嫁が中島みゆきが好きでして。
CDを大量に持っています。
僕は大学勤めなので毎日が出勤日というわけではなく、部屋で仕事をすることがよくあります。
そういうときには嫁のCDラックから勝手に持ち出してきて、音楽をかけながら仕事をしています。
中島みゆきはしっとりとした曲が多いのでいいですね。
その中島みゆきの曲のなかに、僕が好きな「あした」という曲があります。
ここからいきなり話が無粋になって申し訳ないのですが、僕はいつも「あした」のこの部分を聞くと、『省察』と『方法序説』にみるデカルトの思考の方法論における主観性の強さを思い出すんです。

中島みゆきではない
ルネ・デカルト(Rene Descartes, 1596-1650)。
『方法序説』『省察』などの著書で、「考えるとはどういうことか」を追求して考えた。
その方法論は後世に影響を与え、「近代哲学の父」と呼ばれている。
デカルトは「近代哲学の父」であって、「近代科学の父」ではない。
真実を探り事実を把握する方法を欲して、有史以来、人は知の技術を磨き上げてきた。その方法論の体系は一般的に「哲学」として括られている。個々の人々がよく考え、数々の叡智が生まれた。
のちに再現性と継続性を備え、後世にバトンリレーしながら同じ方法論を継続していける、人類としての知の体系をつくりだす「科学」という方法論が編み出された。科学の黎明期には、従来の哲学でいわれてきた知の遺産を、科学の言語で読み替える膨大な試みが行われた。
デカルトはちょうどその過渡期に活躍した。同時代には近代科学の方法論をつくりあげたガリレオがおり、デカルトはその同じ時代に別系統の「真理を探る方法」を模索していた。
ものものしい「方法序説」なる本をいま読んでみると、びっくりする。嘘ばっかり書いてある。さももっともらしく、渦動論的宇宙論、粒子衝突、エーテル触媒などを「真理」として書いてあるが、そのほとんどは現代の科学研究において全面否定されている。
「真理の探求方法の確立」が聞いてあきれる。デカルトがどんな方法論を編み出し、どんなにその正当性を主張しようと、その方法論によって生み出された知見が事実に反するのであれば話にならない。中学・高校くらいで『方法序説』を読む少年少女は、あの本を決して「すばらしい真実が書いてある本」などと思ってはいけない。内容を理解したら「こいつバカじゃねぇの?」と感じるのが正しい。
そうした「誤った知識」を引き出してしまったデカルトの方法論とは、どういうものだったのか。
一言でいえば、経験、事実、実験に一切頼らず、理性による「思索と省察」によってのみ事実は導ける、という態度だ。
近代科学の方法論とは正反対と言ってよい。
我々は世界をあるがままに見て、あるがままに認識していると思い込んでいるが、実は我々が見ている世界は、どこかの悪魔が我々をたぶらかして見せている幻かもしれない。
たとえ愛している女性がとても美しく見えても、それは単なる幻で、実はその女性はたいした面相ではないのかもしれない。
まぁそれはよくある話のようだが
では、どうすればそうした幻を排して、「本当の真実」を知ることができるのか。
世の中の姿を一切信用せず、とりあえず全て疑うことから出発する。そう考えて、「ニセモノのこの世の中で、これこれがこうだったら、どうなるだろうか」という仮想世界での思考を行う。これを思考実験という。
人間が他人を愛するのは、もしかしたら本質とは関係ない偽りの姿に魅入られているのかもしれない。だとすると、仮に相手が人の心をもたないネコだったとしても愛することができるのか。自分にとって何の得もないネコ相手でも、愛することができるのか。こういう思考実験をすることによって、「自分は相手を何に惹かれているのか」を認識することができる。
しかし、そういう方法論をとると、最初の出発点をどこに求めればいいのか。世の中がすべて偽りの姿をしており、我々の知識がすべて偽りのものだとしたら、思考の根源、理性の出発点をどこに据えればいいのか。
