野郎共は女の子のどんな属性に惹かれるのか。


巷では昨今、趣味が非常に多様化している模様だ。性格がきつめの女性がいい、おっとりした感じがいい、黒髪が好き、メガネ萌え、など様々な属性があるようだ。かく言うたくろふにも女性の好みには一家言ある。

世の中には「一目惚れ」という、時間と手間を省いた効率的な恋愛の入り方があるが、おおむね一般には軽薄な趣味として公言するのを憚られるようだ。僕が友達から実際に見聞きした体験談のなかには、おなじ学校、クラス、職場などの集団に属しているもの同士が人付き合いをしていく中で、徐々にお互いに惹かれていく、というパターンが多いようだ。

面白いのは、そういうじんわりした恋愛関係でも、ゼロがイチになる決定的なきっかけがあることが多いらしい、ということだ。それまで「ただの同僚」だった人が、ほんのちょっとしたきっかけで「恋愛の相手」として意識するようになる。

女性の場合、そのきっかけは圧倒的に「男性側からの告白」であることが多かろう。男女同権だ平等だ何だかんだ言っても、恋愛においてはやはり男性の方から切り込むのがあらまほしき有り様ではあるまいか。個人的には好きなオニャノコに告白もできないような奴は、漢として認めない。

それに比べて、男性側のきっかけというのは、本当にくだらないことが多い。余ってたクッキーをひとつくれた、両手がふさがってるときにエレベーターのボタンを押してくれた、「おはよう」とにっこり笑って挨拶してくれた、など、本当にささいなことで夢中になる。僕の知ってる奴の中には、落ちたボールペンを拾ってくれただけで惚れた、というバカもいる。

「ほほうそうなのか」と、女性諸子が意中の野郎を籠絡しようと策をめぐらしても、だいたいうまくいかないことが多いらしい。男性側が夢中になったきっかけというのを当の女性側に聞いて見ると、全く意識してなかった行動であることが多いようだ。無意識の底からぽろっと出たその人の本質のようなものに、野性的に反応しているのではあるまいか。

恋愛小説というのはその辺の劇的な意識の変換を克明に描いてほしいものだが、そういう作品は思いのほか少ない。巷にあふれている恋愛小説のほとんどは、成就しない恋愛をとりまく人間関係の衝突や葛藤を描くことに力点がおかれている。しかし、それは「恋愛によって引き起こされる騒動」を描いているだけであって、恋愛そのものを描いているのではないと思う。

僕は恋愛を「生物学的にプログラムされた情緒の働きが社会的事象に投射される有り様」と定義している。それにまつわる騒動も、確かに恋愛の織り成す一側面には違いない。しかし、もっと本質的な、情緒の動きそのものを入念に追う作品があってもよいのではないか。登場人物の意識の劇的な変化、人の内面を写す殺し文句を描くほどの筆力が感じられる作品というものは、わりと見当たらない。


いまのところ、僕が最もそうしたことばの力を感じた作品は、『伊勢物語』第六段。俗に「鬼一口」と呼ばれている段だ。


むかし、おとこありけり。女のえ得まじかりけるを、年を経てよばひわたりけるを、からうじて盗み出でて、いと暗きに来けり。芥川といふ河を率ていきければ、草の上にをきたりける露を、「かれは何ぞ」となんおとこに問ひける。ゆくさき多く夜もふけにければ、鬼ある所とも知らで、神さへいといみじう鳴り、雨もいたう降りければ、あばらなる蔵に、女をば奥にをし入れて、おとこ、弓胡?(ゆみやなぐひ)を負ひて戸口に居り、はや夜も明けなんと思つゝゐたりけるに、鬼はや一口に食ひてけり。「あなや」といひけれど、神鳴るさはぎにえ聞かざりけり。やうやう夜も明けゆくに、見れば、率て来し女もなし。足ずりをして泣けどもかひなし。

白玉かなにぞと人の問ひし時露とこたへて消えなましものを

これは、二条の后のいとこの女御の御もとに、仕うまつるやうにてゐたまへりけるを、かたちのいとめでたくおはしければ、盗みて負ひて出でたりけるを、御兄人堀河の大臣、太郎国経の大納言、まだ下らうにて内へまいりたまふに、いみじう泣く人あるを聞きつけて、とゞめてとりかへしたまうてけり。それを、かく鬼とはいふなりけり。まだいと若うて、后のたゞにおはしける時とや。



