ギャンブルをやらない。
もともと学生生活が長かったこともあり、博打なんぞにお金をつぎ込むヒマがなかったということもある。
しかし、僕は性格的に博打には向かないらしい。少なくとも、博打で「儲けよう」という発想がない。
アメリカにいた頃は彼女(今の嫁)をつれてカジノへ遊びにいったこともあったが、それとて「単位時間をお金で買う遊戯」くらいに思っていた。ここまでなら使ってもいい、という金額を負けきったらそれで終わり、という、なんとも優等生的な遊び方だ。基本的に気が小さいのだろう。
日本では江戸時代から丁半博打という伝統の博打がある。時代劇でお馴染みの、いわゆる壷振りである。個人的な趣味としては、壷振りは妖艶なお姐さんが白い腿をチラチラさせるのが好みだ。
壷にサイコロをふたつ入れ、床に伏せる。その2つの目の合計が、偶数(丁)か奇数(半)かを賭ける遊びだ。「思う壷」という言葉はここから来ている。
このようなサイコロ賭博が、数学の一分野である確率論をつくる契機になったことは、常識の範囲に属するだろう。中世イタリアでは、すでにこうしたサイコロ賭博を数学的な概念によって説明する方法論が確立していた。
中世イタリアのバージョンでは、サイコロを3つ使っていたらしい。よく問題になっていたのは、目の合計が9になるのと、10になるのとでは、どちらが有利なのか、ということだった。
直感的に考えると、9になるのも10になるのも、どちらも同じように思える。
しかし、プロの賭博師たちは経験から、「どうやら10に賭けたほうが有利らしい」という実感があった。これはどういうことなのか。
疑問に思った賭博師たちは、当時最高の数学者だったガリレオ・ガリレイに相談した。昔のこととはいえ、ガリレイはこんな気安く相談を持ちかけられるような存在だったのだろうか。むかしは著名人と一般市民の間の垣根が、今よりも低かったのかもしれない。
ガリレイは思考実験と実際の実験を繰り返し、賭博師たちの誤謬を発見した。
賭博師たちの誤りは、「3つのサイコロを区別していない」というところにある。
たとえば、(6, 2, 1)という目の組み合わせと、(3, 3, 3)の組み合わせは、どちらがたくさん出るか。
ちょっとサイコロを振ってみれば、(6, 2, 1)のほうが多く出ることは簡単に分かる。これは数学的に考えれば、「3つのサイコロを別々に考える必要がある」ということに気付けば分かる。
(3, 3, 3)の場合、3つのサイコロがすべてぴしっと3を出さなければならない。
ところが(6, 2, 1)の場合、3つのサイコロそれぞれが、どの目を出すのかによって、いくつかのパターンがある。たとえば、サイコロをそれぞれ(A, B, C)という別々の名前をつけると、(6, 2, 1), (6, 1, 2), (2, 6, 1), (2, 1, 6), (1, 6, 2), (1, 2, 6)の6通りがある。
つまり、(6, 2, 1)のほうが6倍出やすいことになる。
このように、三つのサイコロそれぞれがどの目を出すのかを丁寧に数え上げれば、3つの和が9になる場合と10になる場合がそれぞれ分かる。合計が9になるのは25通り、10になるのは27通りある。
確率に直すと、9になるのは25/216, 10になるのは27/216となる。
ガリレイのこの立証によって、9に賭けるよりも10に賭けるほうが有利であることが示された。
僕がこの話で凄いと思うのは、ほんの日常的なできごとを数学的思考で解き明かしたガリレイの能力ではない。それはそれで十分に凄いことだが、ガリレイの夥しい業績の数々に比べれば、それほどのことでもない。彼の仕事のなかでそれほど際立ったものとは思えない。
3つのサイコロの目が9になるのか10になるのかの違いは、確率としては2/216の違いでしかない。この誤差は1パーセントにも満たない。
僕が驚くのは、これほどわずかな確率の違いを、賭博師たちは実感として掴んでいたという事実だ。こんなわずかな違いを実感するには、相当な数の試技を繰り返す必要があるだろう。この実感に辿り着くまでに、賭博師たちはどれほどの勝負を繰り返してきたのか。それを想像するだけで慄然とする。
科学はたしかに世の中のしくみを解き明かす方法論のひとつだが、やたらに理論を振りかざして生活実感を冷笑する科学至上主義には関心できない。科学の成果を絶対的な世界のルールと看做し、経験からくる実感をあまりに軽視する姿勢では、たいした発見はできないと思う。
