
寝る前にふとんの中でオー・ヘンリーの短編集をよく読む。
日本にいる頃からよく読んでいたが、翻訳だった。オー・ヘンリーの物語には、とくに前半に、世情を反映したことば遊びがよく使われる。これは翻訳では意味が分からない。僕はアメリカに来てから原書で読んで、はじめて意味が分かった節がけっこうあった。
僕はオー・ヘンリーをはじめ、ヘンリー・スレッサー、ロアルド・ダール、エドワード・D・ホックなど、切れ味の鋭い落ちで唸らせる短編が好きだ。推理小説も趣味に合う。基本的に知的な仕掛けのあるどんでん返しが好みらしい。
オー・ヘンリーの短編は、こうした「落ち」(punch line)の意外さで読ませる作品だ。『警官と賛美歌』『最後の一葉』『賢者の贈り物』『二十年後』『赤い酋長の身代金』『甦った改心』など、日本でも馴染みの深い秀作が多い。
切れの鋭い落ちを好む僕としては我ながら意外だが、オー・ヘンリーの作品のなかで僕が一番好きな作品は、『都会の敗北』(The Defeat of the City)という作品だ。
田舎で生まれ育った少年ボッブ(ロバートの愛称形)は、都会に出て必死に働き、青年実業家としての地位を手に入れる。さらに、社交界の花形で高貴な美人、良家の令嬢であるアリシアを妻にする。
彼は自分の育ちを隠し、洗練された振る舞いで通していた。ある日、アリシアがロバートの母親からの手紙を見て、「いちど田舎というところに行ってみたい」と望んだため、ロバートははじめて妻アリシアをつれて実家へ帰省することにした。
ところが、故郷に帰り、まぶしい太陽、草木の香り、小川のせせらぎに久しぶりに触れた青年実業家ロバートは、一瞬のうちに「悪ガキのボッブ」に戻ってしまう。行儀の良いアリシアを放ったらかしにし、靴を脱ぎ捨て、弟と相撲をとり、下品な話で家族を笑わせ、すっかり羽目をはずしてしまう。
その場にとけこめないアリシアは無言で席を立ち、先に寝室に上がった。そのときロバートはようやく妻の存在に気づき、自分の本性を見られた思いがして愕然とする。良家で厳しく躾けられたアリシアにとっては、無作法な自分など伴侶として論外だろう。
審判か判決を受ける思いでロバートが寝室に上がると、アリシアは窓際に座り外を眺めていた。
「ロバート、わたしは紳士と結婚したと思っていました」
"but -- "
Why had she come and was standing so close by his side?
"But I find that I have married" -- was this Alicia talking? -- "something better -- a man -- Bob, dear, kiss me, won't you?"
The city was far away.
「でもー」
どうして彼女は席を立って俺のそばまで来たのだろう?
「でも今日わかったんです。私は、もっと素晴らしい、ひとりの男性と結婚したんだ、ということが。さぁ、ボッブ、わたしにキスしてちょうだい」
都会は、はるか彼方だった。
昔からなんとなく、僕はこの話が一番好きだ。
だいたい僕は頭脳系の固いロジックが好きなようでいて、結構こういう人の心に響く作品に弱い。僕はシャーロキアンを自認しているが、シャーロック・ホームズの作品でも僕が一番好きなのは、あまり有名ではない『黄色い顔』(The Yellow Face)という作品だ。この作品では推理の明晰さというよりも、登場人物の、高潔であたたかい人柄が魅力といえる。しかもこの作品ではホームズは推理を外している。
文学の仕事は、人の感性を後世に保存することだと思う。世の中が変われば、人の価値観や考え方は変わる。世界を制覇し蛮族を教化するのが「正義」という時代もあれば、国のために身命を捧げ敵国を滅ぼすことが「正義」という時代もある。その世の中で、人がどう生き、どう考えていたのかは、後の世代には分かりにくい。古典を読むときにはそれが障害となることがある。
しかし、人間の本当に根元にあるものというのは、どういう世の中であっても変わらないのではあるまいか。人間には見栄というものがある。自分を少しでも良いものに見せたい。そういう欲求は、今も昔も、洋の東西を問わず、たいして変わらないものだろう。
しかし、自分の本質から遊離したみせかけの自分というのは、なによりも自分を苦しめる。そういう虚像を剥ぎ取ったあとでも残るのが、その人の本当の魅力なのだろう。『都会の敗北』という作品は、そこのところをうまく切り取って描いている。
文学で得られる体験はあくまで仮想上のものであって、実体験に基づく真の人生経験ではない。しかし、こういう日常では得難い経験を上手に描く作品に触れて、自分の中で咀嚼する経験は悪くない。

