ある技術者が、取引先の製薬会社の人が漏らした「つくった薬の分子量が測れなくて困っている」というつぶやきを聞いた。
当時の科学的常識では、タンパク質のような大きな分子を壊さずに取り出すことは不可能とされていた。当然、そのような大きな分子は直接計量できない。それが製薬業界では大きな障害になっていた。
その技術者は、勤め先の企業でレーザー光線を使った分子量測定器の開発に取りかかる。
物質に高エネルギーのレーザー光線を充てると、熱されて超高温となり、イオン化する。このイオンを真空中で検出器まで飛ばすと、その飛行時間によって質量が分かる。軽い物質ほど検出器まで速く達し、重い物質ほど時間がかかる。「質量を、飛ばした時間で測る」というアイデアだ。
ところがひとつ問題があった。物質に直接レーザーを当てると、分子が壊れてしまう。そこで、レーザー光線をあてても分子構造が壊れないような技術の開発が必要となった。金属微粉末だけではうまく物質とは混ざらないので、何らかの溶剤に混ぜ合わせる必要がある。実験では、気化しやすいアセトンを溶剤として使うことになった。
あるとき、ビタミンB12のイオン化の実験中、その技術者はアセトンと間違えて、別の実験で使うはずだったグリセリンを混ぜてしまった。グリセリンはベトベトしているので、混ぜたときにすぐ分かる。
しかしその技術者は「もったいない」「せっかくだから」と、グリセリン溶液に溶かした物質をレーザー照射で実験してみた。
すると何と、見事に分子測定器がビタミンB12のイオン化信号を検出した。偶然ではあるが、実験は大成功。
その技術者は、その方法を「ソフトレーザー脱離イオン化法」としてまとめ、発表した。
2002年、その技術が評価され、ノーベル化学賞を受賞。
島津製作所の技術者。大学院に行っておらず、当時博士号も取得していなかった。
「企業のいちサラリーマンがノーベル賞を受賞した」というニュースは世界を駆け巡り、莫大な研究費をつぎ込んでノーベル賞獲得に血道を上げている諸各国に衝撃を与えた。
田中はもともと大学で電子工学を専攻しており、化学は専門外だった。仕事をしている時も「専門外だから失敗しても許されるだろう」と気楽に考えていたそうだ。化学の常識を知らなかったことで、先入観に振り回されないことが多かった。
たとえば、実験対象の触媒を間違えても「まぁ、とりあえずやってみよう」という考え方は、化学屋の発想ではない。レーザー照射の実験は、設備使用を含めてかなりの費用がかかる。溶液を間違えたら、最初の計画通りの素材を作り直すのが普通だ。机上の計画通りに緻密にデータを取っていくのではなく、とりあえずいじってみる、とりあえず実験してみる、というのは、ものづくりに携わる工学系の発想だ。
そういう姿勢が、失敗を「ムダ」と切り捨てず、その中から意外な成果を挙げることにつながったのではないか。実験でも研究でも、基本的に事実そのものに無駄はない。それを切り捨てるか、有効活用するかは、判断する人間の側の問題だ。
ちなみに「もったいない」は田中の祖母の口癖で、幼少期からその言葉を聞きながら育ったそうだ。
人は追いつめられると、余裕がなくなる。まわりが見えなくなり、目的への最短距離に拘泥するようになる。そうなると、正道に入り込むちょっとしたノイズを嫌うようになり、ちょっと外れたところに求めるものが待ち構えていても、それが見えなくなってしまう。
ノーベル賞受賞時、その職人気質や、物欲・出世欲・金銭欲が無い謙虚な人柄が評判となり、報道が加熱した。当時の日本には明るいニュースが少なく、珍しく肯定的に報じられる出来事として注目度が高かった。
しかし田中はそういう世間の騒動とは関係なく、自分のスタイルで仕事を続けている。田中は現場を好み、それまでもたびたび昇進を断ってきた。総合職に就くには営業など様々な現場を踏まねばならず、それよりも研究一本でいくことを好んだらしい。ノーベル賞受賞後、特例として役員待遇にしようとする島津製作所の打診も断っている。島津製作所はその意を汲むため、研究現場に留まれる「フェロー」という職位を新たに創設した。フェローでありながら取締役待遇に持ち上げられようとしたときも、「急に待遇が変わるのは好ましくない」と拒んでいる。
「自分は何のために研究をしているのか」をしっかりつかんでいる人は、環境の急変にも狼狽えない。仕事や研究を、自分の生活の中で堅実に位置づけている。
そういう余裕のある姿勢が、間違いから大発見をする快挙につながっているのだろう。視野狭窄に陥らず、発想の転換や価値観の逆転を厭わない。
田中は当時電車出勤をしており、いちばん前の車両に乗り、運転席から見える車窓を眺めることが日課だった。ノーベル賞受賞の記者会見の最中にかかってきた携帯電話に出て普通に会話したあと、記者団に「妻です」と照れたような笑いを浮かべた。
日頃から、自分の研究生活を支える心のゆとりを、常につくりあげていたことがよく分かる。