科学が世の中のしくみを明らかにするものである以上、その成果は再び、世の中のあり方にかかわる実感に還元されるべきものだと思う。実感の伴わない勉強が身に付かないのと同様に、世の中に対する感覚から背を向けすぎる態度もまた、科学本来の目的からすれば本末転倒だと思う。
イギリスの医学者ジェンナーは、当時猛威を振るっていた天然痘の原因究明に苦心していた。天然痘は全身に発疹ができ、顔にまで紫黒く醜い疱瘡ができる。運良く死を免れたとしても、顔の跡は一生残る。
ある日、ジェンナーは自分の療養所に診察にきていた牛痘患者の娘から妙な話を聞く。「わたしは牛痘にかかったから、もう天然痘にはかからないわね」という。牛痘は酪農を営む農家によく見られる病気で、両手に白い発疹ができるが、すぐに完治する。顔には発疹は表れない。当時「牛痘にかかったから天然痘にはかからない」という迷信が流布していた。
ジェンナーはこれを真に受け、牛痘の接種によって天然痘を防ぐ方法を研究し、確立した。ある病気の菌が他の病気の予防に効くなど、当時の常識としては考えられないことだった。しかし、天然痘が大流行していた当時において、地域住民の生活実感は科学的に正しい直感だった。
ガリレイの確率論も、僕にとっては「賭博師の疑問を、ガリレイが解き明かした」というよりも、「ガリレイの理論によって、賭博師たちの直感の正しさが立証された」と見える。
科学の研究にとっても最も重要なことは、謎を解くことではない。謎を見つけることだ。ガリレイは賭博師からもちかけられた謎を解いたが、その謎に気付いたのは賭博師のほうだ。216分の2という僅かな誤差に気付かない賭博師だったら、そもそもそのような疑問をもつこともなかっただろう。
大学で教えていると、学生は課題を「答えをだすもの」と思い込んでいる節がある。世の中には、確たる答えなどない問題のほうが多い。そもそも、取り組むべき問題を自分で見つけるほうが重要であることに、なかなか気付かない。ひとつの分野に真剣に取り組み、結果を顧みて真摯に取り組む気持ちがあれば、216分の2というわずかな誤差も見えるものなのだろう。
博打に真摯に取り組むというのも変な話ですが
もともと学生生活が長かったこともあり、博打なんぞにお金をつぎ込むヒマがなかったということもある。
しかし、僕は性格的に博打には向かないらしい。少なくとも、博打で「儲けよう」という発想がない。
アメリカにいた頃は彼女(今の嫁)をつれてカジノへ遊びにいったこともあったが、それとて「単位時間をお金で買う遊戯」くらいに思っていた。ここまでなら使ってもいい、という金額を負けきったらそれで終わり、という、なんとも優等生的な遊び方だ。基本的に気が小さいのだろう。
日本では江戸時代から丁半博打という伝統の博打がある。時代劇でお馴染みの、いわゆる壷振りである。個人的な趣味としては、壷振りは妖艶なお姐さんが白い腿をチラチラさせるのが好みだ。
壷にサイコロをふたつ入れ、床に伏せる。その2つの目の合計が、偶数(丁)か奇数(半)かを賭ける遊びだ。「思う壷」という言葉はここから来ている。
このようなサイコロ賭博が、数学の一分野である確率論をつくる契機になったことは、常識の範囲に属するだろう。中世イタリアでは、すでにこうしたサイコロ賭博を数学的な概念によって説明する方法論が確立していた。
中世イタリアのバージョンでは、サイコロを3つ使っていたらしい。よく問題になっていたのは、目の合計が9になるのと、10になるのとでは、どちらが有利なのか、ということだった。
直感的に考えると、9になるのも10になるのも、どちらも同じように思える。
しかし、プロの賭博師たちは経験から、「どうやら10に賭けたほうが有利らしい」という実感があった。これはどういうことなのか。
疑問に思った賭博師たちは、当時最高の数学者だったガリレオ・ガリレイに相談した。昔のこととはいえ、ガリレイはこんな気安く相談を持ちかけられるような存在だったのだろうか。むかしは著名人と一般市民の間の垣根が、今よりも低かったのかもしれない。
ガリレイは思考実験と実際の実験を繰り返し、賭博師たちの誤謬を発見した。
賭博師たちの誤りは、「3つのサイコロを区別していない」というところにある。
たとえば、(6, 2, 1)という目の組み合わせと、(3, 3, 3)の組み合わせは、どちらがたくさん出るか。