デカルトの答えが振るっている。見たり聞いたりすることはすべて嘘かもしれない。疑おうと思えばいくらでも疑うことができる。しかし、「いまそう疑っている自分自身の存在だけは、疑いようがない事実だ」と考えることができる。だから「自分の存在」から生まれる「自分の理性」を出発点にすればよい。
俗に「我思う、ゆえに我あり」として知られる思考の出発点だ。
ふざけているとしか思えない。主観性を廃し、徹底的に客観性を求めた挙げ句に行き着いた先が「オレ様がこう思うから正しいに決まってる」という演繹法だ。一般的な命題、抽象的な命題、包括的な原理から、個別の原理や命題を思考の力だけで導きだせる、とする。経験や実験は一切いらない。学校の社会の教科書では「大陸合理論」として載っている思考の方法論だ。
この方法論が合っているか間違っているかは、その方法によって導き出された知見のほとんどが間違っているという事実によって評価できるだろう。
『方法序説』の中には、デカルトが定めている「真実に至るための方法」として四か条が定めてある。
曰く、
(1) 「明晰かつ判明」に考えろ
(2) 分からなかったらバラして考えろ
(3) バラしたやつのうち、簡単なやつから考えろ
(4) 可能性を数え上げ、ちゃんと吟味しろ
このうち一番大事な(1)について、デカルトはこう言っている。
お前は何様だというレベルの言明だ。「注意深く即断と偏見を避け」などと真実に慎重で、懐疑的な姿勢をみせておきながら、判断の基準になるものが「オレが正しいと思えば、それでよし」では大して変わりはない。
デカルトが言っている自己中心的な真理の追究法は、その信頼性が「それじゃあ、お前の理性ってのは完全無欠なのか」という一点に懸かっている。デカルトはその完全性に、神の存在を持ち出した。「神の誠実」に基づいて「私」が存在している。だから「私の存在」は確かなものだ。かように「私の存在」は完全なものだから、私の理性が導き判断したことは、真実として主張することができる。
まるで新興宗教の教祖だ。ものの考え方としては「そう思うんだったら、そう思えばいいんじゃないですか」というレベルで済む話に過ぎない。
デカルトはやたらに論理を重視する体裁でものを書いているが、その論理にはかなりの飛躍と独断性がある。神の存在なんてものは実証不可能なものだから、真理に到達するシステマチックな方法論に組み込むことはできない。そんなこと、理性で考えれば真っ先に排除できそうなものだ。
思索の主観性という泥沼にはまりこんだデカルトは、さまざまな頓珍漢な「理論」を生み出した。今では否定されている渦動論的宇宙論や粒子衝突などは、デカルトの理性にとっては「明晰かつ完璧な真実」だった。『省察』や『方法序説』を読むと、「オレ基準で正しいこと」を羅列するという中2病の典型症状を見ることができる。
公平に哲学史を眺めると、現在、思考の方法論として広く採用されているのは経験論のほうだろう。デカルトをはじめとする合理論信者は、「経験とは個別的なものであって、普遍の真理には到達できない」と非難していた。しかし、現在の科学の方法論は、再現性を保証する事によって個別経験の誤差を解消している。100%の客観性というのはそもそも不可能だが、それに近づける方法論が確立している。合理論からの非難である「経験の個別性」は、技術と方法論で解消できる類いの欠点であって、本質的な致命傷ではない。
ところが合理論の欠点は、付け焼き刃ではどうしようもない致命的なものだった。我思おうが故に我あろうが、世の中には多数の自我が存在する。その無数の自我が、それぞれ神という存在によって保証されているとしたら、人の数だけ真理が存在する。
日常生活の論理としては、それで正しいのかもしれない。しかし普遍の真理を探る方法論としては屑だろう。
かように胡散臭いデカルトの方法論だが、その方法論に関して僕は複雑な印象をもっている。
方法論として間違っているのは間違いない。少なくとも、大学という場で研究をする立場として、学生に教えるべき思考の方法論ではない。
大学でデカルトの方法論を引き合いに出すときには、いちばん最初の最初、「すべてを疑え」という部分しか使えない。