当時の科学的常識では、タンパク質のような大きな分子を壊さずに取り出すことは不可能とされていた。当然、そのような大きな分子は直接計量できない。それが製薬業界では大きな障害になっていた。
その技術者は、勤め先の企業でレーザー光線を使った分子量測定器の開発に取りかかる。
物質に高エネルギーのレーザー光線を充てると、熱されて超高温となり、イオン化する。このイオンを真空中で検出器まで飛ばすと、その飛行時間によって質量が分かる。軽い物質ほど検出器まで速く達し、重い物質ほど時間がかかる。「質量を、飛ばした時間で測る」というアイデアだ。
ところがひとつ問題があった。物質に直接レーザーを当てると、分子が壊れてしまう。そこで、レーザー光線をあてても分子構造が壊れないような技術の開発が必要となった。金属微粉末だけではうまく物質とは混ざらないので、何らかの溶剤に混ぜ合わせる必要がある。実験では、気化しやすいアセトンを溶剤として使うことになった。
あるとき、ビタミンB12のイオン化の実験中、その技術者はアセトンと間違えて、別の実験で使うはずだったグリセリンを混ぜてしまった。グリセリンはベトベトしているので、混ぜたときにすぐ分かる。
しかしその技術者は「もったいない」「せっかくだから」と、グリセリン溶液に溶かした物質をレーザー照射で実験してみた。
すると何と、見事に分子測定器がビタミンB12のイオン化信号を検出した。偶然ではあるが、実験は大成功。
その技術者は、その方法を「ソフトレーザー脱離イオン化法」としてまとめ、発表した。
2002年、その技術が評価され、ノーベル化学賞を受賞。

田中耕一(1959-)
島津製作所の技術者。大学院に行っておらず、当時博士号も取得していなかった。
「企業のいちサラリーマンがノーベル賞を受賞した」というニュースは世界を駆け巡り、莫大な研究費をつぎ込んでノーベル賞獲得に血道を上げている諸各国に衝撃を与えた。
田中はもともと大学で電子工学を専攻しており、化学は専門外だった。仕事をしている時も「専門外だから失敗しても許されるだろう」と気楽に考えていたそうだ。化学の常識を知らなかったことで、先入観に振り回されないことが多かった。
たとえば、実験対象の触媒を間違えても「まぁ、とりあえずやってみよう」という考え方は、化学屋の発想ではない。レーザー照射の実験は、設備使用を含めてかなりの費用がかかる。溶液を間違えたら、最初の計画通りの素材を作り直すのが普通だ。机上の計画通りに緻密にデータを取っていくのではなく、とりあえずいじってみる、とりあえず実験してみる、というのは、ものづくりに携わる工学系の発想だ。
そういう姿勢が、失敗を「ムダ」と切り捨てず、その中から意外な成果を挙げることにつながったのではないか。実験でも研究でも、基本的に事実そのものに無駄はない。それを切り捨てるか、有効活用するかは、判断する人間の側の問題だ。
ちなみに「もったいない」は田中の祖母の口癖で、幼少期からその言葉を聞きながら育ったそうだ。
人は追いつめられると、余裕がなくなる。まわりが見えなくなり、目的への最短距離に拘泥するようになる。そうなると、正道に入り込むちょっとしたノイズを嫌うようになり、ちょっと外れたところに求めるものが待ち構えていても、それが見えなくなってしまう。
ノーベル賞受賞時、その職人気質や、物欲・出世欲・金銭欲が無い謙虚な人柄が評判となり、報道が加熱した。当時の日本には明るいニュースが少なく、珍しく肯定的に報じられる出来事として注目度が高かった。
しかし田中はそういう世間の騒動とは関係なく、自分のスタイルで仕事を続けている。田中は現場を好み、それまでもたびたび昇進を断ってきた。総合職に就くには営業など様々な現場を踏まねばならず、それよりも研究一本でいくことを好んだらしい。ノーベル賞受賞後、特例として役員待遇にしようとする島津製作所の打診も断っている。島津製作所はその意を汲むため、研究現場に留まれる「フェロー」という職位を新たに創設した。フェローでありながら取締役待遇に持ち上げられようとしたときも、「急に待遇が変わるのは好ましくない」と拒んでいる。
「自分は何のために研究をしているのか」をしっかりつかんでいる人は、環境の急変にも狼狽えない。仕事や研究を、自分の生活の中で堅実に位置づけている。
そういう余裕のある姿勢が、間違いから大発見をする快挙につながっているのだろう。視野狭窄に陥らず、発想の転換や価値観の逆転を厭わない。
田中は当時電車出勤をしており、いちばん前の車両に乗り、運転席から見える車窓を眺めることが日課だった。ノーベル賞受賞の記者会見の最中にかかってきた携帯電話に出て普通に会話したあと、記者団に「妻です」と照れたような笑いを浮かべた。
日頃から、自分の研究生活を支える心のゆとりを、常につくりあげていたことがよく分かる。
現在は内閣府の総合科学技術会議の一員。日本の科学政策に多大な影響を与える存在。