ちょっとサイコロを振ってみれば、(6, 2, 1)のほうが多く出ることは簡単に分かる。これは数学的に考えれば、「3つのサイコロを別々に考える必要がある」ということに気付けば分かる。
(3, 3, 3)の場合、3つのサイコロがすべてぴしっと3を出さなければならない。
ところが(6, 2, 1)の場合、3つのサイコロそれぞれが、どの目を出すのかによって、いくつかのパターンがある。たとえば、サイコロをそれぞれ(A, B, C)という別々の名前をつけると、(6, 2, 1), (6, 1, 2), (2, 6, 1), (2, 1, 6), (1, 6, 2), (1, 2, 6)の6通りがある。
つまり、(6, 2, 1)のほうが6倍出やすいことになる。
このように、三つのサイコロそれぞれがどの目を出すのかを丁寧に数え上げれば、3つの和が9になる場合と10になる場合がそれぞれ分かる。合計が9になるのは25通り、10になるのは27通りある。
確率に直すと、9になるのは25/216, 10になるのは27/216となる。
ガリレイのこの立証によって、9に賭けるよりも10に賭けるほうが有利であることが示された。
僕がこの話で凄いと思うのは、ほんの日常的なできごとを数学的思考で解き明かしたガリレイの能力ではない。それはそれで十分に凄いことだが、ガリレイの夥しい業績の数々に比べれば、それほどのことでもない。彼の仕事のなかでそれほど際立ったものとは思えない。
3つのサイコロの目が9になるのか10になるのかの違いは、確率としては2/216の違いでしかない。この誤差は1パーセントにも満たない。
僕が驚くのは、これほどわずかな確率の違いを、賭博師たちは実感として掴んでいたという事実だ。こんなわずかな違いを実感するには、相当な数の試技を繰り返す必要があるだろう。この実感に辿り着くまでに、賭博師たちはどれほどの勝負を繰り返してきたのか。それを想像するだけで慄然とする。
科学はたしかに世の中のしくみを解き明かす方法論のひとつだが、やたらに理論を振りかざして生活実感を冷笑する科学至上主義には関心できない。科学の成果を絶対的な世界のルールと看做し、経験からくる実感をあまりに軽視する姿勢では、たいした発見はできないと思う。
科学が世の中のしくみを明らかにするものである以上、その成果は再び、世の中のあり方にかかわる実感に還元されるべきものだと思う。実感の伴わない勉強が身に付かないのと同様に、世の中に対する感覚から背を向けすぎる態度もまた、科学本来の目的からすれば本末転倒だと思う。
イギリスの医学者ジェンナーは、当時猛威を振るっていた天然痘の原因究明に苦心していた。天然痘は全身に発疹ができ、顔にまで紫黒く醜い疱瘡ができる。運良く死を免れたとしても、顔の跡は一生残る。
ある日、ジェンナーは自分の療養所に診察にきていた牛痘患者の娘から妙な話を聞く。「わたしは牛痘にかかったから、もう天然痘にはかからないわね」という。牛痘は酪農を営む農家によく見られる病気で、両手に白い発疹ができるが、すぐに完治する。顔には発疹は表れない。当時「牛痘にかかったから天然痘にはかからない」という迷信が流布していた。
ジェンナーはこれを真に受け、牛痘の接種によって天然痘を防ぐ方法を研究し、確立した。ある病気の菌が他の病気の予防に効くなど、当時の常識としては考えられないことだった。しかし、天然痘が大流行していた当時において、地域住民の生活実感は科学的に正しい直感だった。
ガリレイの確率論も、僕にとっては「賭博師の疑問を、ガリレイが解き明かした」というよりも、「ガリレイの理論によって、賭博師たちの直感の正しさが立証された」と見える。
科学の研究にとっても最も重要なことは、謎を解くことではない。謎を見つけることだ。ガリレイは賭博師からもちかけられた謎を解いたが、その謎に気付いたのは賭博師のほうだ。216分の2という僅かな誤差に気付かない賭博師だったら、そもそもそのような疑問をもつこともなかっただろう。
大学で教えていると、学生は課題を「答えをだすもの」と思い込んでいる節がある。世の中には、確たる答えなどない問題のほうが多い。そもそも、取り組むべき問題を自分で見つけるほうが重要であることに、なかなか気付かない。ひとつの分野に真剣に取り組み、結果を顧みて真摯に取り組む気持ちがあれば、216分の2というわずかな誤差も見えるものなのだろう。