自分のテーマで研究をしていると、よく「従来の問題点を一刀両断にするアイデアの閃き方、常識にとらわれない爆発力のある思考力というのは、どうやって身に付くんだろう」と考えることがある。
自分が取り組んでいる謎を解決する方法が、システマチックな方法論として体系化されていたら、どんなに楽だろう。そんな魔法のような方法論はないものか。
誰でも答えは知っている。そんなものはない。
しかし研究者の生活実感として、そういう方法論への憧憬は、絶えることなく、浮かんでは消えるものだろう。
特に、学会に論文を出す前の期間などは、そういう方法論を得るためなら、ドラえもんだって飼ってやる気になってしまう。
デカルトの業績のなかで、どうしても無視できない凄い業績がある。
従来、ものの形や図形を扱う幾何学と、数のしくみを扱う代数学は、まったく別物と考えられていた。数学が苦手な人でも、中学の頃の図形問題は好きだった、という人も多いだろう。
デカルトはこの別物の分野を融合させた。幾何的図形を「点の集合」と定義して平面上に配置し、それぞれの位置関係を数式で表す方法を編み出した。いわゆる直交座標軸の発明だ。
この座標の発明により、空間内での物体の運動は、座標軸によって構成される空間内での点の集合としての数学的な曲線として扱えるようになった。つまり、物体運動はその曲線を表す数式によって表せる。いまでも数学では座標のことを「デカルト座標」、座標空間のことを「デカルト空間」という。
このデカルトの業績によって、近代物理学は物体の運動を数学の言葉で記述することが可能になった。
数学史を紐解くと、どんな発見も歴史的な流れでの必然性がある。先人が知識を積み重ね、研究を繰り返し、そうした先行研究の上にひとつの発見が成り立っている。
ところが、デカルトの座標軸の発明、ひいてはそこから生み出された解析幾何学の誕生は、数学史の流れと関係なく、いきなり爆発して湧いて出たような印象がある。
デカルトが座標というアイデアを思いついたのは、「物体の本性は重さや堅さなどの観察可能な特徴ではなく、ただ延長のうちに成り立つ」という基本概念を応用したようだ。これは別に数学だけの概念だけではなく、デカルトが広く一般的に用いているアイデアのひとつだ。このデカルトのアイデアのおかげで、数学は図形と数を融合させて扱う方法論を得ることができた。
確かにデカルトの唱えた大陸合理論は、人間の知力活動の総和として「知の体系」をつくりあげる方法論としては失格だろう。
しかし、ひとりの個人として爆発的なアイデアを生み出す方法論としては、実は合理論のほうが適しているのではないか。
行儀がよく真面目な大学生や大学院生は、思考の方法論を提示されたら、それを「お手本」として正確に敷衍するだろう。それはそれで正しいのかもしれないが、そうした姿勢から、仰天するような面白い研究が生み出せるとは思えない。真似は単なる真似でしかなく、それが自分のオリジナルを引き出す方法論に昇華するまでには、長い年月が必要だろう。
デカルトが「自分の存在」を思考の大元に据えたのは、近代科学の方法論から見れば笑い話だ。しかし、そうした自己の存在に根ざす固い信念から、数学の概念をひっくり返すような理論が生まれた。従来の研究なんて関係ない、他人の理論なんて関係ない、明晰と認めるただひとつの存在=自分から導き出される信念こそが、真実の姿として認められる。
デカルトの研究のほとんどが間違っていたことを考えれば、そういう方法論を我々の中心に据えるのは避けるべきだろう。思考の方法としては、95%は経験論に基づく科学の方法に立脚するべきだ。
しかし、残りの5%、どうしても破れない思考の壁を破るとき、神の力を借りたいくらい考えて考えて考え抜いているとき、アイデアは「自分という存在」からしか絞り出せない。そういうとき、自分という存在から出発しているデカルトの方法論が頭をよぎる。
嫁がたとえペンギンだったとしても一生いっしょにいます。
CDを大量に持っています。
僕は大学勤めなので毎日が出勤日というわけではなく、部屋で仕事をすることがよくあります。
