僕は夏休みに日本に帰国している間、よく『源氏物語』を通読する。
いうまでもなく、日本古典文学の最高峰。1000年ごろ書かれたとされており、世界の文学のなかでも最古の部類に属する。この時代のヨーロッパは、キリスト教が勝手に分裂し、イスラム教といがみ合って、十字軍を派遣し殺し合いに発展する時期にあたる。こんな物騒な時代に、日本ではすでにここまで洗練され完成された文学が発達していた。
後世の日本文学史に与えた影響も計り知れない。のちに書かれた日本の中世文学は、多かれ少なかれ『源氏』の影響を受けていると言っていい。平安中期に書かれた『更級日記』の筆者・菅原孝標女は、娘の頃から源氏物語に憧れ「いちど源氏物語を通読したい」と記している。
源氏物語に登場する女性は、誰一人として本名が明らかにされていない。桐壺女御、藤壷女御などは宮廷に住んでいた場所の名前だし、住んでた家に咲いていた花から「夕顔」、夜ばいをかけようとして逃げられたふとんの跡から「空蝉」、犯した夜の天気から「朧月夜」など、すべて仮の名前だ。ここから職業上の女性の名前、特に水商売での名前を「源氏名」というようになった。
この『源氏物語』、中学や高校の古典の時間に読む機会は、思いのほか少ない。僕が調べた限り、古文の教材としての『源氏物語』は、さほどパーセンテージが高くない。採用されている箇所も、「桐壺」「夕顔」「若紫」など、偏ったものが多い。宇治十帖など、間違っても教科書には出てこない。
なぜ、『源氏物語』は古くから多くの人に読み継がれてきたのか
なぜ、僕は毎年、夏休みになるとつい『源氏物語』に読みふけるのか
なぜ、『源氏物語』は高校の古文の教科書にあまり出てこないのか
理由はすべて同じだ。
『源氏物語』の本質は、とてもエッチなエロ本だからだ。
源氏物語の骨子は、要するに、男女の乱交によるドロドロした人間関係を描くことにある。前半の主人公・光源氏に至っては、正妻の葵、女三宮、養女の紫の上、義母の藤壷女御をはじめ、六条御息所、空蝉、夕顔、朧月夜、末摘花、花散里、明石の御方など、登場する女性を片っ端から食い散らかす。
源氏没後、薫と匂宮を中心に展開する宇治十帖(「匂宮」?「夢浮橋」)はもっとひどい。本命の女を口説き落とそうとして失敗し、その憂さ晴らしに中流階級の女を無理矢理に犯す、なんてことを平気でやっている。しかも、その描写はまさしく乱交と言って良く、非常に節操がない。牛車の中で犯したり、野外で露出プレイをさせたり、SMまがいの行為に及んだり、変態極まりない。学校の教科書に載せられる訳がない。
ふだんワレワレが活字で物語を読むときに、どういう箇所に興奮し熱中するか。エロい話に決まってる。しかも「誰々の娘がどこどこの息子とくっついた」だの「あそこのご子息は高貴な身分でありながら、あんな下賎の女を相手にしてるらしい」など、ゴシップめいた話は女性読者を惹き付ける。
『源氏物語』は、高貴な物語でも難解な物語でも何でもない。1000年以上に渡って読み継がれているのは、そうしたイヤらしい趣味を満たす要素を、ふんだんに盛り込んでいるからなのだ。下衆の勘繰りと言われればそれまでだが、世の中の多くは、僕と同じく下衆なのだろう。

このあいだ名古屋に行ったとき、名古屋市内の徳川美術館に足を運んだ。
この美術館には、国宝の『源氏物語絵巻』の絵15面・詞28面が保存されている。
かねてから僕が見てみたかった美術館のひとつだ。
『源氏物語』は小説であり、もともと挿絵は無い。ところが物語があまりにもエッチでセンセーショナルなので、物語を題材とした絵巻が多く描かれた。むかしの人が『源氏物語』をどう捉えていたのか、どのようにイマジネーションを拡げていたのか、絵巻から読み取れるものがあるだろう。

