なぜ人間には人権があるのにくじらにはくじら権がないのですか。
(Yahoo!知恵袋)
質問日時: 2007/1/3 09:55:27
ベストアンサーに選ばれた回答(回答日時: 2007/1/3 10:50:20 )
まず、質問者は何をもって「人間には人権がある」と言っているのだろう。
辞書的な定義での「人権」というのは、生存や個人の尊厳など「人が生まれながらに持っている権利」のことを指す。何らかの制度によって保証される概念ではないので、くじら権なるものだって、あるといえばある。人間がそれを尊重しているかどうか、制度化して明記しているか、というのはまた別の話だ。
もし法的な意味で「人権」という言葉を使っているのなら、具体的にどのような事例に「人権」と「くじら権」との対比を論じるのか、論点を明確にしないと議論にならない。議論の際には、賛成論と反対論が具体的な形で提言できる具体的な切り口を明示しなくてはならない。生存権、選挙権、居住権、支配と隷属の関係、幸福追求権など、なんでもいい。特定の事例をひとつ特化して明確な対比を提示することから議論を始めないと、議論が曖昧になる。話が交叉するだけに終わる。
質問者のいう「人権が認められる」というのは、何をもって「認められている」というのか。「一般的に常識となっている」というレベルの話なら、遠慮はいらない、勝手にくじら権でも何でも広めればいい。「法で明記されている」というレベルで「認められる」というのであれば、法律と人権の関係に誤解がある。人権は法律で保障されている部分もあるが、法がすなわち人権というものではない。日本国憲法は基本的人権の尊重を謳っているが、それでも人の生命を奪う死刑制度を認めている。法はあくまで人権の一部を投射しているに過ぎず、法を根拠に人権の有無を議論することはできない。
回答者の方。「人権」という言葉を、現実問題としての機会均等や差別と混同している気がする。知的障害者が日常生活で実際にさまざまな制約を課されているのはその通りだと思うが、それは「知的障害者に人権が認められていない」ということの証左にはならない。もし知的障害者であるという理由でいきなり死刑になったとしたら、それは人権の侵害だが、結婚や就労の機会を制限されているのは、社会のおける人のあり方に不平等が生じているのであり、「人が生まれ持っている権利」である「人権」の侵害とは多少異なる。
もし回答者の意見が正しいとすれば、現在の日本で最も人権が制限されているのは皇室ということになる。職業選択の自由、居住地選択の自由、参政権、信教の自由、すべて認められていない。過去には、「天皇は民事裁判権に服さない」という判例もある。しかし、実際には皇室の生殺与奪の権利が他者に委ねられているわけではなく、「人権」という観点から皇室が不利益を受けているとは言い難い。
回答者は人権を「複数の人間の相互関係のもとで成り立つ利害の取引関係」という見方をしているが、それは社会権だ。人権とは違う。人権とは社会のあり方とは独立したものであって、人がただひとりであっても人権というものは発生する。
結局、両者とも「人権」「認める」という言葉の意味を厳密に定義することなく安易に自らの思い込みに基づいていることが、すべての混乱の原因になっていると思う。議論というものは、事実誤認やことばの曖昧性をすべて排したところから始めなくてはならない。両者に共通した理解に基づかない議論は成立しない。
学校で習ってないのかなぁ
(Yahoo!知恵袋)
質問日時: 2007/1/3 09:55:27
なぜ人間には人権があるのにくじらにはくじら権がないのですか。
人権が認められる根拠を人間の知性に置くのであれば、知的障害者は人権がないことになり、 知的生物であるくじらにはくじら権が認められることになりませんか。
また、人権を人が人であることにより認められる権利と解釈するにしても、21世紀ではその権利の保護の対象をくじらにまで拡げ、人類が絶滅した後の文明の担い手としてのくじらを守ることが要請されているような気がするのです。
この思想をみなさんはどのように思いますか。
ベストアンサーに選ばれた回答(回答日時: 2007/1/3 10:50:20 )
人権とは、天与の権利として降りてくるものではなく、相互の承認によって成り立つものです。
昔、王にのみ権利があり、家来に権利はありませんでしたが、家来なしでは王の権利が行使できないので、契約により相互に権利を認め合いました。
昔、奴隷と主人の間には、主人にしか権利がありませんでしたが、同様に相互に認め合う事で奴隷の権利が認められました。
今、過去の積み重ねより人には生まれながらに権利を認め合う世の中になりましたが、それも基本は、相手に何をしてやって自分に何をする事が認められるか、という契約が基本になる事は変わっていません。
そこでくじら権の問題は、鯨と人間の間の相互のコミュニケーションがあるか、それによってお互いの利益の交換があるか、という問題になります。
利益の交換がない所には相互に権利を承認する契約は成り立ちません。
「知的障害者に人権がないことになり」と、あたかも知的障害者に現在人権が認められてるかのように質問者はおっしゃいますが、現実には制限が加えられ平等な人権は認められていません。この現象は知的障害者と利益の交換ができない事が基になっています。
人でないものに権利を与える事は可能です。
会社などの法人がその例です。