そういうときには嫁のCDラックから勝手に持ち出してきて、音楽をかけながら仕事をしています。
中島みゆきはしっとりとした曲が多いのでいいですね。
その中島みゆきの曲のなかに、僕が好きな「あした」という曲があります。
もしもあした私たちが何もかもを失くして
ただの心しか持たないやせた猫になっても
もしもあしたあなたのための何の得もなくても
言えるならその時 愛を聞かせて
ここからいきなり話が無粋になって申し訳ないのですが、僕はいつも「あした」のこの部分を聞くと、『省察』と『方法序説』にみるデカルトの思考の方法論における主観性の強さを思い出すんです。

ルネ・デカルト(Rene Descartes, 1596-1650)。
『方法序説』『省察』などの著書で、「考えるとはどういうことか」を追求して考えた。
その方法論は後世に影響を与え、「近代哲学の父」と呼ばれている。
デカルトは「近代哲学の父」であって、「近代科学の父」ではない。
真実を探り事実を把握する方法を欲して、有史以来、人は知の技術を磨き上げてきた。その方法論の体系は一般的に「哲学」として括られている。個々の人々がよく考え、数々の叡智が生まれた。
のちに再現性と継続性を備え、後世にバトンリレーしながら同じ方法論を継続していける、人類としての知の体系をつくりだす「科学」という方法論が編み出された。科学の黎明期には、従来の哲学でいわれてきた知の遺産を、科学の言語で読み替える膨大な試みが行われた。
デカルトはちょうどその過渡期に活躍した。同時代には近代科学の方法論をつくりあげたガリレオがおり、デカルトはその同じ時代に別系統の「真理を探る方法」を模索していた。
ものものしい「方法序説」なる本をいま読んでみると、びっくりする。嘘ばっかり書いてある。さももっともらしく、渦動論的宇宙論、粒子衝突、エーテル触媒などを「真理」として書いてあるが、そのほとんどは現代の科学研究において全面否定されている。
「真理の探求方法の確立」が聞いてあきれる。デカルトがどんな方法論を編み出し、どんなにその正当性を主張しようと、その方法論によって生み出された知見が事実に反するのであれば話にならない。中学・高校くらいで『方法序説』を読む少年少女は、あの本を決して「すばらしい真実が書いてある本」などと思ってはいけない。内容を理解したら「こいつバカじゃねぇの?」と感じるのが正しい。
そうした「誤った知識」を引き出してしまったデカルトの方法論とは、どういうものだったのか。
一言でいえば、経験、事実、実験に一切頼らず、理性による「思索と省察」によってのみ事実は導ける、という態度だ。
近代科学の方法論とは正反対と言ってよい。
我々は世界をあるがままに見て、あるがままに認識していると思い込んでいるが、実は我々が見ている世界は、どこかの悪魔が我々をたぶらかして見せている幻かもしれない。
たとえ愛している女性がとても美しく見えても、それは単なる幻で、実はその女性はたいした面相ではないのかもしれない。
では、どうすればそうした幻を排して、「本当の真実」を知ることができるのか。
世の中の姿を一切信用せず、とりあえず全て疑うことから出発する。そう考えて、「ニセモノのこの世の中で、これこれがこうだったら、どうなるだろうか」という仮想世界での思考を行う。これを思考実験という。
人間が他人を愛するのは、もしかしたら本質とは関係ない偽りの姿に魅入られているのかもしれない。だとすると、仮に相手が人の心をもたないネコだったとしても愛することができるのか。自分にとって何の得もないネコ相手でも、愛することができるのか。こういう思考実験をすることによって、「自分は相手を何に惹かれているのか」を認識することができる。
しかし、そういう方法論をとると、最初の出発点をどこに求めればいいのか。世の中がすべて偽りの姿をしており、我々の知識がすべて偽りのものだとしたら、思考の根源、理性の出発点をどこに据えればいいのか。
デカルトの答えが振るっている。見たり聞いたりすることはすべて嘘かもしれない。疑おうと思えばいくらでも疑うことができる。しかし、「いまそう疑っている自分自身の存在だけは、疑いようがない事実だ」と考えることができる。だから「自分の存在」から生まれる「自分の理性」を出発点にすればよい。
