大学で、演習科目をいくつか受け持っている。
主に大学1, 2年生を対象としている授業で、内容は結構過酷なものだ。
まず、英語で発表させるという時点で、かなりの学生がふるい落とされる。
僕は授業内での発表で、原稿の棒読みを禁止している。原稿の棒読みというのは要するに情報のバラ撒きであって、発表とは言えない。棒読みをするくらいなら、あらかじめ録音した音声を教室で再生するか、いっそのこと原稿をコピーして配った方が効率的だ。
「発表する」ということがどういうことなのか、何のために行うものなのか、それが分かっていない発表はすべて落第点をつけている。
僕の演習授業は別に必修ではなく、希望する学生だけが履修すればいい授業なので、僕の演習科目を履修する学生さんは教室に来た時点でかなりやる気のある学生が多い。
別に対象となる学生さんは帰国子女でもなんでもなく、普通の高校で、普通の英語の授業を受け、普通に大学に入ってきたような、普通の大学生だ。学力はむしろ全国平均の大学生よりも下と言ってよい。
そういう学生さんたちに演習で英語の発表をやらせていると、1年かけてなんとか発表の形ができあがってくる。
自分の声で話ができるようになってくる。
最初は英語など全然できなかった学生さんが、間違えだらけの英語ながらも、堂々と失敗を怖れずに人前で話ができるようになってくる。
学生にそういう力をつけさせるために、僕がすることといえば、ほぼひとつのことしかない。
徹底的に褒めること。
僕は基本的に、学生の指導というものは、木登りと同じだと思う。
学生を一本の木に登らせようとするとき、下から鞭を振りかざし、ビシビシとプレッシャーをかける厳しい指導を行うと、学生はそもそも「はたして自分はこの木に登りたいのだろうか」という疑いをもってしまう。
登ることに嫌気がさし、覇気を失う。 そのうち、木を見るだけで嫌になる。
だから褒める。ひたすら褒める。10のうち9が悪い箇所だったとしても、それを無視して良かった1だけを徹底的に褒める。
木の上からの眺めは、下にいる学生からは見えない。木に登ったらどんな実が手に入るのか、どんな眺めが見えるのか、それを学生に吹き込み、登る意欲を沸き上がらせる。実際に自分がするすると木に登るところを見せてやる必要もある。
学生というものは基本的に、おだてて調子に乗せれば、木にだって、岩にだって、山にだって登るものだ。
人間がある能力に覚醒するとき、その必要条件は、「内側からの動機付けに支えられる」ということだと思う。
「やらされている」という意識で取り組んでいる限り、能力は絶対に身に付かない。自分の内側から沸き上がってくる衝動に取り憑かれたとき、本当の成長が齎されるものだと思う。
面白いからやる、好きだからやる、やりたいからやる、そういう欲求が学生ひとりひとりに満タンにチャージされない限り、どんな指導も無駄だろう。
だから、中途半端な優等生が一番困る。
優等生というのは、要するに「外的な動機付けに支えられて行動する学生」のことだ。強烈な欲求に突き動かされて授業に出てくるのではなく、「授業に出なければいけないから」「出席しなければ単位がもらえないから」という、義務感だけで授業に出てくる。先生の言うことを全部覚えればいい成績がもらえると思っている。行動原理が、すべて自分以外の外側で決められている。
中学、高校まではそういう良い子ちゃんで通用したかもしれないが、大学より先の世界ではそんな姿勢では通用しない。それは「自分は何がしたいのか」、ひいては「自分は何のために生きるのか」という、自分主体で生きる姿勢をつくりあげていないからだ。自分と向かい合って自分の欲求を明確にする手間を怠り、他人から与えられる評価の基準に沿って楽に生きて行こうとする、非常に怠惰な姿勢だ。僕は学生に対して「優等生」「真面目」という言葉を、褒め言葉としては使わない。
自分の人生は自分のものだ。他人から与えられるものではない。その当たり前のことに気付いていれば、それを作り上げるような授業の受け方になるはずだ。
学生が就職活動する時期になっても、企業側が何を求めているか、どんな人材が欲しいのか、分からない学生が多い。はじめて「自主性」「自己指導力」「セルフ・マネジメント」という概念に直面し、途方に暮れる学生が多い。
就職ガイダンスに出ても虎の巻を熟読しても、そんな資質は一朝一夕には身に付かない。せいぜいサークル活動の実績を並べてお茶を濁す程度だろう。
同世代間の集まりでリーダーになったところで、何の自慢にもならない。本当の自主性とは、サークル活動のような組織的な活動によって外側から補完されるものではあるまい。