その根拠は法人が自然人と利益の交換ができるからです。
鯨が人間と人権に相当する権利を持つためには鯨が知的であるだけではだめで、ヒト-くじら間のコミュニケーションを達成し、鯨から人間への利益の提供、人間から鯨への利益の提供が可能になる必要があります。
もう一つ、知能を持たない非人格でも、特定の個人が所有権を主張できないようにするため、仮に法的人格を与えるという方法もあります。
自然権がそれで、ヒトの生息環境を保持するために、自然資源を特定の個人の専有物にできないようにするため、多くの人があたかも自然が権利を持っているように振る舞う事で、資源を私利による収奪から護る考え方です。
くじら権も人権と対等なものでなく、鯨がどんな人間にも所有されない権利として認めていく考え方があると思います。
この場合は人間からの一方的承認になりますが、実効力があります。
鯨が資源なのか、地球の知的種族の一つなのか、という議論に踏み込まずに彼らの生存を確保する姑息な手段と言えなくもないですが。
追記
知的障害者に平等な人権が認められていない実例は、就労、恋愛、性交、結婚の自由が実質奪われている事で十分ではないでしょうか。他者が暗黙裏に否定しているのなら、法律で制限していなくても権利が認められていないとみなして良いでしょう。法律で障害を理由に差別してはならないと定めても、作業環境を整えられないから雇わない、気持ち悪いからあっち行け、が現実です。「相互に」認め合う事がないのですから、人権が認められていないと断言すべき事態だと思います。
「制限されたくじら権」については、私は認めても良いという立場です。
人類後の文明の担い手として鯨類を考えるのは十分受け入れられる思想です。
問題なのは、今現在の彼らの種の保存を目的として人間との契約を結ぶには可能性だけではだめで、「今ここにある交換可能な利益」がないと現人類は契約には応じないだろうと推察されるという点なのです。
まず、質問者は何をもって「人間には人権がある」と言っているのだろう。
辞書的な定義での「人権」というのは、生存や個人の尊厳など「人が生まれながらに持っている権利」のことを指す。何らかの制度によって保証される概念ではないので、くじら権なるものだって、あるといえばある。人間がそれを尊重しているかどうか、制度化して明記しているか、というのはまた別の話だ。
もし法的な意味で「人権」という言葉を使っているのなら、具体的にどのような事例に「人権」と「くじら権」との対比を論じるのか、論点を明確にしないと議論にならない。議論の際には、賛成論と反対論が具体的な形で提言できる具体的な切り口を明示しなくてはならない。生存権、選挙権、居住権、支配と隷属の関係、幸福追求権など、なんでもいい。特定の事例をひとつ特化して明確な対比を提示することから議論を始めないと、議論が曖昧になる。話が交叉するだけに終わる。
質問者のいう「人権が認められる」というのは、何をもって「認められている」というのか。「一般的に常識となっている」というレベルの話なら、遠慮はいらない、勝手にくじら権でも何でも広めればいい。「法で明記されている」というレベルで「認められる」というのであれば、法律と人権の関係に誤解がある。人権は法律で保障されている部分もあるが、法がすなわち人権というものではない。日本国憲法は基本的人権の尊重を謳っているが、それでも人の生命を奪う死刑制度を認めている。法はあくまで人権の一部を投射しているに過ぎず、法を根拠に人権の有無を議論することはできない。
回答者の方。「人権」という言葉を、現実問題としての機会均等や差別と混同している気がする。知的障害者が日常生活で実際にさまざまな制約を課されているのはその通りだと思うが、それは「知的障害者に人権が認められていない」ということの証左にはならない。もし知的障害者であるという理由でいきなり死刑になったとしたら、それは人権の侵害だが、結婚や就労の機会を制限されているのは、社会のおける人のあり方に不平等が生じているのであり、「人が生まれ持っている権利」である「人権」の侵害とは多少異なる。
もし回答者の意見が正しいとすれば、現在の日本で最も人権が制限されているのは皇室ということになる。職業選択の自由、居住地選択の自由、参政権、信教の自由、すべて認められていない。過去には、「天皇は民事裁判権に服さない」という判例もある。しかし、実際には皇室の生殺与奪の権利が他者に委ねられているわけではなく、「人権」という観点から皇室が不利益を受けているとは言い難い。
回答者は人権を「複数の人間の相互関係のもとで成り立つ利害の取引関係」という見方をしているが、それは社会権だ。人権とは違う。人権とは社会のあり方とは独立したものであって、人がただひとりであっても人権というものは発生する。
結局、両者とも「人権」「認める」という言葉の意味を厳密に定義することなく安易に自らの思い込みに基づいていることが、すべての混乱の原因になっていると思う。議論というものは、事実誤認やことばの曖昧性をすべて排したところから始めなくてはならない。両者に共通した理解に基づかない議論は成立しない。


ツレとの契約関係の中で、貸し借り(金、物、食い物、偽善、福祉、労働等)が(おおむね)平等であらねばならない。
このバランスが崩れると、人はあっさりと去る。
まぁ、くじらクンも
「ほっとけや。ピャーッ」(注:くじらの鳴き声)
と言うでしょう。
では。
拝