俗に「我思う、ゆえに我あり」として知られる思考の出発点だ。
ふざけているとしか思えない。主観性を廃し、徹底的に客観性を求めた挙げ句に行き着いた先が「オレ様がこう思うから正しいに決まってる」という演繹法だ。一般的な命題、抽象的な命題、包括的な原理から、個別の原理や命題を思考の力だけで導きだせる、とする。経験や実験は一切いらない。学校の社会の教科書では「大陸合理論」として載っている思考の方法論だ。
この方法論が合っているか間違っているかは、その方法によって導き出された知見のほとんどが間違っているという事実によって評価できるだろう。
『方法序説』の中には、デカルトが定めている「真実に至るための方法」として四か条が定めてある。
曰く、
(1) 「明晰かつ判明」に考えろ
(2) 分からなかったらバラして考えろ
(3) バラしたやつのうち、簡単なやつから考えろ
(4) 可能性を数え上げ、ちゃんと吟味しろ
このうち一番大事な(1)について、デカルトはこう言っている。
第一は、わたしが明証的に真であると認めるのでなければ、どんなことも真として受け入れないこと。言い換えれば、注意深く即断と偏見を避けること。そして疑いをさしはさむ余地のまったくないほど明晰かつ判明に精神に現れるもの以外は、何もわたしの判断のなかに含めないこと
お前は何様だというレベルの言明だ。「注意深く即断と偏見を避け」などと真実に慎重で、懐疑的な姿勢をみせておきながら、判断の基準になるものが「オレが正しいと思えば、それでよし」では大して変わりはない。
デカルトが言っている自己中心的な真理の追究法は、その信頼性が「それじゃあ、お前の理性ってのは完全無欠なのか」という一点に懸かっている。デカルトはその完全性に、神の存在を持ち出した。「神の誠実」に基づいて「私」が存在している。だから「私の存在」は確かなものだ。かように「私の存在」は完全なものだから、私の理性が導き判断したことは、真実として主張することができる。
まるで新興宗教の教祖だ。ものの考え方としては「そう思うんだったら、そう思えばいいんじゃないですか」というレベルで済む話に過ぎない。
デカルトはやたらに論理を重視する体裁でものを書いているが、その論理にはかなりの飛躍と独断性がある。神の存在なんてものは実証不可能なものだから、真理に到達するシステマチックな方法論に組み込むことはできない。そんなこと、理性で考えれば真っ先に排除できそうなものだ。
思索の主観性という泥沼にはまりこんだデカルトは、さまざまな頓珍漢な「理論」を生み出した。今では否定されている渦動論的宇宙論や粒子衝突などは、デカルトの理性にとっては「明晰かつ完璧な真実」だった。『省察』や『方法序説』を読むと、「オレ基準で正しいこと」を羅列するという中2病の典型症状を見ることができる。
公平に哲学史を眺めると、現在、思考の方法論として広く採用されているのは経験論のほうだろう。デカルトをはじめとする合理論信者は、「経験とは個別的なものであって、普遍の真理には到達できない」と非難していた。しかし、現在の科学の方法論は、再現性を保証する事によって個別経験の誤差を解消している。100%の客観性というのはそもそも不可能だが、それに近づける方法論が確立している。合理論からの非難である「経験の個別性」は、技術と方法論で解消できる類いの欠点であって、本質的な致命傷ではない。
ところが合理論の欠点は、付け焼き刃ではどうしようもない致命的なものだった。我思おうが故に我あろうが、世の中には多数の自我が存在する。その無数の自我が、それぞれ神という存在によって保証されているとしたら、人の数だけ真理が存在する。
日常生活の論理としては、それで正しいのかもしれない。しかし普遍の真理を探る方法論としては屑だろう。
かように胡散臭いデカルトの方法論だが、その方法論に関して僕は複雑な印象をもっている。
