世界の帝王になるとしよう。さてどうすればいいだろう。
「世界をください」と悪魔に申し出ると、3つの方法を示唆されるという。
「貴様の魂と引き換えに次の3つのうちどれか1つの可能性を与えよう。そうすれば民衆はお前にひざまずくだろう」
1. 世界中のみんなに食べ物をバラまいて餓えと貧困を解消する
2. 奇蹟を連発して「おおーっ!すげぇ!」と感心させる
3. 有無を言わさぬ独裁権力を掌握して民衆を支配する
みっつとは言わん。僕もどれかひとつでいいから欲しい。
かつて、このすべての能力を満たすとされた人がいた。姓はキリスト名前はイエス。それを知った悪魔が「どれどれ本当か?じゃあ試しにやってみろよ」とイエスを試そうとした。
1について。悪魔が「じゃあこの石をパンに変えてみろ」と言うと、「人はパンだけで生きるものではない」
つまり、「人は食って生きてりゃいいってもんじゃない。もっと大切なもの(神への信仰)が人を人たらしめている」と喝破した。
2について。悪魔が神殿の屋根にイエスを連れて行き、「お前奇蹟が起こせるんだろう。じゃあここから飛び降りてみろよ。天使が受け止めてくれるだろうよ」と言うと、「あなたの神である主を試してはならない」
つまり「奇蹟とは神の意志なのであり、願ったり取引したりする下賎なものではない」と言い切る。
3について。悪魔がイエスを高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、 「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言う。僕なら二つ返事でもらう。
しかしイエスは「退け悪魔。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」「神のものは神へ。カイザルのものはカイザルへ。世俗の政治権力なんて要らん」と一刀両断。
イエスに迫力負けした悪魔はすごすごと退いた。
まるで見てきたことのように書いているが、僕がそう言っているのではない。新約聖書「マタイの福音書」にそう書いてある。ヒマな人は読んでみてください。
こうやってイエスは、「パン」でも「奇蹟」でも「権威」でもない、もっと人間の根深いところから民衆の救済を押し進めようとした。毅然とした、カッチョエー感じで悪魔を退けたキリストの態度は、キリスト教の基本的理念としてその後長らくヨーロッパの精神世界を支配することになる。
時は流れて1800年後。
カッチョいいキリストの悪魔斬り3連発に対し、「あれでホントにいいの?」と疑問を投げかけた者がいる。
フョードル・ドストエフスキー。彼は1880年発表の『カラマーゾフの兄弟』で、「キリストはあんなカッコいいこと言ってたけど、そんなきれいごとを並べて、はたして本当に人を幸せにできるの?」と疑問を呈した。
この疑問を、通称「大審問官の問題」という。カラマーゾフ家の次男イワンと3男アリョーシャが、「神はいるのかいないか。必要か不要か」について議論する。
兄のイワンは無神論派。「見てみろよ。世の中には児童虐待がはびこり、餓死者であふれてる。これが神の意志だっていうんなら、そんな神なんていらねえよ」と嘯く。
それに対し純真なアリョーシャは「そんなことありませんよ兄さん。世の中がどんなに悲惨なものになっても、それでも全てを赦す存在がキリストなんです」と言い返す。
この反論にむっとしたイワンが、無神論の主張のたとえ話として、自作の詩劇を披露する。
舞台は中世のスペイン。ある広場に、キリストの再来とおぼしき男が現れ、奇蹟を連発して民衆を救っていた。そこへ多数の助役、奴隷、護衛を引き連れた老人の大審問官が現れ、「世を惑わす」として男を逮捕してしまう。早速、取り調べ。
明らかに逮捕された男はキリストを表している。大審問官もそれを前提とした取り調べをする。男はじっと黙って何も語らない。その男に向かって、大審問官が問いつめる。「お前がしていることは、真に民衆を救うことなのか?」
この大審問官の長ったらしい尋問は、質問というより独白に近い。一般的にはこの大審問官が問うている内容を指して「大審問官の問題」と言うことが多い。
大審問官の問いを簡潔にまとめると、次のようなことになる。
1.「人間はパンのみにて生きるにあらず」
いや、人だったらハラは減るだろう。食わなきゃ死ぬ。パンのみで生きるのではないかもしれないが、パンがなきゃ生きられない。「ケーキを食えばいいのに」とかいう話ではない。
2.「奇蹟なんて起こすもんか。神を試すな」
これはおかしい。だってホントに神の子だったら奇蹟くらい出来るだろう。できるっていうなら空中浮遊くらいやってみろ。できもしないから「神を試すな」なんて言い逃れてるんじゃないの?
