評価はゼロ。
そういう学生は、いま自分がつまずいている目の前の問題しか見えない。その後、どういう展開があり、その部分はどのような位置づけになっているのか、まったく見ようとしない。もしかしたら、いまつまずいている部分は本筋からすれば枝葉末節に過ぎない部分かもしれないのだ。それを考えることなく、重要なところも瑣末なところも、等しく同じパワーで仕事をしようとする。
数学では、変化率と範囲が求まれば、全体像が決まる。いわゆる積分だ。視点がほんの一点に置かれただけでも、そこから全体像を俯瞰することができる。
学生がなにか努力をしているとき、その努力を期限内に続けていけば目標とする結果に達するかどうか、ちょっと考えれば簡単に分かりそうなものだ。もしその見込みが薄いのなら、それは努力の仕方を間違えていることになる。細かいことが気になって先に進めない学生ほど、「こんなことやってて、終わるのだろうか」という疑いを持とうとしない。疑っても、やり方を変えてみようとしない。
実際のところ、仕事を期日までに仕上げるための方法は「とりあえず範囲を決め、全体をざっと簡単に終わらせてしまう」ことだ。完璧でなくてもよいから、まず仕事の全体像をはかる。そしてそこから逆算し、それぞれの部分ごとにかけられる時間と手間を推察する。イメージとしては「骨組みだけつくりあげ、張り子の像を試作品として完成させてしまう」ことだ。全体像を理解することなしに、部分を完成させていくことはできない。
学生に書かせる論文など、「こうすれば完璧」というゴールなどない。終わりのない課題なのだから、どこのレベルで「終了」の線を引くか、その見極めが大事になる。石を積み上げるタイプで仕事をすると、事実上、その線引きができない。常にいま自分がやっているところが終了線になってしまう。
そうではなく、まず全体をざっと仕上げてしまう。完成度はとりあえず脇に置く。そして骨組みだけでもいいから全体を作り上げてしまい、そこから部分の制作に入る。張り子の像に、少しずつ肉をつけていく。どこまで肉をつけられるかは、期日までのスケジュールを考えれば、だいたい分かる。
全体像をまず把握している人は、部分ごとの重要性が見極められるようになる。本当に大切なところはどこなのか、瑣末なところはどこなのか、把握できるようになる。
完璧主義の学生は、これができない。細かい部分に固執して、全体像から逆算するという発想がない。
たとえば、浅く大きい箱に、いっぱいビー玉が入っているとする。それを数えろ、と課題を出したら、要領のいい学生は縦と横におかれたビー玉の個数を数え、かけ算して総数量を概算する。要領の悪い学生は、端から順に「ひとつ、ふたつ、みっつ・・・」と指折り数えだす。
完璧主義を発揮していいのは、自分がやろうとしている仕事の全体像を把握し、部分ごとにかけられる努力量をきちんと把握している人だけだ。その大きな視点も無しに細かいところにこだわって先に進めないのは、単なる視野狭窄に過ぎない。
学生が論文課題の相談に来た時に、僕はまず締切までのその学生の執筆計画を聞く。期日から逆算して仕事のプランを作り上げていない学生は、例外なく、いま自分が何をすればいいのか分かっていない。「部分を全体へ」ではなく、「全体から部分へ」と発想と視点を変えるだけで、自分がやるべきことがかなり見えてくる。
僕のゼミでは、2年生のときから論文を書かせて提出させている。まぁ、大学2年生のことだから、ろくに論文の書き方も知らない。そういう学生に、1から論文の書き方を教える。
3年、4年となるにつれ、提出する論文に課されるハードルが徐々に高くなる。そのたびに課題をクリアしていけば、まっとうな卒業論文が書けるように、3年間の幅でゼミの内容をつくっている。
そういう課題を出すと、決まって期限までに提出できない学生がいる。能力がないのではない。力の使い方を間違えているのだ。
そういう、論文などの大きな課題につまずく学生の共通点は、「無駄に完璧主義者で、細かいところに執着し、仕事の全体像を見極めていない」ということだ。
学生は、論文などの課題を仕上げる作業を「石を積み上げて高い塔を作る」のようにイメージしている。だから、基礎となる石、その次の石、その次の石・・・と、ひとつひとつを理解していこうとする。単独の石それぞれに対する理解力もさることながら、石と石との関連性にも細かく気を使う。