本当の自主性を身につけるには、別に自己啓発セミナーを受ける必要も、特殊な講座を受ける必要もない。
日頃受けている大学の授業のなかで、その分野の魅力を少しでも感じ取ろうとする姿勢があれば良い。どんな分野の学問でも、どんな退屈な授業でも、授業を担当している先生はその分野に一生を捧げている人なのだ。その授業は、少なくともひとりの人間を一生の虜にした魅力のある分野なのだ。
その先生は、その学問のどこに魅力を感じて道を志したのか。それを感じ取り、その感性を盗み取る姿勢で授業を受けていれば、退屈な授業など無い。
蓋し、能力を身につけれられるか否かは、環境の条件で決まるものではない。それを受ける人の側で決まるものだと思う。
1990年代の半ば、マイクロソフト社は来るべきインターネット時代を睨み、電子空間上の巨大頭脳を作り上げるプロジェクトを立ち上げた。Encarta(「エンカルタ」)という百科事典の作成だ。
マイクロソフトは金に糸目をつけず、何千という専門家に高額の報酬で百科事典の執筆を依頼した。世界中の知能を集結し、つねにアップデート可能な柔軟性の高い百科事典を作り上げる、壮大な構想だった。
一方、その数年後に、まったく別のビジネスモデルで電子百科事典を制作するプロジェクトがスタートした。マイクロソフトのEncartaとは異なり、こちらの百科事典には執筆の報酬として、1ドル、1ユーロ、1円たりとも支払われない。まったくの無報酬だ。
しかも、執筆者はその道の専門家だけではない。地球上のすべての人が執筆者となり得た。執筆者は、報酬が目的で書くのではない。ひとつの分野について一家言ある者が集い、執筆し、編集し、まったくのボランティアで制作する。
当時、このふたつの百科事典プロジェクトを比べて、どちらが生き残ると予測されていただろうか。
一方は一流の研究者、高額の報酬。片や無償ボランティアの一般市民。
専門家でなくとも、誰の眼にも明らかに前者のプロジェクトのほうが有望と写った。
しかし実際には、マイクロソフトのEncartaプロジェクトは暗礁に乗り上げる。執筆と編集は思うように進まず、2009年3月31日、ついにマイクロソフト社はEncartaの打ち切りを発表した。
一方、後者のプロジェクトはその後も発展を続け、現在ではWikipediaといえばインターネット百科事典としての地位を不動のものとしている。
Wikipediaを支える原理は単純だ。書きたい者が書く。
義務でも仕事でも何でもない。ひとつの分野について、ある項目について、熱く語る意欲を持つ者だけが、そのプロジェクトに参加する。
その「内側からの衝動」がもたらす成果の凄まじさは、Wikipediaめぐりで夜を徹してしまった経験をもつ者ならば、誰もが肯んじるものだろう。
Encartaのように、報酬や締切といった、飴と鞭による「外側からの動機付け」では、自ずと限界がある、ということだろう。Encartaの記述は、いわゆる仕事に過ぎない。ノルマを果たすための、義務的な記述という観がある。
一方、Wikipediaのほうは、たとえ専門家でなくとも、プロでなくとも、その分野に深く精通し、その分野の情報を広く世に知らしめたいという、情熱に支えられている。Wikipediaを閲覧していつの間にか夜が更けてしまった、という経験をもつ人は多いと思う。それはすなわち、Wikipediaの記事が、なによりも「面白い」という事実の証左なのだ。義務感だけでつくりあげた記事にできることではない。書く側が面白く感じていなければ、読む側も面白くは読めない。 何の得にならなくても、「書きたいから」という欲求に裏打ちされた「内側からの動機付け」に基づく活動には、容易には潰えないエネルギーがある。
「最近の大学生は学力も意欲も低い」というありふれた苦言がある。
正直、現在大学で教えていて、僕はそうは思わない。むしろ、本気になった学生の吸収力を見ると、空恐ろしくなる。
最近の学生の学力を云々言う大人は、要するに学生の資質を充分に引き出すことができていないだけではないか。そういう苦言を呈する先生はほぼ例外なく、「じゃあ学生にはどんな良いところがありますか」と訊くと、答えられない。悪いところばかり目についている。
学生を褒めるためには、ごく稀にちらっと顔を出す「良いところ」を見逃さないために、常に学生を見ている必要がある。学生の姿勢と能力は、それを教える側の能力を映し出す鏡であることを、肝に銘じるべきではあるまいか。