3.「権力なんて要らん。そんなものカイゼルへやってしまえ」
政治的な権力なしに世界平和の達成ができるもんか。十字架刑になるよりも権力を握った方が世の中を救えるのは当たり前だ。世迷い事の理想論を言ってないでもっと現実的に考えろ。
男はじっと無言のまま立ち上がり、静かに大審問官に接吻する。結局、大審問官は「出て行け。どんなことがあっても二度と戻ってくるな」と、男を釈放する。
ドストエフスキーはこの「カラマーゾフの兄弟」で、従来のキリスト教的世界観に、真っ向から疑問を投げかけた。中世ヨーロッパで発表されたら即火あぶりだったっだろう。
作品の終盤に、ゾシマという仙人みたいな長老がイワンに対峙する。無神論を展開して末弟のアリョーシャをグウの音も出ないほどに論駁したイワンが、ゾシマに対しては生意気な口をきくことができない。ゾシマに聳える「そこに、いる」という圧倒的な存在の感触を、どうしても越えられない。
神の存在論は論理で捌く問題ではない、ということなのだろう。いるのいないの、必要だの不要だの、あれこれと論理的な説得を試みても、神の存在論には何の役にも立たない。ゾシマはイワンを論駁したのではなく、イワンを包括した。
宗教というものは、頭脳で理解する論理的な理解よりも、こうした「信念レベルでの直感」に辿り着く必要があるものなのだろう。仏教でも「理解する」とはいわず「悟る」という。そこには、「体系的な方法論で勉強すれば誰でも到達できる普遍の真理がある」という近代科学的な姿勢ではなく、「世の中や人間を理解するための出来合いのコースなどない」という宗教上の基本姿勢があるのではないか。
ドストエフスキーがこのような「キリスト教の根源に関する問い」を発したのは、ロシアの宗教事情に起因する、地理的な背景もあると思う。ロシア正教もローマ・カトリックも、もとはといえば同じキリスト教だ。長い歴史のなかで教義は分断されたが、真実まで分断されるわけではない。とすれば、カトリックとロシア正教での教義のズレは、どのように解消すればいいのだろう。これはロシア人にとって世界観にもつながる大きな問題だった。
最も純真な魂の発する、もっとも単純な問いが、ものごとの根源に関わる大問題を抉る鋭い問いを含むことがある。無邪気な子供の問いに、世界でまだ解かれていない謎が含まれているのに似ている。ドストエフスキーは、1800年の長きにわたって盲信されていたキリスト教の基本姿勢に「それ、ほんと?」と問いを発した。当時、凍りついた宗教人も多かったのではないか。
日本はヨーロッパと宗教的な背景が異なる。日本にも日本なりの「大審問官の問題」があったはずだ。それに直面し、一定の解決を与えてきた者もいただろう。世の中の矛盾を、深く考えずに「そんなもんだろう」と慣れてしまうのも、ひとつの方法であり平穏に生きるための処世術だ。しかし、矛盾に目を背けずに真摯に疑い、自分の頭で考えることによって、精神世界は進歩する。
1800年の長きにわたって盲信されてきた矛盾を世に問う作品というのは、そうそうあるものではあるまい。人類の知的遺産と言っても過言ではないと思う。
問題はこの作品長すぎるってことなんだよね。上中下3巻本って何さ。
「世界をください」と悪魔に申し出ると、3つの方法を示唆されるという。
「貴様の魂と引き換えに次の3つのうちどれか1つの可能性を与えよう。そうすれば民衆はお前にひざまずくだろう」
1. 世界中のみんなに食べ物をバラまいて餓えと貧困を解消する
2. 奇蹟を連発して「おおーっ!すげぇ!」と感心させる
3. 有無を言わさぬ独裁権力を掌握して民衆を支配する
みっつとは言わん。僕もどれかひとつでいいから欲しい。
かつて、このすべての能力を満たすとされた人がいた。姓はキリスト名前はイエス。それを知った悪魔が「どれどれ本当か?じゃあ試しにやってみろよ」とイエスを試そうとした。
