学力低下 「ゆとり教育」を責める前に
(2006年10月29日 毎日新聞社説)

「教育再生」をうたう安倍晋三・新政権発足に合わせたように、学校教育現場の問題や矛盾が相次いで露呈している。中でも必修規定を無視して大学受験を最優先させる高校の実情は、改めて学力をめぐる論議を刺激するに違いない。

 ここでまた「ゆとり教育」がやり玉に挙がろうとしている。問題の高校の校長らは「授業時間が減ったので、入試に関係のない科目をする余裕はない」と弊害を言う。著書「美しい国へ」で「ゆとり教育の弊害で落ちてしまった学力は、授業時間の増加でとりもどさなければならない」と記す首相はいっそう意を強くするだろう。

 だが、ゆとり教育排除を急ぐ前に、その精緻(せいち)な分析検証をすべきではないか。そもそも学力をどう見極めるのか。それも十分に論議されてきたとはいい難い。

 ゆとり教育の始まりは約30年前。経済成長や技術立国政策を背景に学習内容が膨れ、授業についていけない子が増える一方、知識詰め込みの弊害が指摘された。勉強嫌いを生み、また暗記中心で、自分で考えて判断し対処する力が育っていないという反省である。

 1977年の学習指導要領改訂で「ゆとりの時間」が登場し、今日まで曲折を経ながら教科学習量をスリムにする路線が続く。現在週5日制で、教科学習ではない「総合的な学習の時間」が小・中・高校の授業に組み込まれている。

 確かに各種の部分的調査は学力低下傾向を示している。だが、客観的で明快に割り切れる物差しはなかなかない。学力の定義もまちまちなうえ、判断の土台になるデータも少ないという事情もある。

 例えば、03年国際比較調査で15歳の読解力が前回の8位から14位に落ちた。これをどの程度深刻に受け止めるべきか。04年の学力調査では、新学習指導要領で学ぶ子がむしろ前の世代より高い成績を出した。どう解釈すればいいか。

 確かに、ゆとりが目覚ましい成果を上げたという実感はないし、若者の学習意欲や教養面で退行を感じる人は多いだろう。読み書き計算という最も基礎的な力が危うく、分数もできない大学生が珍しくないという指摘も深刻だ。

 ただこれが本当にゆとり教育のせいか。学校の授業を30年以上前に戻せば解消されるだろうか。

 実態を見すえよう。学力が落ちているとしても、授業を削減したことだけが原因とは思えない。価値観や少子化など社会環境、産業構造の変動といった多面的要素を踏まえ分析しないと、見えてこないものがあるのではないか。

 一律のペーパーテストに頼る調査は学力の一部しか見ない。ゆとり教育が目指した「自分で考え、解決する力」という学力はどこまでできたのか、できなかったのかも検証してほしい。それには、現場の先生たちの体験・意見集約や子供たちの追跡調査のような手間をかけた方法が必要だ。

 その必要な難儀を避け、手間を省くなら、初めから「無用」と必修科目の教科書さえ買わなかった高校と発想レベルは変わらない。



全文を晒した。


上記社説の中で、毎日新聞が陥っている勝手な思い込みがある。
それは何か。


ある論旨を反論するときには、別に主張を全否定する必要はない。むしろそういう挑戦的な姿勢は己の論旨の破綻を招く。どんなムチャな論説でも、最初から最後まで首尾一貫してすべておかしい論説というのは珍しい。必ずいい点を突いている部分が少しはある。

だから、反論をするためには、ポイントを絞って矛盾や思い込みを突けばいい。問題点や矛盾点が本質的な場合もあるし、論説の意図からすれば瑣末な場合もある。それを見分けられるようになるのは経験だろう。


毎日新聞の思い込みが見える段落は、主に下の段落。


ゆとり教育の始まりは約30年前。経済成長や技術立国政策を背景に学習内容が膨れ、授業についていけない子が増える一方、知識詰め込みの弊害が指摘された。勉強嫌いを生み、また暗記中心で、自分で考えて判断し対処する力が育っていないという反省である。

確かに、ゆとりが目覚ましい成果を上げたという実感はないし、若者の学習意欲や教養面で退行を感じる人は多いだろう。読み書き計算という最も基礎的な力が危うく、分数もできない大学生が珍しくないという指摘も深刻だ。

 ただこれが本当にゆとり教育のせいか。学校の授業を30年以上前に戻せば解消されるだろうか。



なぜ、ゆとり教育を棄却したら、とるべき選択肢が「30年以上前の教育に戻す」しか残っていないのだろうか。


毎日新聞は、現在の「ゆとり教育からの脱却」を、即、「30年前の教育に戻すこと」に直結させている。ゆとり教育か、30年前の方法か、の二者択一だ。

僕は30年前の教育がどういうものだったのか知らないが、それがやたらと詰め込み教育だったとしたら、たしかに弊害が多かろう。現在のゆとり教育よりも悪いかもしれない。授業数も今に比べれば多かっただろうし、そのすべての教科でやたらに暗記を強いられれば、それは落ちこぼれも多くなるに違いない。

しかし、毎日新聞は第3の選択肢、「暗記重視から脱却しつつ豊富な授業時間を確保し、いままでにない新たな教育のあり方をつくっていく」という選択肢を全く考慮していない。そして、これが正解だと思う。おそらく、毎日新聞は知識の暗記以外に教育が成さなければならないことを考えられないのだろう。

暗記ばかりでなく、反復訓練をくり返すことによる長期にわたる基礎学力の徹底、ふんだんに時間をかけた国語力の訓練、思考力や発想力を伸ばす新たな方法論、プレゼンの能力や時代に対応した知識に対応する授業など、必要なことはたくさんある。それらを徹底しようと思ったら、授業の絶対時間数はどうしても増やさざるを得ない。現行のゆとり教育枠での時間配分では不可能だ。

いま教育を考えるときにするべきことは、過去に失敗した方法論の比較などではない。いまの現状を打開し妥当な教育を提供できる、いままで行われていなかった指導要領を考えることだ。その部分に関する新たな提言がない限り、意見としては屑だ。

要するに、毎日新聞の主張は「30年前の暗記教育と、ゆとり教育を比べたら、まだゆとり教育のほうがマシじゃないか」と言っているに過ぎない。そのどちらでもない、新たな教育のあり方など、全く考えていない。

毎日新聞の社説は、単に過去の教育と現在の教育との比較論に過ぎない。「いまの教育に何が必要なのか」「これからの教育はどうあるべきなのか」という提言では全くない。社会科の必修科目に対する各学校の対応など、ゆとり教育のさまざまな問題が指摘されているいま、なぜこんな社説を書いたのか意図が分からない。



ゆとり擁護っぽかったからどんな論旨なのか期待して読んだのに