主に大学1, 2年生を対象としている授業で、内容は結構過酷なものだ。
まず、英語で発表させるという時点で、かなりの学生がふるい落とされる。
僕は授業内での発表で、原稿の棒読みを禁止している。原稿の棒読みというのは要するに情報のバラ撒きであって、発表とは言えない。棒読みをするくらいなら、あらかじめ録音した音声を教室で再生するか、いっそのこと原稿をコピーして配った方が効率的だ。
「発表する」ということがどういうことなのか、何のために行うものなのか、それが分かっていない発表はすべて落第点をつけている。
僕の演習授業は別に必修ではなく、希望する学生だけが履修すればいい授業なので、僕の演習科目を履修する学生さんは教室に来た時点でかなりやる気のある学生が多い。
別に対象となる学生さんは帰国子女でもなんでもなく、普通の高校で、普通の英語の授業を受け、普通に大学に入ってきたような、普通の大学生だ。学力はむしろ全国平均の大学生よりも下と言ってよい。
そういう学生さんたちに演習で英語の発表をやらせていると、1年かけてなんとか発表の形ができあがってくる。
自分の声で話ができるようになってくる。
最初は英語など全然できなかった学生さんが、間違えだらけの英語ながらも、堂々と失敗を怖れずに人前で話ができるようになってくる。
学生にそういう力をつけさせるために、僕がすることといえば、ほぼひとつのことしかない。
徹底的に褒めること。
僕は基本的に、学生の指導というものは、木登りと同じだと思う。
学生を一本の木に登らせようとするとき、下から鞭を振りかざし、ビシビシとプレッシャーをかける厳しい指導を行うと、学生はそもそも「はたして自分はこの木に登りたいのだろうか」という疑いをもってしまう。
登ることに嫌気がさし、覇気を失う。 そのうち、木を見るだけで嫌になる。
だから褒める。ひたすら褒める。10のうち9が悪い箇所だったとしても、それを無視して良かった1だけを徹底的に褒める。
木の上からの眺めは、下にいる学生からは見えない。木に登ったらどんな実が手に入るのか、どんな眺めが見えるのか、それを学生に吹き込み、登る意欲を沸き上がらせる。実際に自分がするすると木に登るところを見せてやる必要もある。
学生というものは基本的に、おだてて調子に乗せれば、木にだって、岩にだって、山にだって登るものだ。
人間がある能力に覚醒するとき、その必要条件は、「内側からの動機付けに支えられる」ということだと思う。
「やらされている」という意識で取り組んでいる限り、能力は絶対に身に付かない。自分の内側から沸き上がってくる衝動に取り憑かれたとき、本当の成長が齎されるものだと思う。
面白いからやる、好きだからやる、やりたいからやる、そういう欲求が学生ひとりひとりに満タンにチャージされない限り、どんな指導も無駄だろう。
だから、中途半端な優等生が一番困る。
優等生というのは、要するに「外的な動機付けに支えられて行動する学生」のことだ。強烈な欲求に突き動かされて授業に出てくるのではなく、「授業に出なければいけないから」「出席しなければ単位がもらえないから」という、義務感だけで授業に出てくる。先生の言うことを全部覚えればいい成績がもらえると思っている。行動原理が、すべて自分以外の外側で決められている。
中学、高校まではそういう良い子ちゃんで通用したかもしれないが、大学より先の世界ではそんな姿勢では通用しない。それは「自分は何がしたいのか」、ひいては「自分は何のために生きるのか」という、自分主体で生きる姿勢をつくりあげていないからだ。自分と向かい合って自分の欲求を明確にする手間を怠り、他人から与えられる評価の基準に沿って楽に生きて行こうとする、非常に怠惰な姿勢だ。僕は学生に対して「優等生」「真面目」という言葉を、褒め言葉としては使わない。
自分の人生は自分のものだ。他人から与えられるものではない。その当たり前のことに気付いていれば、それを作り上げるような授業の受け方になるはずだ。
学生が就職活動する時期になっても、企業側が何を求めているか、どんな人材が欲しいのか、分からない学生が多い。はじめて「自主性」「自己指導力」「セルフ・マネジメント」という概念に直面し、途方に暮れる学生が多い。
就職ガイダンスに出ても虎の巻を熟読しても、そんな資質は一朝一夕には身に付かない。せいぜいサークル活動の実績を並べてお茶を濁す程度だろう。
同世代間の集まりでリーダーになったところで、何の自慢にもならない。本当の自主性とは、サークル活動のような組織的な活動によって外側から補完されるものではあるまい。