だから、ちょっとでも理解できないところがあると、すぐに止まる。ひとつ石が確実に手に入らないと、先に進めない。中には、石のがすこし欠けているだけでそこが気になり、石を積むことを忘れて石を磨き出す学生もいる。
そして敢えなく期限切れとなり、評価はゼロ。
そういう学生は、いま自分がつまずいている目の前の問題しか見えない。その後、どういう展開があり、その部分はどのような位置づけになっているのか、まったく見ようとしない。もしかしたら、いまつまずいている部分は本筋からすれば枝葉末節に過ぎない部分かもしれないのだ。それを考えることなく、重要なところも瑣末なところも、等しく同じパワーで仕事をしようとする。
数学では、変化率と範囲が求まれば、全体像が決まる。いわゆる積分だ。視点がほんの一点に置かれただけでも、そこから全体像を俯瞰することができる。
学生がなにか努力をしているとき、その努力を期限内に続けていけば目標とする結果に達するかどうか、ちょっと考えれば簡単に分かりそうなものだ。もしその見込みが薄いのなら、それは努力の仕方を間違えていることになる。細かいことが気になって先に進めない学生ほど、「こんなことやってて、終わるのだろうか」という疑いを持とうとしない。疑っても、やり方を変えてみようとしない。
実際のところ、仕事を期日までに仕上げるための方法は「とりあえず範囲を決め、全体をざっと簡単に終わらせてしまう」ことだ。完璧でなくてもよいから、まず仕事の全体像をはかる。そしてそこから逆算し、それぞれの部分ごとにかけられる時間と手間を推察する。イメージとしては「骨組みだけつくりあげ、張り子の像を試作品として完成させてしまう」ことだ。全体像を理解することなしに、部分を完成させていくことはできない。
学生に書かせる論文など、「こうすれば完璧」というゴールなどない。終わりのない課題なのだから、どこのレベルで「終了」の線を引くか、その見極めが大事になる。石を積み上げるタイプで仕事をすると、事実上、その線引きができない。常にいま自分がやっているところが終了線になってしまう。
そうではなく、まず全体をざっと仕上げてしまう。完成度はとりあえず脇に置く。そして骨組みだけでもいいから全体を作り上げてしまい、そこから部分の制作に入る。張り子の像に、少しずつ肉をつけていく。どこまで肉をつけられるかは、期日までのスケジュールを考えれば、だいたい分かる。
全体像をまず把握している人は、部分ごとの重要性が見極められるようになる。本当に大切なところはどこなのか、瑣末なところはどこなのか、把握できるようになる。
完璧主義の学生は、これができない。細かい部分に固執して、全体像から逆算するという発想がない。
たとえば、浅く大きい箱に、いっぱいビー玉が入っているとする。それを数えろ、と課題を出したら、要領のいい学生は縦と横におかれたビー玉の個数を数え、かけ算して総数量を概算する。要領の悪い学生は、端から順に「ひとつ、ふたつ、みっつ・・・」と指折り数えだす。
完璧主義を発揮していいのは、自分がやろうとしている仕事の全体像を把握し、部分ごとにかけられる努力量をきちんと把握している人だけだ。その大きな視点も無しに細かいところにこだわって先に進めないのは、単なる視野狭窄に過ぎない。
学生が論文課題の相談に来た時に、僕はまず締切までのその学生の執筆計画を聞く。期日から逆算して仕事のプランを作り上げていない学生は、例外なく、いま自分が何をすればいいのか分かっていない。「部分を全体へ」ではなく、「全体から部分へ」と発想と視点を変えるだけで、自分がやるべきことがかなり見えてくる。
一歩も動けないままタイムアウトになる学生もいます。
要件を最低限満たした、動くソフトウェア(今回の場合は論文)を迅速に作成し、
それから時間の許す限り、インクリメンタルにブラッシュアップを行う。
期日が存在する作業(つまりほとんどすべての作業)において非常に重要な考え方なのですが、
全体を見渡すというのは非常にエネルギーを要する作業なので、
どうしても敬遠して、「とりあえずここはわかる」という部分的な作業から着手してしまうんですよね。