「この授業の成績の一環として、15回の授業のうち一回、抜き打ちテストを行う。テストは、受講者のうち誰も決して予想できないような日に行う」
授業のシラバスにこんなことを書いておく。
シラバスには他にも授業の内容だとか、教科書だとか、いろんなことが書いてある。
授業の初回に、「シラバスに掲載されている内容のうち、おかしいところをひとつ指摘せよ」なんていう問題を出す。
これは、僕が実際に先学期の論理学の講義でやったいたずら。
学生さんたちはかなり混乱したみたいで、「大学の授業なのに教科書が指定してないのはおかしい」だの「14回めの授業日は補講日だから授業は行われないはず」とか、細かいところばかり指摘していた。
正解は、ということのほどではないが、シラバスの内容通りだとすると、抜き打ちテストは実施不可能になる。
全15回の授業のうち、仮に、最終回に抜き打ちテストを行うとする。
すると、学生は14回めの授業が終わった段階で、「次回にテストがあるな」と分かってしまう。
つまり、15回めの授業で抜き打ちテストをすることはできない。
すると、可能な最後の機会は14回めの授業のときとなる。
しかし、13回めの授業が終わった段階で、学生は「15回めの抜き打ちテストはあり得ない。すると、次回の14回めの授業で抜き打ちテストがあるに違いない」と予想できてしまう。
つまり、14回めの授業でも抜き打ちテストをすることはできない。
以下、この推論を何回も繰り返していくと、どの授業のときにも抜き打ちテストを実施することができなくなってしまう。
考え方としては逆向きの数学的帰納法になる。
(i)x=最終項、のときにPが成り立たない。
(ii)x=nのときにPが成り立たなければ、x=n-1のときにもPが成り立たない
この二つさえ保証すれば、ドミノ倒しのごとくすべての授業において抜き打ちテストが行えないことが示せる。
この問題が厄介なのは、このロジックの上にメタロジックをかぶせることによって、循環論に陥ることだ。
予測に反して、教師はいつでも抜き打ちテストを行える。なぜなら、数学的帰納法によって、学生は「どの日にも抜き打ちテストは実施できない」と予想できる。つまり、教師がどの日に抜き打ちテストを行っても、それは「学生が予測できなかった日」であり、シラバスの記載事項に嘘はないことになる。
とすると、逆に学生の側としては、「こっちが数学的帰納法ですべての可能性を否定するとすると、教師のほうはそれを逆手に取っていつでも抜き打ちテストをすることができる。しかし、それに我々学生の側が気づいているんだから、教師がいつ抜き打ちテストをしてもそれは我々の予測の範疇にある。従って抜き打ちテストをすることはできない」と予測することができる。
それに対して教師がさらに・・・、と、循環論は永遠に続く。
抜き打ちテストというのは一般的に「予告なく行う試験」のことだろう。「予告」の意味が「生徒があらかじめ実施を知る事ができる」という意味だったら、帰納法の考え方で抜き打ちテストを封じることくらいはできるかもしれない。
僕の実際の講義のときには、「抜き打ちテストが実施可能なのか不可能なのか」というロジックの問題が隠れていることに気づけば、及第点をあげた。
高校までと違って、大学からの勉強は、答えを出すことではなく、問いを発見することが中心になる。
多くの場合、「こたえ」というのは先の研究者が出した仮説に過ぎない。知識をもとに歴とした正解を答えるクイズは、高校までは成績をつける必要上、必要かもしれないが、大学はそもそもそういう領域を扱わない。
パラドクスの解決まではいかなくとも、その問題が埋め込まれていることに気づくことが、まず第一歩になる。
あ、もちろん僕の抜き打ちテストとは、その初回の問題のことです。
ひとりだけできてた。
授業のシラバスにこんなことを書いておく。
シラバスには他にも授業の内容だとか、教科書だとか、いろんなことが書いてある。
授業の初回に、「シラバスに掲載されている内容のうち、おかしいところをひとつ指摘せよ」なんていう問題を出す。
これは、僕が実際に先学期の論理学の講義でやったいたずら。
学生さんたちはかなり混乱したみたいで、「大学の授業なのに教科書が指定してないのはおかしい」だの「14回めの授業日は補講日だから授業は行われないはず」とか、細かいところばかり指摘していた。
正解は、ということのほどではないが、シラバスの内容通りだとすると、抜き打ちテストは実施不可能になる。
全15回の授業のうち、仮に、最終回に抜き打ちテストを行うとする。
すると、学生は14回めの授業が終わった段階で、「次回にテストがあるな」と分かってしまう。
つまり、15回めの授業で抜き打ちテストをすることはできない。
すると、可能な最後の機会は14回めの授業のときとなる。
しかし、13回めの授業が終わった段階で、学生は「15回めの抜き打ちテストはあり得ない。すると、次回の14回めの授業で抜き打ちテストがあるに違いない」と予想できてしまう。
つまり、14回めの授業でも抜き打ちテストをすることはできない。
以下、この推論を何回も繰り返していくと、どの授業のときにも抜き打ちテストを実施することができなくなってしまう。
考え方としては逆向きの数学的帰納法になる。
(i)x=最終項、のときにPが成り立たない。
(ii)x=nのときにPが成り立たなければ、x=n-1のときにもPが成り立たない
この二つさえ保証すれば、ドミノ倒しのごとくすべての授業において抜き打ちテストが行えないことが示せる。
この問題が厄介なのは、このロジックの上にメタロジックをかぶせることによって、循環論に陥ることだ。
予測に反して、教師はいつでも抜き打ちテストを行える。なぜなら、数学的帰納法によって、学生は「どの日にも抜き打ちテストは実施できない」と予想できる。つまり、教師がどの日に抜き打ちテストを行っても、それは「学生が予測できなかった日」であり、シラバスの記載事項に嘘はないことになる。
とすると、逆に学生の側としては、「こっちが数学的帰納法ですべての可能性を否定するとすると、教師のほうはそれを逆手に取っていつでも抜き打ちテストをすることができる。しかし、それに我々学生の側が気づいているんだから、教師がいつ抜き打ちテストをしてもそれは我々の予測の範疇にある。従って抜き打ちテストをすることはできない」と予測することができる。
それに対して教師がさらに・・・、と、循環論は永遠に続く。
抜き打ちテストというのは一般的に「予告なく行う試験」のことだろう。「予告」の意味が「生徒があらかじめ実施を知る事ができる」という意味だったら、帰納法の考え方で抜き打ちテストを封じることくらいはできるかもしれない。
僕の実際の講義のときには、「抜き打ちテストが実施可能なのか不可能なのか」というロジックの問題が隠れていることに気づけば、及第点をあげた。
高校までと違って、大学からの勉強は、答えを出すことではなく、問いを発見することが中心になる。
多くの場合、「こたえ」というのは先の研究者が出した仮説に過ぎない。知識をもとに歴とした正解を答えるクイズは、高校までは成績をつける必要上、必要かもしれないが、大学はそもそもそういう領域を扱わない。
パラドクスの解決まではいかなくとも、その問題が埋め込まれていることに気づくことが、まず第一歩になる。
あ、もちろん僕の抜き打ちテストとは、その初回の問題のことです。