方法論として間違っているのは間違いない。少なくとも、大学という場で研究をする立場として、学生に教えるべき思考の方法論ではない。
大学でデカルトの方法論を引き合いに出すときには、いちばん最初の最初、「すべてを疑え」という部分しか使えない。
自分のテーマで研究をしていると、よく「従来の問題点を一刀両断にするアイデアの閃き方、常識にとらわれない爆発力のある思考力というのは、どうやって身に付くんだろう」と考えることがある。
自分が取り組んでいる謎を解決する方法が、システマチックな方法論として体系化されていたら、どんなに楽だろう。そんな魔法のような方法論はないものか。
誰でも答えは知っている。そんなものはない。
しかし研究者の生活実感として、そういう方法論への憧憬は、絶えることなく、浮かんでは消えるものだろう。
特に、学会に論文を出す前の期間などは、そういう方法論を得るためなら、ドラえもんだって飼ってやる気になってしまう。
デカルトの業績のなかで、どうしても無視できない凄い業績がある。
従来、ものの形や図形を扱う幾何学と、数のしくみを扱う代数学は、まったく別物と考えられていた。数学が苦手な人でも、中学の頃の図形問題は好きだった、という人も多いだろう。
デカルトはこの別物の分野を融合させた。幾何的図形を「点の集合」と定義して平面上に配置し、それぞれの位置関係を数式で表す方法を編み出した。いわゆる直交座標軸の発明だ。
この座標の発明により、空間内での物体の運動は、座標軸によって構成される空間内での点の集合としての数学的な曲線として扱えるようになった。つまり、物体運動はその曲線を表す数式によって表せる。いまでも数学では座標のことを「デカルト座標」、座標空間のことを「デカルト空間」という。
このデカルトの業績によって、近代物理学は物体の運動を数学の言葉で記述することが可能になった。
数学史を紐解くと、どんな発見も歴史的な流れでの必然性がある。先人が知識を積み重ね、研究を繰り返し、そうした先行研究の上にひとつの発見が成り立っている。
ところが、デカルトの座標軸の発明、ひいてはそこから生み出された解析幾何学の誕生は、数学史の流れと関係なく、いきなり爆発して湧いて出たような印象がある。
デカルトが座標というアイデアを思いついたのは、「物体の本性は重さや堅さなどの観察可能な特徴ではなく、ただ延長のうちに成り立つ」という基本概念を応用したようだ。これは別に数学だけの概念だけではなく、デカルトが広く一般的に用いているアイデアのひとつだ。このデカルトのアイデアのおかげで、数学は図形と数を融合させて扱う方法論を得ることができた。
確かにデカルトの唱えた大陸合理論は、人間の知力活動の総和として「知の体系」をつくりあげる方法論としては失格だろう。
しかし、ひとりの個人として爆発的なアイデアを生み出す方法論としては、実は合理論のほうが適しているのではないか。
行儀がよく真面目な大学生や大学院生は、思考の方法論を提示されたら、それを「お手本」として正確に敷衍するだろう。それはそれで正しいのかもしれないが、そうした姿勢から、仰天するような面白い研究が生み出せるとは思えない。真似は単なる真似でしかなく、それが自分のオリジナルを引き出す方法論に昇華するまでには、長い年月が必要だろう。
デカルトが「自分の存在」を思考の大元に据えたのは、近代科学の方法論から見れば笑い話だ。しかし、そうした自己の存在に根ざす固い信念から、数学の概念をひっくり返すような理論が生まれた。従来の研究なんて関係ない、他人の理論なんて関係ない、明晰と認めるただひとつの存在=自分から導き出される信念こそが、真実の姿として認められる。
デカルトの研究のほとんどが間違っていたことを考えれば、そういう方法論を我々の中心に据えるのは避けるべきだろう。思考の方法としては、95%は経験論に基づく科学の方法に立脚するべきだ。
しかし、残りの5%、どうしても破れない思考の壁を破るとき、神の力を借りたいくらい考えて考えて考え抜いているとき、アイデアは「自分という存在」からしか絞り出せない。そういうとき、自分という存在から出発しているデカルトの方法論が頭をよぎる。