1について。悪魔が「じゃあこの石をパンに変えてみろ」と言うと、「人はパンだけで生きるものではない」
つまり、「人は食って生きてりゃいいってもんじゃない。もっと大切なもの(神への信仰)が人を人たらしめている」と喝破した。
2について。悪魔が神殿の屋根にイエスを連れて行き、「お前奇蹟が起こせるんだろう。じゃあここから飛び降りてみろよ。天使が受け止めてくれるだろうよ」と言うと、「あなたの神である主を試してはならない」
つまり「奇蹟とは神の意志なのであり、願ったり取引したりする下賎なものではない」と言い切る。
3について。悪魔がイエスを高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、 「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言う。
しかしイエスは「退け悪魔。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」「神のものは神へ。カイザルのものはカイザルへ。世俗の政治権力なんて要らん」と一刀両断。
イエスに迫力負けした悪魔はすごすごと退いた。
まるで見てきたことのように書いているが、僕がそう言っているのではない。新約聖書「マタイの福音書」にそう書いてある。ヒマな人は読んでみてください。
こうやってイエスは、「パン」でも「奇蹟」でも「権威」でもない、もっと人間の根深いところから民衆の救済を押し進めようとした。毅然とした、カッチョエー感じで悪魔を退けたキリストの態度は、キリスト教の基本的理念としてその後長らくヨーロッパの精神世界を支配することになる。
時は流れて1800年後。
カッチョいいキリストの悪魔斬り3連発に対し、「あれでホントにいいの?」と疑問を投げかけた者がいる。
フョードル・ドストエフスキー。彼は1880年発表の『カラマーゾフの兄弟』で、「キリストはあんなカッコいいこと言ってたけど、そんなきれいごとを並べて、はたして本当に人を幸せにできるの?」と疑問を呈した。
この疑問を、通称「大審問官の問題」という。カラマーゾフ家の次男イワンと3男アリョーシャが、「神はいるのかいないか。必要か不要か」について議論する。
兄のイワンは無神論派。「見てみろよ。世の中には児童虐待がはびこり、餓死者であふれてる。これが神の意志だっていうんなら、そんな神なんていらねえよ」と嘯く。
それに対し純真なアリョーシャは「そんなことありませんよ兄さん。世の中がどんなに悲惨なものになっても、それでも全てを赦す存在がキリストなんです」と言い返す。
この反論にむっとしたイワンが、無神論の主張のたとえ話として、自作の詩劇を披露する。
舞台は中世のスペイン。ある広場に、キリストの再来とおぼしき男が現れ、奇蹟を連発して民衆を救っていた。そこへ多数の助役、奴隷、護衛を引き連れた老人の大審問官が現れ、「世を惑わす」として男を逮捕してしまう。早速、取り調べ。
明らかに逮捕された男はキリストを表している。大審問官もそれを前提とした取り調べをする。男はじっと黙って何も語らない。その男に向かって、大審問官が問いつめる。「お前がしていることは、真に民衆を救うことなのか?」
この大審問官の長ったらしい尋問は、質問というより独白に近い。一般的にはこの大審問官が問うている内容を指して「大審問官の問題」と言うことが多い。
大審問官の問いを簡潔にまとめると、次のようなことになる。
1.「人間はパンのみにて生きるにあらず」
いや、人だったらハラは減るだろう。食わなきゃ死ぬ。パンのみで生きるのではないかもしれないが、パンがなきゃ生きられない。
2.「奇蹟なんて起こすもんか。神を試すな」
これはおかしい。だってホントに神の子だったら奇蹟くらい出来るだろう。できるっていうなら空中浮遊くらいやってみろ。できもしないから「神を試すな」なんて言い逃れてるんじゃないの?