源氏物語絵巻・「東屋」の巻
一見して分かる通り、登場人物の女性の顔が描かれている。これは当時の風習としては、あり得ないことだ。女性は公に顔を見せるものではなく、見合いの席でさえ御簾越しに会話をした。男性が女性を見たいときには「垣間見」という手続きを踏んだ。百人一首の絵札だって女流歌人は背を向けている。この時代の女性が顔を見せるというのは、今で言えば、全裸を晒しているに等しい。
絵巻の源氏物語に女性の顔が描かれているということは、つまり、そういうことだろう。この絵巻は、機能としては、まさしくエロ本だったに相違ない。宮廷にお住まいの、高貴な方々の、ナマの素顔を平気で描いている。当時の読者は密かにハァハァしながら絵巻を眺めていたことだろう。平安時代に頻繁に描かれ、徳川家の家宝であり、門外不出の『源氏物語絵巻』は、なんのことはない、人前に見せびらかせる筋合いのシロモノでは無かったのだ。
誤解のないように書き添えるが、物語としての『源氏物語』は完成度が非常に高い。現代にも通じる世の中の常を鋭く描き出している。頻出する和歌の技量も半端ではない。高度に洗練された言葉の使い方、和歌を使った文の応酬などは、読み手の技量をある程度必要とする。現代語訳でさえ素手で読むのは難しい。ただのエロ本では、ここまで日本文学を代表する金字塔とはなり得ない。
『源氏物語』の主眼は、ゴシップめいたエッチな話というよりは、むしろ儚さを前面に打ち出した無常観を描くことにある、と僕は睨んでいる。派手で華やかな物語に見えながら、光源氏を含め、登場人物のほとんどは絶望と孤独に苛まれ、悲惨な死に方をしている。何回も読み込むと、この大きな物語を通して、紫式部が何を描きたかったのかが見えてくるような気がする。
夏は読書をするのに最適の季節だ。軽い本を数多く読んで見聞を広めるのも結構だが、一日で簡単に読み切れるハイキングのような本は、本当の意味で自分を動かすものとはなり得ない。読書とは本来、登山のようなものだろう。時代の評価に耐え抜いた古典を、じっくり時間をかけて読む、という経験ができるのは、夏休みくらいだと思う。
僕は古文はこれで覚えました。
いうまでもなく、日本古典文学の最高峰。1000年ごろ書かれたとされており、世界の文学のなかでも最古の部類に属する。この時代のヨーロッパは、キリスト教が勝手に分裂し、イスラム教といがみ合って、十字軍を派遣し殺し合いに発展する時期にあたる。こんな物騒な時代に、日本ではすでにここまで洗練され完成された文学が発達していた。
後世の日本文学史に与えた影響も計り知れない。のちに書かれた日本の中世文学は、多かれ少なかれ『源氏』の影響を受けていると言っていい。平安中期に書かれた『更級日記』の筆者・菅原孝標女は、娘の頃から源氏物語に憧れ「いちど源氏物語を通読したい」と記している。
源氏物語に登場する女性は、誰一人として本名が明らかにされていない。桐壺女御、藤壷女御などは宮廷に住んでいた場所の名前だし、住んでた家に咲いていた花から「夕顔」、夜ばいをかけようとして逃げられたふとんの跡から「空蝉」、犯した夜の天気から「朧月夜」など、すべて仮の名前だ。ここから職業上の女性の名前、特に水商売での名前を「源氏名」というようになった。
この『源氏物語』、中学や高校の古典の時間に読む機会は、思いのほか少ない。僕が調べた限り、古文の教材としての『源氏物語』は、さほどパーセンテージが高くない。採用されている箇所も、「桐壺」「夕顔」「若紫」など、偏ったものが多い。宇治十帖など、間違っても教科書には出てこない。
なぜ、『源氏物語』は古くから多くの人に読み継がれてきたのか
なぜ、僕は毎年、夏休みになるとつい『源氏物語』に読みふけるのか
なぜ、『源氏物語』は高校の古文の教科書にあまり出てこないのか
理由はすべて同じだ。
『源氏物語』の本質は、とてもエッチなエロ本だからだ。
源氏物語の骨子は、要するに、男女の乱交によるドロドロした人間関係を描くことにある。前半の主人公・光源氏に至っては、正妻の葵、女三宮、養女の紫の上、義母の藤壷女御をはじめ、六条御息所、空蝉、夕顔、朧月夜、末摘花、花散里、明石の御方など、登場する女性を片っ端から食い散らかす。
源氏没後、薫と匂宮を中心に展開する宇治十帖(「匂宮」?「夢浮橋」)はもっとひどい。本命の女を口説き落とそうとして失敗し、その憂さ晴らしに中流階級の女を無理矢理に犯す、なんてことを平気でやっている。しかも、その描写はまさしく乱交と言って良く、非常に節操がない。牛車の中で犯したり、野外で露出プレイをさせたり、SMまがいの行為に及んだり、変態極まりない。学校の教科書に載せられる訳がない。
ふだんワレワレが活字で物語を読むときに、どういう箇所に興奮し熱中するか。エロい話に決まってる。しかも「誰々の娘がどこどこの息子とくっついた」だの「あそこのご子息は高貴な身分でありながら、あんな下賎の女を相手にしてるらしい」など、ゴシップめいた話は女性読者を惹き付ける。
『源氏物語』は、高貴な物語でも難解な物語でも何でもない。1000年以上に渡って読み継がれているのは、そうしたイヤらしい趣味を満たす要素を、ふんだんに盛り込んでいるからなのだ。下衆の勘繰りと言われればそれまでだが、世の中の多くは、僕と同じく下衆なのだろう。

