「ジップの法則」というのがある。
花瓶に石をぶつけて割るとしよう。粉々になった破片が飛び散る。その破片は、大きいのもあれば小さいのもある。その大きさに、ある一定の方法が見いだせる、というのだ。
いちばん大きな破片のサイズを仮に1000mm3としよう。すると、
2番目に大きな破片は、だいたい500mm3、
3番目に大きな破片は、だいたい333mm3、
4番目に大きな破片は、だいたい250mm3、
・・・という感じになる。
つまり、「k番目に大きな破片」と、「その破片の大きさ」は、反比例の関係にある。大きさの順位が下がるにつれ、だんだんと1/2、1/3、1/4、・・・と小さくなっていく。大まかな傾向として、こういうことがあるらしい。
この法則はもともとアメリカの言語学者ジョージ・キングズリー・ジップ(George Kingsley Zipf)が提唱した言語学上の法則だ。ジップは英単語の出現率を調べるために、ジェームズ・ジョイスの「ユリシーズ」に含まれる単語(260430個)と、いくつかの新聞記事の語彙数(43989個)を比べてみた。すると、頻出する単語は次のような順位になった。
(1) the (全体の10%)
(2) of (全体の5%)
(3) and (全体の3.3%)
反比例としては、
単語の出現率(%) = 10 / 順位
という関係になる。
この法則は英単語の使用頻度や破片の大きさなどだけではなく、様々な分野で散見される法則であることが知られている。言語の使用人口、都市の人口や、細胞内での遺伝子の発現量、学生の成績、企業の利益金など、おおむね順位と数量との間には反比例の関係があるらしい。
これが本当かを確かめるために、「インターネット・マガジン」は1999年6月号で追試を行っている。『新・社会楽』という連載の『不思議な法則』という記事で、映画の観客動員数がジップの法則にあてはまるかを実験している。1998年12月23日の京都エリアでの映画館の観客動員数は、次のようだった。
第1位 アルマゲドン 4,300人
第2位 ジョー・ブラックをよろしく 2,700人
第3位 6デイズ/7ナイツ 1,500人
きれいに2位が第1位の約半分の人数、第3位が1/3となっている。
経験則としては面白い。人の経済活動や無意識の行動に、こういう傾向が潜んでいるとしたら、それに注目するのは慧眼に属するだろう。
しかし、ジップの法則は「なぜ、そういう法則が成り立つのか」という必然性に基づく原理が説明できるのだろうか。
自然科学と社会科学は、ともに雑多な現象から一般法則を抽出し、現象の予測を可能とする営みであることに違いはない。両者の違いは、その一般法則を「なぜ、そうなのか」という原理に帰着しようとする姿勢があるか、ないか、の違いではあるまいか。
社会科学も法則の由来を理論づけることくらいはやっているのだろう。しかし、「人間の行動」という不確定要素が絡む社会科学の法則と、純粋な自然現象を扱う自然科学の定説を比べると、ある理論が「なぜ成り立つのか」を説明できる可能性は段違いだと思う。これは科学を学ぶ者なら誰もがうっすらと感じている勘だと思う。
しかし、はたして、本当にそうなのだろうか。
社会科学の命題を必然に帰す努力は、そもそも不要なのか、やろうとしてもできないのか。
それとも、なにか、明らかに説明可能な人間の行動原理というものが存在して、その概念は追求可能なものなのではないか。
そうではない、と明確に否定できない限り、可能性は残る。社会科学は一般に、その根本の議論を棚上げしたまま法則の発見とその追試に明け暮れているのではないか。法則を発見したとして、その先には何があるのだろう。
試行錯誤や観察の中から、「もしかしたらこうじゃね?」という法則性を見いだす訓練は、いまの初等・高等教育でも行っているだろう。しかし、その先の段階、「なぜそうなっているのか」を考える方法論、そもそもその議論が可能な命題なのか否かを見抜く能力は、いまの教育ではどうやって培っているのだろう。
問題を解く能力は大事だ。問題を自ら発見する能力も大事だ。しかし、「発見した問題はそもそも解くことが可能なのか」を見極める判断力も、同様に大事だと思う。問いにも、良い問いと悪い問いがある。
そもそも解くことが出来ない問いの袋小路に迷い込むことのないように、問いを評価する能力というのは必要だと思う。その能力を鍛えるには「いづれ収束可能な『解』が存在する」と無条件に信じ込んでいる自然科学よりも、法則が単なる偶然である可能性が高い社会科学のほうが、適しているような気がする。