本当の自主性を身につけるには、別に自己啓発セミナーを受ける必要も、特殊な講座を受ける必要もない。
日頃受けている大学の授業のなかで、その分野の魅力を少しでも感じ取ろうとする姿勢があれば良い。どんな分野の学問でも、どんな退屈な授業でも、授業を担当している先生はその分野に一生を捧げている人なのだ。その授業は、少なくともひとりの人間を一生の虜にした魅力のある分野なのだ。
その先生は、その学問のどこに魅力を感じて道を志したのか。それを感じ取り、その感性を盗み取る姿勢で授業を受けていれば、退屈な授業など無い。
蓋し、能力を身につけれられるか否かは、環境の条件で決まるものではない。それを受ける人の側で決まるものだと思う。
1990年代の半ば、マイクロソフト社は来るべきインターネット時代を睨み、電子空間上の巨大頭脳を作り上げるプロジェクトを立ち上げた。Encarta(「エンカルタ」)という百科事典の作成だ。
マイクロソフトは金に糸目をつけず、何千という専門家に高額の報酬で百科事典の執筆を依頼した。世界中の知能を集結し、つねにアップデート可能な柔軟性の高い百科事典を作り上げる、壮大な構想だった。
一方、その数年後に、まったく別のビジネスモデルで電子百科事典を制作するプロジェクトがスタートした。マイクロソフトのEncartaとは異なり、こちらの百科事典には執筆の報酬として、1ドル、1ユーロ、1円たりとも支払われない。まったくの無報酬だ。
しかも、執筆者はその道の専門家だけではない。地球上のすべての人が執筆者となり得た。執筆者は、報酬が目的で書くのではない。ひとつの分野について一家言ある者が集い、執筆し、編集し、まったくのボランティアで制作する。
当時、このふたつの百科事典プロジェクトを比べて、どちらが生き残ると予測されていただろうか。
一方は一流の研究者、高額の報酬。片や無償ボランティアの一般市民。
専門家でなくとも、誰の眼にも明らかに前者のプロジェクトのほうが有望と写った。
しかし実際には、マイクロソフトのEncartaプロジェクトは暗礁に乗り上げる。執筆と編集は思うように進まず、2009年3月31日、ついにマイクロソフト社はEncartaの打ち切りを発表した。
一方、後者のプロジェクトはその後も発展を続け、現在ではWikipediaといえばインターネット百科事典としての地位を不動のものとしている。
Wikipediaを支える原理は単純だ。書きたい者が書く。
義務でも仕事でも何でもない。ひとつの分野について、ある項目について、熱く語る意欲を持つ者だけが、そのプロジェクトに参加する。
その「内側からの衝動」がもたらす成果の凄まじさは、Wikipediaめぐりで夜を徹してしまった経験をもつ者ならば、誰もが肯んじるものだろう。
Encartaのように、報酬や締切といった、飴と鞭による「外側からの動機付け」では、自ずと限界がある、ということだろう。Encartaの記述は、いわゆる仕事に過ぎない。ノルマを果たすための、義務的な記述という観がある。
一方、Wikipediaのほうは、たとえ専門家でなくとも、プロでなくとも、その分野に深く精通し、その分野の情報を広く世に知らしめたいという、情熱に支えられている。Wikipediaを閲覧していつの間にか夜が更けてしまった、という経験をもつ人は多いと思う。それはすなわち、Wikipediaの記事が、なによりも「面白い」という事実の証左なのだ。義務感だけでつくりあげた記事にできることではない。書く側が面白く感じていなければ、読む側も面白くは読めない。 何の得にならなくても、「書きたいから」という欲求に裏打ちされた「内側からの動機付け」に基づく活動には、容易には潰えないエネルギーがある。
「最近の大学生は学力も意欲も低い」というありふれた苦言がある。
正直、現在大学で教えていて、僕はそうは思わない。むしろ、本気になった学生の吸収力を見ると、空恐ろしくなる。
最近の学生の学力を云々言う大人は、要するに学生の資質を充分に引き出すことができていないだけではないか。そういう苦言を呈する先生はほぼ例外なく、「じゃあ学生にはどんな良いところがありますか」と訊くと、答えられない。悪いところばかり目についている。
学生を褒めるためには、ごく稀にちらっと顔を出す「良いところ」を見逃さないために、常に学生を見ている必要がある。学生の姿勢と能力は、それを教える側の能力を映し出す鏡であることを、肝に銘じるべきではあるまいか。
1年前とは別人のように成長する学生を見てると、なんか負けた気がする。