このあいだ名古屋に行ったとき、名古屋市内の徳川美術館に足を運んだ。
この美術館には、国宝の『源氏物語絵巻』の絵15面・詞28面が保存されている。
かねてから僕が見てみたかった美術館のひとつだ。
『源氏物語』は小説であり、もともと挿絵は無い。ところが物語があまりにもエッチでセンセーショナルなので、物語を題材とした絵巻が多く描かれた。むかしの人が『源氏物語』をどう捉えていたのか、どのようにイマジネーションを拡げていたのか、絵巻から読み取れるものがあるだろう。

一見して分かる通り、登場人物の女性の顔が描かれている。これは当時の風習としては、あり得ないことだ。女性は公に顔を見せるものではなく、見合いの席でさえ御簾越しに会話をした。男性が女性を見たいときには「垣間見」という手続きを踏んだ。百人一首の絵札だって女流歌人は背を向けている。この時代の女性が顔を見せるというのは、今で言えば、全裸を晒しているに等しい。
絵巻の源氏物語に女性の顔が描かれているということは、つまり、そういうことだろう。この絵巻は、機能としては、まさしくエロ本だったに相違ない。宮廷にお住まいの、高貴な方々の、ナマの素顔を平気で描いている。当時の読者は密かにハァハァしながら絵巻を眺めていたことだろう。平安時代に頻繁に描かれ、徳川家の家宝であり、門外不出の『源氏物語絵巻』は、なんのことはない、人前に見せびらかせる筋合いのシロモノでは無かったのだ。
誤解のないように書き添えるが、物語としての『源氏物語』は完成度が非常に高い。現代にも通じる世の中の常を鋭く描き出している。頻出する和歌の技量も半端ではない。高度に洗練された言葉の使い方、和歌を使った文の応酬などは、読み手の技量をある程度必要とする。現代語訳でさえ素手で読むのは難しい。ただのエロ本では、ここまで日本文学を代表する金字塔とはなり得ない。
『源氏物語』の主眼は、ゴシップめいたエッチな話というよりは、むしろ儚さを前面に打ち出した無常観を描くことにある、と僕は睨んでいる。派手で華やかな物語に見えながら、光源氏を含め、登場人物のほとんどは絶望と孤独に苛まれ、悲惨な死に方をしている。何回も読み込むと、この大きな物語を通して、紫式部が何を描きたかったのかが見えてくるような気がする。
夏は読書をするのに最適の季節だ。軽い本を数多く読んで見聞を広めるのも結構だが、一日で簡単に読み切れるハイキングのような本は、本当の意味で自分を動かすものとはなり得ない。読書とは本来、登山のようなものだろう。時代の評価に耐え抜いた古典を、じっくり時間をかけて読む、という経験ができるのは、夏休みくらいだと思う。


ただのエロ本じゃなくて・・・(?▽?)