いま実家にある花瓶を割っちゃって困ってるんですが
花瓶に石をぶつけて割るとしよう。粉々になった破片が飛び散る。その破片は、大きいのもあれば小さいのもある。その大きさに、ある一定の方法が見いだせる、というのだ。
いちばん大きな破片のサイズを仮に1000mm3としよう。すると、
2番目に大きな破片は、だいたい500mm3、
3番目に大きな破片は、だいたい333mm3、
4番目に大きな破片は、だいたい250mm3、
・・・という感じになる。
つまり、「k番目に大きな破片」と、「その破片の大きさ」は、反比例の関係にある。大きさの順位が下がるにつれ、だんだんと1/2、1/3、1/4、・・・と小さくなっていく。大まかな傾向として、こういうことがあるらしい。
この法則はもともとアメリカの言語学者ジョージ・キングズリー・ジップ(George Kingsley Zipf)が提唱した言語学上の法則だ。ジップは英単語の出現率を調べるために、ジェームズ・ジョイスの「ユリシーズ」に含まれる単語(260430個)と、いくつかの新聞記事の語彙数(43989個)を比べてみた。すると、頻出する単語は次のような順位になった。
(1) the (全体の10%)
(2) of (全体の5%)
(3) and (全体の3.3%)
反比例としては、
単語の出現率(%) = 10 / 順位
という関係になる。
この法則は英単語の使用頻度や破片の大きさなどだけではなく、様々な分野で散見される法則であることが知られている。言語の使用人口、都市の人口や、細胞内での遺伝子の発現量、学生の成績、企業の利益金など、おおむね順位と数量との間には反比例の関係があるらしい。
これが本当かを確かめるために、「インターネット・マガジン」は1999年6月号で追試を行っている。『新・社会楽』という連載の『不思議な法則』という記事で、映画の観客動員数がジップの法則にあてはまるかを実験している。1998年12月23日の京都エリアでの映画館の観客動員数は、次のようだった。
第1位 アルマゲドン 4,300人
第2位 ジョー・ブラックをよろしく 2,700人
第3位 6デイズ/7ナイツ 1,500人
きれいに2位が第1位の約半分の人数、第3位が1/3となっている。
経験則としては面白い。人の経済活動や無意識の行動に、こういう傾向が潜んでいるとしたら、それに注目するのは慧眼に属するだろう。
しかし、ジップの法則は「なぜ、そういう法則が成り立つのか」という必然性に基づく原理が説明できるのだろうか。
自然科学と社会科学は、ともに雑多な現象から一般法則を抽出し、現象の予測を可能とする営みであることに違いはない。両者の違いは、その一般法則を「なぜ、そうなのか」という原理に帰着しようとする姿勢があるか、ないか、の違いではあるまいか。
社会科学も法則の由来を理論づけることくらいはやっているのだろう。しかし、「人間の行動」という不確定要素が絡む社会科学の法則と、純粋な自然現象を扱う自然科学の定説を比べると、ある理論が「なぜ成り立つのか」を説明できる可能性は段違いだと思う。これは科学を学ぶ者なら誰もがうっすらと感じている勘だと思う。
しかし、はたして、本当にそうなのだろうか。
社会科学の命題を必然に帰す努力は、そもそも不要なのか、やろうとしてもできないのか。
それとも、なにか、明らかに説明可能な人間の行動原理というものが存在して、その概念は追求可能なものなのではないか。
そうではない、と明確に否定できない限り、可能性は残る。社会科学は一般に、その根本の議論を棚上げしたまま法則の発見とその追試に明け暮れているのではないか。法則を発見したとして、その先には何があるのだろう。
試行錯誤や観察の中から、「もしかしたらこうじゃね?」という法則性を見いだす訓練は、いまの初等・高等教育でも行っているだろう。しかし、その先の段階、「なぜそうなっているのか」を考える方法論、そもそもその議論が可能な命題なのか否かを見抜く能力は、いまの教育ではどうやって培っているのだろう。
問題を解く能力は大事だ。問題を自ら発見する能力も大事だ。しかし、「発見した問題はそもそも解くことが可能なのか」を見極める判断力も、同様に大事だと思う。問いにも、良い問いと悪い問いがある。
そもそも解くことが出来ない問いの袋小路に迷い込むことのないように、問いを評価する能力というのは必要だと思う。その能力を鍛えるには「いづれ収束可能な『解』が存在する」と無条件に信じ込んでいる自然科学よりも、法則が単なる偶然である可能性が高い社会科学のほうが、適しているような気がする。