3.「権力なんて要らん。そんなものカイゼルへやってしまえ」
政治的な権力なしに世界平和の達成ができるもんか。十字架刑になるよりも権力を握った方が世の中を救えるのは当たり前だ。世迷い事の理想論を言ってないでもっと現実的に考えろ。
男はじっと無言のまま立ち上がり、静かに大審問官に接吻する。結局、大審問官は「出て行け。どんなことがあっても二度と戻ってくるな」と、男を釈放する。
ドストエフスキーはこの「カラマーゾフの兄弟」で、従来のキリスト教的世界観に、真っ向から疑問を投げかけた。中世ヨーロッパで発表されたら即火あぶりだったっだろう。
作品の終盤に、ゾシマという仙人みたいな長老がイワンに対峙する。無神論を展開して末弟のアリョーシャをグウの音も出ないほどに論駁したイワンが、ゾシマに対しては生意気な口をきくことができない。ゾシマに聳える「そこに、いる」という圧倒的な存在の感触を、どうしても越えられない。
神の存在論は論理で捌く問題ではない、ということなのだろう。いるのいないの、必要だの不要だの、あれこれと論理的な説得を試みても、神の存在論には何の役にも立たない。ゾシマはイワンを論駁したのではなく、イワンを包括した。
宗教というものは、頭脳で理解する論理的な理解よりも、こうした「信念レベルでの直感」に辿り着く必要があるものなのだろう。仏教でも「理解する」とはいわず「悟る」という。そこには、「体系的な方法論で勉強すれば誰でも到達できる普遍の真理がある」という近代科学的な姿勢ではなく、「世の中や人間を理解するための出来合いのコースなどない」という宗教上の基本姿勢があるのではないか。
ドストエフスキーがこのような「キリスト教の根源に関する問い」を発したのは、ロシアの宗教事情に起因する、地理的な背景もあると思う。ロシア正教もローマ・カトリックも、もとはといえば同じキリスト教だ。長い歴史のなかで教義は分断されたが、真実まで分断されるわけではない。とすれば、カトリックとロシア正教での教義のズレは、どのように解消すればいいのだろう。これはロシア人にとって世界観にもつながる大きな問題だった。
最も純真な魂の発する、もっとも単純な問いが、ものごとの根源に関わる大問題を抉る鋭い問いを含むことがある。無邪気な子供の問いに、世界でまだ解かれていない謎が含まれているのに似ている。ドストエフスキーは、1800年の長きにわたって盲信されていたキリスト教の基本姿勢に「それ、ほんと?」と問いを発した。当時、凍りついた宗教人も多かったのではないか。
日本はヨーロッパと宗教的な背景が異なる。日本にも日本なりの「大審問官の問題」があったはずだ。それに直面し、一定の解決を与えてきた者もいただろう。世の中の矛盾を、深く考えずに「そんなもんだろう」と慣れてしまうのも、ひとつの方法であり平穏に生きるための処世術だ。しかし、矛盾に目を背けずに真摯に疑い、自分の頭で考えることによって、精神世界は進歩する。
1800年の長きにわたって盲信されてきた矛盾を世に問う作品というのは、そうそうあるものではあるまい。人類の知的遺産と言っても過言ではないと思う。