主人公とされる在原業平は無類の女好きとして有名だが、彼はただの女好きでない。タブーも平気で犯す、筋金入りの女好きだ。目を付けたら、天皇の妃だろうと、「神と結婚している」伊勢斎宮だろうと、平気で手を出す。

第六段での餌食は、藤原高子(たかいこ)。藤原長良の娘で、将来は天皇の后となるべき人材だった。事実、後に清和天皇の后となって陽成天皇を生んでいる。どう考えても一介の役人である業平に手の届く女性ではない。

そこで業平はどうしたか。なんと警備の網をかいくぐって高子の誘拐を強行した。当時、高子はまだ年端も行かない幼女。ちなみに当時は幼年での結婚が当たり前で、現在での道徳観点から業平の趣味を論じることはあまり意味がない。ましてや同意するなどもっての他だ。

高子の親兄弟が追手を差し向ける中、業平は幼い高子を背負って夜道を逃げた。噂ではその近辺には鬼が出るらしい。雨が急に降り出したので、荒れた小屋の中に彼女を入れると、業平は戸口で武装して不寝番をした。ところが鬼が現れて、彼女を一口に食べてしまう。彼は泣きながら彼女を想う歌を詠んだ。

ところで逃げている最中、芥川という河にさしかかったとき、背中の高子が「あれはなあに?」と訊いた。見ると、草の葉に光る露だった。深窓の令嬢だった高子は、草の露など見た事がなかったのだろう。

誘拐されて知らない男と夜道を逃げている最中だというのに、きらきら光る露を見て「あれはなあに?」と訊くあたり、おっとりしているというか、なんとものんびりしている。天然の好奇心が、場面の切迫さを感じさせない。ふつうに考えれば男に誘拐されるというのは怖い体験だろう。それなのに「あれはなあに?」ということばには、男に対する無条件の信頼が感じられる。

実は鬼というのは比喩表現で、実際には高子の兄たち、基経、国経の二人が妹を奪い返したという落ちが最後につけられている。たぶん作者が「自分の露のように消えてしまいたい」という話に深みを持たせるために、高子を死んだことにしたかったのだろう。おそらくオリジナルにはなかった、後世に付け足された部分だと思う。


史実として、藤原高子が業平と何らかの関係があったことは確からしい。『伊勢物語』の中には他にも高子が登場する段がいくつかある。第七十六段「小塩の山」では、老境に至った業平と、すでに皇后となった高子が、身分の差もあらわに登場している。

しかし物語として、第六段の信憑性は限りなく低いと思う。当時の藤原氏といえば権力の権化といっていい。そんな藤原氏がコケにされるような話が宮中でまかり通るとは思えない。きっと、第六段は、宮中の噂好きや後世の物語作者が「きっと業平だったらこのくらいやりかねない」「業平だったらこんな歌を詠むだろう」とつくりだした話、というのが実情に近いのではあるまいか。

史実か作り話かはどうでもいい。もし作り話だとしたら、背負われ夜道を逃げる高子に「あれはなあに?」と言わせた筆者の筆力は大したものだ。作品中、高子のことばはこれだけだ。しかし「あれはなあに?」という高子のことばは、彼女の内面を写し、男性に対する姿勢を的確に表している。一種の殺し文句ではあるまいか。構成として、第六段の話はこの一言が中心になっている。

高子が鬼に食べられたあと、業平は「あれは真珠なのと聞かれた時、あれは露ですと答えて、自分も露のように死んでしまえばよかったのに」と詠んだ。「露」というのは和歌で「いのち」を表す縁語だ。


伊勢物語第六段は、ほんの十数行しかない短い段だ。その中に、ただひとことのことばが秘める力が描かれている。小説や物語は長ければいいというものではない。ことばのもつ力を端的に示してくれる、練られた作品を久しく読んでない。



言語学をやってもそういう殺し文句は身に付きません。念のため。